広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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A-335:住吉神社(すみよしじんじゃ)
網場町(旧 日見村大字網場名)
寛政12年(1800)付近の清水川が大雨によって増水しましたが、神社後方にあたる森が大水から地区を守ったといわれ、以降、地元民は山を神として祀り、あわせて天正6年(1578)深堀純賢が長崎甚左衛門純景と日見で戦った際、この地で命を落とした深堀氏側の戦死者の霊をお祀りします。そして宇宙浄化の神であり武運の神で五穀豊穣の神として崇められる住吉神を祭神として創建されました。




A-334:長崎総合科学大学
網場町536(旧 日見村大字網場名)
長崎総合科学大学の前身は川南工業鰍ェ昭和17年(1942)に設立した川南高等造船学校で、当初は香焼島に開校しました。昭和19年(1944)川南造船専門学校、翌20年(1945)長崎造船専門学校と改称。昭和25年(1950)新学制によって長崎造船短期大学となります。昭和36年(1961)網場町に移転。昭和40年(1965)からは長崎造船短期大学は4年制大学として長崎造船大学となり、昭和53年(1978)長崎総合科学大学と改称します。また、平成14年(2002)には旧長崎水族館の建物を購入し校舎に活用します。一方、昭和24年(1949)新学制として長崎造船高等学校を設立させ昭和37年(1962)からは付属高校とします。
長崎総合大学は造船技術だけではなく日本の最先端の科学技術を研究する学園として多くの人材を輩出しています。




A-333:泣き河原
界2丁目と網場町を分ける川には伝説が残っており、上流部には泣河原橋もあります。
文化初年(1804頃)肥後若津で小間物屋を営む与右衛門という人が盗賊に襲われ死亡。妻と娘が後を追ってこの地で自殺したといいます。




A-332:長崎ペンギン水族館
宿町3-16(旧 日見村大字宿名)
昭和29年(1954)当時の佐藤勝也副知事、田川努長崎市長、中部悦郎商工会議所会頭が発起人となり長崎国際文化センター建設の計画を発表。翌30年(1955)原爆投下10周年を記念し、5ヶ年計画で県立図書館、美術館、体育館、水族館、市公会堂などの建設を決定し長崎国際文化センター建設委員会を設立します。そして昭和34年(1959)長崎市出身で早稲田大学教授である武基雄(タケ-モトオ)明治43:1910-平成17:2005)の設計で、建設費1億3600万円をかけ長崎水族館が完成します。翌35年(1960)には隣接地に同じく国際文化センター建設事業の一環として網場県営プールが造られ、水族館とあわせ市民のレクレーションの場として親しまれます。平成10年(1998)施設の老朽化と運営面などから閉鎖され、新たに施設を縮小リニューアルして平成13年(2001)長崎ペンギン水族館としてオープン。それまでの使用していた武基雄設計の建物は長崎総合科学大学の所有となり今に至ります。




長崎大水害記念碑
界2-1-19附近(旧 日見村大字界名)【日見支所内】
解説板によると、昭和57年(1982)の長崎水害の際、日見地区でも甚大な被害が発生し日見支所には災害対策本部が設置され、発生後から約2か月間にわたり各自治会や諸団体が死傷者の救出、救護、復旧活動にあたります。日見地区では36名もの犠牲者がでました。この記念碑は犠牲者の冥福を祈り、再び災害が起こらないことを祈念して昭和58年(1983)日見地区連合自治会によって建立されました。




A-331:弁財天神(べんざいてんじん)
宿町20(旧 日見村大字宿名)
江戸時代、弁財天は寺院に祀られ明治維新後、廃仏毀釈の関係で伊都岐島(イツクシマ)/市杵嶋姫(イチキシマ)と称され神社となります。長崎では東琴平の金刀比羅神社や稲佐の淵神社がその代表例です。
しかし、宿町の場合は鳥居に「弁財天神」とあり、さらには鳥居が明治38年(1905)建立とあるところから、おそらく地域民が明治維新後に弁財天を神としお祀りしたものではないかと思われます。残念ながらお堂は地蔵尊2体のみで弁財天神を見ることができません。




A-330:日見(ひみ)
日見という地名は戦国時代あたりから使われていて、始めは肥前国高来郡に属し有馬氏の領地でしたが、のちに天領となり、元和2年(1616)には島原藩、寛文8年(1668)には天領となり、再び享保5年(1720)天領島原藩預かり地、明和5年(1768)天領として長崎代官が治めます。明治元年(1868)に長崎府、翌2年(1869)長崎県に属し、明治11年(1878)西彼杵郡日見村(同22年より市制町村制施行)、昭和30年(1955)長崎市に編入します。なお、明治維新までは野上家が庄屋職でした。




A-329:高比良大師堂(たかひらだいしどう)
宿町171-2(旧 日見村大字宿名)
高比良大師堂の創建は不明。弘法大師をお祀りするお堂で、ちょうどお堂の前が旧長崎街道にあたります。昔、付近の高比良某が建立されたお堂だと考えられます。
ここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の六十六番霊場に当り、弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




A-328:八坂神社(やさかじんじゃ)
宿町610(旧 日見村大字宿名)
八坂神社の創建は不明。日見宿の氏神と考えられもともとは祇園宮と称し、明治維新後に八坂神社になったものと考えられます。ちなみに神社近くの橋名を祇園橋といいます。
八坂神社は京都の八坂神社を本社とする須佐之男命をお祀りする神社で、須佐之男命は祇園天神(ギオンテンジン)または牛頭天王(ゴズテンノウ)ともいいます。八坂神社を祇園社(天王社)といい、お祭を祇園祭といいますがそれはここから来ています。




A-327:日見桜(ひみざくら)
江戸時代中期に西川如見によって書かれた長崎夜話艸にはすでに枯れて姿を失ったとありますが、天正年間(1573-1592)には南蛮人が接ぎ木した1本の大きな桜木があったとあり、その大きさは東西15間(約27メートル)、南北13間(約24メートル)、幹回り1丈1尺(約3.3メートル)で、大枝が八方に分かれ傘を広げた形をしていたそうです。花見の時期には多くの人でたいへんな賑わいようだったとあります。桜のそばには桜谷寺という寺院があって島原藩主:高力氏や長崎奉行らも訪れていました。実際、そういう名前の寺院はなく日見宿の観音寺ことではないかといわれています。
都にて 日見の桜を人とはば いかがこたへん雪の埋木/高力氏
又たぐひ あらしならでは しらぬひの つくしの花の雪の埋木/詠み人しらず




A-326:黄檗宗萬壽山聖福寺末寺:潮見山観音寺跡
(しおみざんかんのんじ-あと)
宿町610(旧 日見村大字宿名)
当初はここに桜谷寺という寺院があって、後に聖福寺の末寺の観音寺となります。言い伝えでは奈良時代の僧:行基が肥後国(熊本県)宇土郡にあった奇光を発する木橋を訪ね、行基はその橋を七つに割って海に流し、流れ着いたところでそれぞれ観音像を彫ったといわれています。その一つがここの観音像といわれ地元民によって大切にお祀りされたといいます(現存せず)。
観音寺は明治維新を受け廃寺となり観音堂を残すのみとなり、平成14年(2002)国道34号線の拡幅工事により汐見岳の千手観音菩薩と弘法大師、地蔵菩薩、馬頭観音がここに合祀されました。




A-325:日見宿跡(ひみしゅく-あと)
宿町(旧 日見村大字宿名)
日見宿は長崎街道25宿の一つ。日見宿は長崎を出て最初の宿場で2里余の距離で、次の矢上宿までは1里と滞在する宿というより休憩が主流で、長崎から難所の日見峠を越えて一休みする人、今から日見峠に向かう人の休憩所でもありました。そのため宿場の賑わいはなく、さらには日見越え用の人馬の用意に忙しくかなり村民の負担であって貧困に苦しむことも多かったといいます。
なお、東海道五十三次を初め、宿場と宿場の距離は老人や子供の一日の工程の平均である2里10丁(=約8.1q)といわれています(1里=36丁=約4q)。




A-324:三国屋跡(みくにや-あと)
宿町187-2(旧 日見村大字宿名)
江戸時代、日見宿には三国屋跡という酒屋があって、三国屋は飛脚(状持ち)業務も務めていました。文化年間(1804-18)のある梅雨の大雨のとき、付近の日見川は氾濫し川渡りが困難な状況でしたが、江戸より長崎代官への至急の書状が届き、三国屋跡の第二代当主の五郎七は意を決して裸になり、書状を頭に巻き濁流の中を渡ります。そして書状は無事に代官の下に届くのですが、のちに五郎七の手柄を知った代官は五郎七の望みをかなえてやるといい、五郎七は地元民や旅人の願いであった日見川の架橋を願い出ます。代官は早速、石橋を架け、屋号の「三国屋跡」を橋名とするのです。三国屋橋は後に架け変わり現在の橋は昭和44年(1969)架橋。




丸山華まつり、丸山龍馬まつりの準備、運営、片付けなどのためお休みしております。間もなく再開します




A-323:継ぎ場跡(つぎばあと)
界1-3-12(旧 日見村大字界名)【田川歯科】
継ぎ場とは大名などの駕籠立て場、つまり、駕籠を下して休憩する場所、さらには荷物の中継ぎ、休憩所、運搬人夫の待機場所です。日見宿は矢上と長崎の間でほとんど通過する場合が多く、休息して一気に日見峠へ向かう場合が多かったといいます。




界町阿弥陀堂(さかいまちあみだどう)
界1-21附近(旧 日見村大字界名)
界町阿弥陀堂の創建は不明。阿弥陀如来をお祀りするお堂で、長崎街道と網場道の分岐点にあるお堂です。ここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の五十三番霊場に当り、弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




A-322:河内神社(かわちじんじゃ)
芒塚町15-1附近(旧 日見村大字河内名)
河内神社の創建は不明。言い伝えでは天正6年(1578)深堀純賢が長崎甚左衛門純景を攻めようと深堀から海路網場入りした際、たくさんのかがり火によって大群衆がいるかのように思わせたといい、その火を見たことから火見と呼び、のちに日見となります。当時、両者はたびたび争いをし多くの戦死者を出しますが、河内神社には長崎氏側の陣地にいた戦死者を祀った神社、反対に網場にある住吉神社は深堀氏側の陣地にいた戦死者を祀った神社といわれています。




朝日山水の平大師堂
芒塚町76-4附近(旧 日見村大字河内名)
朝日山水の平大師堂の創建は不明。もともとは現在の国道34号線付近にあったものが道路拡張によって川沿いに移転。昭和57年(1982)長崎水害後に地元の吉田十二郎氏によって再建され、さらに平成11年(1999)長崎自動車道建設によって現在地に移ります。
ここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の七十二番霊場に当り、弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




大乗妙典六十六部塔【岩這薬師堂】
大乗妙典六十六部塔とは、当時の日本の中の国々(66カ国)を巡り大乗妙典経を一部づつ奉納すると願いが成就するという信仰で日本各地に見ることが出来る石碑で供養塔でもあります。
岩這薬師堂周辺には3基の塔があり、一基は文政13年(1830)建立とあります。

馬川(うまがわ)
岩這薬師堂近くに流れる川を馬川といい、長崎街道そばにあるところから人も馬も足を洗い休息する川といわれています。このお堂周辺では日見越えをする者、日見越えを終えた者などで当時は賑わっていました。




A-321:岩這薬師堂(いわばいやくしどう)
界1-19-11附近(旧 日見村大字界名)
薬師堂とありますがご本尊は観世音菩薩で俗に歯痛(シツツキ)観音と呼ばれています。これはお姿があたかも歯の痛みで頬に手をあてているかのように見えるところから土地の人が名付けたもので、歯の痛みをとってくれると信じられています。観音菩薩を囲む石柱には寛政3年(1791)とありその当時からお祀りされているところが分かります。このお堂は長崎四国八十八ヶ所霊場第六番霊場にも指定されており四国の第六番霊場のご本尊が薬師如来のため薬師堂と称されます。




A-320:白髭稲荷大明神(しらひげいないだいみょうじん)
界1-22附近(旧 日見村大字界名)
白髭稲荷大明神は旧長崎街道沿いにある稲荷神社で創建は不明。白髭稲荷大明神は滋賀県高島市に鎮座する白髭神社を本社とする神社の別称で猿田彦神が祭神です。神社は石祠に屋根が設けてあります。なぜか祠には弘法大師がお祀りされていて、また、祠近くの岩には稲荷神の遣いである狐が彫られています。




薬師堂(やくしどう)
芒塚町208附近(旧 日見村大字河内名)
薬師堂は薬師如来を祀るお堂で、付近住民によって四国八十八ヶ所霊場のうち第七十六番霊場の金倉寺(コンゾウジ)にならい薬師如来をお祀りしたものです。金倉寺は香川県善通寺市にあってご詠歌は次の通りです。
「まことにも神仏僧(シンブッソウ)をひらくれば 真言加持の不思議なりけり」
本尊真言「オンコロコロ センダリマトウギソワカ」

○供養塔
芒塚町200附近
供養塔には「南無大師遍照金剛」と刻され村内安全などを祈願したものです。




A-319:梨子の木茶屋跡(なしのきぢゃや-あと)
芒塚町758附近(旧 日見村大字河内名)
江戸時代の長崎街道は日見トンネル東口付近を通っていて、ちょうど国道付近に「梨の木茶屋」という茶店がありました。また、日見峠より東側は高来郡日見村に属し、天領として長崎代官が管轄していましたが、この「梨の木茶屋」では網場の養国寺とともに正月の踏絵が行われていた茶店でした。

○トンネル饅頭店跡
トンネル饅頭はその名の通り日見トンネル東口附近で営業していた饅頭屋で、付近を往来する人たちに親しまれていました。特に東望海水浴場に通う子供たちにとっては楽しみの一つでしたが、その後衰退し昭和50年代に姿を消します。




向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)
幼少は慶千代で通称を喜平次(平次郎)といい、字を元淵、号を去来とし、向井元升の次男としてで生まれます。8歳のとき父と共に京都に移住、一時福岡で武芸と儒学を学び、20歳代になり再び京都に移り、父元升の後を継いで開業していた長男:元成を支えます。しかし俳諧の道に進むようになり35歳頃、松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(ショウモンジッテツ:松尾芭蕉の10人の優れた門下)の一人となります。元禄2年(1689)帰郷し長崎に蕉風俳諧を伝えます。

※蕉門十哲は榎本其角:服部嵐雪:向井去来:内藤丈草:杉山杉風:志太野坡:越智越人:立花北枝:森川許六:各務支考をいう。




A-318:芒塚/薄塚(すすきづか)
芒塚町601附近(旧 日見村)
向井去来が元禄2年(1689)長崎に帰郷して長崎の俳人たちと交流し、その帰路、芒塚まで見送りに来た同門たちのことを俳句にします。
「つくしよりかへりけるにひミという山にて卯七に別れて『君が手もまじるなるべし花薄(猿蓑)』」
と残します。ここの中の卯七とはいとこの蓑田八平次で去来を師事していました。
天明4年(1784)長崎の門人によって峠の頂部の一本杉のところに唐印の装飾がついた句碑と鼈洲文慧(ベッシュウブンケイ)の撰文による石柱が建立されます。安政3年(1856)東側に移設され、トンネル建設で再度移転し、平成13年(2001)現在地に移転します。県指定文化財。




A-317:日見峠/明治新道(ひみとうげ/めいじ-しんどう)
本河内〜芒塚〜宿〜日見〜田中町
江戸時代、日見峠は難所といわれ明治以降、開削は長崎近代化への早急な課題でもあり、明治14年(1881)長崎県令:内海忠勝は貿易商の松田源五郎らに要請し日見峠新道会社を設立します。工事は難航しますが翌15年(1882)に完成。1等国道(1級国道)に指定され工費約4万7340円のうち2万9000円が国庫助成金によって賄われ、残りは有料道路制を取り利用者負担とします。返還は15年とされ(のちに県が買収し無料化)日本最初の有料道路ともいわれています。この道路は一瀬橋起点-切通終点の道路で明治新道とも呼ばれ、通行料(道銭)は、通行人1名につき5厘。人力車一挺2銭。荷車3銭。牛車1銭5厘。乗馬3銭。駕籠2銭。馬車5銭で、掲示札には日本文、漢文、欧文で書かれ、付近住民には無料パス券が配布されました。また、道銭取立所(料金所)は本河内と日見に置かれ、現在のバス停名の番所はその取立所があったところでした。この道路は日見トンネルが開通する大正15年(1926)まで長崎の大動脈として使用されます。なお、頂上部は平均33メートルほど切り下げられました。




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