広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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熊が峰(くまがみね)
千々の西に熊が峰という山があって、長崎名勝図会には熊山と紹介されています。熊山は俗に千々山といい、それが千々の由来と考えられます。熊山はその昔、熊がいたところから名づけられたものでいくつも連なった深く険しい山と紹介されています。また、熊山の東には金鑿峰(カナホリダケ)があると記され金が採掘されたといいます。長崎周辺の山で方位が悪い山といい、今では悪所岳(アクショダケ)と呼ばれています。




B-306:塩竃神社(しおがまじんじゃ)
千々町668附近(旧 茂木村千々名)
塩竃神社は千々地区の氏神さまとして地区の高台に鎮座されている神社で、創建は寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建されます。祭神は塩土老翁神(シオツチオヂノカミ)で、この神は人に塩を焼くことを教えたといわれる神といい、本社は宮城県塩釜市の塩竃神社です。おそらく千々地区でも塩の生成が行われたのかもしれません。商売繁盛、航海安全、延命長寿のご利益があるといわれています。




B-305:草積御前(くさづみごぜん)
千々町513附近(旧 茂木村千々名)
百人一首を編さんした藤原定家の兄:藤原隆信が島原を訪れたとき、猟師の娘との間に女子を設けます。しかし、女子は盲目で、あるとき船から落ち対岸である千々の海岸に漂着します。残念なことに漂着後、野犬にかまれ亡くなりますが「私は盲目で不幸な一生だったが、私と同じ運命の人々を救いたい」と言って息を引き取ったそうです。千々の人々は大切に葬り、草積みをした草原で亡くなったので草積御前と呼ぶようになりました。現在は延命地蔵として人々をお守りしています。草積御前は玉台寺境内と長崎市立南小中学校の入口にお祀りされています。




B-304:賀茂神社(かもじんじゃ)
大崎町570(旧 茂木村大崎名)
賀茂神社は大崎地区の氏神さまとして地区の高台に鎮座されている神社で、創建は寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建されます。祭神は別雷神(ワケイカズチノカミ)で、江戸時代は両部神道として賀茂大明神と称し、明治維新後、賀茂神社に改められました。




B-303:竈神社の大楠
宮摺竈神社には1本の大きな楠があって神社創建の寛永3年(1626)ごろにはあったものといわれています。長崎県内でも最大級のクスノキで樹高は約25メートル、地上約0.5メートル地点で幹回り10.5メートルを計測しています。枝ぶりが雄大で東西40メートル、南北37メートルにも及びます。市指定天然記念物。




B-302:宮摺竈神社(みやずり-かまどじんじゃ)
宮摺町558(旧 茂木村宮摺名)
宮摺竈神社は宮摺地区の氏神さまとして地区の高台に鎮座されている神社で境内には海岸で拾われた白い石がたくさん積まれています。創建は寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建されます。祭神は不明ですが、竈の神ということで火の神である荒神をお祀りしている。もしくは、千々地区にある塩竃神社のように塩に関係のある祭神ではないでしょうか?




原爆慰霊碑(げんばくいれいひ)【潮見崎公園】
昭和20年(1945)8月9日、浦上の地に原爆が投下された後、被爆した数百人の市民が茂木の町に避難されました。茂木の住民は献身的に救助をし、亡くなられた方は海岸で火葬したといいます。この碑は犠牲となった方々への慰霊の碑で、平成12年(2000)に茂木町自治会や商工会、茂木町振興協議会などの寄付で建立されました。




水野甚次郎頌徳碑(みずのじんじろうしょうとくひ)【潮見崎公園】
碑文によると、水野甚次郎は広島県呉市出身で、土木請負業者として大正14年(1925)茂木町の防波堤築造工事にあたります。町始まって以来の大事業を見事にこなし、昭和3年(1928)の港湾浚渫や埋立て工事では茂木町が財政難に陥ったため私財を投じ工事を見事竣工させます。その工事費約22.7万円(今のお金で約1.4億円)に上ります。この碑はその功績をたたえ昭和11年(1936)茂木町によって建立されました。




前田三郎頌徳碑(まえださぶろうしょうとくひ)【潮見崎公園】
碑文によると、前田三郎(明治25:1892-)は茂木町の出身で、昭和4年(1929)茂木町議会議員のちに県議会議員へ進みます。昭和21年(1946)からは茂木町の消防団長として戦後の治安維持に努め、その後は茂木枇杷同業組合長や連合会長を歴任し組織の拡大や充実に尽力します。昭和25年(1950)からは茂木町長を三期務め茂木の復興発展に寄与。昭和37年(1962)の長崎市合併への大事業を果たします。この碑は前田氏の功績をたたえるため町民の寄付によって昭和37年(1962)に建立されました。




防波堤築造記念碑(ぼうはていちくぞうきねんひ)
茂木町2189附近(旧 茂木村本郷)【潮見崎公園】
碑文によると、茂木港は肥後地方、薩摩地方などと長崎を結ぶ重要港でしたが鉄道の発達により衰退し、さらには港内の土砂の堆積もあって不便をきたしていました。大正12年(1923)茂木鉄道建設に伴い港湾の埋め立て工事が行われることになり、その財源によって昭和2年(1927)堤防が建設されます。その後、港湾の浚渫(シュンセツ)工事が進められ昭和7年(1932)に完了、さらに翌8年(1933)新しい船溜りと桟橋の建設が進められ、この事業は町始まって以来の大工事となります。総工費は約437,000円(今のお金で約2.8億円)に上り、当時の町長:吉冨市五郎は財政を慎重に調整し、あわせて町議会議員の協力によって完成を迎えます。記念碑は昭和11年(1936)建立。




B-301:立岩(たていわ)
茂木町2272附近(旧 茂木村本郷)
バス停の名前になっている立岩は、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会にもうたわれている大岩で景勝の一つに数えられています。長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)が茂木を訪れた際、「立石を見て」という題で、「またたくひ あら礒浪(イソナミ)のたて岩を 島このみする 人にみせはや」と詠んでいます。




B-300:月見台(つきみだい)
茂木町2190附近(旧 茂木村本郷)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、潮見崎の上を月見台または注連(シメ)が崎といい、これは日の出、月の出のとき、波立つ様子がちょうど〆縄を引いたように見えるところからこう呼ばれています。また、ここから月の出を見ると月が北浦の先の赤井が崎の上から出て、月の光が海に移し出された様子が布を引いたように見えるので布引の月と呼ばれていました。現在は灯台の役目であった文政元年(1822)建立の灯篭が現存しています。




B-299:潮見崎観音堂(しおみざきかんのん)
茂木町2190附近(旧 茂木村本郷)
潮見崎観音堂は宝永3年(1706)に開山し、本尊は十一面観世音菩薩。昔から子育て、子授けの観音として信仰されています。堂前は眺望がよく島原半島や天草が見えます。現在の建物は平成5年(1993)のもの。




B-298:一口香(いっこっこう)
茂木町1805(旧 茂木村本郷)【茂木一○香本家】
長崎・茂木の一口香(いっこっこう)は中国伝来の干菓子です。その歴史は古く、唐の禅僧や東シナ海を航海する中国人にとって貴重な保存食として日本に渡ってきた(中略)
弘化元年(1844年)、弊社初代・榎 市衛門(えのきいちえもん)は長い年月をかけ、ふんわりと膨れた香り高い菓子に作り上げ、一口香を食べると香ばしいことから「一口香(いっこっこう)」と名付けられ販売を始めたのが弊社創業の始まりです。安政時代(1854年)、二代目・榎 伝二郎(えのきでんじろう)の頃には茂木は景勝の地でもあり丸山に近いため文人墨客の往来ははげしく、これらの人達に茶菓子として好まれ、長崎市内への広がり、三代目・榎 市三郎(えのきいちさぶろう)の頃には、お客様が茂木まで人力車を連ねお求めください程の盛況ぶりだったそうです。更に材料を厳選研究史、よく膨れ、ますます香ばしい今の形に作り上げたのが四代目・榎 伝一郎(えのきでんいちろう)で五代目・榎 正孝(えのきまさたか)の戦死により、その味を四代目より直接伝授され受け継いでいるのが六代目・現在の社長 榎 巍(えのき たかし)です。 (以降略)
※茂木一○香本家ホームページより




伊達木仙一像(だてきせんいち-ぞう)
茂木町1590-53(旧 茂木村本郷)
伊達木仙一(明治7:1874-?)は旧茂木村出身。長崎県茂木枇杷販売農業共同組合の組合長として活躍した人物で、大正13年(1924)には京阪方面への直接共同出荷と共同計算法を実施し、昭和4年(1929)もは長崎県茂木枇杷同業組合の組合長に就任し、長崎県下の茂木枇杷生産者の団結と福利を図り長崎県連合会の基礎を作ります。その後も品質の向上やビワ酒、缶詰などの加工品にも力を注ぎ茂木枇杷の発展に寄与します。この像はその功績をたたえ昭和32年(1957)組合によって建立。製作は北村西望。




城下和一郎像(しろしたわいちろう-ぞう)
茂木町1590-53(旧 茂木村本郷)
城下和一郎(大正10:1921-?)は昭和21年(1946)に茂木枇杷出荷組合の理事に就任し、戦後復興とともに茂木枇杷の発展に尽力し、昭和39年(1964)には茂木町茂木枇杷組合の組合長となり、以降も茂木枇杷の振興や地域農業の発展に寄与。昭和33年(1958)から茂木町議会議員、昭和42年(1967)には長崎市議会議員となり長崎市の発展に務めました。この像はその功績をたたえ平成6年(1994)有志によって建立されました。




B-297:茂木枇杷記念碑(もぎびわきねんひ)
茂木町1590-53(旧 茂木村本郷)
碑文によると、茂木ビワは天保弘化年間(1830-1848)茂木村北浦名出身の三浦シオが長崎代官所に奉公に行っていたといたとき、たまたま唐船主からビワの種をもらい茂木の甥の屋敷に植えたところ芽を出し、それが起源といわれています。原木は枯れましたが嘉永3,4年(1850頃)山口権之助によって接ぎ木され、その後、徐々にその数は増え茂木町一帯の特産品まで普及します。昭和初期には朝鮮、満州、中国地方まで輸出されたとあります。この碑はそうした先駆者の功績をたたえ記念碑が建立されました。昭和9年(1934)長崎県茂木枇杷同業組合によって建立されました。




B-296:大乗妙典六十六部供養塔
(だいじょうみょうてん-ろくじゅうろくぶ-くようとう)【玉台寺境内】
玉台寺境内には7基の六十六部塔があって大小様々な形をしています。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。また、玉台寺にある供養塔のほとんどは雲仙岳噴火時に起こった大津波で打ち寄せられた犠牲者の供養塔といわれています。
@元文5年(1740)A天保元年(1830)B寛政4年(1792)C不明D嘉永2年(1849)E不明F不明




B-295:長尾安右衛門尉の墓(ながおやすえもんのじょう)【玉台寺境内】
玉台寺境内にある1基の壮大な墓石は、高さ1丈余(約3.03メートル)、自然石の下に2段の花崗岩の豆腐石と呼ばれる四角い石を敷いている墓石で長尾安右衛門尉の墓といわれています。江戸時代初めの島原の乱が起こった際、茂木に住む多くのキリシタンも参戦しましたが、鎮圧後、島原藩主の高力摂津守は長尾安右衛門に茂木のキリシタンを撲滅するよう命じます。長尾安右衛門尉はその功績が高く買われ、没後、功績をねぎらうため墓を壮大にして威を示したといわれています。




B-294:草積御前(くさづみごぜん)【玉台寺境内】
百人一首を編さんした藤原定家の兄:藤原隆信が島原を訪れたとき、猟師の娘との間に女子を設けます。しかし、女子は盲目で、あるとき船から落ち対岸である千々の海岸に漂着します。残念なことに漂着後、野犬にかまれ亡くなりますが「私は盲目で不幸な一生だったが、私と同じ運命の人々を救いたい」と言って息を引き取ったそうです。千々の人々は大切に葬り、草積みをした草原で亡くなったので草積御前と呼ぶようになりました。現在は延命地蔵として人々をお守りしています。草積御前は玉台寺境内と長崎市立南小中学校の入口にお祀りされています。




茂木町新四国八十八ヶ所霊場
茂木町新四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために茂木地区に開かれた霊場のことで、茂木地区に四国八十八ヶ所霊場のご利益と茂木地区が仏の光に包まれることを祈願し昭和4年(1929)に始められました。これは当時の茂木地区の先達(信仰者)が四国の八十八か所の各霊場から砂を授かり、茂木地区に四国と同じように霊場を設け、その砂を埋め、浄財によって本尊を建立、安置しました。また、このときの霊場は茂木地区に古くからある祠や古仏をあてはめたり新規に設けたものなど様々です。




B-293:浄土宗松尾山無量院玉台寺
(-まつおざん-むりょういん-ぎょくたいじ)
茂木町2142(旧 茂木村本郷)
大音寺を創建した僧:傳譽は寛永8年(1631)第6代長崎奉行竹中采女正重興と島原藩主松倉豊後守に対し茂木村の布教を願い出、寛永11年(1634)一寺建立が許され、松尾山玉臺寺が創建されます。寛政4年(1789)の島原大変(眉山の爆発)の際は多くの遺体が茂木の港に打ち寄せられたため死体を埋葬した塔があります。境内にある樹齢500年以上のイチョウの木が有名です。




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