広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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C-454:峰邸跡(みねてい-あと)
深堀町5-248?(旧 深堀村)
鎌倉時代の建長7年(1255)領主となった深堀能仲がこの地に入ったとき、ともに深堀入りした家臣三人には二十四の流れがあり、そこには総勢316人あまりの家来を従えていました。その中で筆頭家臣は峰民部左衛門尉光信といい、その直系子孫が峰彌次右衛門で、その屋敷がこの地にありました。峰彌次右衛門は文武両道の腕前で如松の異名を持っていました。文政2年(1819)ごろは深堀家の筆頭目付となり、幕末から明治、戊辰戦争の際には深堀の殿様に従い京、福井、江戸、仙台、秋田などに遠征し功績をあげます。また、藩財政の立て直しにも尽力し、江藤新平の軍事顧問も務めました。ここは江藤新平が佐賀の乱を発起した場所です。




C-453:西屋敷跡(にしやしき-あと)
深堀町5-210(旧 深堀村)
西屋敷は武家屋敷の西側に位置する役屋敷を意味し、通称でお西と呼ばれていました。ここには深堀家第二家老の田代喜左衛門の屋敷跡でした。田代喜左衛門は深堀騒動の際、高木邸に駆けつけ深堀勢の総指揮官を取った人物で、引き上げる際には火鉢にこたつ、かまど等の火の用心をして引き上げた周到な人物でした。また、喜左衛門は騒動の後、さやに刀が収まらなかった者に対し「死骸に当てて叩き候へ」と教え収めさせたといいます。なお、屋敷西側には武道場がありました。また、西屋敷の地は日本赤十字社の創設者:佐野常民の祖父の生誕地でもあります。




深堀猪之助の言い伝え
江戸時代、長崎に入津する船は香焼島と深堀の間を航行し、深堀藩に敬意を払うため帆を下してゆっくりとしたスピードで通過し、積み荷の一部を御礼として徴収することが通例となっていて、のちに通行料という形に変わります。これはわが国における税関の先駆けともいえる行為ですが、あるとき薩摩島津藩の船が帆を下さず航行していたため家老が弓を引くと、薩摩の船の帆綱にあたり帆が落ちてしまいます。これに怒った島津の武士が上陸し、家老の家に向かうと一人の足軽が玄関の柱を軽々と持ち上げ掃除をしていました。それを見た島津の武士は、足軽ごときでこのような力を持つとはさぞ主人は強靭な男に違いないとあわてて帰ったといいます。しかし、この足軽こそがわざと足軽の格好をした家老の猪之助だったそうです。




C-452:中屋敷跡(なかやしき-あと)
深堀町5-198(旧 深堀村)
中屋敷は武家屋敷の中間に位置する役屋敷を意味し、ここには深堀家筆頭家老の深堀猪之助の屋敷でした。この深堀猪之助ですが大変な豪傑で、地元では「猪之助百石、言うた口は変わすな」という名言があって、深堀の殿様からも絶大なる信頼を得ていました。これは柳川藩との一戦で深堀の殿様が柳川藩の立花三太夫を槍で仕留めたとき、三太夫は槍を引き絞り刀で襲いかかります。それを見た猪之助は「お手元三寸お下げなさい」と叫び、殿様は難を逃れたといいます。この功績に殿様は「猪之助百石」と称賛し、猪之助はそのお言葉に対し「言うた口や変わすな」と答えたといいます。




C-451:喜多佐左衛門宅跡(きたさざえもん-たくあと)
深堀町5-204(旧 深堀村)
喜多左左衛門は元禄13年(1700)に起こった深堀騒動のいわゆる十人義士の一人で、深堀勢一番駈十人組の一人でもあります。深堀騒動の際、高木邸門前で開門を叫び、返事がなかったため塀を乗り越え開門させ、さらには主人である高木彦右衛門を大袈裟懸けに切り伏せた人物です。翌年、ことの責任を取って切腹。享年30.
深堀騒動が起こる元禄13年(1700)12月19日という日は喜多佐左衛門の祝言が間近に迫っていた日で、深堀三右衛門や柴原武右衛門らが甥である喜多左左衛門のために買い物に出ていた途中に天満坂で高木家の仲間と出会ったのでありました。喜多左左衛門の討ち入りでの働きはまさにその思いが吐き出された結果と思えるものです。




C-450:荒木権内・文八郎宅跡(あらきごんない/ぶんぱちろう-たくあと)
深堀町5-196(旧 深堀村字東本町)
荒木権内は元禄13年(1700)に起こった深堀騒動のいわゆる十人義士の一人で、翌年、ことの責任を取って長崎の五島町にあった深堀屋敷内で切腹しました。享年41。
荒木文八郎は明治初年に起こった戊辰戦争において佐賀藩主の鍋島孫六郎に従い、明治政府の九条総督や醍醐副総督の警護に当たります。しかし、新政府軍に最後まで抵抗した庄内軍との交戦で秋田県男鹿村で戦死します。




C-449:東屋敷跡(ひがしやしき-あと)
深堀町5-191,2(旧 深堀村字東本町)【樋口宅】
東屋敷は陣屋の東側に位置する役屋敷を意味し、通称でお東と呼ばれていました。ここには深堀家第三家老の樋口氏の屋敷で、現在もその子孫の所有です。門や石垣などは当時のままで深堀の代表的な風景になっています。




C-448:深堀武家屋敷跡(ふかほりぶけやしき-あと)
深堀町5-191(旧 深堀村字東本町)【樋口宅】
碑文「寛永末年以降(1641)長崎港警備の任に当たった鍋島深堀氏が整備した深堀陣屋を中心に形成された城下町で今も藩屋敷、東屋敷、中屋敷、西屋敷等の地名がのこっている。昭和54年3月 長崎市




C-447:役屋敷跡(やくやしきあと)
深堀町5-194西側(旧 深堀村字東本町)【三好宅ほか】
役屋敷では民事、刑事などの事件や願い事などの仕事を専決し、のちに領主に報告承認を求めていました。明治維新後の廃藩置県によって役所は廃止され、明治5年(1872)民間に払い下げられ個人所有となります。その後、峰彦童という人物が海事思想普及のための学校:俗に「彦さん学校」と呼ばれた学校を始め、兵部省より教育教材などを提供を受け、さらにはボート数隻を備え訓練がなされていました。これは土佐藩の海援隊を模したものといわれています。校舎は洋館2階建でした。




C-446:江藤助右衛門屋敷跡(えとうすけえもん-やしきあと)
深堀町5-182(旧 深堀村字東本町)【長崎市役所深堀支所】
江藤助右衛門とは江藤新平の父で、江藤助右衛門と江藤新平夫人の千代子の父:江口央助がこの地で生まれました。つまり、江藤新平夫妻は従兄妹(イトコ)という間柄ということになります。




C-445:深堀遺跡(ふかほりいせき)
深堀遺跡は深堀町5丁目の海岸部一帯に分布する遺跡で別名を本町古墳群といいます。昭和27年(1952)頃から進められた造成工事などで発見されました。遺跡は縄文時代、弥生時代、古墳時代のそれぞれの特徴を持つ墓所や、弥生時代の貝塚、縄文式土器や弥生式土器、古墳時代の土師器、須恵器、弥生時代の鉄製刀子や二枚貝の貝輪が出土しています。また、弥生中期の人骨も20体見つかっています。現在、出土品の多くが深堀貝塚遺跡資料館に展示されています。




深堀神社一の鳥居【深堀神社境内】
深堀神社はもともと両部神道の寺院で幸天宮と呼ばれ、一の鳥居ではなく山門としての石神門があって、神門は寛文3年(1663)第21代深堀志摩守茂春によって建立されました。しかし、文政12年(1828)の台風によって倒壊したため天保8年(1837)現存の一の鳥居が建立されます。鳥居には深堀の沿革が刻され深堀を知るうえで大変史料価値の高い鳥居といえます。市指定文化財




敬神の碑(けいしんのひ)【深堀神社境内】
昭和30年代、深堀の亀崎地区の亀崎自治会の会長:北園勝太郎は深堀神社と八坂神社の境内整備のためと多額の寄付を行いました。それに対し神社を統括する当時の神社本庁統理である鷹司信介は、敬神の心が素晴らしいと昭和32年(1957)表彰状を送り、ここに「敬神の碑」が建てられました。




十人義士祠(じゅうにんぎし-し)【深堀神社境内】
元禄13年(1700)12月19日夕刻、天満坂(現 法務局横)において深堀藩士2名が、当時財力と権勢を誇った町年寄:高木彦右衛門の一行とすれ違った際、誤って泥はねをして着物を汚したことに始まります。その夜、高木家の武士が深堀家屋敷(現 中村倉庫ビル)に仕返しに行き、武士の魂といわれる刀を奪い屋敷を荒らして帰ります。一方、今度は翌朝、深堀から多勢を引き連れ高木邸に屈辱を晴らしに向います。これは町年寄という立場であったが町人である高木彦右衛門に対し、武士である深堀藩士が面目を晴らす意味がありました。高木彦右衛門を始め多くの者は討たれ討ち入りが終わります。当事者の2名(深堀三右衛門、志波原武右衛門)は高木邸と大橋(現 鉄橋)の上で切腹、討ち入りに参加した他の藩士は切腹や島流しになりました。このうち切腹した10人を「深堀義士十人義士」といい深堀神社にはその霊をお祀りしています。




深堀純賢公への殉死者祠(ふかほりすみまさこう-)【深堀神社境内】
戦国時代、深堀氏は龍造寺氏の家臣となって有馬氏と敵対していました。しかし天正12年(1584)の島原進攻で有馬島津連合軍によって沖田畷で龍造寺隆信は戦死ししたため勢力が弱まり、島津勢は深堀を攻め込みます。深堀勢は撃退させますが、その後、長崎に進駐し3年間、長崎、浦上を占領します。天正15年(1587)秀吉による国割が行われ深堀氏や龍造寺氏などは旧領を安堵されます。しかし以前より深堀氏は長崎港に入る外国船に対し海賊行為を改めなかったことから秀吉の怒りを買い所領が没収され、鍋島藩の所領となります。当時の領主が鍋島純賢/左馬助/茂宅でのちの第18代深堀純賢です。純賢は秀吉の命により朝鮮出兵に参加しています。元和5年(1619)享年73。
この祠はその純賢に仕えた家臣で、森義海、江口節桂、田代涼雲の霊です。




戦没記念碑(せんぼつきねんひ)【深堀神社境内】
戦没記念碑には明治時代末期に活躍した陸軍中将で男爵の西島助義の書とあるところから、おそらく日清、日露戦争で戦没した深堀地区の人々を慰霊する碑と考えられます。

○常夜灯(じょうやとう)
常夜灯には「俵石山(現 城山)八幡宮/天保8年惣家中」と刻されているところから、城山山頂にお祀りされている八幡宮のもので、天保8年(1837)に深堀家の家臣らによって建立されたことが分かります。




招魂廟(しょうこんびょう)【深堀神社境内】
招魂廟は明治3年(1870)に建立された祠で、深堀地区で幕末から明治にかけて国家のため殉難した人々の霊をお祀りする神社と考えられます。

○稲荷神社
稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神です。

○天満宮
祭神は菅原道真公。鳥居は天保13年(1842)建立。




三浦神社(みうらじんじゃ)【深堀神社境内】
三浦一族とは桓武天皇の子孫、平家の流れをくむ村岡為通(タメミチ)を祖とし、平安時代、源頼義に従い数々の功績により三浦半島(神奈川県)を所領し三浦姓を名乗り衣笠に居城します。治承4年(1180)三浦大介(オオスケ)義明は源頼朝の挙兵に応じ合戦向かうも間に合わず、平家方に衣笠城を攻撃され落城。義明は討死し、一族は安房(千葉県)に逃れます。源頼朝は三浦一族を自らの軍に引き入れ、後に鎌倉幕府を開くのです。しかし、第2代頼家の死後、北条氏と対立し謀略によって三浦氏は西国へと流され、それが茂木北浦に流れ着き、戸八浦(戸町)、さらに深堀に入り深堀を性とします。慶応3年(1868)第29代深堀茂精は神祇道庁に祖始を祭神とすることを請い、翌年、認められて正式に三浦(深堀)大明神となり、館林大明神と日正大明神と合祀し創建となります。祠は明治10年(1877)建立。昭和49年(1974)再建。




C-444:深堀神社(ふかほりじんじゃ)
深堀町5-181(旧 深堀村字東本町)
深堀神社の創建は不明ですが、鎌倉時代の建長7年(1255)領主となった深堀能仲がこの地に入ったときにはすでにお祀りされていたといいます。当初は現在の深堀小学校の地にあって名称も幸天宮といい、明治維新により深堀神社となり、以降、深堀村の鎮守神として大切にされます。祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)で二神は夫婦です。寛文3年(1663)には第21代深堀志摩守茂春によって石神門の建立記録があり、文政12年(1828)台風によって倒壊したものの天保8年(1837)現存の一の鳥居が建立されています。明治7年(1874)〜19年(1886)ごろ小学校建設のため神社は現在地に移転し今に至ります。




薬師如来堂(やくしにょらいどう)
深堀町4-85付近(旧 深堀村)
薬師如来をお祀りするお堂です。

凱龍白髭大明神(がいりゅう-しらひげだいみょうじん)
深堀町4-38付近(旧 深堀村)
凱龍白髭大明神は深堀町4丁目にある稲荷神社で創建は不明。白髭稲荷大明神は滋賀県高島市に鎮座する白髭神社を本社とする神社の別称で猿田彦神が祭神です。境内には水神、荒神、稲荷神、粟島大神、八大龍王、八幡大神、太神宮、土神などの神さまがお祀りされ、鳥居には「蔵人神社」と刻された神さまもあって民間信仰の神社と考えられます。




玉林山毘沙門天(ぎょくりんざん-びしゃもんてん)
深堀町4(旧 深堀村)【古城公園付近】
古城公園周辺は深堀地区の墓所で、昔から多くの供養塔などが建てられています。三界萬霊塔には寛延3年(1750)建立とあり、のちに玉林山毘沙門天が明治33年(1900)に地元民の寄付によって建てられました。
なお、毘沙門天は七福神の中の一つで、別名を多聞天といいます。仏法守護の神で甲冑(カッチュウ)を付け右手に宝塔を捧げ、左手に矛を持っています。財宝を施す神と信じられています。




C-443:御制札跡(おせいさつ-あと)
深堀町3-162(旧 深堀村)
制札は幕府や藩などから村民への広報や禁止事項や布告などを掲示する掲示板で、村の中で一番往来が多い場所が選ばれます。




萬霊塔(ばんれいとう)【円成寺境内】
萬霊塔は天保12年(1841)建立されたもので、碑文には寛永19年(1642)から天保12年(1641)までの200年間に長崎の警護についていた深堀藩の船番(水主)で、殉死した方々の霊を弔うために建立されたものです。
碑文「自寛永十九年壬午歳二百年間長崎御番手舸子為死亡者被建立吊者也/天保十二辛丑冬十月




C-442:江口宗善屋敷跡(えぐちそうぜん-やしきあと)
深堀町4(旧 深堀村)【古城公園付近】
江口宗善は幼名を十作、村吉といい、江藤新平夫人の弟にあたります。佐賀の儒学者:草場佩山(ハイザン)を師事し武術では直心流、体術では竹内流の目録を得ています。江藤新平が佐賀の乱を失敗したのち、薩摩、土佐へ同行した人物でもあります。




C-441:円成寺の梵鐘
円成寺の梵鐘は第6代住持:寛嶺のころに深堀村民の寄進によって建立されて物で、鋳物師は阿山弥兵衛国久によるものです。
阿山家は代々鋳物師で有名な家で鍛冶職人街であった鍛冶屋町に屋敷を構えていました。初代の阿山助右衛門国久は寛永17年(1640)から慶安4年(1651)の間に祟福寺のほか興福寺や晧台寺、本蓮寺、諏訪神社などの梵鐘の鋳造や(現存は祟福寺のみ)、「大波止の大砲の玉」といわれる石火矢玉を造ったといわれていて、阿山弥兵衛国逵(クニキ?)においては祟福寺の大釜や円福寺の梵鐘、阿山弥兵衛国久においては本河内青銅塔、阿山弥五左衛門国久は茂木:円成寺の梵鐘を造っています。このほかにも作品があったのですが第二次大戦で供出されてしまいました。市指定有形文化財




C-440:浄土真宗亀登山円成寺(-きとざん-えんじょうじ)
深堀町3-68(旧 深堀村)
円成寺の創建は不明で、寛保3年(1743)に第6代住持:寛嶺が建立したといわれる梵鐘があるところから、創建は江戸時代初期と推測されています。また、当時、浄土真宗の寺院は近隣の村々にはなく、そのため円成寺の檀徒は土井首村や平山村など広範囲に及んでいました。




C-439:恵美須神社(えびすじんじゃ)
深堀町2-214(旧 深堀村)【船津公民館内】
恵比須神は恵比須、恵比寿、恵美須、恵美酒などとも書き、恵比須神とは民間信仰では七福神の一人で大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神「事代主神(コトシロヌシノカミ)」をいいます。神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、深堀地区では鮮やかな彩色が施されているのが特徴です。ここには龍神宮(大正6:1917年建立)も合わせてお祀りされています。龍神さまは水の神さまです。




C-438:恵美須神社(えびすじんじゃ)
深堀町2-169(旧 深堀村)
恵比須神は恵比須、恵比寿、恵美須、恵美酒などとも書き、恵比須神とは民間信仰では七福神の一人で大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神「事代主神(コトシロヌシノカミ)」をいいます。神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、深堀地区では鮮やかな彩色が施されているのが特徴です。ここには恵美須さまが大小合わせて4体いらっしゃいます。




C-437:亀王社/亀王塚(かめおうしゃ/かめおうづか)
深堀町2-169(旧 深堀村)
俊寛僧都(康治2:1143〜治承3:1179頃)は後白河上皇の近臣で、治承元年(1177)俊寛の鹿ヶ谷の山荘で大納言の藤原成親(-ナリチカ)が中心となって、俊寛僧都、西光法師、平康頼らで平家の打倒を計画。しかしこれが平清盛に知られてしまい直ちに処罰されます(鹿の谷事件:シシノタニ-ジケン)。西光法師は斬殺、首謀者の藤原成親は備前(岡山県)児島に、俊寛僧都、平康頼らは硫黄島に流されます。数年後、高倉天皇の皇后が懐妊。その恩赦で罪を許され都に戻りますが、俊寛僧都のみが許されず島に残されます。この流された先が長崎の伊王島(他説あり)といわれ、童僕(=しもべ)の有王(アリオウ)と亀王(カメオウ)がその後、京より追ってきた際、この地でイオウ島を望み涙した場所といわれ、いつしかこの岬を亀ヶ先と呼ぶようになります。なお、俊寛僧都が没した文治2年(1186)4月22日から祭礼は4月22日と定められています。




C-436:八坂神社(やさかじんじゃ)
深堀町1付近(旧 深堀村)
八坂神社は京都の八坂神社を本社とする須佐之男命をお祀りする神社で、須佐之男命は祇園天神(ギオンテンジン)または牛頭天王(ゴズテンノウ)ともいいます。八坂神社を祇園社(天王社)といい、お祭を祇園祭といいますがそれはここから来ています。




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