広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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諫江八十八カ所霊場(かんこうはちじゅうはちかしょれいじょう)
【正覚寺境内】
八十八か所霊場とは四国にある88の弘法大師ゆかりの地を巡る信仰のことで、諫早ほか長崎、茂木など各地にも点在していて巡拝することで同じご利益を得ることができるといいます。
諫早の霊場の起源は古く、文政8年(1825)佐賀藩第8代藩主:鍋島治茂(ハルシゲ)の娘の哲仙院によって開創されました。哲仙院は諫早家第11代領主:諫早茂図(シゲツグ)の長子の諫早敬輝(チカテル)に嫁いでいましたが、敬輝が37才で没したため家督が継げず、そのため哲仙院は夫の不遇を憂い、さらには領内安寧や子孫繁栄を祈願してこの霊場を開創しました。
正覚寺境内には第72番霊場、第73番霊場があり、73番霊場は八幡社内にありましたが廃仏毀釈で合祀となります。




太子堂【正覚寺境内】
太子堂には大工の神である聖徳太子がお祀りされていて、明治時代より矢上地区の太子講により盛んに信仰されていました。聖徳太子は大工のほか左官、鍛冶屋、桶屋などの職人による信仰が厚く、太子堂聖徳太子像は矢上の菓子職人によって彫られたものといわれています。

九州三十六不動尊霊場第二十三札所【正覚寺太子堂】
九州一円を巡る不動明王を巡る霊場が昭和60年(1985)九州三十六不動霊場として開創され、長崎の正覚寺は第二十三番札所に指定されました。正覚寺の不動明王は波切不動尊で、平安時代中後期(藤原時代)の作と推定されています。言い伝えによると、近くの娘が嫁ぎ先で、一子を設けますが産後に母子とも危険な状態に陥ったため、実家の母が熱心に願をかけたところたちまち平癒したという話から、正覚寺の不動明王には産後の母子の健康祈願が多いといわれています。




A-377:曹洞宗護国山正覚寺(ごこくざん-しょうかくじ)
矢上町119(旧 矢上村町名)
元禄年間(1688-1704)矢上に住む藤井元可という諫早藩士が禅に帰依するあまり出家し、田中名(田ノ浦地区)に一宇の禅寺を開き、のちに諫早にある天祐寺より僧:大亀圓晟(智織)を招致し禅の道場:護国山正覚寺が開山します。正覚寺はこうした背景から矢上村の諫早藩士が多く帰依します。その後、境内が狭小のため現在地に移り、武士の時代は諫早家の保護により本堂など整備されますが、明治維新を受けその擁護がなく荒廃。明治27年(1894)ようやく時の住持によって再興されました。明治44年(1911)旧本堂が完成。現在の建物は平成11年(1999)に建立されたものです。本尊釈迦如来。

○再建記念碑【正覚寺境内】
明治27年(1894)に再建した記念碑




A-376:矢上八幡神社の大クス
八幡神社境内には二本の大クスがあって、北側のものは幹周り10.15メートル、南側のものは幹回りが5.3メートルほどあります。江戸時代より街道の人々を見守っていました。市指定天然記念物




A-375:八幡神社(はちまんじんじゃ)
矢上町185上手(旧 矢上村町名)
八幡神社はもともと八幡大菩薩を本尊とする両部神道の寺院:上宮山大冥庵という仏寺で、創建は寛文9年(1669)、のちに滝の観音(霊源院)の隠居所となります。当時、建物は黄檗宗派唐寺風の様式で、祇園宮の祠もありました。嘉永安政年間(1848-1860)霊源院との兼務で石庵和尚が住持となり、石庵は寺小屋を開き多くの塾生を迎えます。慶応3年(1867)石庵没後は鉄師和尚が入りますが明治維新を受け仏寺は配され、僧侶は神主として仕えます。明治15年(1882)諫早の高城神社改築の際、矢上地区の士族の申し出により社殿を移築し再建。神社形態に変わります。




A-374:牟田宗蔵宅跡(むたしゅうぞうたく-あと)
矢上町220(旧 矢上村町名)【牟田病院】
牟田宗蔵(寛政4:1792-慶応2:1866)は諱を昭、字を晉卿(シンキョウ)、号を梅濱といい、代々農商の家柄で財をなし、父の順五兵衛は諫早家に多額の資金協力をしたことから士班に列し、宗蔵は儒学を学びます。のちに儒学者:古賀精里を師事し、帰郷後、諫早邑学館の教授や家業に努め人々から尊敬され、さらには矢上の地名士として多くの文人墨客が集い、頼山陽や古賀洞庵なども止宿しました。




A-373:糸荷屋跡(いとんや-あと)
矢上町217-4(旧 矢上村町名)【千綿病院】
糸荷屋とは飛脚と旅籠を兼務した家で、ここは長崎から送られた品、つまり長崎で売買されたオランダや中国からの貿易品を上方へ馬を使って運送したり金品や書状などを送ることを目的としていました。ちなみに江戸時代後期の天保14年(1843)の費用は、矢上より長崎までの飛脚料1250文、旅籠代1600文、茶料(食事代)1500文、酒代1100文などとなっていました。当時の旧千綿病院の建物の庭には球状の石があって、これらは馬に載せる荷物を一様にするための緩和材に使われていたものといわれています。




A-372:人足継場跡(にんそくつぎばあと)
矢上町(旧 矢上村町名)【矢上小学校前】
江戸時代、矢上小学校のところには脇本陣が置かれていて、その前、つまり矢上小学校前に人足継場という取次場(駅)のような施設がありました。荷物などの取次や人馬や駕籠などの交代をする場所です。公共的場所であるため佐賀藩より建物が設けられ抱夫5人が事務をとり、飛脚も常備されていました。今でいう郵便局的事務も行われていました。




A-371:脇本陣跡(わきほんじんあと)
矢上町(旧 矢上村町名)【矢上小学校】
江戸時代、長崎に入る者が矢上宿に入り長崎に使者を出している間、大名や上使はこの本陣に滞在していましたが、お供の者や兵士らは脇本陣に滞在していました。その脇本陣は現在の矢上小学校の校門を入って左の管理棟付近にカギ状に長く建てられていました。なお、門を入って正面には大庄屋があり、脇本陣と反対側である門の右側には上納米格納庫がありました。大庄屋はのちに矢上小学校になります。




A-370:高城神社(たかしろじんじゃ)
田中町1509上手(旧 矢上村田中名田ノ浦部落)
明治元年(1868)矢上村の林田蔵衛門は農業の傍ら林業も営み度々日見村まで出向いていました。あるとき日見村に出かけたとき急病に襲われ休んでいたところ、枕元に仙人が現れ「汝に頼むことが一つあり。長きにわたり源平の敗霊がこの地に沈んでいる。敵も来ることもないだろう。この切り株の下にある品を御神霊として祀りなさい」と告げます。蔵衛門はすぐに気を取り直し、日見山に登り祠を「蜂の越の辻」に建立して高城神社としました。数年後、祠は田ノ浦に移し田ノ浦の鎮守神となります。現在は団地造成のため移転し今に至ります。高城台の地名はこの神社からによります。
※高城社:明治3年(1870)建立  城辻大権現:明治15年(1882)建立  □□権現:明治2年(1869)建立

○百結道人之碑  文化丙寅年秋建立

○金比羅神社 大正2年(1913)地区の藤下音次郎によって建立

○矢次郎神社(やじろうじんじゃ)
田中町1456付近(旧 矢上村田中名田ノ浦部落)
安永2年(1773)建立、観音菩薩2体をお祀りしています。以前まで、田ノ浦地区に伝わる浮立はこの神社に奉納されていました。

○田ノ浦吉田温泉
明治26年(1893)ころ、田ノ浦部落(現 田中町)の館地区に吉田温泉が開かれます。これは吉田吉太郎によって開かれた温泉で、矢上地区はもちろん網場、茂木、野母半島から長崎市の市街地より多くの湯治客が訪れたといいます。起源はこの吉田吉太郎が難病にかかったことがきっかけで、病気は医者やどんな薬にも効かず、それがある夜、夢枕に貴人が現れ「汝久しく病魔に悩んでいるが、まだ、その縁に逢わず。これより申酉の方角に当たり、田畑藪の池畔に一つの小溜あり。これをもって浴せんか、必ず治癒すべし」いわれ、早速、翌朝にその場所に行ってみると小溜があって、その水を持ち帰り風呂湯として使ってみると、日に日に病状は平癒に向かいいつしか全治したというもの。これをきっかけに多くの人を助けたいという思いで温泉を開場し賑わったそうです。




A-369:天満宮(てんまんぐう)
矢上町(旧 矢上村町名)
この天満宮は役屋敷跡の後方の高台にあって周囲を天満宮公園として整備されています。創建は不明。社殿は石祠、鳥居が2基あって、1基は享和4年(1804)建立で当宿(矢上宿)鍵山甚蔵の銘があり、祠は大正4年(1915)に再建されています。祠には祭神の「天満自在天神(菅原道真公)」と刻されています。

日露戦没記念碑【天満宮公園】
この記念碑は明治37年(1904)の日露戦争において矢上地区から出征し犠牲となった方の慰霊碑です。

○松尾大明神【天満宮公園】文政7年(1824)建立。




森平市氏之像(もりへいいちしのぞう)【東長崎自動車学校】
森平市(明治27:1894-?)は古賀村(現 古賀町)出身で、大正6年(1917)長崎県警察官となりのちに長崎水上警察署長となります。昭和12年(1937)退官後は長崎県交通局長として県営バスの発展に尽力し、第二次大戦後は長崎県の自動車協会、交通安全協会、指定自動車学校協会などの結成や創立に尽力され、以降の発展にも寄与しました。また、地元東長崎の発展や長崎市との合併問題などでも率先して指揮を取り地元振興に大いに活躍され、自らも多大な寄付をするなどその功績は昭和40年(1965)の従七位勲五等や双光旭日章の受賞となります。この像はその功績を顕彰するため長崎県交通界及び東長崎地区の有志の手によって昭和41年(1966)に建立されました。題字は当時の県知事:佐藤勝也によります。

○自叙伝発刊記念および功績、祈健康・長寿記念碑:昭和52年(1977)




A-368:本陣跡(ほんじん-あと)
矢上町43(旧 矢上村町名)【東長崎自動車学校】
江戸時代、長崎に入る者は矢上宿に入ると一旦長崎伺いの使者を出し、許可を得て初めて矢上番所を通過できました。これには時間を要すため宿泊施設が必要で、大名や上使はこの本陣に滞在しました。本陣は入口を街道に面し、今の自動車学校のある広大で一段高い敷地に大きな建物があり、建物は何百畳もある部屋と床付きで漆塗りの便所があったと記されています。敷地内には巨木があって御用馬をつないでいました。本陣の建物は明治5年(1872)に民間に払い下げられましたが老朽化のため解体されています。




A-367:役屋敷跡(やくやしき-あと)
矢上町76(旧 矢上村町名)
役屋敷とは諫早藩の出張所のことで、長崎開港に伴い佐賀藩の最西端の地:矢上は佐賀藩主や諫早領主、肥後藩主との連絡業務が多忙を極め急を要することが多いことから役所が設けられました。また、役屋敷では民事、刑事などの事件や願い事などの仕事を専決し、のちに領主に報告承認を求めていました。当時、屋敷の周囲には溝が巡らされ、武器庫や武道稽古場、さらには娘や子供の手踊り稽古場もありました。明治維新を受け明治5年(1872)民間に払い下げられ個人所有となります。




A-366:矢上番所跡(やがみばんしょ-あと)
矢上町5-1(旧 矢上村町名)
矢上番所は番所橋の北西際(キワ)にあって、街道を容易に通過できないように内柵が設けられ旅人はいちいち通行手形を示しいろいろな質問を受けていました。番所は木造瓦葺平屋の建物で役人が5名配置され、入口には槍、長刀、弓矢、鉄砲などが置かれ、常に旅人を威嚇していたそうです。また、番所橋には丈夫な閂(カンヌキ)がついた扉と両側には柵をめぐらし厳重に警備がなされていました。なお、現在の国道34号線の橋は番所橋ではなく五番町橋といいます。




A-365:番所橋(ばんしょばし)
番所橋は中尾川に架かる旧長崎街道の橋で、橋の北側に番所が置かれたところから番所橋と称し、当初は木橋と考えられますが、天保9年(1838)諫早家によって二連石造アーチ橋(眼鏡橋)が架けられました。慶応3年(1867)大洪水で半壊し、明治5年(1872)長崎県によって再架。明治橋と改称されます。大正11年(1922)大地震で倒壊し、翌12年(1923)鉄筋コンクリート橋となります。現在のものは昭和61年(1986)に長崎水害の河川改修によって再架されたものです。




A-364:矢上宿(やがみしゅく)
矢上宿は長崎街道25宿の一つ。隣の日見宿まで1里、栄昌宿まで3里半。諫早までは4里。
矢上宿は長崎の警備を担当する佐賀鍋島藩の最も長崎に近い宿で、長崎奉行や諸藩の役人、オランダ商館長など要人の通行が多く、そのため鍋島藩諫早家は矢上宿に番頭級の家臣を置き番所を設け厳しく往来を監視していました。
宿の規模は戸数が200戸、旅籠11軒、煮売店が10軒、造り酒屋7軒、駅馬48匹、人足駕丁が100人余りでした。




A-363:矢上(やがみ)
言い伝えによると、平安時代の武将:源為朝(通称:鎮西八郎)が矢を神として祀り矢神から矢上へと転化した説。弘安4年(1281)に奇光を発する宝刀を神として奉り、箭ノ神から矢神、矢上と変化した説。山の神に矢を上げたという山の神説。矢を神に上げ武運を祈願した説など様々で、いずれも矢上神社の創建に関連しています。
江戸時代は佐賀藩諫早領で彼杵郡矢上村といい、明治4年(1871)佐賀県に属し(一時、伊万里県)、明治5年(1872)長崎県となります。明治22年(1889)市制町村制が施行され西彼杵郡矢上村で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町になり、昭和38年(1963)長崎市に合併し今に至ります。また、矢上村の中心部を町名(マチミョウ)といい、昭和46年(1971)から町名が矢上町になります。




A-362:東望陣屋跡(とうぼうじんや-あと)
田中町366(旧 矢上村田中名)【東長崎幼稚園】
文久3年(1863)鍋島藩諫早家は外国船の来航に対し東望山、蛎道、牧島に砲台を建設、慶応2年(1866)に完成させます。あわせて砲台を管理する陣屋を東望山のふもとに設け、三個中隊約600人の守備軍が駐屯し、兵舎7間棟が5棟がおかれ、高島秋帆の下で砲術を修めた藩士:早田運平が指揮をとります。この早田運平ですが、佐賀藩に洋式の軍隊を採用させたり、有明海の若津港に海軍操練所の設置や諫早に兵器工場を設けるなど火薬製造の急務を説きます。




A-361:天満宮(てんまんぐう)
田中町290付近(旧 矢上村田中名)
碑文によると「この天満宮は東長崎土地区画整理事業により東望二班の氏子の協力を得て田中町三三八番地(現さかぐち耳鼻科)より田中町二九〇番地へ移転したものです。平成六年十二月吉日」
創建は不明。




A-360:刀鍔師:野田光広宅跡(のだみつひろ-たくあと)
田中町280-19(旧 矢上村田中名)
宝暦安永年間(1751-1781)小田原藩の御用鍛冶を祖とする野田万左衛門が子:長之助と銀作を従え佐賀より移住し鉄細工を始めます。当時は東望の浜の砂鉄が用いられました。長男長之助は生まれつき手先が器用で次第に技術が進歩し、たまたま鍋島公の腰の物の修理をした際、技術が買われ鍋島公の御用鍛冶となります。のちに弟銀作が二代目を襲名。一般に矢上では千匹猿、一匹猿、三匹猿、天竜、地竜、千俵、人物、木目、蜘蛛などがありましたが(総称千匹猿)、やがて技術の素晴らしさからやがて野田光広の代名詞となります。特に千匹猿は数千匹の猿がいるように見え、三匹猿は見ざる聞かざる言わざるを表しています。




A-359:長崎中央卸売市場(ながさきちゅうおうおろしうりしじょう)
田中町279-4(旧 矢上村田中名字東望)
明治37年(1904)第2期港湾改良工事によって銅座川の河口が整備され、築町(現 銅座町:築町電停付近)に新波止が誕生すると、波止場は野母方面からの行商の船が入るようになり、大正10年(1921)には野菜公設市場が置かれます。市場には指定商人47人を収容。昭和4年(1929)からは卸問屋が統合され長崎青果株式会社を設立します。第二次大戦時、閉鎖する事態に陥りましたが再開し、昭和34年(1959)出島地区の区画整備事業のため尾上町(現 長崎駅裏)に移転、このときは旧魚市場の建物を使用します。その後、取り扱い量の増加や施設の狭小を理由に昭和50年(1975)東望の浜を埋立て新築移転します。




A-358:東望の浜跡(とうぼうのはま-あと)
田中町279付近(旧 矢上村田中名字東望)
東望の浜は現在の長崎中央卸売市場付近にあった海岸で、古い記録には東房と書かれ明治半ばまでは潮干狩りや浮立などの行事を行う海岸でした。明治後期以降、日本に海水浴という文化が伝わると東望は海水浴場として開かれ、昭和49年(1975)に卸市場が建設されるまでの間、長崎市内や近郊の人々で賑わいます。昭和20年(1945)からの2年間、長崎諫早対抗の競馬も行われています。当時、この海岸は白砂の遠浅の海岸として有名で、海岸沿いには松並木が青々と茂り、春の潮干狩り、夏の海水浴と人気スポットであり、大正3年(1914)の長崎日日新聞社の海水浴場人気投票第1位を獲得しています。




A-357:東望山砲台跡(とうぼうやまほうだいあと)
田中町(旧 矢上村田中名)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、弘化3年(1846)長崎の警備にあたっている筑前黒田藩、佐賀鍋島藩は幕府に対し港口にあたる伊王島と神ノ島に砲台建設が急務であることを建議しますが多額の費用がかかることから拒否。しかし次第に日本への外国船の来航が頻繁になり、嘉永6年(1853)佐賀藩は自領である伊王島と神ノ島に洋式砲台を建設し、つづいて文久3年(1863)諫早家は東望山、蛎道、牧島に砲台を建設、慶応2年(1866)に完成させます。大砲は英国製で飛距離は1800メートルの最新鋭でしたが実践を迎えぬまま明治維新を迎え、明治政府によって払い下げを受け解体され島原で鍋釜の原料となります。市指定史跡。




A-356:M之大王神社(はまのだいおうしゃ)
田中町1020付近(旧 矢上村田中名)
M之大王神社(M之大王社)は矢上神社の分社で神社の鎮座する田の浦地区の氏神さまです。また、矢上神社はもともと大王社と称していて、その海岸部の分社としてM之大王社と称したものと考えられます。両社とも明治維新を受け神号に改められ、M之大王社からM之大王神社と変わります。祭神は素戔鳴尊(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)ですが、三体の観音菩薩が安置されています。明治14年(1881)頃までは矢上神社からの神輿の渡御が行われていたり、奉納相撲が行われていたりしていましたが現在は衰退しています。




A-355:田中町(たなかまち)
田中町は江戸時代、佐賀藩諫早領に属し矢上村田中名と称していました。明治22年(1889)市制町村制施行によって法律上の矢上村となり、矢上村田中名となります。昭和30年(1955)からは東長崎町田中名となり、昭和38年(1963)長崎市に編入し長崎市田中名、昭和46年(1971)田中町になります。地名の由来は地区の下手の田の浦地区と上手の中尾地区の一文字づつを使って田中町となりました。




A-354:領境石標(りょうきょうせきひょう)
宿町/田中町492付近(旧 矢上村)
領境石碑があるところは江戸時代、天領(彼杵郡)の日見村と佐賀藩矢上村の境界でこの碑は佐賀藩によって建立されました。今でも宿町と田中町に境界に位置し、矢上を向いた方には「従是北佐嘉領」、日見を向いた方には「彼杵郡之内日見境」と刻されています。
また、この辺りを烏合場(トロシバ)といい、烏合(ウゴウ)とは烏のことをいい、たくさんの烏が生息していたのではないでしょうか?




腹切坂の大乗妙典六十六部供養塔
(だいじょうみょうてん-ろくじゅうろくぶ-くようとう)
長崎街道沿いには複数の六十六部塔があって大小様々な形をしています。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。歴史は鎌倉時代から続いていますが、長崎のものはほとんどが江戸時期のものです。
【左】六十六部塔:正徳4年(1714)野田重右衛門建立
中央】六十六部塔:宝永6年(1709)寿照院叔明誠徳比丘尼敬建立
【右】自禪日道由居士/藤原重道墓碑:元禄9年(1696)建立




腹切坂(2)
文化5年(1808)イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入しオランダ商館員を人質に食料や薪などを要求(フェートン号事件)。当時、警備にあたっていた佐賀鍋島藩は太平の世に慣れ、定められた1,000人の警備兵を150人程に縮小してあたっていたため相手の要求を飲むことにないます。のちに長崎奉行松平図書頭は責任をとって切腹し、非難は佐賀藩に集まります。そしてその任にあたっていた佐賀藩士早田助平以下16名はこの腹切坂の先となる佐賀藩領に入ったところで切腹します。以降ここを腹切坂と呼ぶようになります。




腹切坂(1)
江戸時代、熊本細川藩の家臣某氏が長崎からの帰藩の際、日見の農民:作右衛門が優れた棒術使いと聞き試合を申し込みます。この作右衛門は平家の落人の末裔といわれ、農民とはいえいつも武道の鍛錬を怠りませんでした。試合結果は以外にも武士の敗北で、その武士は「武士の面目相い立ち申さず」といい、この付近で腹を切って果てたといいます。そしてこれを見ていた村人は武士を丁重に葬りました。以降ここを腹切坂と呼ぶようになります。なお、その武士の墓は昭和54年(1979)道路拡張のため矢上の教宗寺の境内に移されました。




A-353:腹切坂(はらきりざか)
宿町(旧 日見村大字宿名)【網場道バス停付近】
腹切坂は旧長崎街道の一部をいい日見宿から矢上方向へ進んだ坂道をいいます。現在は国道34号線の建設によってその姿を見ることはできませんが、街道が山の中腹を横切るところから切腹で腹を横に切った様子が名前の由来になっています。しかし、その名前ゆえにのちに様々な伝説が生まれることになり、現在は二つの伝説が伝わっています。




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