広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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C-435:波止恵美須(はとえびす)
深堀町1-179付近(旧 深堀村)
恵比須神は恵比須、恵比寿、恵美須、恵美酒などとも書き、恵比須神とは民間信仰では七福神の一人で大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神「事代主神(コトシロヌシノカミ)」をいいます。神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、深堀地区では鮮やかな彩色が施されているのが特徴です。地区に4体お祀りされています。

野牛島(やぎじま)
長崎市深堀1丁目(旧 深堀村)
深堀と香焼の中間にある無人の島を野牛島といいます。言い伝えによると、昔、中国の商人が人参を密貿易するため野牛の腹を裂きその中に人参を隠し船で渡していたところ、これが発覚し野牛は官命によりこの島に放たれたといいます。以降、この島を野牛島と呼ぶようになり、当時はたくさんの野牛がいたといいます。




C-434:煉瓦窯跡(れんがかまあと)
深堀町1-543付近(旧 深堀村)
幕末の安政5年(1858)頃、長崎へオランダ人技師から赤煉瓦製造が伝授され日本人によって岩瀬道付近を皮切りに土井首や深堀などで赤煉瓦が製造されます。当時の赤煉瓦は現在のものより薄く細長いもので形状からこんにゃく煉瓦と呼ばれていました。日本における煉瓦製造の走りといわれています。




C-433:深堀藩薬草園・茶園跡
深堀町1-293(旧 深堀村)【県営深堀団地】
現在の深堀団地C-2付近には江戸時代、深堀家の御用藩医の深町氏が管理していた薬草園と茶園がありました。なお、深町氏は代々医業をなす家系で現在の長崎市栄町にある深町医院の先祖にあたります。




C-432:江藤新平未亡人居住の屋敷跡
深堀町1-462,464(旧 深堀村)【野川生花店】
江藤新平(1834:天保5-1874:明治7)は佐賀鍋島藩の下級武士の家に生まれ、藩校の弘道館で学びます。その後、藩に仕えるも脱藩し上京。京で桂小五郎と出会います。しかしすぐに藩に戻り、京の情勢を藩主に報告。脱藩罪は免れたものの謹慎の身となります。慶応3年(1867)倒幕の機運となり佐賀藩は新政府軍側に動き、江藤はその仲介者として薩長の中に入ります。江藤は西郷隆盛から信頼を得、明治政府誕生後は要職を歴任し司法卿に就任します。そして司法体制の整備を進めるも明治6年(1873)政変によって西郷隆盛らとともに下野し、板垣退助らと自由民権運動を起こし立憲政治を主張します。しかし帰郷することになり、一旦長崎の深堀に入ります。そうして佐賀に入り士族の反乱の鎮静を図るも逆に佐賀征韓党首領に担ぎ上げられます。そして明治7年(1874)「佐賀の乱」が勃発。しかし政府軍によって鎮圧させられ、江藤新平も捕らえられ自ら作った法律によって処刑させられます。処刑された後、夫人はこの屋敷に住していて、約40坪の屋敷に8つの部屋(一部中二階)で、玄関左に殿様竹、右に藤棚があり、梅、柿、ミカンなどの樹木と海岸には老松がありました。




C-431:御船手跡
深堀町1-460(旧 深堀村)
深堀町1丁目と2丁目の境界付近に位置する入り江は御船手と呼ばれ深堀藩の波止場跡で、佐賀藩の海軍施設があった場所でもあります。寛永年間(1624-44)佐賀藩と福岡藩は隔年で長崎港の警備にあたっていましたが、佐賀藩の警備のときは佐賀藩の支藩であるこの深堀の港が拠点となりました。当初は殿様石垣(トンサンイシガキ)と呼ばれた約100メートルの防波堤が築かれ現在でも一部残っています。




C-430:長崎県立長崎鶴洋高等学校
末石町157-1(旧 土井首村大字土井首字末石)
明治33年(1900)深堀村に長崎県水産試験場が開設され、36年(1903)平戸村に移転します。明治41年(1908)には水産講習所が開設され、付設の缶詰工場では軍用缶詰の製造が行われます。明治44年(1911)両施設は長崎公園内の交親館に移転、大正3年(1914)丸尾町に移ります。昭和10年(1935)に廃止されますが、新たに県立水産学校が設置され、12年(1937)土井首村(現 磯道町)に移転します。昭和23年(1948)新学制により長崎県立水産高等学校となります。昭和45年(1970)新校舎が完成し現在の末石町に移転します。平成18年(2006)学校改革により長崎県立長崎鶴洋高等学校と改称します。鶴洋高校は長崎県の水産業の発展に広く寄与し、多くの人材を輩出しています。




C-429:大籠(おおごもり)
大籠は深堀の南側斜面に広がる地域で、奥まった引き籠った地域という意味から名付けられたと考えられています。江戸時代は佐賀藩の支配下で肥前国彼杵郡大籠村で、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県となります。そのとき周辺3島6村と合併し深堀村となりますが、明治13年(1880)周辺の村が独立して大籠村に戻りますが、明治22年(1889)市制町村制が引かれ深堀村、大籠村、香焼村(明治31年分離)が合併し新たに深堀村になり深堀村大字大籠。昭和30年(1955)長崎市に合併し長崎市大字大籠、昭和33年(1958)大籠町になります。




C-428:深堀(ふかほり)
深堀は長崎港外の町で、鎌倉時代の建長7年(1255)上総国伊南荘深堀を治めていた深堀能仲がこの地の地頭となり戸八浦を深堀と命名したことに始まります。深堀氏は戦国時代は龍造寺氏に仕え、長崎開港後は長崎に入津する外国船にたびたび海賊行為を行ったことから秀吉から怒りを受け、鍋島氏から抑えられます。以降、江戸時代は佐賀藩の支配下で肥前国彼杵郡深堀村で、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県となります。そのとき周辺3島6村と合併し新しい深堀村となりますが、明治13年(1880)周辺の村が独立して旧深堀村に戻りますが、明治22年(1889)市制町村制が引かれ深堀村、大籠村、香焼村(明治31年分離)が合併し新たに深堀村になります。昭和30年(1955)長崎市に合併し長崎市大字深堀、昭和33年(1958)深堀町となり1〜6丁目に分けられます。




C-427:長崎県立開成学園(-けいせいがくえん)
平山台2-34-1(旧 平山村/深堀村平山名)
明治41年(1908)法泉寺住持:大塚惠暢は非行少年や少女を収容保護し、教育および矯正を行う感化事業を独力で始めます。開設直後、感化院の功績は高く評価され、同年、長崎県代用感化院に指定され、その必要性が広く一般にも認められることになります。その後、長崎開成学園と改称し、大正2年(1913)施設が手狭に成ったことから長崎県によって坂本町(現 長崎大学医学部保険学科付近)に新築移転。昭和20年(1945)原爆の影響で建物は破壊。昭和23年(1948)新制発布により長崎県立開成学園となり、昭和41年(1966)現在地に移転。平成22年(2010)には本館が新築され長崎市立南陽小学校開成分校、市立土井の首中学校開成分校も併設されます。D-302:2008/01/08参照




C-426:平山台(ひらやまだい)
平山台はもともと平山町の一部で、昭和56年(1981)に造成が始められ昭和58年(1983)に完成した新興住宅地です。翌59年には平山台と命名され1丁目と2丁目からなっています。名前の由来は平山地区の高台に位置する地域という意味で名付けられました。近年まで長崎市最南端の住宅地といわれ、隣接して旧三和町の晴海台があります。




C-425:八郎岳(はちろうだけ)
八郎岳は長崎市内で最高峰の山で標高590.1メートルを誇ります(2番目は長浦岳560.8メートル)。八郎岳の由来は平安時代の武将で弓の名手であった源為朝(通称:鎮西八郎)が瓊の浦(長崎)を目指していたところ、途中、この山に登りふもとにいた猪を狙って弓を放った場所で、以降、ここを八郎岳と呼ばれるようになったという説(猪がいた場所が猪見岳で、矢は届かず下に落ちた場所が矢落となる)。八郎岳から見下ろした山(現 兜岳)が兜の形をしていて、兜のハチに似ているところから接尾語のロと一緒になってハチロ、八郎岳になった説などがあります。




C-424:平山の大名行列(てんまんじんじゃ)
江戸時代より平山は佐賀藩深堀家の重要な穀倉地帯で、そのため土蔵蔵を設け下役人を配置するなどして監視にあたらせていました。そのため深堀家は代々、平山の氏神の大祭時には金品を奉納したり祭事には力を入れていました。慶応2年(1866)深堀の本町に住んでいた下級武士:山崎武右衛門らが深堀城下に出入りした際、大名行列に関する書物を入手。本町で振付の指南役となったといいます。以降、これが平山に伝わり、肥前浮立の流れを汲む道行浮立や虫追浮立のリズムと相まって平山独自の大名行列が生まれたものと考えられています。市無形民俗文化財。




C-423:天満神社(てんまんじんじゃ)
平山町440付近(旧 平山村/深堀村平山名)
天満神社の創建は寛永3年(1626)で平山の氏神として親しまれています。天満神社の祭神は菅原道真公で、江戸期は天満宮と称し明治維新を受け天満神社になったものと考えられます。平山は江戸時代、佐賀藩深堀領に属し、穀倉地帯でもある平山は大変重要地で、天満宮大祭の折には毎年、五穀豊穣を祈願して深堀家より金品の奉納がなされていました。

○平山地蔵堂観音堂
平山の八郎岳の登山口にお堂があります。地蔵尊像は天明4年(1784)建立、千手観音像は建立年不詳。ともに「三界萬霊」と刻された三界萬霊塔で、地域の安全や道中安全などの供養塔です。




C-422:平山(ひらやま)
平山は八郎岳と城山に囲まれた盆地で江戸時代は肥前国彼杵郡に属し、江戸時代は佐賀藩深堀領平山村で、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県となります。そのとき深堀村に合併し深堀村平山名となりますが、明治13年(1880)独立して西彼杵郡平山村となり、明治22年(1889)市制町村制が引かれ土井首村、竿浦村、平山村が合併し新たに土井首村になります。このときは土井首村平山名でした。昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字平山で、昭和24年(1949)平山町となります。地名の由来は定かではありませんが八郎岳のふもとの平地という意味、もしくは八郎岳の切り立った斜面の地域の意味と考えられます。




C-421:野母半島サイクリング道路
野母半島サイクリング道路は正式には長崎県道300号線で長崎野母崎自転車道といいます。長崎市の大波止交差点を起点とする全長約25.3キロメートルで終点は長崎市脇岬町で、野母半島を縦断する形で作られた自転車専用道路です。大波止交差点から土井の首中学校前までは一般道路併用という位置づけで、昭和55年(1980)江川町〜栄上間6.9キロメートルが完成し、平成に入って栄上〜脇岬間13.8キロメートルが完成しています。山間を走るこのコースは平均勾配5%、幅員3メートルで、長崎県民の健全な心身の育成増進を目的としていますが、かなりアップダウンが多く利用者から酷評を受けています。




C-420:大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
竿浦町650地先(旧 竿浦村/深堀村竿浦名)
大山祇神社創建は不明。古来より竿浦の氏神として親しまれています。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。また、一説には神奈川県の三浦半島を治めていた三浦氏の一族が茂木から深堀に入り深堀氏に性を代えるのですが、その際、守護神としていたのが大山祇神であったといわれています。そのため深堀と隣接し深堀氏の支配下であった竿浦に置かれたものと考えられます。




C-419:落矢水源地(おちやすいげんち)
江川町(旧 深堀村)
落矢水源地は旧香焼町が所有する提高24.4メートル、提長150メートル、貯水量28万立方メートルの重力式コンクリートダムで、現在は長崎市水道局が管理しています。昭和18年(1943)香焼島にあった川南造船所が工業用水を賄う目的で建設し、海底送水管を使って香焼島に送っていました。昭和31年(1956)川南造船所の滞納税の収用のため旧香焼村のものとなり、以降、香焼村の給水および工業用水に利用されます。水源地からは一旦、香焼小学校裏にある香焼(田浦)浄水場に送られ町内に配水されます。なお、昭和48年(1973)水源地上流部分が民間資本に買収され一時開発の危機に陥ります。そのため香焼町は開発許可を拒否し昭和52年(1977)1.6億円で買い取り今の森林が保たれました。




C-418:末石町(すえいしまち)
末石町は江戸時代、佐賀藩深堀領竿浦村に属し、明治5年(1872)深堀村に合併し深堀村竿浦名となります。明治13年(1880)西彼杵郡竿浦村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字竿浦、昭和24年(1949)大字竿浦の一部が末石町となります。町名の由来は字名末石によるもので、江川の浦の末端部分、海岸部分の意から末石という名がついたと考えられます。




C-417:八郎岳町(はちろうだけまち)
八郎岳町は江戸時代、佐賀藩深堀領竿浦村に属し、明治5年(1872)深堀村に合併し深堀村竿浦名となります。明治13年(1880)西彼杵郡竿浦村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字竿浦、昭和24年(1949)大字竿浦の一部が八郎岳町となります。町名の由来は字名八郎岳によるもので、現在は1世帯のみの町です。




C-416:江川町(えがわまち)
江川町は江戸時代、佐賀藩深堀領竿浦村に属し、明治5年(1872)深堀村に合併し深堀村竿浦名となります。明治13年(1880)西彼杵郡竿浦村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字竿浦、昭和24年(1949)大字竿浦の一部が江川町となります。町名の由来は地区を流れる落矢川が入江に入り込む場所から名付けられました。




C-415:竿浦(さおのうら)
竿浦は昔は棹浦とも書き、竿浦川を中心に八郎岳のふもとに広がる地域で昔から竹が多く分布し、南北朝時代の北朝の将:小弐頼尚の家臣:相馬小太郎がこの地で軍旗を掲げる竹竿を用意したところといわれ、のちに下流域の浦の名前を竿の浦と呼ばれるようになります。
ここは肥前国彼杵郡で14世紀以降、深堀氏の領地になり、江戸時代は竿浦村(または竿ノ浦村)となり、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属します。そのとき深堀村に合併し深堀村竿浦名となりますが、明治13年(1880)独立して西彼杵郡竿浦村となり、明治22年(1889)市制町村制が引かれ土井首村、竿浦村、平山村が合併し新たに土井首村になります。昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字竿浦で、昭和24年(1949)竿浦町ほか江川町、末石町、八郎岳町となります。




C-414:日本練炭会社長崎工場跡
(にほんれんたんかいしゃ-ながさきこうじょう-あと)
平瀬町1(旧土井首村大字土井首字平瀬)
明治33年(1900)以降、現在の平瀬町は土井首村でも早い時期に工場地帯となった場所で、石炭の開発と共に軍艦燃料の練炭工場が置かれます。大正13年(1924)工場周辺にはその火力を利用した缶詰工場が置かれ、長崎食品製造所としてトマトサージンなどの缶詰が造られました。昭和32年(1957)にはそれらの跡地は向井造船所となり、現在は中小工場や住宅地となっています。




C-413:土井首村役場跡(どいのくびむらやくば-あと)
磯道町944付近(旧 土井首村)
江戸時代は土井頸村と書き、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に属します。そのとき深堀村に合併し深堀村土井首名となりますが、明治13年(1880)独立して西彼杵郡土井首村となり、明治22年(1889)市制町村制が引かれ土井首村、竿浦村、平山村が合併し新たに土井首村になります。昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字土井首ほかに分かれ、昭和24年(1949)土井首町ほか古道町、磯道町、鹿尾町、三和町、京太郎町、毛井首町、平瀬町、米山町、草住町、柳田町になります。




C-412:浄土真宗慧日山唯念寺(-けいじつざん-ゆいねんじ)
磯道町658(旧 土井首村字迫)
江戸時代、土井首村には寺院はなく深堀村の浄土真宗円成寺、脇岬村浄福寺、そして深堀村菩提寺などの檀家となっていましたが、大正2年(1913)唯念寺が念仏道場として創建されました。現在は保育園が併設されています。




C-411:鹿尾ダム(かのおダム)
鹿尾町、古道町(旧 土井首村)
鹿尾ダムは昭和61年(1986)に完成した重力式ダムで、堤の高さ34.6メートル、堤の長さ88メートル、総貯水量114万立方メートル、一日最大7,600立方メートルの水道用水を供給しています。鹿尾川は長崎市、旧伊王島町、三菱開発の三者によって作られた水道組合によって水道用水を利用していますが渇水気には水不足、大雨時には上戸町周辺や下流域で氾濫し被害を出していました。そのため長崎市は第7次拡張事業の一環として鹿尾ダムを計画。上流にある小ヶ倉水源地とつなぎ、水位を一定に保ち(洪水吐隧道)洪水対策を講じ、あわせて貯水能力を増やしました。なお、洪水吐隧道は戸町岳の下を貫くもので直径6.9メートル、長さ354.5メートルの導水路をいいます。




C-410:真言宗鳴瀧山観音寺(-なるたきざん-かんのんじ)
鹿尾町31-2(旧 土井首村)
鳴瀧山観音寺は昭和57年(1982)に諸山照英氏によって開かれた寺院で、鹿尾川支流にある鳴滝を中心として龍神や不動明王、観音菩薩などをお祀りし、行を中心とした修行道場となっています。




C-409:大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
三和町(旧 土井首村)
大山祇神社創建は不明。古来より土井首の氏神として親しまれています。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。また、一説には神奈川県の三浦半島を治めていた三浦氏の一族が茂木から深堀に入り深堀氏に性を代えるのですが、その際、守護神としていたのが大山祇神であったといわれています。そのため深堀と隣接し深堀氏の支配下であった土井首に置かれたものと考えられます。




C-408:猪見岳(ししみだけ)
鶴見台団地の北側にそびえるご飯を盛ったような形の山をカギ山または猪見岳といいます。平安時代の武将:源為朝(通称:鎮西八郎)は、幼い頃より剛勇で弓の名人といわれ、父のために京を追われ13才で豊後(大分県)にたどり着きます。その後、九州の豪族を束ね自らを鎮西八郎為朝と名乗り朝廷にも反発していましたが、保元の乱で伊豆大島に流されます。その後、琉球へ逃れるため陸路、瓊の浦(長崎)を目指し、途中、この八郎岳に登ったといわれています。為朝は八郎岳の頂上よりふもとにいた猪を狙って弓を放ち、その猪が見えた場所が猪見岳で、その矢は届かず下に落ち、その矢が落ちたところが矢落という地名になりました。




C-407:鶴見台(つるみだい)
鶴見台は昭和50年(1975)新たに造成開発された住宅地で土地区画整理事業として誕生しました。もともとは米山町の内で当初は米の山ニュータウンとして売り出され、昭和54年(1979)住居表示によって鶴見台1丁目と2丁目が誕生します。地名の由来は長崎港の別称である「鶴の港」が見下ろせる街ということで鶴見台となりました。




C-406:柳田町(やなぎだまち)
柳田町は江戸時代、佐賀藩深堀領土井頸村に属し、明治5年(1872)深堀村に合併し深堀村土井首名となります。明治13年(1880)西彼杵郡土井首村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字土井首、昭和24年(1949)大字土井首の一部が柳田町となります。町名の由来は小字名柳田からなるもので、付近に流れる川を矢の井または谷ナ井といい、そこにひろがる田地から「ヤナイダ」となり柳田となりました。




C-405:草住町(くさずみまち)
草住町は江戸時代、佐賀藩深堀領土井頸村に属し、明治5年(1872)深堀村に合併し深堀村土井首名となります。明治13年(1880)西彼杵郡土井首村となり、昭和13年(1938)長崎市に合併し長崎市大字土井首、昭和24年(1949)大字土井首の一部が草住町となります。町名の由来は小字名草住からなるもので、以前まではクとは窪地を意味し、スミは角地の意味がありそこから草住となったいわれていますが、山を越えた千々町には草積御前伝説があります。




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