広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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長崎南環状線
長崎南環状線は長崎市大浜町の国道202号線との交差点を起点に長崎市早坂町の長崎自動車道長崎インターチェンジ付近までを結ぶ全長約8キロメートルの地域高規格道路で、女神大橋を含む大浜町-新戸町間が平成17年(2005)12月11日に開通し、平成23年(2011)2月13日に新戸町-早坂間が開通しました。総事業費は女神大橋を含む大浜町-新戸町間が847億円、新戸町-早坂間の総工費は約190億円で、完成により長崎港によって分断されていた長崎市西部と南部が結ばれ、さらには長崎自動車道路へのアクセスの向上で長崎市内の慢性的な渋滞の緩和や、産業や経済の活性化につながっています。




C-380:大山教会(おおやまきょうかい)
大山町556-1(旧 小ヶ倉村大山郷)
江戸時代中期、大村藩はキリシタンに対する取り締まりを強化。さらには財政難から子供の間引き制度を進めます。そのため弘化年間(1844-1848)外海など大村藩領に住むキリシタンは比較的禁制のゆるい五島や佐賀領である長崎港周辺の伊王島や神の島、善長谷などへ移住。その中の黒崎村永田の10戸ほどの住民も同じように出て行きますが適地がなく、ようやく大山の地を見つけました。また、明治元年(1868)に始まったキリシタン弾圧では大山地区も例外ではなく厳しい流罪に処せられました。明治6年(1873)禁制の高札は撤去され、いよいよ教会創立の願いを果たします。




C-379:立岩大師堂(たていわだいしどう)
上戸町4丁目(旧 戸町村上郷)
立岩大師堂は唐八景と小ヶ倉水源地のちょうど中間にあたる山間にあり、直立した大岩のそばにあるところから立岩大師堂と呼ばれています。ここには弘法大師のほか大日如来、不動明王など40超体の仏体がお祀りされています。創建は不明ですが大正14年(1925)奉納の手水鉢があります。




小ヶ倉ダム管理橋
小ヶ倉ダム管理橋は小ヶ倉水源地(小ヶ倉ダム)の管理するために造られた橋梁で、大正15年(1926)水源地の完成と同じくして架橋されました。土木構造物としてはシンプルでありますが、側面に幾何学模様が施してあるなど大正時代の構造物として大変重要な構造物といえるでしょう。長さ9.1メートル、幅2.2メートル、鉄筋コンクリート造単桁橋。登録有形文化財。




C-378:小ヶ倉水源地(こがくらすいげんち)
上戸町4丁目(旧 戸町村上郷)
大正15年(1926)第2回水道拡張事業として上戸町:鹿ノ尾川上流部に小ヶ倉水源地が完成。あわせて浄水施設である出雲浄水場も造られます。これは小ヶ倉水源地に溜められた水をトンネルによって出雲浄水場に送水し浄水され、旧長崎市南部地区に配水する仕組みで、当時としては長崎市最大で、給水人口約27万人、一日当り約3万トンを給水していました。昭和62年(1987)小ヶ倉水源地内に浄水場が完成すると出雲町浄水場は廃止。しかしトンネルは現在でも送水用として活躍しています。また、平成3年(1991)には長崎水道敷設100周年記念事業として突堤下に小ヶ倉水園を設け市民の憩いの場として整備されました。




C-377:長崎家墓所(ながさきけぼしょ)
上戸町4丁目(旧 戸町村上郷)【上郷墓地】
長崎家は江戸時代、大村藩の給人(キュウニン)の位の家柄で、この長崎家始祖は長崎三郎兵衛といい、長崎甚左衛門の養子となった人物です。長崎家はその後、大村藩長与村の給人で、のちに同じ大村藩大浦番所の添え番となります。




C-376:弁慶岩(べんけいいわ)
戸町2(旧 戸町村下郷)
弁慶岩は二本松と上戸町病院の中間付近にある大岩で付近の字名にもなっています。弁慶岩の下には祠があり熊野権現大明神がお祀りされています。創建は不明。

白髭神社(しらひげじんじゃ)
滋賀県高島市に鎮座する白髭神社を本社とする神社の別称で猿田彦神が祭神です。付近にはたくさんの石仏群があり民間信仰の拠点だったことが伺えます。弘法大師や不動明王、大日如来、普賢菩薩、地蔵菩薩など20超体の仏体がお祀りされ創建は不明ですが大正12年(1923)奉納の手水鉢があります。




C-375:御崎道/観音寺道/東泊口
(みさきみち/かんのんじみち/ひがしどまりぐち)
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(田上-茂木-天草-熊本・鹿児島へ)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、野母や脇岬の観音寺に至るコースを御崎道・観音寺道と呼び、特に戸町付近を東泊口(トウハクグチ)とも呼びます。この道は広馬場から十人町-大浦石橋-出雲-上戸町-竿浦-為石と進み、野母崎脇岬にある観音寺(御崎観音)に至るコースで観音信仰者のための参詣道でした。当時は1日で往復していたといいます。一方、御崎道は別の使い方があって、貞享2年(1685)、年間貿易額を定めた定高貿易法により追い返された唐船が長崎港外の野母の港に立ち寄り、野母で抜荷商人と取引(密貿易)を行い利益を上げていたといいます。




C-374:玉蝉園跡(ぎょくせんえん-あと)
戸町2-22,24(旧 戸町村下郷)
明治34年(1901)戸町村に住む藤田東三郎と東人の親子は戸町村の奥地に約1000坪の保養地を開き玉蝉園を始めます。園内には温泉場が設けられ、春は藤や菖蒲、秋は萩や楓で賑わい、中川町の中川カルルスに対し、戸町カルルスと称され市民の憩いの場として明治大正と賑わいます。
カルルスとはチェコスロバキアのカールス・バード(カローラ・ヴェリー)の湯の花(鉱泉の結晶)を水に溶かしカルルス温泉として営業したものです。




C-373:大福山宝輪寺聖寿院(だいふくざん-ほうりんじ-せいじゅいん)
上戸町1-13-29(旧 戸町村上郷)
朝鮮百済国の琳聖太子28世の子孫である修験者:増慶は江戸時代初め長崎に入りし、新紙屋町に寛永18年(1641)一寺を建て宝輪寺の創建とします。その後、延宝4年(1676)高野平郷に移転。当時、長崎奉行所には3個の陣貝があって1個はこの宝輪寺に備えて置くことになり、奉行が市内巡見の際は差し出さなければなりませんでした。文化5年(1808)フェートン号事件以降、異国船渡来の非常事態の時は宝輪寺も参加するとし、もう一つ陣貝を預かることになります。現在も宝物として陣貝が残されているといわれています。なお、昭和47年(1972)現在地に移転。ここの本尊は大黒天で腹内に黄金の大黒天像が鎮蔵しているところから「腹篭りの摩訶伽羅金天」と呼ばれています。




C-372:戸町氏居城跡(とまちしきょじょう-あと)
上戸町1-13-29(旧 戸町村上郷)【宝輪寺】
戦国時代まで戸町は戸八ヶ浦または戸八郷といい豪族の戸町氏が治めていました。この戸町氏の本姓は丹治氏といい彼杵荘に多く分布し、嘉禎3年(1237)の記録には御家人:戸町藤治の名があります。この後、戸町氏は深堀氏に圧力を受けるようになり戸町浦は深堀氏の支配下になり、戸町は長崎甚左衛門の弟で戸町惣兵衛が治めます。なお、戸町氏は源氏方の三浦一族の流れを汲み、居城跡といわれる宝輪寺には三浦神社が置かれています。このほか小ヶ倉水源地横の高台(鳥屋城跡)も城跡といわれています。




C-371:大山町(おおやままち)
大山町は江戸時代は小ヶ倉村に属し、明治22年(1889)市制町村制が施行されると西彼杵郡小ヶ倉村大山郷で、昭和13年(1938)長崎市に編入。昭和24年(1949)大山郷は大山町になります。町名の由来は定かではありませんが、地区は熊が峰などの山麓の奥まった地域で、江戸時代初期に多くのキリシタンがのがれ移り住み今なおその教えを守り続けている地区です。地区の大半の方が大山姓を名乗ります。




C-370:新戸町(しんとまち)
新戸町は江戸時代、大村藩戸町村に属し蓑尾郷という地域でした。明治31年(1898)長崎市の第一次市域拡張の際、戸町村の大浦郷、浪ノ平郷、下郷が長崎市に編入したとき、上郷および蓑尾郷は小ヶ倉村に編入されます。そして遅れること昭和13年(1938)小ヶ倉村が長崎市に編入。昭和24年(1949)蓑尾郷は新戸町となり、さらに平成に入り一部を残し1〜3丁目に分けられました。




C-369:上戸町(かみとまち)
上戸町は江戸時代、大村藩戸町村に属し上郷という地域でした。明治31年(1898)長崎市の第一次市域拡張の際、戸町村の大浦郷、浪ノ平郷、下郷が長崎市に編入したとき、上郷および蓑尾郷は小ヶ倉村に編入されます。そして遅れること昭和13年(1938)小ヶ倉村が長崎市に編入。昭和24年(1949)上郷は上戸町となり、さらに平成に入り一部を残し1〜4丁目に分けられました。




C-368:小ヶ倉(こがくら)
小ヶ倉は由来は定かではなく、発音から「コガ」とは空閑(クウカン)つまり荒れ地を意味し、「クラ」とは岩場を指すところから海岸部の荒れ地で「コガクラ」となったといわれています。
ここは肥前国彼杵郡で14世紀以降、深堀氏の領地になり、のちに佐賀藩深堀領となります。古くは小嘉倉村、小賀倉村、小鹿倉村とも書き、江戸時代は小ヶ倉村、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属します。明治11年(1878)西彼杵郡小ヶ倉村、明治22年(1889)市制町村制が引かれ小ヶ倉村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併。昭和24年(1949)町域を三つに分け小ヶ倉町1〜3丁目となり今に至ります。




C-367:女神大橋(めがみおおはし)
女神大橋は総延長約5キロメートルの主要地方道長崎南環状線と臨港道路女神大橋線の一部区間(1,289メートル)をいい、主橋梁部分(880メートル)と取付高架橋部(409メートル)から形成されています。橋の構造は二本の主塔からケーブルで橋桁を吊る斜張橋で、主塔間距離480メートルは全国第6位の長さを誇ります。総事業費847億円(うち橋本体工事は345億円)で、平成17年(2005)12月11日に完成しました。これにより長崎市東部と西部が結ばれ市内中心部の慢性的な交通渋滞が緩和され、地域間交流が活発になったといいます。愛称は一般募集されヴィーナスウィングといいます。




C-366:南部下水処理場(なんぶげすいしょりじょう)
戸町5-985(戸町村下郷)
長崎市の下水道事業は昭和27年(1952)に事業が始められ、昭和36年(1961)茂里町に下水道終末処理場が設置され簡易処理が始まります(中部下水処理場)。昭和39年(1964)中部処理場の本格的処理(高級処理)が始められ、さらに市街地の拡大に伴い北部、西部に新たに処理場を設け、昭和59年(1984)南部下水処理場が完成します。現在、南部下水処理場は一日の水処理能力は29,250立方メートルで中心市街地南部と戸町小ヶ倉地区などの処理に当たっています。




C-365:長崎検疫所(ながさきけんえきしょ)
戸町4-32-5(戸町村下郷)
明治10年(1877)9月上旬。中国廈門(アモイ)より端を発するコレラが長崎に上陸し10月には全国的な流行になります。9月下旬、コレラ患者は馬込町の聖徳寺に仮避病院に収容されることになりますが住民の反対で移転を余儀なくされ、稲佐郷の計画も住民の反対によって頓挫し、結局、市街地から離れた女神に女神避病院が建設されます。この年、長崎市街では死者272人となりました。
明治13年(1880)女神検疫所が設置され来航船の検疫を始め、明治32年(1899)内務省直轄:長崎海港女神検疫所となり強化されます。平成9年(1997)福岡検疫所長崎検疫所支所となりました。




筑前公竹皮笠(たけかわかさ)
正応4年(1647)突然のポルトガル船来航で長崎港は緊張が走りますが、その際、福岡藩主松平筑前守と長崎奉行馬場三郎左衛門がポルトガル船に乗り込み交渉することになります。交渉では筑前守はわざと身分の低い様相と竹皮笠をかぶり馬場奉行のあとを進むなど、その不思議な様子にポルトガル船長らは勝手に勘違いして日本でも数少ない高貴の人物と思い込み事なきを得たといいます。一方、交渉の行き帰りは舟津浦の七兵衛という者がお連れしたのですが、七兵衛は筑前守という高貴な方の乗船にひどく感激し、さらに筑前守は御苦労であったと頭にかぶっていた竹皮笠を七兵衛に賜れます。七兵衛は早速、家に持ち帰り、たまたま近所に瘧(オコリ)をわずらわせている者がいたので笠であおいでみるとたちまち瘧が治り、それがいつしか広まり笠を借りる者が絶えなくなります。最後は竹皮笠は破れ損じ親しいものに分け与えるのですが、後年、七兵衛の三代目はこの話を筑前守に申し上げたということです。




C-364:白崎台場跡(しらさきだいば-あと)
戸町5丁目/小ヶ倉1丁目(戸町村下郷/小ヶ倉村)【女神大橋橋脚南側】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの白崎台場には石火矢3挺、大筒3挺が置かれました。これらの台場は後年設けられたものと区別して旧台場または在来御台場、古台場と呼ばれていて、常勤はなく非番守備で行っていました。規模は20間×(4間+4.3間)/2。(83坪:約270平方メートル)




C-363:魚見岳台場跡(うおみだけだいば-あと)
戸町5丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚南側】
承応2年(1653)の神崎台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、女崎、神崎、スズレ、蔭ノ尾の4か所の新台場と魚見岳に新たな台場が設置されます。そして魚見岳台場は3段構成で一ノ増台場は27間×10間(270坪:約890平方メートル)で石火矢8挺、二ノ増台場は38間×13間(494坪:約1630平方メートル)で石火矢9挺、三ノ増台場は10間×5間(50坪:約165平方メートル)で石火矢5挺で、慶応2年(1866)廃止されました。これら台場はほぼ完全な形で現存し鎖国政策を考える上で重要な遺跡として国指定史跡に指定されています。




C-362:女神台場(新台場)跡
戸町4丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚北側】
承応2年(1653)の神崎台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、女崎ほか神崎、スズレ、蔭ノ尾の4か所に新たに台場を設置し警備を強化(新台場という)します。新台場の砲備は石火矢6挺、規模は120間×10間(1200坪:約4000平方メートル)。慶応2年(1866)廃止。




C-361:女神台場(旧台場)跡(めがみだいば-あと)
戸町4丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚北側】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの女神台場には石火矢2挺、大筒3挺が置かれました。これらの台場は後年設けられたものと区別して旧台場または在来御台場、古台場と呼ばれていいました。規模は20間×(4.5間+4間)/2(95坪:約300平方メートル)




C-360:女神(めがみ)/満珠嶼(島)(まんじゅじま)
戸町4丁目/5丁目(戸町村下郷)
長崎港口の東側、対岸の男神に対し女神と称します。女神大橋の東側橋脚の真下の位置で、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、付近に小さな島があって満珠嶼とも呼ばれていました。この満珠島に対し男神側を千珠島ともいいます。




C-359:金鍔谷塵芥捨場(きんつばだに-じんかいすてば-あと)
戸町3(戸町村下郷)
江戸時代のゴミ処理は各自が焼却したり農家が回収したりと様々でしたが、明治11年(1878)から長崎市は塵芥を片淵監獄裏で野焼きしたり銭座町聖徳寺前の海岸に埋立てるよう定めます。明治28年(1895)風頭山頂に焼却場建設計画が持ち上がるも住民の反対で却下。代わりに金鍔谷の官有地が候補に上がり明治31年(1898)から埋立が開始されます。明治34年(1901)官有地が三菱に払い下げられ(跡地は弾薬庫に利用?)、小ヶ倉の千本松原に移転。大正9年(1920)からは深堀村字野牛島に市営焼却場を作り再び移転となります。第二次大戦を経て、ゴミの増加に対し昭和25年(1950)茂里町の三菱兵器工場幸町工場の一部を買収し塵芥焼却場を完成させ使用。さらに昭和38年(1963)近代的ゴミ処理施設:木鉢ごみ焼却場が完成。長崎市のゴミを一手に引き受けます。その後、東長崎や北部南部などの施設が増設され現在に至ります。




C-358:金鍔次兵衛(きんつば-じへえ)
金鍔次兵衛(慶長8:1603?-寛永14:1637)は大村の貧しい農家の生まれで、父はレオ小右衛門、母はクララおきあ、といい共にキリシタンの洗礼を受けていました。次兵衛も洗礼を受けトマス・デ・サン・アウグチノという名前を持ち、6才のとき有馬のイエズス会セミナリオに入ります。慶長19年(1614)禁教令のためマカオに追放。マカオでは祭司の位を得(叙階)、寛永7〜9年(1630-2)頃、密かに帰国し長崎奉行所に奉行の馬方として潜伏します。当時、次兵衛は「魔法を使ってたちまち姿を消す神出鬼没の男」と呼ばれ弾圧下にも盛んに布教活動を行っていました。また、常に金の鍔の脇差を持っていたところから金鍔次兵衛と呼ばれるようになります。寛永13年(1636)密告によって捕らえられ、翌14年(1637)西坂の丘で穴吊の刑に処せられ殉教します。




C-357:金鍔谷(きんつばだに)
戸町3丁目547(戸町村下郷)
金鍔谷は「谷」という名称ですが洞穴のことをいい、金鍔の由来は江戸時代初め、キリシタンであった金鍔次兵衛が潜んでいたことに始まります。現在では金鍔大師院真照寺が置かれ信仰の場所になっていますが、洞穴は当時のままの姿で残っています。この金鍔大師院真照寺ですが昭和2年(1927)真言宗の峰教順師によって建立されたもので、現在は長崎四国八十八箇所霊場の一つに数えられています。
手袋岩(てぶくろいわ)
金鍔谷と呼ばれる洞穴がある岩を手袋岩といい、戸町方向から望むと手袋(手形)の形をしていて、頂上には地蔵尊などがお祀りされています。




恵美須神社【戸町神社境内】
戸町神社末社の恵美須神社はもともと海岸近くの戸町村下郷字舟津付近にあったもので、創建は不明ですが戸町村の漁民らが古くからお祀りしたものでした。明治42年(1909)神社周辺に人家が多く立ち並ぶようになったため戸町神社境内に移転となります。
稲荷神社【戸町神社境内】
稲荷神社の創建は不明ですが、石祠に「明治廿七年舊九月十五日坂本C五郎」とあるところから当時はすでにお祀りされたものと考えられます。




C-356:戸町神社(とまち-じんじゃ)
戸町2丁目(戸町村下郷字上ノ山)
戸町神社は寛永3年(1626)第5代長崎奉行水野河内守守信の命によって戸八浦(戸町浦)に保食大神(ウケモチノオオカミ=稲荷神)をお祀りしたことに始まり、当初は松尾神社または杉ノ浦神社と称し、ささやかながらも戸町村の鎮守神として崇敬を集めます。明治維新を受け明治元年(1968)から戸町神社と改称。以降、整備が進み明治38年(1905)に社殿が完成し、明治40年(1907)からは例大祭が盛大に行われるようになります。戸町では戸町くんちと称し10月19日が祭事になっています。




戸町(とまち)
戸町という地名は、半島(長崎半島)の入口の意味から付けられた説。船の停泊地という意味の門泊(トハチ)から戸八となり戸町となった説とあり、当時、戸町の湾を戸町浦(戸八浦)とも呼んでいました。また、戦国時代など戸町氏の所領でもあり、戸町氏の城跡は現在の上戸町:宝輪寺付近といわれています。江戸期からは戸町村となり大浦郷、浪ノ平郷、上郷、下郷、蓑尾郷と分かれ大村藩の領地に属します。このほか西泊と対の関係で東泊ともいい、東泊の渓(トウハクノケイ=谷の意)という意味から唐八景の由来となったともいわれています。安政4年(1857)から幕府領(天領)となり、明治22年(1889)から西彼杵郡戸町村、大正2年(1913)から長崎市に属し、現在では海岸地区に造船所などの工業地域が、内陸部には住宅地が立ち並び南長崎の中心的地域でもあります。




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