広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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JR諫早駅(いさはやえき)
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎-長与間、翌31年(1898)佐世保-早岐-大村-長与間を開通させます。このとき諫早駅が開設されました。明治44年(1911)には島原鉄道が乗り入れるようになり(諫早愛野間)、つづいて昭和9年(1934)の有明海沿線が開通すると諫早は東西南北の拠点となる重要駅となります。




本明川(ほんみょうがわ)
本明川は多良山系の一つ五家原岳を源流とし諫早市中心部を流れる河川で、長崎の穀倉地帯である諫早平野を形成した河川です。古来より干拓が盛んに行われ流域面積も徐々に広がり全長は22キロメートルでしたが、平成20年(2008)諫早干拓事業の完成により調整値の関係から本明川の全長は28キロメートルに延びました。日本で一番短い1級河川ですが、昔から洪水に悩まされ市内各地には多数の慰霊碑が存在します。特に元禄12年(1699)の元禄水害、昭和32年(1957)の諫早水害では多数の犠牲者を出しました。




眼鏡橋(めがねばし)
天保10年(1839)諫早の領主諫早家第12代:諫早茂洪(シゲヒロ)の命によって架けられた石橋で、諫早の領民総がかりで架けられた橋だといわれています。当時は本明川唯一の橋で諫早市街地の南部と北部を結ぶ重要な架け橋でした。眼鏡橋の特徴は洪水対策として橋本体が高く積み上げている点や、一つ一つの石に短いアンカー的な役割を持つ鉄のくさびが打ち込まれている点、さらには中央基礎部の泥を有明海のものと置き換え、重量に対する緩和材的役割を持たせ地震などに対応している点です。残念ながら昭和32年(1957)の諫早水害では眼鏡橋が流木などをせき止め氾濫の要因になり撤去される予定でしたが、当時の諫早市長:野村儀平らの願いにより昭和35年(1960)本明川横の諫早公園内に移設されました。国重要文化財。




諫早(いさはや)
諫早は古くは「いさはい」と発音し、鎌倉時代よりの名前で伊佐早村や伊佐早荘などと書かれ、江戸時代になって諫早家第2代領主の龍造寺直孝が改名して諫早を名乗り諫早になりました。江戸時代は高来郡諫早として佐賀藩諫早家の領地として栄え、明治時代になり高来郡諫早村、明治11年(1878)北高来郡諫早町、明治22年(1889)市制町制施行により大城戸を合併して諫早町が誕生します。昭和15年(1940)諫早町に小栗村、小野村、真津山村、本野村、長田村、有喜村が合併して諫早市が成立。諫早は長崎県内最大の穀倉地帯として発展します。昭和32年(1957)諫早水害で壊滅的被害を受けるも復興し、戦後の経済成長期には貝津工業団地など工業化も進む長崎県第3の都市として発展します。平成17年(2005)周辺の西彼杵郡多良見町、北高来郡森山町、飯盛町、高来町、小長井町が合併し新たな諫早市となりました。




A-467:諫早神社/四面宮(いさはやじんじゃ/しめんぐう)
宇都町1-12(旧 諫早村宇都名)
諫早神社は奈良時代の新亀5年(728)僧:行基がこの地に立ち寄られ四面大菩薩を本尊として四面宮を置いたのが創建で雲仙にある大乗院満明寺の末寺として始まります。また、境内には別当寺として本尊弥陀三尊像の五智光山荘厳寺も置かれ、代々領主の祈祷所として維持されていました。明治維新後は1千年以上続いた歴史にピリオドが打たれ、廃仏毀釈で荘厳寺は廃寺、本尊は安勝寺、山門は慶厳寺などに移され、四面宮の四面大菩薩は天祐寺に移し、祭神を天照大神、大己貴命、少彦名命の三神に変えて明治5年(1872)諫早神社に改称します。




A-466:御館山稲荷神社(みたちやまいなりじんじゃ)
宇都町(旧 諫早村宇都名)
御館山稲荷神社の創建は宝暦元年(1751)で往時は境内にたくさんの狐がいたといいます。祭神は五穀豊穣、商売繁盛のご利益のある豊受姫尊で、2月の初午の日には幸恵美(コウエミ)さんと呼ばれ諫早市民や遠方からの参詣者で賑わいます。また、本殿裏には天狗が刻んだといわれる霊験あらたかな巨岩があります。




A-465:御館山(みたちやま)
宇都町(旧 諫早村宇都名)
御館山は諫早市街地の西部に位置する標高99メートルの山で、言い伝えによると平安時代の武将:源為朝(通称:鎮西八郎)が御館山の頂上に館を築いたことから御館山と名付けられたといいます。また、弓の名人でもあった為朝がこの山の頂上から東の方へ弓を放ち、その矢が着いたところが小豆崎といい、矢が着いた崎から矢着崎、それがなまって小豆崎となったといいます(小豆崎は御館山の北西約3キロメートルの地点)。
さらに、御館山稲荷神社の巨岩には為朝が矢を射って刺さった後といわれる大きなくぼみが残っています。




A-464:永昌代官所跡(えいしょうだいかんしょ-あと)
諫早市永昌町5-22(旧 永昌村)【福田外科医院】
佐賀鍋島藩は諫早を見下ろす位置にある永昌に代官所を設け、高来郡諫早地方の本藩領の村や支藩である諫早家の政治や経済のお目付け役として領内に監視の目を光らせていました。
諫早家初代:龍造寺家晴は佐賀の龍造寺隆信の一族でしたが、天正12年(1584)の島原進攻で有馬島津連合軍によって沖田畷で龍造寺隆信は戦死し、2代目の龍造寺直孝(ナオノリ)も江戸幕府成立や龍造寺本家の衰退で親類の鍋島直茂に取って代わられます。そして鍋島直茂は自分の娘を龍造寺直孝(のちに諫早直孝)の後室にあて、佐賀と諫早の主従関係ができ、この支配は以降幕末まで続きます。




A-463:永昌宿(えいしょうしゅく)
永昌宿は長崎街道25宿の一つ。隣の矢上宿まで3里半、大村城下まで2里半。永昌宿は島原藩、大村藩、そして長崎と長崎街道の要地で、幕府役人や長崎警備の黒田藩、佐賀藩の役人、さらには長崎に出入りする商人や文人などが頻繁に通行していました。しかし、永昌村は小村なため人足や馬などを常備する本宿ではなく、隣の諫早町などから応援を得ていました。当時、佐賀藩などは大村経由ではなく浜通りといって多良宿、湯江宿を通って佐賀に向かったり、諫早津より海路で佐賀に向かうコースを利用していました。




A-462:永昌(えいしょう)
永昌はその昔は栄昌とも書き、現在の諫早駅の西側の地域で、江戸期は肥前国高来郡永昌村として初めは佐賀藩諫早領でしたが、元和7年(1621)より佐賀本藩領になります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属し、明治22年(1889)北諫早村栄田永昌名となり、大正12年(1923)諫早町永昌名、昭和15年(1940)諫早市永昌名、昭和26年(1951)一部が永昌東町、戦後の宅地開発で町が拓かれ昭和55年(1980)宇都町、永昌町、栄田町などになります。江戸時代は長崎街道25宿の一つ永昌宿が置かれ、長崎街道と島原街道の要をなす宿でもありました。




A-461:歳神社(としじんじゃ)
諫早市小船越町(旧 小船越村)
歳神社は小船越の氏神さまで創建は安永7年(1778)で祭神は大歳神をお祀りします。大歳神は大年神とも書き、穀物の神で素戔嗚尊(須佐之男命)の子といわれ、五穀豊穣などのご利益があります。歳神社の一の鳥居は創建当時のもので、神殿は文政2年(1819)建立の石祠となっています。社域の中心には小船越町公民館が建ち、社域全体が児童公園として整備されています。




A-460:獄門場跡(ごくもんじょうあと)
諫早市小船越町(旧 小船越村)
長崎街道は農林試験場を経て佐代姫橋を渡り東に進むと三叉路になります。ここは長崎街道と島原街道の分岐点で、長崎から来ると左が諫早永昌宿、右が島原へとなります。このあたりは古地名に「獄門場」の地名があり、町境のこの地にその昔、罪人が磔(ハリツケ)されたものと考えられます。




佐賀の乱
明治元年(1868)明治新政府が樹立し佐賀藩からも江藤新平や副島種臣らが参加することになり、江藤新平は初代司法卿に任命され日本の司法制度の整備に尽力します。そうした中、江藤は西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らと武力による朝鮮の開国(征韓論)を唱えますが政府はこれを認めず、5人の参議は政府を辞職し下野します。佐賀に戻った江藤は佐賀の不平士族らから推され征韓党の党首となり、佐賀の憂国党党首の島義勇と共に明治7年(1874)決起し、反政府勢力を結集するつもりでした。しかし政府の大久保利通が指揮を取りすぐに鎮圧に乗り出し、圧倒的武力によって制圧され、島義勇は鹿児島、江藤新平は四国で捕えられ幕を閉じるのです。




A-459:伊東鼎之助墓所(いとう-ていのすけ-ぼしょ)
諫早市小船越町(旧 小船越村)
明治7年(1874)2月。佐賀の乱のとき、旧諫早藩では旧藩時代の縁故上、リーダー江藤新平率いる反乱軍につくべきか否か紛糾していました。一方、長崎県庁では諫早や大村からの志願兵を長崎に集め佐賀に向かう準備をしつつ、旧諫早藩の動きを察知していました。そうした中、江藤新平の腹心である伊藤鼎之助を密使として旧深堀藩から旧諫早藩に向かわせていたところ、ちょうどこの“さやんごぜん”で長崎に向かっていた旧諫早藩の使者:木原頼三など5名と出会います。鼎之助は旧諫早藩家老の早田快太に面会を願いますが、願いかなわず斬り合いとなり、ついに鼎之助の首は長崎県庁へと届けられ、これにより諫早は佐賀に味方しないことの証明となったのです。その後、佐賀の乱は明治政府の圧倒的武力によって鎮圧されました。墓石には「佐賀士族、行年二三歳、伊東鼎之助の墓 明治七戊歳二月二十二日」と刻されています。




A-458::さやんごぜん
諫早市小船越町(旧 小船越村)
長崎街道は農林試験場の施設を進むと東大川があり佐代姫橋(サヨヒメバシ)を渡ります。橋のたもとには「さやんごぜん」と呼ばれる道祖神があって、地元では道祖元(ドウソノモト)とか塞御前(サイノゴゼン)などとも呼ばれます。この信仰は街道沿いの村や集落の境目に建てられ外敵や疫病、災いを防ぐ役割や道中安全の守り神でもあります。一般に道祖神は塞の神(サイノカミ)、猿田彦、陰陽神などをお祀りすることが多く古くは中国から伝わったもので、日本に入ってからは神話などと習合して民間信仰の一つになります。




A-457:小船越(おふなごし)
小船越は大村湾と諫早市街地の中間域にあって、その昔、大村湾と有明海をつなぐ交通の要所で船を持ち上げて渡っていたところから小船越の名がついたものと考えられています。江戸期は肥前国高来郡小船越村として初めは佐賀本藩領でしたが、元和7年(1621)より諫早領になります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属し、明治22年(1889)真津山村貝津小船越名となり、昭和15年(1940)諫早市に編入、昭和48年(1973)から諫早市小船越町となります。江戸時代は長崎街道、現在は国道34号線と今も昔も交通の要です。




A-456:お馬の水(おうまのみず)【農林試験場内】
長崎街道は久山茶屋から貝津茶屋に向かうと長崎県総合農林試験場の敷地内に入ります。街道は敷地を横断しますが一部が消失しています。その敷地内に小さな祠があって脇に湧水を見ることができます。ここはお馬の水と呼ばれていて江戸時代、籠かきや馬が一息入れたところといわれています。現在も湧水を確認することができますが残念なことに敷地内に養豚場などがあって人が口にすることは禁止されています。




A-455:長崎県総合農林試験場
諫早市貝津町3118(旧 貝津村)
明治10年(1877)桜馬場の庄屋森田家屋敷跡に長崎県植物試験所が農家に栽培方法などを教育する機関として置かれましたが、明治31年(1898)本格的農業研究の場として長崎県農事試験場が中川郷に置かれます。大正9年(1920)には諫早市永昌町に移転、昭和25年(1950)長崎県農業試験場と改称。昭和36年(1961)現在地に移転し、さらに昭和46年(1971)からは長崎県総合農林試験場に改称。平成21年(2009)県の整理統合政策により長崎県総合農林試験場、長崎県果樹試験場、長崎県畜産試験場の3施設が統合して、長崎県農林技術開発センターとなりました。ここでは農作物の品種改良や技術改良など長崎県の農業から消費に至るまでの様々な研究がなされています。




A-454:貝津茶屋籠立て場
諫早市貝津町(旧 貝津村)
長崎街道は赤松坂を通ると若葉町を経て長崎自動車道路をくぐります。貝津工業団地でいったんその姿を消しますが、
工業団地を抜けると再びその経路が現れ、街道の両側の地名は「北茶屋」「南茶屋」となり、当時、付近に焼き餅が名物の貝津茶屋がありました。また、当時の名残として地区の真ん中に架かる橋を茶屋橋といい、北茶屋の松尾宅付近が大名などの籠立て場で、茶屋橋たもとの坂口宅付近が大名の休憩場があったところといわれています。




A-453:貝津(かいづ)
貝津は東大川と西大川が大村湾に注ぎ込む地域にあり、その昔、港があった場所として古代に栄えた地域と推測されてています。江戸期は肥前国高来郡貝津村として初めは佐賀藩諫早領でしたが、元和7年(1621)佐賀本藩領となり諫早郷貝津村となります。明治3年(1870)東隣の御船越村と合併。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属し、明治22年(1889)真津山村大字貝津となり、昭和15年(1940)諫早市に編入、昭和48年(1973)から諫早市貝津町となります。江戸時代は内陸部に長崎街道が走り、大川沿いでは水稲がなされ、丘陵地では畑作が行われていました。現在は国道34号線と長崎自動車道が交差し諫早インターチェンジが置かれ、昭和52年(1977)からは諫早中核工業団地が設けられ工業地帯になっています。




A-452:赤松坂(あかまつざか)
諫早市久山町山口地区(旧 久山村)
長崎街道は久山茶屋(現 旧茶屋)から久山川沿いに進み久山町の山口地区(新茶屋)へ向かいます。山口地区からは若葉町の台地へ上りますが、その上り坂を赤松坂といいます。その昔、坂を登りつめたところが峠になっていて、赤松の一本松があり峠松とも呼ばれていました。当時は峠のところが村境で街道は久山村から貝津村へとかわります。




A-451:久山の磨崖仏(マガイブツ)三十三観音
諫早市久山町山口地区(旧 久山村)
山口地区は旧長崎街道が通る集落で街道より少し離れた場所に薬師如来堂があります。その薬師堂裏の崖には三十三もの観音像が刻された磨崖仏があって、諫早市の有形文化財に指定されています。
磨崖仏は岩に直接彫り込まれた仏さまと、仏さまの後ろから光が放たれた様子を刻したもので、三十三観音は平安時代末期から近畿地方で盛んに行われている西国三十三ヶ所巡礼と呼ばれる観音信仰です。この西国巡礼ですがわざわざ近畿地方へ向かわなくても済むように各地に開設され、この久山のものは文政11年(1828)に建立されています。




A-450:久山茶屋の一里塚
諫早市久山町旧茶屋付近(旧 久山村)
一里塚とは街道の目印のことで江戸時代は塚を設け松を植えて街道を利用する人に知らせていました。塚は人間の頭の大きさくらいの石を積み上げ頑丈にしたもので、ほとんど現存していませんが久山茶屋に造られたものは当時のままの形で残っており、一里塚を知る貴重な存在といえるでしょう。




大乗妙典六十六部日本廻国供養塔
大師堂横には天保8年(1837)建立の大乗妙典六十六部日本廻国供養塔があります。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。歴史は鎌倉時代から続いていますが、長崎のものはほとんどが江戸時期のものです。




A-449:久山茶屋大師堂
諫早市久山町旧茶屋付近(旧 久山村)
久山茶屋のそばには古くから弘法大師がお祀りされ旧茶屋の住人によって大切にお祀りされています。お堂には弘法大師のほか地蔵菩薩も安置され道中安全などを見守られています。




A-448:久山茶屋跡(くやまちゃや-あと)
諫早市久山町旧茶屋付近(旧 久山村)
久山茶屋は上の茶屋と下の茶屋からなり、上の茶屋(山口宅)は純茶屋で坂本竜馬も飲んだであろうといわれる井戸があり、下の茶屋(良房宅)は旅籠も兼ねていて、旧記には、うどんやそばが名物といわれていました。また、昔の客が残した「どんくの干物」と「サイコロ用の馬の歯」が保存されていわれています。現在、この地区を茶屋があったところから旧茶屋と呼びますが、のちにこの地区の人が諫早寄りに下って新居を構えた地区があって、そこを旧茶屋に対して新茶屋と呼びます。しかし茶屋があった形跡はありません。




A-447:久山(くやま)
久山は井樋之尾岳の北東側に位置する地域で江戸期は肥前国高来郡久山村として初めは佐賀藩諫早領でしたが、寛延3年(1750)一時、佐賀本藩領となり、明和4年(1767)再び諫早領になります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属し、明治22年(1889)真津山村大字久山となり、昭和15年(1940)諫早市に編入、昭和48年(1973)から諫早市久山町となります。江戸時代は内陸部に長崎街道が走り、大村湾沿いの赤島地区では製塩が行われていました。現在は国道34号線が通り交通の要所で、新しく久山台団地が造成されています。




A-446:峠の茶屋跡(とうげのちゃや-あと)
諫早市多良見町化屋名1511付近(旧 喜々津村化屋名)
椎の木坂から諫早方向に進むと峠部落に入ります。ここには江戸時代、峠の茶屋があって旅人の休息場でした。昭和30年代初期までは道沿いに湧き水があって峠の茶屋の風情が残っていました。昭和初期までこの峠地区の東側を境に西を彼杵郡喜々津村、東を高来郡久山村として郡境になっていて、今でも旧多良見町化屋名と久山町の境です。




清水の祠(しみずのほこら)
長崎街道を諫早方向に進みます。椎の木坂を登り籠立場跡を過ぎたところにザボン畑が現れます。長崎市内の菓子舗ののザボン畑で長崎名物のザボン付の原料となるものです。そしてその先には街道の水場があって多くの旅人がのどを潤していたことでしょう。水場付近を清水の谷といい決して枯れることのない湧水といわれ水神さまが祀られています。建立は文政元年(1818)施主:白岩左右衛門。一帯は昭和57年(1982)の長崎水害で流失し当時の面影はなくなりました。




A-445:椎の木坂の籠立場(しいのきざかのかごたてば)
諫早市多良見町化屋名(旧 喜々津村化屋名)
井樋之尾茶屋跡を過ぎ長崎街道をさらに諫早方向に進むと、この付近では難所の井樋之尾岳(407メートル)の山裾の峠を進みます。この上り坂を椎の木坂と呼び、峠を境に井樋之尾部落から峠部落となります。峠は大名籠が据えられたといわれる籠立場跡で土地の人はこの道を殿様道と呼びます。また、籠立場の碑があるところは喜々津の武士:前田郡蔵の所有地で、当時は箒松と呼ばれた見事な松がありました。




A-444:喜々津(ききつ)
喜々津は大村湾の最奥部に位置し井樋之尾岳の北部、喜々津川を中心に広がる地域です。始めは木々津と称し、諫早初代領主の竜造寺家晴が秀吉の朝鮮出兵の際、この地で戦勝祈願を行い、無事に帰還した喜びから喜々津と改称されたといいます。江戸期は肥前国彼杵郡喜々津村として初めは佐賀藩諫早領でしたが、寛延3年(1750)一時、佐賀本藩領となり、明和4年(1767)再び諫早領になります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属し、明治22年(1889)西彼杵郡喜々津村となります。昭和30年(1955)喜々津村、大草村、伊木力村が合併し多良見町となり、平成17年(2005)多良見町は諫早市に合併します。




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