広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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A-393:普賢山(ふげんさん)
普賢山は標高439メートルの山で一般に矢上普賢山と呼ばれる山で、昔から山岳信仰の山として普賢菩薩をお祀りした寺院があり、そこから普賢山と呼ばれています。山頂付近には釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、虚空菩薩、地蔵菩薩、弘法大師などの石像が点在し、岩肌には10メートルほどの不動明王像(昭和7:1932建立)や観音菩薩(昭和46:1971建立)が刻され、9合目付近には明治維新後の廃仏毀釈で普賢神社として開かれたお社があります。また、登り口には山頂まで行かれない人のため普賢菩薩のお堂があり、矢上町地区の人々によってお祀りされています。さらに、平成9年(1997)には矢上橋上流付近に普賢菩薩像(重松勝也作)が安置されました。これは矢上地区が普賢神社祭礼の際、地区の5か所が5年毎に接待する催し「千人弁当」があることから伝統継承のために設置されました。

諫江八十八カ所霊場(かんこうはちじゅうはちかしょれいじょう)
【普賢神社境内】
八十八か所霊場とは四国にある88の弘法大師ゆかりの地を巡る信仰のことで、諫早ほか長崎、茂木など各地にも点在していて巡拝することで同じご利益を得ることができるといいます。
諫早の霊場の起源は古く、文政8年(1825)佐賀藩第8代藩主:鍋島治茂(ハルシゲ)の娘の哲仙院によって開創されました。
普賢神社境内には第70番霊場があります

行仙岳(ぎょうせんだけ)
行仙岳は普賢岳の東側に控えている標高456メートルの山。




A-392:普賢山法華院(ふげんさんほっけいん)
東町2917(旧 矢上村東名)
普賢山法華院は昭和29年(1954)に平野浄真によって開かれた寺院で、どこの宗派にも属さず法華経を中心とした単立の寺院です。本堂には普賢菩薩をはじめ勢至菩薩、文殊菩薩などをお祀りし、境内には龍神や稲荷神、観音菩薩などがあり、法華経ということもあって日蓮宗のお題目が刻された一字一石塔などがあります。




A-391:普賢神社(ふげんじんじゃ)
東町(旧 矢上村東名)
享保元文年間(1716-1741)矢上村侍石地区に住む野口園衛門は子宝に恵まれないため、子授けのご利益がある天草島の普賢院に17日間、夫婦で願をかけます。その甲斐あってか翌年元文5年(1740)男子を授かり善五郎と命名されます。その後、善五郎は普賢菩薩の信仰を篤く、毎年、天草の普賢院に詣でるようになり、また、善五郎は相撲を好くし、あるとき天草の相撲興業からお呼びがかかります。しかし善五郎は相撲で身に何かあれば信仰ができなくなると思い、天草の石工によって普賢菩薩を刻してもらい、その像を背負い自邸に安置し拝礼欠かさずしていました。すると夢枕に普賢菩薩が現れ「私を祀るのはここより子丑の方角の岩に安置せよ」とお告げがあり、早速、その方角に行くと5丈(15メートル程)の岩があり石仏を安置します。安永元年(1772)のことです。




大星稲荷神社(おおぼしいなりじんじゃ)
かき道1-1013(旧 矢上村東名)
創建は不明ですが石祠には明治16年(1883)とあり、供養塔には安政5年(1858)と刻されています。祭神は豊受大神でこの神は稲荷神と習合し五穀豊穣や商売繁盛の神です。大星神社にちなみ八郎川の橋を大星橋といいます。なお、同名の神社が西山神社にあります。

楠公神社(なんこうじんじゃ)
創建は不明ですが、石仏が2体鎮座し、楠正成公をお祀りされています。




A-390:かき道(かきどう)
かき道は、八郎川の東部地区の区画整理や山地部の造成に伴い新しく作られた町で、昭和59年(1984)それまで東町や上戸石町、戸石町などに属した地域をかき道と命名されました。地区の大部分が蠣道地区で、蠣道とは地区の字名をいいます。しかし、蠣道の蠣が常用漢字ではないため町名にはかき道と表示されました。旧蠣道地区がかき道1丁目、2〜4丁目が矢上団地や東公園などの地区になります。




A-389:東町(ひがしまち)
江戸時代は佐賀藩諫早領の彼杵郡矢上村に属し、明治4年(1871)佐賀県になり(一時、伊万里県)、明治5年(1872)長崎県となります。明治22年(1889)市制町村制が施行され西彼杵郡矢上村で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町になり、昭和38年(1963)長崎市に合併し今に至ります。また、矢上村の中心部より東の地域ということで東名といい、昭和46年(1971)から東名が東町になります。




A-388:権現社(ごんげんしゃ)
東町1975付近(旧 矢上村東名字長龍寺)
権現社の祭神は矢上権現と八郎権現で、もともとは八郎橋そばにお祀りされていましたが、明治維新の廃仏毀釈で「藤の尾薬師山」に移されます。現在では権現社として鳥居がありますが、両部神道の形式で権現様として石仏が安置されています。あわせて八郎権現と矢上大権現の石柱があり、敷地内には不動明王や稲荷神ほか供養塔などがあります。この八郎権現が八郎川や八郎橋の由来になった鎮西八郎為朝ということになります。




A-387:八郎どん(はちろうどん)
平安時代の武将:源為朝(通称:鎮西八郎)は、幼い頃より剛勇で弓の名人といわれ、父のために京を追われ13才で豊後(大分県)にたどり着きます。その後、九州の豪族を束ね自らを鎮西八郎為朝と名乗り朝廷にも反発していましたが、保元の乱で伊豆大島に流されます。その後、琉球へ逃れるため陸路、瓊の浦(長崎)を目指し、途中、この川の清流でのどを潤したといわれています。また、瓊の浦がひと山越えればすぐだということを聞いて小踊りをして喜び、以降、この地には鎮西八郎が祀られることになり、地元民は親しみを込めて「八郎どん」と呼ぶようになります。そして川を八郎川、橋を八郎橋と称されました。




A-386:八郎橋(はちろうばし)
八郎橋はもともと八郎川にかかる旧長崎街道の橋で、昭和57年(1982)の長崎水害までは川が街道を横切る形で橋が架かっていましたが、河川改修後は川の形態が直線的となり、街道が川を横切るようになりました。
当初は橋もなく川を徒歩で渡っていたものと考えられ、幕末になり街道利用が活発になったことなどから安政5年(1858)佐賀藩の命で諫早家第16代諫早豊前が石橋を架橋。石材は天草石を取り寄せ、現川の石本伝次郎と諫早岡町の石工らの請負で架けられています。明治8年(1875)、前年夏の大雨で橋が流失したため板橋によって架橋。明治20年(1887)と、明治38年(1905)にも再架橋がなされています。現在は昭和57年(1982)長崎水害後の河川改修で鉄筋コンクリート橋になっています。




A-385:八郎川(はちろうがわ)
八郎川は諫早市(旧多良見町)と接する井樋之尾岳を源流とする全長約9.2キロメートルの2級河川で、支流には三つ山を源流とする中尾川や現川川などがあり、最後は橘湾に注いでいます。名前の由来は、平安時代の武将:源為朝(通称:鎮西八郎)が琉球に渡る途中、この川の水で喉を潤したことで八郎川になりました。
昭和57年(1982)の長崎水害では土石流や氾濫などによって矢上地区は甚大な被害をこうむりますが、その後の河川改修工事によって地域が区画整理され、住宅地や工業地など目まぐるしく発展しました。




A-384:長崎大水害碑(ながさきだいすいがいひ)
矢上町566付近(旧 矢上村町名)【長龍寺橋たもと】
碑文より「(序文省略)東長崎地区はこの豪雨の中心地域となり七時間に500ミリというわが国未曾有の雨量を記録した。(中略)八郎川・中尾川などおびただしい流木と土石で埋めつくされた濁流は東長崎支所付近で水位が一五〇センチに達した。(中略)矢上地区の死者三四名、家屋の全半壊一六三戸、床上浸水八一四戸、農林・水産等の甚大な被害を受け、かつてない大惨事となった。十周年にあたり矢上地区自治会の発起により碑を建立し後世に伝えるものである。平成4年(1992)七月二十三日(以下略)」




A-383:樋口渡瀬(ひぐちわたせ)
矢上橋付近を樋口渡瀬といい、それは付近に豪族:樋口一族が住していたところからこう呼ばれていて、言い伝えでは、武将:樋口次郎は付近の豪族との戦いは一度も負けたことがなかったという怪力の持ち主であったそうです。そんなある日、なんとか次郎を倒したいと思った敵方は、次郎が普賢神社に詣でることを知り、次郎のいない間に旅僧に化け次郎の母親に会いに行きます。そして「次郎らが敵陣に襲撃を受け苦戦している。もしかしたら討たれているのかもしれない」と母親に告げるのです。母は「わが子は弓矢も通らない太い体ですが、きっと脇下の梅干し大の柔らかいところに致命傷を受けたのでしょう」といいます。それ以来、次郎は常に脇下が狙われることとなり、ついに射抜かれ討死したということ。母はその後、自分の失言を悔やみ自害。敵方も脇にできものができ病死したといいます。




A-382:嶋原街道(しまばらかいどう)
国道34号線の矢上交差点は今も昔も主要交差点の一つです。現在は十字路になっていますが、もともとは三叉路の交差点で、南北に長崎街道が通り、南へは長崎、北は諫早、大村そして小倉へと進み、東へは嶋原街道として愛野経由で嶋原、海路肥後熊本へつながっていました。嶋原街道は長崎警備のために嶋原藩主らが利用した街道で、元治元年(1864)には幕命のため来崎した勝海舟と坂本龍馬らがこの街道から長崎入りしました。




即如門主御手植木(そくにょもんしゅ-おてうえのき【教宗寺境内】
浄土真宗のトップを宗主といい、開山の親鸞聖人から数えて第24代目が即如宗主となります。また、本山である西本願寺の住職を門主といい、宗を統制し親鸞聖人より代々子孫が継がれています。この即如とは法名で正確には釋即如といい、本名は大谷光真さまです。
このお手植えの木は平成6年(1994)に長崎に御巡教された際に植えられたもので、八重桜の一種の「八房桜(ヤツブサザクラ)」という種類の桜です。




建法幢/誓得教師碑(けんぽうとう/せいとくきょうしひ)【教宗寺境内】
第13世:釈誓得は第11世志丈の長男で、12世栖城の入寂後に住持となりました。明治7年(1932)長崎を襲った暴風では本堂や鐘楼が倒壊し、翌8年より復旧工事を始めますが西南戦争が始まったため工事は中止となります。これは矢上村が佐賀領ということもあって影響が出たものと考えられます。工事は明治12年(1879)に再開され、翌13年に本堂が完成し、翌々年の14年に入仏式を営み、明治15年(1882)完成を記念して盛大に大法会が行われました。その後、明治22年(1889)誓得の独力で書院や庫裏などを新築し、現在の教宗寺の礎を築くのです。これらの功績に対し誓得を再中興と称されています。




第十二世釈栖城墓所【教宗寺境内】
第12世:釈栖城は諫早小江村(現 高来町)の金光寺出身で、のちに若狭国妙寿寺に入り、私塾を立て多くの門弟を育てます。安政元年(1854)諫早に移った後は安勝寺に入り、荒廃していた教宗寺の再興を果たします。特に地区の仏法の教授に努め、文久元年(1861)京都にて入寂します。




シーボルト休憩地【教宗寺】
シーボルト(1796:寛政8-1866:慶応2)は、ババリア王国(現ドイツ南部)出身の医師で、後にオランダ海軍軍医となり文政6年(1823)来崎します。文政9年(1826)には出島オランダ商館長(カピタン)らの江戸参府に同行し、その時、この教宗寺で休み昼食をとったという記録が残っています。また、シーボルトの紀行文には「我々の使節は親切なもてなしに対して僧侶に礼を述べ、そういう仕来りになっているので、ちょっとした贈り物をした」とあり、贈り物のコーヒーカップは宝物として大切に保管されているそうです。




A-381:浄土真宗鶴城山教宗寺(かくじょうざん-きょうそうじ)
矢上町469(旧 矢上村町名)
教宗寺がある場所はもともと称念寺という寺院があった場所で、いつしか廃寺となります。慶長12年(1607)当時、矢上村周辺ではキリシタン全盛期で、そのため前領主の諫早石見守直孝は肥後国小岱(熊本県荒尾市)より僧:作運を招き、称念寺を再興させ矢上地区の仏教の再興を図ります。明暦3年(1657)諫早家の許しと大谷本山に出願して、旧寺院跡に本堂を建立し本山より阿弥陀仏像を下付。このとき諫早村にある教宗寺より釈了善を招致し、併せて称念寺教宗寺と改称し寺号を得ます。明治7年(1874)台風によって被害を受け翌8年再建するも、西南の役のため工事が中断。明治13年(1880)完了します。平成元年(1989)当時の建物を大改修し今に至ります。




A-380:三番町石塔群【矢上神社境内】
解説版より「この石塔群は、矢上町内では最大の中世石塔群で、もともと三番町(林田氏宅裏)にあったものを、矢上地区の土地区画整理事業により平成12年に当地に移転したものである。種目は五輪塔と宝篋印塔がほとんどで約30基分を占め、その他に茶臼が3点出土している。大部分は1500年代から江戸時代前半の1600年代半ばごろにかけてのものであるが、中には鎌倉時代後半から南北朝時代前半(1300年代前半から半ば)ころの遺品(宝篋印塔相輪)も確認される。中世書に登場する矢上氏、またはそれに類する有力者の石塔と思われる。なお、茶臼は1500年代後半ごろのもので、有力者が生前中の勢力を誇示するために、死後、五輪塔の地輪に転用したものである。室町時代後半ころに当地に抹茶の風習があったことを示す遺品としても貴重である。」




A-379:矢上氏居城跡(やがみしきょじょうあと)
高城台1丁目(旧 矢上村町名/矢上町)
鎌倉時代、元徳2年(1330)の鎮西裁許下知状に宇礼志野六郎通直と矢上次郎法師念戒とのやり取りがあって、その後も矢上民部三郎入道妻女や矢上民部三郎入道とたびたび矢上の氏を見ることができます。そして、その居城が矢上神社の背後の小高い丘にあったと伝えられ、古くから高城と呼ばれており、その居城跡といわれています。このほか付近の公園の名を城の辻公園といいます。




安産股ぎ石【矢上神社境内】
碑文「古来危険で困難の多いトンネルなどの隧道開鑿工事において貫通の時に出た岩石は、安産、子授けの祈願に霊験あらたと伝えられ、大難成就の守護霊石である。参道敷面に埋め込まれている八角形の玄武岩は新日見トンネルの貫通石で平成五年九月二十五日に滑ヤ組の奉納された珍奇のものである。この石を股ぐことによって安産、子授けの願いが叶います。




崎村卯七郎翁顕彰碑【矢上神社境内】
崎村卯七郎は矢上村の第10代〜13代村長として、大正元年(1912)から昭和3年(1928)まで就任し、村の発展のため尽力しました。特に教育や農業、畜産業、林業のほか日見隧道開通などにも力を注ぎ東長崎地区の振興に功績をあげます。この顕彰碑は明治100年事業の一環として昭和44年(1969)に有志によって建立されました。




殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)【矢上神社境内】
碑文によると、この塔は昭和9年(1934)旧矢上村の軍人分会が施主となり矢上地区で戦死した犠牲者の慰霊碑として山之原公園に建立されたもので、昭和30年(1955)東長崎町発足時、山之原公園が東長崎中学校建設用地となったため、慰霊碑はこの矢上神社境内に移転され、これを機に慰霊碑を慰霊塔に改称し、あわせて支那事変以降の犠牲者も慰霊して昭和33年(1958)再建立されたものです。




諫江八十八カ所霊場(かんこうはちじゅうはちかしょれいじょう)
【矢上神社境内】
八十八か所霊場とは四国にある88の弘法大師ゆかりの地を巡る信仰のことで、諫早ほか長崎、茂木など各地にも点在していて巡拝することで同じご利益を得ることができるといいます。
諫早の霊場の起源は古く、文政8年(1825)佐賀藩第8代藩主:鍋島治茂(ハルシゲ)の娘の哲仙院によって開創されました。哲仙院は諫早家第11代領主:諫早茂図(シゲツグ)の長子の諫早敬輝(チカテル)に嫁いでいましたが、敬輝が37才で没したため家督が継げず、そのため哲仙院は夫の不遇を憂い、さらには領内安寧や子孫繁栄を祈願してこの霊場を開創しました。
第71番霊場は矢上神社の前身である大王社内にありましたが、廃仏毀釈の影響で敷地外に移設安置されました。

○矢上神社の石仏群【矢上神社境内】
矢上神社境内には多くの石仏があって、これらは明治維新の廃仏毀釈によって大王社(矢上神社旧称)より分離されたもので、池の中心に置かれている四仏には釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、不動明王像が刻された大変珍しい塔が立っています。




矢上供日(やがみくんち)
矢上くんちは毎年10月17日に行われる矢上神社の秋の大祭で、矢上地区の8集落が4年おきに2部落づつ奉納踊りを行うもので、長崎県と長崎市の無形文化財に指定されています。起源は雨乞いの儀式によるもので、矢上が佐賀藩領ということもあり浮立の文化は佐賀より入ってきたものです。
奉納踊は次の通りです。
田ノ浦部落:本浮立  矢上平間部落:浮立  現川部落:浮立  
馬場部落:本浮立  蛎道部落:浮立  矢上町:コッコデショ  
間ノ瀬部落:間ノ瀬狂言  中尾部落:獅子浮立/唐子踊り




○門柱【矢上神社境内】
矢上神社の門柱は昭和55年(1980)に建立され、矢上の起源を詠ったものです。
右柱「この里を守ると天降り坐しませし 矢神のみいつかしこかりけり 重」
左柱「矢神てふ神の御號をは畏みて 里の表記を矢上の字とす 重」

右柱の意は「この里を守るために(神が)天よりお降りになり鎮座され、矢の神のみいつ(御厳)はおそれ多いにちがいない」
左柱の意は「矢の神の町は、神の号(名前)をおそれ多くも、里の表記とさせていただき矢上としました」




○矢上神社の伝説
弘安4年(1281)の弘安の役(元寇)の際、矢上の平野に突然、天より剣矢が降りて来て、それが祭神となり矢上神社の創建となったといわれていて、矢上の地名もそこが起源となりました。
一方、地形的に言えば、矢上の語源は、矢のように入口が広く奥が細長く狭まった状態をヤガミといい、橘湾の一番奥まった地域の集落ということで矢上となったという説が有力といわれています。




A-378:矢上神社(やがみじんじゃ)
矢上町322(旧 矢上村町名)
弘安4年(1281)矢上村の平原というところに毎夜、不思議な光があって、村人は不思議に思い行って見るとそこには一振りの宝剣がありました。村人はこれが天の剣だと喜び周囲の者が集まり話し合った結果、「賊が侵入したとき神様が賊を追い払うために用いられた天国の剣に違いない。我々はこの剣を箭(や)の神として外敵を防ごう」とし、宝剣を御神体として崇敬するようになります。以降、この地を箭神と呼び、いつしか矢神、矢上に変わります。大永2年(1522)矢上村を治めていた西郷石見守によって素戔鳴尊(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)を勧請し、ここを大王社と改称。天正3年(1575)現在地に移転し矢上村の鎮守神となります。寛永15年(1938)領主諫早氏は島原の乱の際、戦勝祈願をし、その勝利にこの神社を諫早領内五社の位に列しました。明治維新を受け大王社は両部神道のため明治5年(1872)矢上神社に改称します。現在の本殿は宝暦3年(1753)に建立、明治7年(1874)に改修したものです。




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