広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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B-292:飯香浦町(いかのうらまち)
江戸時代、飯香浦は島原藩茂木村に属し飯香浦名と称されていました。明治22年(1889)西彼杵郡茂木村飯香浦名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町飯香浦名、昭和37年(1962)長崎市茂木町飯香浦名、昭和46年(1971)飯香浦名は飯香浦町となり今に至ります。
言い伝えによると3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の際、朝鮮が見えるところを探すため山の頂に立ち、たまたま昼をとることになり甑(コシキ)によって飯を焚きます(甑岩の由来)。その炊きあがった湯気が谷間を流れ入江へと下ります。粗飯になれた村人はその炊きあがった香りに皇后の昼食を知り、以降、その入江を飯香浦と呼ぶようになったといいます。




B-291:千々町(ちぢまち)
江戸時代、千々は島原藩茂木村に属し千々名と称されていました。明治22年(1889)西彼杵郡茂木村千々名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町千々名、昭和37年(1962)長崎市茂木町千々名、昭和46年(1971)千々名は千々町となり今に至ります。千々の由来は地区の西にある「熊が峰」という山を俗に千々山といい、その前面の海を千巌洋(チヂワナダ)というところから千々の名前がついたと考えられます。




B-290:宮摺町(みやずりまち)
江戸時代、宮摺は島原藩茂木村に属し宮摺名と称されていました。明治22年(1889)西彼杵郡茂木村宮摺名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町北浦名、昭和37年(1962)長崎市茂木町宮摺名、昭和46年(1971)宮摺名は宮摺町となり今に至ります。地名の由来は定かではありませんが、摺とは地滑りや崖の意味があり、町内の竈神社があるところから、神社(お宮)の後方が昔、地滑りやがけ崩れなどがあったのではないでしょうか。




B-289:茂木町(もぎまち)
江戸時代、茂木村は本郷、宮摺名、大崎名、千々名、藤田尾、北浦、木場名、田手原、田上名、飯香ノ浦名、太田尾名、古賀名、小崎名に分かれていて、昭和22年(1947)藤田尾名が為石村に編入。昭和37年(1962)から、各郷、各名は町名変更が行われます。そのうち本郷は茂木町本郷となりますが、後に茂木町になります。




B-288:茂木(もぎ)
茂木は言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)に起源を持つといわれていますが、実際は戦国時代から使われ出し、天正8年(1580)には長崎とともにイエズス会領として大村純忠らによって寄進されます。天正15年(1587)秀吉の伴天連追放令によって没収。再び大村領になるもすぐに天領となり、江戸時代に入り一時、島原藩領となりますが、寛文8年(1668)からは天領となり長崎代官が管轄します。明治元年(1868)長崎府高来郡茂木村、翌2年、長崎県高来郡茂木村になります。明治22年(1889)西彼杵郡茂木村となり、大正8年(1875)西彼杵郡茂木町に、昭和37年(1962)田上など一部が長崎市に編入し、昭和46年(1971)全域が長崎市に入ります。




B-287:日蓮宗感応山圓成寺(-かんのうざんえんじょうじ)
茂木町224(旧茂木村本郷字辻)
寛永10年(1633)寺町にある長照寺開山:日與の弟子にあたる文琢院日受は同じ境内に圓乗坊という末庵を創建します。なお、圓乗院は文琢院、大道院とも称します。
安政6年(1859)に修復された記録がありますが、明治11年(1878)西彼杵郡茂木村に説教所が造られ、その後、長照寺内にある圓乗院を移し独立して感応山圓成寺となりました。開基は西彼杵郡長与町の法妙寺で住職代理をしていた柴田俊道で、第二次大戦後、末庵関係が解かれます。




天満神社【裳着神社末社】
明治維新後、裳着神社末社として拝殿向かって右側にお祀りされています。
祭神は菅原道真公
八坂神社【裳着神社末社】
明治維新後、裳着神社末社として拝殿向かって左側にお祀りされています。
祭神は須佐之男神




○茂木の神功皇后の伝説
裳着神社の祭神は第14代仲哀(チュウアイ)天皇、仲哀天皇の皇后:神功皇后、第15代応神天皇と、家臣である武内、大伴、物部、中臣、大三輪氏ですが、言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の際、天皇ほか家臣一行らはこの浦に入り、狭いところに夜具を同じくして一夜を過ごされます。そのため「群着(ムレギ)の浦」と呼んだのが後に訛って文字を替え茂木の浦となったという説。
当初、一行はこの浦に船で入り、岸に登ってご覧になると川上から青葉が流れてきたので「青葉の浦」と名付けられ、ここで衣の下袴をお付けになったので裳着の地名が起こり、後に読み易いように茂木となったという説が残されています。また、その際、川の上流から青い菜が流れて来たので若菜川となったといわれています。




B-286:裳着神社(もぎじんじゃ)
茂木町75(旧茂木村本郷字辻231)
裳着神社は茂木の鎮守神で江戸時代は八武者大権現と称し、応神天皇、足仲彦尊、気長足姫尊の三神と、式内宿禰、大伴式持、物部贍昨、中臣烏賊津、大三輪大友主の五神を加えた八人の神をお祀りしたところから八武者大権現といい、明治維新を受け裳着神社となりました。
創建は室町時代末期(16世紀)で、その後、キリシタンによって破却され、寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建されます。以降、藩主の松倉氏、高力氏らより支援を受け、明治維新をもって裳着神社となります。




B-285:大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)【セレスタ学園茂木幼稚園】
茂木町148(旧茂木村本郷字嶽野)
大山祇神社創建は不明で、石柱には「大山祇尊」と刻され文政6年(1823)に字嶽(岳)野の渡邊利七ほか2名の銘があります。鳥居は明治28年(1895)に建立。12月14日が祭日。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。また、一説には神奈川県の三浦半島を治めていた三浦氏の一族がこの地域から深堀に入り深堀氏に性を代えるのですが、その際、守護神としていたのが大山祇神であったといわれています。




B-285:浦見番所跡(うらみばんしょ-あと)
茂木町76附近(旧茂木村本郷字片町)
茂木は島原藩の飛び地で浦見番所は寛文5年(1665)茂木港の監視と茂木村の統括を取り仕切るために開かれた番所で、港を一望できる岬の突端にありました。





B-284:ビーチホテル/茂木ホテル跡【Sマート/茂木郵便局】
道永エイ(万延元:1860-昭和2:1927)は熊本県(大矢野島)登立村出身で、若くして両親を失い12才で茂木の遠縁である肥前屋の主人のもとを訪ねます。肥前屋では女中として奉公し、明治13年(1880)稲佐の料亭ボルガの諸岡マツのところに行き、すぐにロシア将校クラブに奉公します。お栄はここで通訳兼支配人であったクラトフからロシア語を学び、翌14年、ロシアウラジオストック行きの艦長付きボーイの名目で出国。ロシアではウスリー川からアムール川に進みバイカル湖方面まで足を運び、約10年間、精力的に事業を展開し巨額の富を得ます。明治26年(1893)帰国後、諸岡マツに勧めによって稲佐岬に本格的ホテル「ホテルヴェスナ」を開業。長崎がロシアウラジオストックの極東艦隊の越冬基地ということもありホテルは連日ロシア人で盛況を期します。しかし明治37年(1904)の日露戦争によって情勢は一変。ロシア人の姿はなくなりステッセル将軍らの滞在の後は衰退。そうした中、翌38年(1905)顧問を務めていた茂木ホテルを買収し、39年(1906)ビーチホテルを開業させ、さらなる展開をもくろんでいましたが以前から患っていた肺患で療養生活を送ることになり引退します。墓所は平戸小屋町墓地




B-283:村山等安別邸跡(むらやまとうあん-べっていあと)
茂木町76附近(旧茂木村本郷字片町)【Sマート/茂木郵便局】
村山等安(永禄9:1566-元和5:1619:洗礼名アントニオ)はもともと名古屋の人で子供の頃に来崎しました。文禄元年(1592)の文禄の役の時、名護屋城で豊臣秀吉から長崎の惣代として信頼を得、初代長崎代官に命ぜられます。その後、貿易などで莫大な利益を得るようになるのですが、元和4年(1618)頃、豪商の末次平蔵(父は末次興善)との間で金銭問題が起こり等安は訴えられます。その上キリシタンであることが密告されたり、関が原の戦いで大坂方に内通していたことなどから捕らえられ、元和5年(1619)江戸で斬罪に処せられます。なお、等安の後の代官は訴えた末次平蔵になります。墓所は皓臺寺。




B-282:厳島神社(いつくしまじんじゃ)
茂木町75附近(旧茂木村本郷字片町75)
厳島神社の創建は不明で、以前までは伊都藝嶋神社と称し、祭神は市寸嶋比売命(市杵嶋姫命)で水の神として航海安全などのご神徳があります。神社は社殿はなく石祠で明治35年(1902)の銘があります。また、二の鳥居は明治14年(1881)とあります。

○恵比須神社【茂木保育園横】
恵比須神は恵比須、恵比寿、恵美須、恵美酒などとも書き、恵比須神とは民間信仰では七福神の一人で大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神「事代主神(コトシロヌシノカミ)」をいいます。神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、茂木の港周辺でもよく出会います。




B-281:堀切開通之碑(ほりきりかいつうのひ)
茂木町(旧茂木村本郷)
以前より茂木北浦間は険しい山越えの道しかなく地元民は苦労していました。そんなとき大正12年(1923)茂木鉄道株式会社が設立され茂木長崎間に鉄道を走らせる計画が立ちあがり、北浦の三浦信太郎はその鉄道の北浦延伸を誘致します。そして地元民への説得により土地の無償提供や巨額の自費を投じ北浦茂木間(堀切)の開削が進められ、大正15年(1926)堀切の完成と茂木港湾埋め立て工事を完成を見ます。この記念碑は三浦信太郎の功績をたたえ昭和28年(1953)に建立されました。なお、長崎茂木間の鉄道敷設は第二次大戦の影響などで頓挫し計画は中止となりました。




B-280:茂木植物化石層(もぎしょくぶつかせきそう)
茂木町75-34附近(旧茂木村本郷)
解説板より「茂木植物化石層は新生代第三紀鮮新世紀の末に属し、長崎火山活動初期に幾つもの淡水湖が形成された際に湖の中に植物が堆積したものである植物化石層の厚さ約1.5ミリメートル泥岩層に含まれており、双子葉類であるブナ(最も多い)、イヌザクラ、フウ、ケヤキを中心とした31科40属52種より構成される。これらの植物化石は、明治12年(1879)10月に長崎に寄港したスエーデン探検家ノルデンショルドが採集し、本国に持ち帰った。明治16年(1883)に生物学者ナトホルストが、大正9年(1920)にはフローリンが、それぞれ生物学会に発表した。これにより、日本の新生代植物化石が初めて世界に知られることとなった。」




B-279:早坂町(はやさかまち)
江戸時代、早坂は島原藩茂木村に属し木場名と称されていました。木場は林業が行われた場所を意味し、明治12年(1978)西彼杵郡茂木村木場名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町木場名、昭和37年(1962)長崎市茂木町木場名、昭和46年(1971)木場名は早坂町となります。早坂の由来は定かではなく、木場という地名がほかにあるところから変更されたものと思われ、地域が谷合の地域であることなどからなったのではないでしょうか。




B-278:北浦町(きたうらまち)
江戸時代、北浦は島原藩茂木村に属し北浦名と称されていました。北浦は茂木の港の北側に位置するところからそう呼ばれ、明治12年(1978)西彼杵郡茂木村北浦名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町北浦名、昭和37年(1962)長崎市茂木町北浦名、昭和46年(1971)北浦名は北浦町となり今に至ります。




B-277:三浦一族大祖之碑(みうらいちぞくだいそのひ)
北浦町2159附近(旧茂木村北浦名)
三浦一族とは桓武天皇の子孫の流れをくむ村岡為通(タメミチ)を祖とし、平安時代、源頼義に従い数々の功績により三浦半島(神奈川県)を所領し三浦姓を名乗り衣笠に居城します。治承4年(1180)三浦大介(オオスケ)義明は源頼朝の挙兵に応じ合戦向かうも間に合わず、平家方に衣笠城を攻撃され落城。義明は討死し、一族は安房(千葉県)に逃れます。源頼朝は三浦一族を自らの軍に引き入れ、後に鎌倉幕府を開くのです。しかし、第2代頼家の死後、北条氏と対立し謀略によって三浦氏は西国へと流され、それが茂木北浦に流れ着き、戸八浦(戸町)、さらに深堀に入り深堀を性とします。




B-276:茂木枇杷原木記念碑
(もぎびわ-げんぼく-きねんひ)
北浦町1879附近(旧茂木村北浦名字木場)
碑文によると、茂木ビワは天保弘化年間(1830-1848)に中国南部からその原種がもたらされ三浦シオによって接ぎ穂され次第に普及し始めます。明治30年(1897)頃に全国に普及し始め、大正6年(1917)茂木枇杷共同販売組合が結成され生産が急増。昭和2年(1927)には枇杷樹数が全国一となり、茂木地区の生産額の過半数を占めるようになります。昭和32年(1957)茂木地区におけるビワの茂木種は全国の栽培面積の57.2%を占めるようになりました。昭和47年(1972)建立。




B-275:三浦シオ生家跡(みうらしお-せいかあと)
北浦町1895附近(旧茂木村北浦名字木場)
三浦シオ(文政元:1818-明治30:1897)は茂木村北浦名出身で若い頃、長崎代官所に行儀見習いに行っていました。たまたま代官が唐船主から贈られたビワの種をもらい茂木の甥の屋敷に植えたところ、芽を出し、嘉永3〜4年(1850-51)原木より接ぎなどによって付近に普及し始め、現在の茂木ビワへと発展するのです。この北浦町の地は三浦シオの生家があった場所で、近くに4代目となる原木があります。




B-274:大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)
北浦町(旧茂木村北浦名字本木場迫)
大山祇神社は寛永3年(1626)この地域を治めていた島原藩松倉豊後守によって旧木場名の鎮守神として創建されます。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。また、一説には神奈川県の三浦半島を治めていた三浦氏の一族がこの地域から深堀に入り深堀氏に性を代えるのですが、その際、守護神としていたのが大山祇神であったといわれています。




○長崎南環状線
長崎南環状線は長崎市大浜町の国道202号線との交差点を起点に長崎市早坂町の長崎自動車道長崎インターチェンジ付近までを結ぶ全長約8キロメートルの地域高規格道路で、現在(平成22年9月)は女神大橋を含む大浜町-新戸町間が開通しています。残る新戸町-早坂間は平成22年度中に開通予定です。長崎南環状線は長崎市南部地区の交通の分散化と物流の効率化が期待されています。新戸町-早坂間の総工費は約190億円。




B-273:旧茂木街道(きゅう-もぎかいどう)
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(田上-茂木-天草-熊本・鹿児島へ)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、茂木に至るコースを茂木街道と呼んでいました。これは玉帯橋(正覚寺下電停付近)を基点に小島(現在の南高前)から田上、茂木と進むコースで、玉帯橋が慶安4年(1651)に架けられたことから江戸時代の初めにはすでに使われていたことが判ります。明治に入り人力車や馬車が現れると山間部を避けるコースが造られ、転石から川沿いに進み黒橋へ向かうルートが生まれます。昭和に入り現在のバス通りである国道324号線が造られます。




B-272:転石(ころびし)
田上1-20(旧茂木村田上名字転石)
田上から茂木方向に下り転石のバス停より旧道に入ります。しばらく旧茂木街道沿いを進むと山側に中をくりぬいた大きな石があります。これが転石の語源となった石です。中には石仏が2体祀ってあって、言い伝えによると、この石は山の山頂付近から転び落ち、ここに止まったので地名になったとのことです。




稲荷神社道の碑(いなりじんじゃみち-のひ)
田上1-1-19(旧茂木村田上名字地蔵平)【田上稲荷神社入口】
稲荷神社道の碑は田上稲荷神社の入り口に建てられている石碑で、碑が建っている場所は江戸時代の街道筋にあたります。蛍茶屋-矢ノ平-田上、正覚寺下-小島-田上、天草〜茂木-田上の各交差点でした。碑の横には道中安全のお地蔵さまが祀られています。
碑文「いなり志んじゃみち




報國碑(ほうこくひ)【田上稲荷神社入口】
報国碑は明治37年(1904)の日露戦争に出征した田上地区の人々を称えるもので、明治38年(1905)に建立されました。碑文と文字は漢学者で初の長崎市議会議長の西道仙、碑の額面の文字は第14代長崎県知事:荒川義太郎(前香川県知事)によるものです。
 日露戦争で旅順(中国東北部:現 大連)を守って乃木大将率いる日本軍に抵抗したステッセル将軍が、戦争後、一時長崎に滞在しますが、その際、県知事荒川義太郎は乃木大将より「将軍の待遇は丁重に」という言葉を受け、稲佐のお栄さん宅に滞在させ暖かいもてなしを受けさせます。そしてステッセル将軍が長崎を発つ際は、荒川義太郎や市長らの見送りを受け上海に向かいました(明治38年1月18日)。




B-271:田上稲荷神社(たがみ-いなりじんじゃ)
田上1-6(旧茂木村田上名字地蔵平)
田上稲荷神社は寛永3年(1626)当時の島原藩主:初代:松倉重政(しげまさ)によって創建されました。この松倉重政は元和2年(1616)に島原藩に入り、寛永元年(1624)島原城を築城。代が替わって2代目:松倉勝家のとき島原の乱(寛永14:1637)が起こります。田上稲荷神社の創建当時は現在地より西側の西平(田上4丁目付近)にありましたが、元禄4年(1691)に現在地に移転します。田上稲荷神社は田上名の氏神様として鎮座されています。




B-270:日蓮宗妙晃院(-みょうこういん)
田上1-8-16(旧茂木村田上名)
妙晃院は昭和32年(1957)に創建された寺院で、境内にある巨大な一字一石塔は有名です。

一字一石塔(いちじいっせきとう)
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目です。この塔は妙晃院が創建した際、愛宕町の檀家の家から移設されたものですが、塔自体は明治25年(1892)に建立されたもので、一説には西坂処刑場に建立されていたといいます。おそらく西坂で処刑されたキリシタンのための供養塔で、明治時代後期に西坂から愛宕町に運ばれました。




B-269:田上/田上峠(たがみ/たがみとうげ)
田上1〜4丁目(旧茂木村田上名)
田上は茂木街道(長崎-茂木間4里:約8キロメートル)の中間に位置し、江戸時代から交通の要所で標高約200メートルの田上峠には昭和の初めまで10軒ほどの茶店が立ち並び、蕎麦(ソバ)や(タケノコ)を名物としていました。また、茶店の梶原茶屋では青餅(わらび餅)も出していました。明治に入り三菱造船所のドックに入ったフランス軍艦などの乗組員(水兵)は、軍楽隊を先頭に田上まで行軍し、フランスでは珍しい竹林の見物に出かけていたといわれています。さらにアメリカ人からは竹林の道がカリフォルニア州の雰囲気に似ていたところからバンブーロード(bambooとは竹の意)と呼んでいたそうです。
もともと田上は島原藩の飛び地の田上名(-ミョウ)で、田上にある田上寺(デンジョウジ)は島原藩主高力氏の寄進によって開かれました。明治22年(1889)茂木村に属すようになり(大正8:1919から茂木町田上名)、昭和37年(1962)長崎市に編入されます。




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