広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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A-419:古賀村庄屋屋敷跡
中里町82(旧 古賀村中里名)【松尾宅】
江戸時代、古賀村の中心は中里で町(里)の中心ということで中里の名があるものと考えられます。この地は松原地区、中里地区、船石地区などの中心で庄屋屋敷が置かれていました。
現在、庄屋屋敷跡には領境石碑が2本おかれていて、「従是南大村領」「従是東北大村領」と記され、大村藩によって建立されたものと分かります。おそらく明治時代に入り道路造成などで撤去された際、この庄屋宅に持ち込まれたものと考えられます。




A-418:城山(じょうやま)
古賀町815-2付近(旧 古賀村向名)【和仁会病院】
その昔、この山の山頂に地方の豪族がたびたび陣を張った場所といわれ、その際、弁当の炊き出しを行った場所として山の後方の地区に「べんとう」という地名があったといいます。
山頂には明治5年(1872)創建の五穀神社があって、神社は旧古賀村向名のうち内唐木田、畑中、長広、地大寺地区の氏神さまで例年4月24日が祭礼とされています。




A-417:慶尚庵跡(けしばんあと)
古賀町793付近(旧 古賀村)
応仁の乱後の文明2年(1470)ごろ、古賀は有喜(現 諫早市有喜)を拠点とする有馬氏系の西郷石見守の所領で、特に西郷氏が仏教に熱心だったところから古賀には6つの寺院があったと伝えられています。その6つのうちの一つが慶尚庵で、当初は「けいしょうあん」と呼ばれていました。しかし、天正年間(1573〜)キリシタンにより破却され、会堂が置かれました。現在では橋の名前にその名残を残しています。

※正念寺(古賀町高部:正念)、算用庵(現 迎陽亭)、長正寺(橋名あり)、地大寺(長正寺近く)、千束野庵(橋名あり)




A-416:船石町(ふないしまち)
船石町は江戸時代は高来郡古賀村に属し、明治22年(1889)市制町村制が施行されると北高来郡古賀村木場名で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町木場名、昭和46年(1971)から長崎市船石町になります。町名の由来は地区にある船石山から命名されました。




A-415:中里町(なかざとまち)
中里町は江戸時代は高来郡古賀村に属し、明治22年(1889)市制町村制が施行されると北高来郡古賀村中里名で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町中里名、昭和38年(1963)長崎市に編入し、昭和46年(1971)から長崎市中里町なります。町名の由来は地区の中心の字名が中里というところから命名されたものと考えられます。




A-413:松原町(まつばらまち)
松原町は江戸時代は高来郡古賀村に属し、明治22年(1889)市制町村制が施行されると北高来郡古賀村中里名で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町中里名、昭和38年(1963)長崎市に編入し、昭和45年(1970)一部が多良見町に編入、昭和46年(1971)残りの大部分が長崎市中里町になります。地域に松林が多かったことから松原町となったと考えられます。

A-414:鶴の尾町(つるのおまち)
昭和50年代、松原町の一部が造成によって拓かれ鶴の尾団地が造られます。そして昭和59年(1984)住居表示が定められ鶴の尾町となります。




A-412:古賀の植木
元禄年間(1688〜)古賀松原名の西山徳右衛門は上方に上って盆栽の仕立てを習得し長崎や平戸へ売り出します。以降、農家の副業として古賀一円に奨励し植木業の基礎が築かれます。天保元年(1830)には「植木仲間」が結成され技術の向上と乱売を防ぎ、中国やオランダへの輸出が始まります。明治18年(1885)松田嘉平がロシアウラジオストクに渡航し、ロシア皇帝からも歓迎され、古賀の植木のシベリアへの輸出が始まります。以降、古賀の植木職人は海外へ進出するようになり、日露戦争後はロシアから中国への輸出が活発になります。しかし第二次大戦後は国内を中心とした市場になり、古賀は日本を代表する植木の町として発展します。




A-411:古賀(こが)
古賀の由来は定かではなく、発音から「コガ」とは空閑(クウカン)つまり荒れ地を意味し、矢上から見て八郎川の上流部ということで荒廃地だったことが推測できます。言い伝えでは平家の落人が住み着き拓かれた町といわれています。
15世紀以降、有馬氏の領地になり元亀元年(1570)長崎開港後は島原有馬氏所領となりキリシタンが栄えるようになります。慶長12年(1607)有馬氏が去り天領となり、慶長16年(1611)松倉豊後守の支配。島原の乱後、高力氏の支配に変わり、寛文7年(1667)天領になり以降、長崎代官が支配します。安政5年(1858)開国により外国人居留地を大村領の大浦に造成するため、古賀はその代替え地として大村領となります。江戸期は大村藩古賀村、明治22年(1889)北高来郡古賀村、昭和30年(1955)矢上村と日見村と合併し西彼杵郡東長崎町となり、昭和46年(1971)長崎市に編入。現在は長崎市古賀町です。




A-410:楠川の渡し(くすかわのわたし)
古賀町(旧 古賀村)
長崎街道は八郎橋からは八郎川沿いに進み古賀に向かいますが、領境石標のあたりには楠川の渡しといって飛び石よって八郎川を横断していました。また、付近には「鮎の茶屋」という茶店がありました。このあたりになると八郎川は楠川と呼ばれ、町境を示す大きな楠が植えられていました。この楠ですが、別名を老楠といい、明治の初め、長崎市内でコレラが流行したとき、村境に当たるこの楠のところで厳しい消毒が行われ関所のようだったと伝えられています。




A-409:領境石標(りょうきょうせきひょう)
東町/古賀町(旧 矢上村東名/古賀村)
領境石碑があるところは江戸時代、佐賀藩矢上村と大村藩古賀村の境界でこの碑は佐賀藩によって建立されました。今でも東町と古賀町の境界に位置し、矢上を向いた方には「従是南佐嘉領」と刻されています。




A-408:役行者神社(えんのぎょうじゃ-じんじゃ)
東町2453付近(旧 矢上村東名)
役行者とは「役の小角(エンノオヅネ)」のことをいい、いわゆる山伏の始祖、修験者の開祖といわれています。飛鳥時代から奈良時代に活躍した実在の人物で、かなり伝説的な人物像が伝えられています。諱(イミナ)を神変大菩薩、役行者「役優婆塞(エンノウバソク)」ともいい、奈良葛城山に住し鬼神を使役し孔雀明王の呪法を習得したといわれ、のちに人々を紛らわすため伊豆に流罪となりました。
長崎街道沿いにある役行者神社の創建は不明。




A-408:瀬古の皿山(せこのさらやま)
東町(旧 矢上村東名)
新興住宅地の彩が丘団地の上手にある瀬古地区は江戸時代中期に焼き物が行われた場所で現在でもその古窯跡には焼き物のかけらが出るといわれています。記録では元禄年間(1688-1704)伊万里焼の取引をしていた納吉という商人がこの瀬古地区で赤土を見つけ、肥前藤津(佐賀県)から吉田皿山の職人を招き始めたもので、その後、諫早家より藩の特産品として推奨され、納吉も徒士に登用され藤本総右衛門に改称します。そして2代:伊助、3代:市次郎と続きますが、市次郎は職人同士の色情問題で刃傷沙汰となり部落より追放。弘化年間(1844-1848)4代:笹一の代で廃窯します。




A-407:霊源院奥ノ院【滝の観音】
霊源院奥の院は滝がある位置より西北に約200メートル離れた場所にあって、堂宇には釈迦如来像が安置され、お堂の横には霊源院の歴代住持の墓所が置かれています。




A-406:滝の観音「御滝」【滝の観音】
霊源院は矢上川の支流の間ノ瀬川沿いにあり約30メートルの滝のそばにあるところから「滝の観音」の別称を持ちます。滝は霊源院の守護神で「白雲龍神」と称し、境内全域が長崎県の名勝に指定されています。

天満宮【滝の観音】
天満宮は元禄12年(1699)京都北野天満宮より勧請されたもので、祭神は菅原道真公。




諫江八十八カ所霊場(かんこうはちじゅうはちかしょれいじょう)
【滝の観音】
八十八か所霊場とは四国にある88の弘法大師ゆかりの地を巡る信仰のことで、諫早ほか長崎、茂木など各地にも点在していて巡拝することで同じご利益を得ることができるといいます。
諫早の霊場の起源は古く、文政8年(1825)佐賀藩第8代藩主:鍋島治茂(ハルシゲ)の娘の哲仙院によって開創されました。
「滝の観音」本堂は第74番霊場でもあります。




A-405:仁王門(におうもん)【滝の観音】
仁王門は諫早家の寄進によって創建当時に建てられましたが、老朽化のため明治33年(1900)に解体されました。その後、当時の第19代住持:無明は本堂や庫裏の改修や書院などの新築をし中興といわれますが、仁王門に関しては昭和初期の恐慌や第二次大戦などの影響で実現できず、平成に入りようやく計画が始まり、現川の篤志者:中島左次馬丈は柱材の寄進や資金集めに尽力し平成10年(1998)に完成します。再建した門は三連式切妻段違いの黄檗風漢門で両脇に仁王像(阿形・吽形)を安置します。




平山芦江歌碑(ひらやまろこう-かひ)【滝の観音】
平山芦江(明治14:1881-昭和28:1953)は、本名を田中壮太郎といい神戸の出身で子供の頃、籠町にあった平山浅吉氏の平山酒屋へ養子に迎えられます。長崎商業に進み、20才頃上京し都新聞の記者となります。その後、作家に転身。処女作「今様源氏抄」を皮切りに「唐人船」「西南戦争」「花柳情話」など多くの著書を発表します。特に地域柄、花柳物の小説や小唄、都都逸に長けていました。滝の観音の歌碑は昭和33年(1958)建立   
碑文「これぞこれ 故郷の水の音ならむ 霊源院の観音の滝  江」 




彷彿足石歌(ほう-ぶっそくせきのうた)【滝の観音】
仏足石とはお釈迦様の足裏の形を石に刻んだもので、仏足石歌は奈良の薬師寺にある仏足石歌碑に刻まれた21首の歌をいいます。歌は五七五七七の短歌形式で、仏足石の功徳を詠ったものです。

「み佛の庭の木を 柱〃みまかりし父母 の為にもろ人のために」




石井青馬之碑(いしいせいばのひ)【滝の観音】
石井青馬(大正2:1913-昭和57:1982)は長崎番傘川柳会の初代会長を務めた人物です。この碑は昭和60年(1985)長崎番傘川柳会によって建立されました。
碑文「よい子みな 御仏のみ子 花まつり
※滝の観音では毎年5月5日をお釈迦様の生誕祭「花まつり」と決め、たくさんの信仰者や子供たちで賑わいます。




A-404:普濟橋(ふさいばし)・羅漢橋(らかんばし)【滝の観音】
普濟橋羅漢橋ともに、滝の観音が創建当時に架橋された橋で、上流側が普濟橋、下流側が羅漢橋といいます。羅漢橋は県道建設に伴い境内に移設されたものですが、両橋とも昭和57年(1982)の長崎水害によって渓流の山林や護岸と共に流失し姿を消しました。その後、全国からの寄付で復興が図られ昭和61年(1986)羅漢橋、翌62年(1987)普濟橋がそれぞれ再架されます。総事業費は約3億5000万円にものぼります。
普濟とは「普く済う=あまねくすくう」という意味で、羅漢とは阿羅漢のことで尊敬を受けるに値するの意味。




A-402:三十六体の石仏【滝の観音】
元禄8年(1695)長崎の豪商:松田金兵衛は巨費を投じて石工の平川与四右衛門ら数名を肥前戸川より招致して、滝周辺に岩に観世音菩薩像を彫らせ、献納しました。工事は13年にもわたる大工事となります。

A-403:十八羅漢像【滝の観音】
宝永4年(1707)長崎に住む油屋徳兵衛は亡き父の追善菩提のため境内急斜面の岩に矢上の石工によって十八羅漢像、仁王像、四天王像などを彫らせ献納しました。工事には6年を費やします。




「滝の観音」の観音縁起
万治2年(1659)唐の貿易商:許登授はたくさんの積み荷と共に長崎に向けて航海していたところ猛烈な台風に遭い、今にも沈没しようとしたその時、暗雲の中に美しき女性が現れ「私は長崎「滝の観音」である。汝の難を取り除いてやる。よく念じるがいい」といい、許登授はじめ船員が観世音の力を信じ念じたところ、不思議にも風雨は治まり無事に長崎港に入港します。上陸後、許登授はその滝の場所を探し、観世音菩薩の梵字を見つけるやいなやその梵字が輝き出したといいます。許登授は恩返しのため寛文7年(1667)滝の普請と、同9年(1669)観音堂を建立し帰国。帰国後も熱心に信仰を続けていました。そんなある日夢枕に「我は唐土の霊松山の松樹の下におる魚籃観音である。汝が建立した滝観音の一字は我の有縁の地だ。急いでその地に供奉せよ」といわれ、許登授は霊松山に向かい魚籃観音を長崎の「滝の観音」へ運び安置します。これが現在の本尊で寺宝となっています。




A-401:弘法大師故縁の地
言い伝えによれば、弘法大師(空海)が中国より帰国の際、この地に立ち寄られ滝を眺めてこの地は霊験あらたかな場所であると祈祷を行い、滝の中ほどに観世音菩薩の梵字を書き、ここを霊場と定めたといわれています。これがわが国最古の霊場といわれるゆえんでもあり、山門手前にある大木の門である伏樹門(フシギモン)を100回くぐればどんな脳病も治るといわれています。大木は巌橿(イツカシ)で、一般には一位樫(イチイガシ)といいます。




A-400:黄檗宗長瀧山霊源院(-ちょうろうざん-れいげんいん)
平間町1646(旧 矢上村平間名間ノ瀬部落)
万治2年(1659)高僧木庵の高弟:鐵厳道廓がこの地に玄津院(のちに長瀧山霊源院と改称)という堂宇を建て、翌3年(1660)あわせて禅堂を設けます。寛文7年(1667)には中国広東の商人:許登授によって観音堂が建立され、中国霊松山にあった魚籃観世音菩薩を玄津院の本尊とします。元禄4年(1691)諫早茂照より保護を受け山林が寄進され、以降、諫早家の祈願所となります。そしていつしか境内にある滝から滝の観音と呼ばれるようになり名勝地として親しまれるようになります。昭和57年(1982)長崎水害で崖崩れや土石流などで壊滅的被害を受けますが、全国からの寄付によって元の姿へと復元されました。




A-399:歳宮(としのみや)
平間町305付近(旧 矢上村町名平野部落)
歳宮には「歳の神」といわれる祭神が祀られ歳徳様ともいわれています。「歳の神」は地蔵尊に似た頭だけ非常に長い石仏があって、いわゆる陰陽神といわれています。創建は不明ですが、境内に石仏には安永年間(1772-81)のものもあり、さらには自然石をそのまま用いた陰陽神があって、これらが創建当時のものと考えられています。

○城平之神
平間町344付近




A-398:平間(ひらま)
江戸時代は佐賀藩諫早領の彼杵郡矢上村に属し、明治4年(1871)佐賀県になり(一時、伊万里県)、明治5年(1872)長崎県となります。明治22年(1889)市制町村制が施行され西彼杵郡矢上村平間名で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町平間名になり、昭和38年(1963)長崎市平間名、昭和46年(1971)長崎市平間町になります。地名の由来は地区の平野部にあたる平野地区と、山地部に当たる間ノ瀬地区の一文字づつを取って平間となりました。




A-397:給人河内(きゅうじんごうち)・加瀬首(かせのくび)
現川川の上流部には給人河内加瀬首(鹿背の首)という地名があって、付近は峠を越えれば長崎の地という場所柄、諫早藩の重要拠点として位置づけられていました。特に島原の乱後は長崎に逃げ込むキリシタンが多く、地元民には遊んで暮らせるくらいの給金が与えられ、侍格の待遇が与えられていました。ここでは軍事上、キリシタンや通行証を持たない者の取り締まりなどを厳しく取り締まったといいます。なお、警戒の当たっていた家は檀野、三浦、野口などの士40軒近くが配置されていました。士格ということもあって菩提寺は正覚寺。




A-396:現川(うつつがわ)
江戸時代は佐賀藩諫早領の彼杵郡矢上村に属し、明治4年(1871)佐賀県になり(一時、伊万里県)、明治5年(1872)長崎県となります。明治22年(1889)市制町村制が施行され西彼杵郡矢上村現川名で、昭和30年(1955)古賀村と戸石村と合併し東長崎町現川名になり、昭和38年(1963)長崎市現川名、昭和46年(1971)長崎市現川町になります。現川の意味は細長い谷あいを流れる川に意味があり、そこから現川となりました。




A-395:JR現川駅(JRうつつがわえき)
現川町1950付近(旧 矢上村現川名)
JR現川駅は昭和47年(1972)に開通した長崎新線(市布経由)にある駅で、上下合わせて二本のホームを持つ無人駅です。乗降客は現川地区の住民が主に使用するだけで比較的利用客は少ない駅ですが、浦上喜々津間が単線ということもあり長崎博多間などの特急列車と普通電車などの行き違いなどに多く利用されるため、利用の乗客にはなじみのある駅です。現川古窯跡の見学や三つ山の登山などに利用するのがお勧めです。




A-394:現川古窯跡(うつつがわこようせき)
現川町579付近(旧 矢上村現川名)
佐賀藩の焼物被官で有田在住の田中刑部左衛門(宗悦)は元禄4年(1691)現川で焼物土を発見し、諫早藩の許しを得て現川で焼き物を始めます。特徴は唐津焼の作風である刷毛目文様(ハケメモンヨウ)を基調としたもので、享保12年(1727)には上方にも出荷されています。しかし有田を中心とした磁器の発達や、長崎が近いことによる輸入品が手に入りやすいことから寛延2年(1749)ごろには採算が合わなくなり廃窯します。現在では約50年間という短い期間にしか焼かれていないため幻の焼き物といわれています。窯は窯群で4つの窯からなり観音窯尾似来上窯が現存していて、あわせて開窯者の田中宗悦、二男の田中甚内、重富茂兵衛らの銘がある窯観音、田中宗悦墓所が県指定史跡に指定されています。




侍石の石材
矢上橋から戸石に抜ける谷あいを侍石(サブラシ)地区といいます。明治7〜8年頃(1874-5)、当時、明治政府が所有していた長崎製鐵所(のちの三菱長崎造船所)は立神に大型船建造用ドックの建設を進めますが、ドックの底敷石に侍石地区の砕石を使用します。矢上普賢岳のふもとの地獄谷から砕石を大星(大星橋付近)まで運びだし、和船にて長崎港まで運びます。その際は地元の請負者は猪股、荒木伊三郎で、人夫を天草、島原、小浜などから呼び寄せ、運搬は長崎の西山組、川内組、片淵組、坂下組など数百人が携わります。そして明治12年(1879)長さ139メートル、幅27メートル、水深8メートル、総トン数7000トンを入渠できるドックが完成。当時としては東洋一の規模を誇ります。なお、ドックの上部表石は長州御影石を使用。




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