広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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英彦山神社/飯盛神社(ひこさん/いいもりじんじゃ)
本河内2(旧 長崎村本河内郷字豊前坊)
明治維新を受け本覚寺第17代豪教は長崎裁判所総督の澤宣嘉の許可を得て、英彦山飯盛山にあった本覚寺の末寺をそれぞれ英彦山神社飯盛神社と改称し、仏式の構造を神式に改装し僧侶は神主に変わります。明治7年(1874)壇信徒を持たなかったため維持困難となり英彦山山頂の御霊を飯盛神社(豊前坊)に合祀し、以降、本河内の有志によって管理が行われるようになります。なお、英彦山山頂には石祠のみ存在して荒廃しています。




天台宗如意山本覚寺跡(にょいざん-ほんかくじ-あと)
元和元年(1615)天台宗の僧:大賢坊厳盛は現在の福岡県英彦山から英彦山大権現を勧請し、八百屋町に如意山正覚院神地寺を建て創建となります。寛延元年(1748)炉粕町8,9付近に移り本覚寺と改めます。5代:日照坊覚潭は飯盛山に豊前坊(ブゼンボウ)を勧請し享保4年(1719)にお堂を建立し、寛延元年(1748)地元の若杉氏より眉山飯盛山一帯の寄進を受け財産とします。明治維新を受け、本覚寺は廃寺となり英彦山と飯盛山に置かれたお堂は英彦山神社と飯盛神社となります。




飯盛山(いいもりやま)
読んで字の如く御飯を持った形の山で長崎の市街地から見て彦山の左横に並んで控える山です。標高は約350メートルの山で山頂付近に豊前坊(飯盛神社)をお祀りしているところから別名を豊前坊といいます。山頂は高く険しい岩が林立し霊験あらたかな山といわれています。北は本河内、南は田手原に接しています。今では飯盛山より豊前坊を呼ぶ方が一般的になっています。




彦山/英彦山(ひこさん)
彦山英彦山とも書き標高402メートルの山で長崎市街地の東に位置し、寛延元年(1748)頂上に福岡県英彦山から英彦山大権現をお祀りされると彦山/英彦山と呼ばれるようになりました。また、当時、山頂の様子が鍋をかぶったように木々が茂っていたところから鍋山や、中国の峨眉山に似ているところから眉嶽といったり、山の周りに雲がたなびいている様子が眉を引いたように見えたため眉山と呼ばれ、それが訛って舞嶽(マイダケ)とも呼ばれていました。また、彦山は月の出を知る山であるところから月見に欠かせない山で、長崎奉行所勘定方であった大田南畝(蜀山人)は次の歌を作っています。
わりたちもみんな出てみろ今夜こそ彦さんやまの月はよかばい 四方赤良(ヨモノアカラ=蜀山人)」




田手原(たでわら) 現 田手原町(旧茂木村田手原名)
田手原は江戸後期の「長崎名勝図絵」には「蓼原」と明記され、この付近に(たで:タデ科の植物の総称)が多かったことが読み取れます。当時は長崎から穎林(穎林口:B-3:2004-6/3参照)-矢ノ平-飯香浦と続く街道の中間地点でした。もともと田手原は田上と同じように島原藩の飛び地で田手原名(-ミョウ)といい、明治22年(1889)茂木村に属し(大正8:1919から茂木町田手原名)、昭和37年(1962)長崎市に編入。昭和46年(1971)田手原町になります。




重籠(じゅうろう) 現 田手原町(旧茂木村田手原名字重籠)
その昔、この付近に修験者(山伏)志岐林専の弟子にあたる東光院(某)という修験者が住んでいたといいます。江戸後期の「長崎名勝図絵」には十郎原(じゅうろうばる)と明記されていますが、当初は十両原といっていました。これはこの地区を境に南東側(飯香浦側)が島原藩。北西側(長崎側)は長崎代官の管轄地(天領)となっていて、この地区が境界となっていました。また、公領のことを御領(ゴリョウ)といい、御領が5両と同じ発音で、島原藩の公領(幕府・大名の領地の意)と、天領はともに公領ということから、御領(5両)と御領(5両)で十両、これが訛って十郎、それが重籠となります。




山口亀太郎伝碑(やまぐちかめたろう-でんひ)
田手原町(旧茂木村田手原名)【甑岩】
碑文によると、江戸時代末期、飯香浦町の日吉に住む山口清兵に男子が誕生し山口亀太郎と名付けられました。亀太郎は神への信仰が篤く家庭が貧しかったが人のために尽くす性格でした。その後、長崎の紺屋町(現 賑町or魚の町付近)に奉公に出るようになりますが、ここの主人が病気がちで薬が効かず大変困っていたところ、亀太郎が自ら日吉の神社へ祈願に行くことになり、約1里ほどの道のりを雨の日も風の日も100日間休まず参詣するのです。ある夜、夢枕に神が現れ、西南の海を臨める山の上に社を建て祈願すると病気が回復するとお告げがあり、早速、工事を進めます。しかしそこは道が険しく周りは深い谷でなかなか工事が進みませんでした。この工事には地域の人々の多くの協力も得られ10数年かけようやく完成。病も回復するのです。完成後は付近だけではなくその神徳に遠方からも参詣に来るようになり現在の甑岩神社となるのです。この碑は亀太郎や地元民の功績を称えたもので明治26年(1893)建立。碑文と文字を書家の岡田篁所によって書かれました。




森田丈太郎君像(もりたじょうたろう-くん-ぞう)
田手原町(旧茂木村田手原名)【甑岩入口バス停横】
碑文によると、江戸から明治期にかけて長崎より田手原、飯香浦地区に通じる約8キロメートルのは大変な悪路で大雨など災害が起これば地区は孤立し、また、地区に医者がいないため病気など緊急時に医者を呼ぶことも出来ず死を待つしかなかったといいます。せこで長年、地区の自治に従事していた森田丈市(丈太郎?)はこの問題解決のために事を起こし、20年以上にわたり行政と交渉をし尽力します。そして見事に悲願が叶い道路の完成を見ます。完成後は地区の産業発展や医療面が充実しました。そしてここに森田丈市の功績を称え像の建立となるのです。
※工事は数回にわたって行われ、1期:大正6:1917〜大正12:1923 2期:昭和8:1933〜昭和15:1940 総延長:約16キロメートル 総工費:16万7970円 像の建立は昭和15年(1940)




甑岩入口の碑【甑岩入口バス停横】
甑岩付近は江戸時代、長崎から穎林-矢ノ平-飯香浦と続く街道の中間地点で標高300メートル程の険しい峠をなし、盛夏の時期などは牛馬などは年に数回、斃死(ヘイシ)つまり倒れて死んでいたといいます。そのような光景を見た地区の森田丈市のほか数名の者が道路改修を計画、巨額の資金を負担し道路改修工事を行います。そして道路開通後は産業の振興や地域の発展がもたらされ、記念碑の建立となります。工事期間は大正元年(1912)から大正12年(1923)で、施工区間は約8キロメートル、工費は91,720円(今のお金で約9000万円)でした。記念碑は昭和3年(1928)に建立され、碑文は茂木町長の永石密蔵、文字は森永文涯によるものです。
千古不朽の碑(せんこふきゅう-のひ)
千古不朽とは永遠に長く残るという意味で、碑は功績を称えたものになっています。
この千古不朽の碑は、田手原地区の道路建設に尽力した森田丈市を称えたもので、同じ昭和3年(1928)に建立されました。なお、森田氏は後に西彼杵郡茂木町の町長を務めます。




甑岩(こしき-いわ)
田手原町(旧茂木村田手原名)
甑とは、その昔、米や豆などを蒸す土器のことで、甑はその後、蒸篭(セイロ)などに取って代わり、今ではほとんど見ることが出来なくなりました。
この甑岩には様々な言伝えがあって、岩に登る際は男は7日間、女は21日間にわたり清めてから登らないと発狂して死んでしまうといわれ、常に霊気が立ち込めていたそうです。また、力自慢の神さまがいて、二つの大きな岩を持ち上げ一つを飯盛山(豊前坊)に、一つをこの地に置き(それが甑岩となる)、岩の中に金銀を隠しているといわれ、さらには巨蛟(おお-みずち:竜の一種)も潜んでいるといわれています。
甑岩神社(こしきいわ-じんじゃ)
甑岩の下にお堂があって甑岩神社と称します。創建は定かではありませんが、日本武尊(ヤマチタケルノミコト)を祭神とする神社です。




A-352:長崎市立日吉青年の家(ひよしせいねんのいえ)
長崎市飯香浦町3715(旧 茂木村飯香浦名)
昭和46年(1971)長崎市は長崎開港400年事業として、長崎市内の青少年の健全な育成のための宿泊施設「日吉青年の家」を開館させます。ここは団体宿泊訓練を目的とした施設で体育館や運動場などを完備した社会教育施設です。当時、九州で3番目の施設として多くの青少年が利用。今なおレクリエーション施設として県内外から多くの人々に利用されています。総事業費1億1453万円。完成当時の利用料は、一泊300円(大人)、200円(青少年)、100円(子供)でした。




A-351:飾りそうめん(かざりそうめん)
飾りそうめんとは生のそうめんを複雑に編み上げて飾りを作るもので、日吉地区にある二つのお堂の成尾飯香浦地蔵堂と太田尾丸尾地蔵堂の地蔵祭に行われる行事です。成尾地蔵が兄で丸尾地蔵が妹だと飯香浦町ではいいますが、太田尾町では特にいいません。江戸時代中期ごろにこの地方に伝わった技術といわれていますが、他の地方にここまで複雑な技術は残っていません。また、日吉地区はそうめんの原料である小麦の生産地でもなく民俗学的にも貴重な文化といわれています。おそらくこの地方は江戸時代、島原藩に属し、島原の乱以降、島原地区が小豆島などそうめんの名産地からの移住者が多いことから技術が伝播し、日吉地区に残ったのではないでしょうか。
なお、飯香浦地区ではそうめんで幔幕と鎧兜を製作し、大田尾地区では人形(ヒトガタ)といわれる人形(ニンギョウ)を編み込んでいきます。両地区は別々に市指定民俗無形文化財に指定されています。




西九州霊場聖地顕彰投票入選記念碑【成尾飯香浦地蔵堂】
昭和8年(1933)長崎新聞社主催で西九州霊場聖地顕彰という西九州各地にある霊場や聖地の人気投票があり、成尾飯香浦地蔵堂は見事4位に入選を果たします。また、この年、慶応3年(1867)に建てられ50年以上経過したお堂を再建したこともあって、あわせて記念碑が建立されました。




A-351:成尾飯香浦地蔵堂(なるおいかのうらじぞうどう)
飯香浦町(旧 茂木村飯香浦名)
成尾飯香浦地蔵尊は飯香浦地区に古くからお祀りされている地蔵尊で、創建は昭和8年(1933)に400年祭が行われているところから天文2年(1533)と推測できます。地区では地蔵尊信仰が厚く地蔵まつりとしてそうめんを装飾して飾る「飾りそうめん」は有名です。また、ここの地蔵尊は別名を汗かき地蔵、子安地蔵といいます。




A-350:太田尾丸尾地蔵堂(おおたおまるおじぞうどう)
太田尾町(旧 茂木村太田尾名)
太田尾丸尾地蔵尊は太田尾地区に古くからお祀りされている地蔵尊で、創建は昭和37年(1962)に400年祭が行われているところから永禄5年(1562)と推測できます。地区では地蔵尊信仰が厚く地蔵まつりとしてそうめんを装飾して飾る「飾りそうめん」は有名です。境内にはこのほか忠魂碑が置かれています。




A-349:日吉神社(ひよしじんや)
飯香浦町2546(旧 茂木村飯香浦名)
日吉神社は飯香浦地区の氏神さまとして地区の高台に鎮座されている神社で、創建は寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建されます。江戸時代は両部神道として山王大権現と称し、明治維新後、山王大権現を大山昨神(オオヤマクイノカミ)とし日吉神社と改称しました。なお、神社周辺の集落を日吉といい、これはこの神社によるもので学校の名前にもなっています。




A-348:大山神社(おおやまじんじゃ)
潮見町(旧 茂木村古賀浦名)
大山神社の資料がなく創建などは不明ですが、おそらく大山神社は潮見町(旧古賀浦名)の氏神さまとして鎮座されている神社で、創建は寛永3年(1626)島原藩主松倉重政による再建と考えられます。祠には天保2年(1831)の銘があり、祭神は大山祇神社と考えられます。鳥居は大正11年(1922)建立、社殿は昭和6年(1931)に再建されてたものです。

○祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)
潮見町の高台には祐徳稲荷神社がお祀りされていて祠は大きな岩になっています。祭神は佐賀県鹿島市にあるの祐徳稲荷神社の分霊を勧請したものです。




○飯香浦町(いかのうらまち)
江戸時代、飯香浦は島原藩茂木村に属し飯香浦名と称されていました。明治22年(1889)西彼杵郡茂木村飯香浦名となり、大正8年(1919)西彼杵郡茂木町飯香浦名、昭和37年(1962)長崎市茂木町飯香浦名、昭和46年(1971)飯香浦名は飯香浦町となり今に至ります。
言い伝えによると3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の際、朝鮮が見えるところを探すため山の頂に立ち、たまたま昼をとることになり甑(コシキ)によって飯を焚きます(甑岩の由来)。その炊きあがった湯気が谷間を流れ入江へと下ります。粗飯になれた村人はその炊きあがった香りに皇后の昼食を知り、以降、その入江を飯香浦と呼ぶようになったといいます。




A-347:太田尾町(おおたおまち)
太田尾町は江戸時代、茂木村に属し、明治22年(1889)市制町村制施行によって法律上の茂木村となります。太田尾町はもともと太田尾名といい、茂木村古賀浦名と称していました。大正8年(1919)茂木町太田尾名に変わり、昭和37年(1962)長崎市太田尾名、昭和46年(1958)長崎市太田尾町になります。町名の由来は不詳ですが、田尾とは峠下の集落を差し峠下の大きな集落だったものと考えられます。




A-346:潮見町(しおみまち)
潮見町は江戸時代、茂木村に属し、明治22年(1889)市制町村制施行によって法律上の茂木村となります。潮見町はもともと古賀浦名といい、茂木村古賀浦名と称していました。明治31年(1898)日見村古賀浦名に変わり、昭和30年(1955)長崎市古賀浦名、昭和33年(1958)長崎市潮見町になります。町名の由来は地区の中心を流れる川の名前や、橘湾に面した地域ということもあり海の眺め、潮を見るところから潮見町となります。




A-345:春日町(かすがまち)
春日町は江戸時代、茂木村に属し、明治22年(1889)市制町村制施行によって法律上の茂木村となります。春日町はもともと小崎名といい、茂木村小崎名と称していました。明治31年(1898)日見村小崎名に変わり、昭和30年(1955)長崎市小崎名、昭和33年(1958)長崎市春日町になります。町名の由来は町域が橘湾に面した東斜面にあって全域にわたって朝日を浴び、春のうららかな日差しを浴びるところから春日町になったと考えられます。




A-344:ルイ14世岩(るいじゅうよんせい-いわ)
春日町(旧 日見村大字小崎名)
ルイ14世岩は文字通りルイ14世が王冠をつけた横顔に似た岩のことで、網場町から春日町にかけての海岸沿いにそびえる数メートルの岩です。この岩をバックに古賀十二郎先生と名妓愛八が並んで写された写真は有名です。なお、この岩は海岸近くから見ることが困難なため戸石、かき道方向から望むのをお勧めします。

ルイ14世(1638-1715:寛永15年-正徳5年)
フランス国王として1643(寛永20)年から1715(正徳5)年まで在位し、フランス国内の中央集権や重商主義を推し進め、オランダ、スペインなどとの戦争で領土を拡大。ベルサイユ宮殿を中心に文化の黄金期を築きました。しかし晩年は絶対主義や戦争などによる財政の悪化などでフランスを財政難に陥れます。




A-343:網場天満神社の社叢(-しゃそう)
一般に鎮守の森を社叢といい神域になっています。網場天満神社の社叢はクスノキ、スダジイ、ツバキなどの高木と、マサキ、クチナシなどの低木で形成された樹林で、以外に巨木がないところが珍しいといわれています。また、ほとんど人の手が入れられていないため自然林を推定できる長崎でも貴重な樹林です。市指定天然記念物。




A-342:網場天満宮(あばてんまんぐう)
網場町(旧 日見村大字網場名)
キリシタン全盛期の寛永3年(1626)島原藩主:松倉豊後守重政は領内の仏教再興のため肥後国(熊本県)池田郡の祇園宮宮司:託麻将監清水に天満宮勧請を依頼、社地などを与え網場名に天満宮を創建します。以降、網場村の鎮守神として親しまれ、毎年8月25日の大祭時には近郊より多くに人が集まったといいます。祭神は菅原道真公。境内玉垣には名妓愛八のの本名「松尾サダ」の銘を見ることができます。




A-341:浄土宗日見山養国寺(-ひみさん-ようこくじ)
網場町451(旧 日見村大字網場名)
江戸時代初め、大音寺を開山した筑後の傳譽開徹(デンヨカイテツ)という僧は、島原藩主:松倉豊後守重政の命を受け日見地方の布教活動を行い、寛永8年(1631)養国寺が開創され弟子の頂譽を住持にあてます。
現在の建物は昭和57年(1982)に建て替えられたものです。




A-340:網場芸者(あばげいしゃ)
網場は、なかにし礼氏の小説「長崎ぶらぶら節」にあったように男は漁師、女の子は芸者といったように昔から芸事の盛んな土地柄で、長崎の芸妓衆は当地の出身者がかなりいたといいます。特に名妓愛八はその代表格といえるでしょう。

名妓愛八(めいぎ-あいはち)
愛八(明治7:1874-昭和8:1933)は本名を松尾サダといい長崎市網場町(旧日見村網場)出身で、17才のとき丸山で芸者となります。芸事に長けさらには歌声も素晴しく、すぐに丸山でも指折りの売れっ子芸者となります。昭和5年(1930)長崎の郷土史家で長崎学の祖といわれた古賀十二郎の指導を受けビクターレコードより「浜節」「ぶらぶら節」をレコード化、一躍大スターとなり、このことは平成11年(1999)なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」になりました。また、愛八は相撲好きでも有名で木戸御免の扱いを受けるほどでしたが、貧しい人には惜しみなく援助をし晩年は大変貧しく、最期は長崎検番裏の借家で静かに息を引き取ります。葬式の際、海軍好きでもあったことから海軍から多くの花輪を贈られ盛大な葬儀となります。昭和8年12月30日没。享年60。戒名「愛誉八池貞水大姉」




A-339:網場ドンク
網場ドンクは長崎地方で使われる言葉で先見の明のない人のことをいい、「井の中の蛙(カワズ)」と少し意味が異なります。
その昔、網場に棲むドンク(=大きなカエル)が長崎街道を通る大勢の人を見て長崎には何があるのかと疑問に思い日見峠まで登ります。そして背伸びをして長崎を覗き込むのですが、ドンクの目が後ろを向くため覗き込んだ先は網場の町で、ドンクは「長崎も網場も同じ。大したことない」といい再び網場の町に帰ったというものです。ちなみに網場ドンクにつなげて矢上ドンクも比べられるのですが、こちらは街道沿いということもあり情報をよく知り気が利いているたとえになります。




A-339:竹田先生船出し地の碑
網場町487(旧 日見村大字網場名)【肥前屋】
田能村竹田(安永6:1777-天保6:1835)は豊後(大分県)出身で名を孝憲、字を君彜(クンイ)、通称を行蔵、号を竹田(チクデン)といいます。竹田は岡藩の藩医の家に生まれで勉学に励みのちに藩校の頭取になります。しかし病気療養のため文化8年(1811)藩務を辞し隠居生活を送ることになります。経学詩文の造形に深く頼山陽と交流をもちます。文化9年(1812)から翌10年まで長崎に滞在し多くの文人墨客と交流。長崎から島原へ出立する際、この網場の浦より船を出しました。この碑は昭和37年(1962)建立され碑文を島内八郎、書は林田来甫によります。

○力士塚【肥前屋内】
碑文「為藤ノ山藤太郎君/二十五代木村庄之助書/肥前屋」 




A-338:網場(あば)
網場は日見村の一部で日見本村より戸数や人口が多く、古くから漁村として網場浦として栄えていました。また、橘湾に砂州が拡がり自然の船溜が形成され、砂州にできた集落を船津、陸地側を岡と呼びます。網場の語源は一般に湾や入り江の入口をいいます。江戸時代は物資を五反帆の船で、大正初期までは定期航路(渡海船)が開設され、島原半島の千々石、小浜、京泊(南串山)などから網場港へ運び、待機していた運搬人によって峠を越え長崎の町へ運ばれました。養国寺下付近の船溜が渡船場跡で、付近には船津権現がお祀りされています。明治11年(1878)西彼杵郡日見村網場名(同22年より市制町村制施行)、昭和30年(1955)長崎市に編入、昭和33年(1958)長崎市網場町となります。




A-337:日見村役場跡(ひみむらやくば-あと)
網場町(旧 日見村大字網場名)【網場公園】
日見村は明治11年(1878)より西彼杵郡日見村となり、明治22年(1889)市制町村制施行によって法律上の日見村となります。昭和30年(1955)長崎市に編入し、役場はのちに長崎市役所日見支所となります。なお、日見村役場のあった場所は昭和50年(1975)公園となりました。
○記念カプセル埋納碑
昭和50年(1975)日見村役場は撤去され公園となりますが、旧村民によって公園に記念のカプセルが納められています。




A-336:不動院日見別院:紫雲山竜王院
網場町568-2(旧 日見村大字網場名)
不動院日見別院:紫雲山竜王院は昭和37年(1962)に創建した本河内の英彦山不動院の別院で、不動院開祖の高橋敬雄氏が昭和48年(1973)に創建しました。高橋氏はその時、毎朝5時に三日間、龍が滝を上る姿の夢を見たため、すぐにその滝を探し、その滝の場所にお堂を建立。それが竜王院となります。竜王院はその滝を本尊とし、その滝から八大竜王をお祀りしています。




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