広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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C-480:八幡神社(はちまんじんじゃ)【城山山頂付近】
鎌倉時代の建長7年(1255)上総国伊南荘深堀を治めていた深堀能仲はこの地の地頭となり戸八浦を深堀と改称しますが、その下向の際、鎌倉にある鶴岡八幡宮の御分霊をお祀りしたのがこの八幡神社の創建となります。ここは三浦(深堀)一族の守護神です。境内には神籠石といって直径2メートルほどの石があって石器時代の祭儀に使ったものと考えられています。
※一の鳥居は現在の秋葉社があったところで幕府時代の煙硝庫があった場所です。

愛宕神社(あたごじんじゃ)【城山中腹】
祭神は火の神の火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)といい昔から深堀の鍛治町(現3丁目)の住民によって祭事が行われ獅子舞がなされています。愛宕神社の創建は不明ですが、その昔、和寇などは山の上で火を焚きそれを目印に航行していたともいわれ、瀬戸内海の村上水軍、平戸の松浦党そして、水軍の流れを汲む三浦氏も同様なことをしていたと考えられています。そのため三浦氏が深堀の地に入った当時からここに愛宕神をお祀りしたものと考えられます。




C-479:城山/俵石山(じょうやま/たわらいしやま)
城山は深堀地区の南、平山の西にそびえる標高約350メートルの山で、山頂に鉢巻状に構築され城塁の形をしている岩があるところからこの名がつきました。また、これらの岩を俵石ともいい別名を俵石山といいます。鎌倉時代の建長7年(1255)将軍宗尊親王は三浦(深堀)氏に彼杵荘戸八浦を与えた際、10万石の諫早領と名城城山を取るかを迫り、三浦氏がこの城山を取ったという言い伝えが残っています。また、この城塁を使って第二次大戦時にアメリカ軍の上陸を備えて立射散兵壕が築かれています。このほか5条の空堀などもあります。

〇俵石(たわらいし)
俵石は城山山頂の南東にある直径約30センチメートル、長さ約1〜1.5メートルほどの石で、地中に規則正しく配列され数十本が確認できます。古代人が祭儀のために使用したものか柱状節理といわれる自然現象によるものかはっきりしていません。

〇亀石(かめいし)
亀石は別名を簡笥(タンス)石といい、俵石の近くにある約2メートルほどの石で亀の甲羅のような模様があります。これも人工物か天然のものかわかっていません。




C-478:善長谷教会(ぜんちょうだにきょうかい)
大籠町(旧 大籠村)
明治6年(1873)明治政府はキリシタン高札を下ろす太政官布告を出し浦上四番崩れで各地に分謫した信者の帰還が始まります。善長谷では公然とキリスト教徒として立つことへの話し合いがなされるのですが、一部で今まで自分たちで祀ってきた神を信仰し改宗はしない派が生まれます。これによりカトリック教徒として改宗する者は善長に残り、ほかは蚊焼の岳路に移住するという事態となります(離れ切支丹といいます)。明治28年(1895)木造の聖堂の建てられ、老朽化のため昭和27年(1952)に再建されました。無原罪の聖母カトリック善長谷教会といいます。




C-477:善長谷のキリシタン
文化年間(1804-18)三重の樫山に住んでいたキリシタンは庄屋や仏教徒らからの差別や嫌がらせのため佐八ら6家族は旅役者を装って野母半島を転々とし、やがてこの地にたどりつきます。しかし住み着くには地元の八幡神社の祭礼と藩主への水汲みを条件とされ、表向き菩提寺の檀徒として参加することになります。安政3年(1856)の浦上三番崩れでは善長谷も例外ではなく厳しい弾圧、流罪に処せられました。善長の由来は一説には、異教徒のことをラテン語ではゲンチリス、フランス語ではゼォンチ、スペイン語ではゼンチル、ポルトガル語ではゼンチョというところから、善長と訛ったものとも考えられていて、初めは彼らが仏教徒に対しゼンチョといい、その仏教徒の住む谷を「ゼンチョの谷」といったことが後に自分たちの住む地名になっていったものと考えられています。




C-476:善長谷(ぜんちょうだに)
大籠町(旧 大籠村)
善長谷は城山の中腹に位置する集落で元は禅定谷と称し、一説には城山中腹にある座禅石が由来といわれています。江戸時代初期、菩提寺第6住持:賢外普門はこの岩の上で座禅し、そこで悟りを開いたところからこの谷を禅定谷と呼び、それが訛って善長谷となったといわれています。

〇座禅石(ざぜんいし)
菩提寺第6代住持:賢外普門が座禅をして悟りを開いたといわれる石で善長谷の由来ともなった石でもあります。座禅をしたであろうと想像される境石を持って仕切ってあります。

〇藩主の水
座禅石の東にある泉は江戸時代、善長谷のお水方が深堀藩主のために取水して届けていた泉です。




C-475:三浦神社(みうらじんじゃ)
大籠町778付近(旧 大籠村)
三浦一族とは桓武天皇の子孫、平家の流れをくむ村岡為通(タメミチ)を祖とし、平安時代、源頼義に従い数々の功績により三浦半島(神奈川県)を所領し三浦姓を名乗り衣笠に居城します。治承4年(1180)三浦大介(オオスケ)義明は源頼朝の挙兵に応じ合戦向かうも間に合わず、平家方に衣笠城を攻撃され落城。義明は討死し、一族は安房(千葉県)に逃れます。源頼朝は三浦一族を自らの軍に引き入れ、後に鎌倉幕府を開くのです。しかし、第2代頼家の死後、北条氏と対立し謀略によって三浦氏は西国へと流され、それが茂木北浦に流れ着き、戸八浦(戸町)、さらに深堀に入り深堀を性とします。
この近くには箱式石棺があり切り石によって気づかれたものです。




C-474:新田神社(にったじんじゃ)
大籠町(旧 大籠村)
新田神社の創建は不明で、祭神は新田義興公。新田家は清和天皇を祖とする一族で上野国新田荘を領し、南北朝時代の武将:新田義貞の第二子が義興となります。義興はのちに新田一族を率い南朝の再興に尽力し足利尊氏を鎌倉に攻めますが、正平13年(1358)足利軍の卑怯な策略によって多摩川の矢口渡から船に乗ったところを両岸から襲撃を受け最期を遂げます。しかし義興の怨霊が加担した者に襲い掛かり、その後も矢口付近に「光り物」が現れ往来の者を悩まします。そのため付近の者が祠を建て新田神社の創建となります。以降、武運の神として崇められます。
なお、新田義興が倒れる100年くらい前に深堀の地に新田正久という人物が住してあると記録があるが、正久がどういう人物かは不明。




C-473:遠見番所跡(とおみばんしょ-あと)
深堀町6(旧 深堀村)
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、特に深堀ー香焼島間は長崎に入津する外国船が航行することもあって、香焼島の遠見台と常に連絡を取り警戒にあたっていました。そしてこの海峡では深堀藩に敬意を払うため帆を下してゆっくりとしたスピードで通過し、積み荷の一部を御礼として徴収することが通例となっていて、のちに通行料という形に変わります。これはわが国における税関の先駆けともいえる行為です。現在、遠見番所の形跡はなく香焼との送電線塔が立っている付近といわれています。




C-472:有王塚(ありおうづか)
深堀町6-115地先(旧 深堀村)
俊寛僧都(康治2:1143〜治承3:1179頃)は後白河上皇の近臣で、治承元年(1177)俊寛の鹿ヶ谷の山荘で大納言の藤原成親(-ナリチカ)が中心となって、俊寛僧都、西光法師、平康頼らで平家の打倒を計画。しかしこれが平清盛に知られてしまい直ちに処罰されます(鹿の谷事件:シシノタニ-ジケン)。西光法師は斬殺、首謀者の藤原成親は備前(岡山県)児島に、俊寛僧都、平康頼らは硫黄島に流されます。数年後、高倉天皇の皇后が懐妊。その恩赦で罪を許され都に戻りますが、俊寛僧都のみが許されず島に残されます。この流された先が長崎の伊王島(他説あり)といわれ、童僕(=しもべ)の有王(アリオウ)と亀王(カメオウ)がその後、京より追ってきた際、この地でイオウ島を望み涙した場所といわれ、付近の地域を有王から有海と称します。




C-471:御蔵内(おくらない-あと)
深堀町5(旧 深堀村)
深堀の西側に位置する船溜まりを御蔵内といいます。江戸時代からの船着き場で、深堀屋敷に上納米としての収支や御蔵に関係のある船が入港する港でした。そのため藩の警備船など兵船は東側の御船手に入っていました。




C-470:三官の墓(さんかんのはか)
深堀町5-465(旧 深堀村)
慶長年間(1596-1615)菩提寺第3代住持:一応芳純に帰依する渡来唐人が急増し菩提寺の近くには唐人町ができるほどでした。そして林五官もその一人で、この墓所は兄である林権三郎のもので、戒名は「慧林芳賀」で天和5年(1619)没で、林五官が建立しました。※三官、五官は官職名ではなく日本の三郎、五郎の意




C-469:五官の墓(ごかんのはか)
深堀町5-401(旧 深堀村)
呉五官は中国南部の節川県の出身の商人で、慶長11年(1606)から元和2年(1616)までカンボジアから北ベトナムなどへ朱印船貿易を行います。慶長年間には菩提寺第3代住持:一応芳純に帰依し大壇越として菩提寺を支え、明の第16代皇帝の天啓帝作といわれる一六羅漢が刺繍された「九条の袈裟」を寄進しています。墓所は寛永年間(1624-1644)に建立されたものと考えられています。市指定史跡




C-468:菩提寺歴代住持墓地【菩提寺境内】
菩提寺後山には歴代住持の墓所があって、開山の朝山芳暾(ホウトン)は熊本長洲出身で島原から布巻に入りそののち菩提寺の開山となります。第3代一翁芳純は深堀家の類族で、第7代天瑞万gは隠元に大門の額、即非に医王殿の額の字をそれぞれ揮毫を受け、たびたび木庵や即非との交流がありました。




C-467:深堀鍋島家墓地【菩提寺境内】
解説版より
江戸時代に佐賀藩の家老職を務めた深堀鍋島家(6000石)歴代の墓地である。深堀家の始祖は、三浦仲光、といい上総国深堀荘(現・千葉県夷隅郡大原町)の地頭であったが、その子能仲の時の建長7年(1255)肥前国戸(町)八浦(現・長崎市戸町とその周辺)の地頭として下向して以来、長崎半島の全域を支配するようになった。しかし、18代純賢(スミマサ)の時に、佐賀藩の支配に属し、深堀姓を鍋島姓に改めた。この墓地には、19代(深堀鍋島家2代)茂賢(シゲマサ)の、領主とその夫人や一族など、41基がある。




C-466:深堀義士の墓所【菩提寺境内】
解説版より
元禄13年(1700)12月19日、深堀家の家臣深堀三右衛門(69歳)と柴原武右衛門(59歳)の二人は、町年寄高木彦右衛門の仲間惣内と大音寺坂(万才町から賑町に下る坂道)で喧嘩となった。喧嘩の原因は雪解けのぬかるみで三右衛門の杖が滑り、そのはね泥が惣内の合羽にかかったというものであった。
高木彦右衛門は、当時、唐蘭商売元締の役職で長崎貿易を一手に牛耳り“飛ぶ鳥をも落とす勢い”とまで言われた。また、この日は高木家では無礼講の宴会があり、惣内は相当に酔っていたといわれる。その場はなんとか納まったものの、その日の夕刻、惣内は朋輩等と浦五島町(現五島町)の深堀屋敷に押しかけ、三右衛門と武右衛門の大小を奪ってしまった。事ここに至って三右衛門と武右衛門は、武士の面目をかけて討ち入りを決意、19人もの応援を得て、20日夜明けとともに、西浜町(現浜町)の高木邸に討ち入り、彦右衛門をはじめ仲間多数を討ち果たした。
討入り後、三右衛門は高木屋敷で、武右衛門は大橋(現在の鉄橋)でそれぞれ切腹したが、翌14年3月21日第一次応援の10人、は切腹、9人は五島に遠島(宝永6年(1709)赦免となる)とそれぞれ処せられた。この討入りは、大石内蔵助も家来を遣わすなど吉良邸討入りの参考にしたという。
なお、墓碑は全部で21基あり、真中に三右衛門と武右衛門、向かって左に第一次応援の10人、右に第二次応援の9人の墓碑がある。




C-465:十人義士供養塔【菩提寺境内】
十人義士供養塔は討ち入り後に責を取って切腹した10人のための供養塔で元禄14年(1701)に建立されました。供養塔の上段には観音経が刻され、中段に戒名、下段に俗名が刻され、10人の墓所を見下ろす形で建てられています。供養塔の向かって右側に深堀義士碑銘があります。




C-464:深堀義士碑銘(ふかほりぎしひめい)【菩提寺境内】
元禄13年(1700)12月19日夕刻、天満坂(現 法務局横)において深堀藩士2名が、当時財力と権勢を誇った町年寄:高木彦右衛門の一行とすれ違った際、誤って泥はねをして着物を汚したことに始まります。その夜、高木家の武士が深堀家屋敷(現 中村倉庫ビル)に仕返しに行き、武士の魂といわれる刀を奪い屋敷を荒らして帰ります。一方、今度は翌朝、深堀から多勢を引き連れ高木邸に屈辱を晴らしに向います。これは町年寄という立場であったが町人である高木彦右衛門に対し、武士である深堀藩士が面目を晴らす意味がありました。高木彦右衛門を始め多くの者は討たれ討ち入りが終わります。当事者の2名(深堀三右衛門、志波原武右衛門)は高木邸と大橋(現 鉄橋)の上で切腹し、討ち入りに参加した他の藩士のうち切腹は8人、島流しは9人となりました。
この碑はその記録として昭和9年(1934)に建立。文は当時の深堀村長:志波原三郎によります。




C-463:深堀俵石城世官石碑銘并序
(ふかほりたわらいしじょう-せかんせきひへいじょ)【菩提寺境内】
俵石とは菩提寺後方に広がる小高い山、城山の山頂付近ある石をいい、その石は山頂に鉢巻状に構築され城塁の形をしているところが城山(ジョウヤマ)の名前のゆえんとなりました。鎌倉時代の建長7年(1255)将軍宗尊親王は三浦(深堀)氏に彼杵荘戸八浦を与えた際、10万石の諫早領と名城城山を取るかを迫り、三浦氏がこの城山を取ったという言い伝えが残っています。この石碑は三浦氏の起源やそのことが刻されています。




C-462:曹洞宗金谷山菩提寺(きんこくざんぼだいじ)
深堀町5-417(旧 深堀村)
言い伝えでは寛喜元年(1229)三浦五郎左衛門尉平能仲によって創建され、以降、三浦家(のちの深堀家)の菩提寺として大切にされた寺院で、当初は真言宗寺院でのちに天台宗となり、天正年間(1573-1592)禅宗の曹洞宗となりました。戦国時代に戦火に遭い、また、寛永年間(1624-1644)には宝物ほか三浦家の家系図や様々な記録が焼失したため開山から300年間の状況が不明なままです。記録には享禄4年(1531)僧:朝山芳暾(ホウトン)によって開山され、寺町にある晧台寺に次ぐ寺格で、本尊は伝:慈覚大師作「薬師如来像」。このほか隠元禅師書の額などがあります。




C-461:経塚(きょうづか)
深堀町5-139?(旧 深堀村)【深堀小学校西側付近】
馬場崎(菩提寺門前)には経塚があって、念仏廻向之塔、一字一石塔ともいいます。一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、亀王塚にあった経塚が埋め立て工事のため掘り起こした際、たくさんの漆で書かれた石が出土しました。これらの石は縁起物と地元民が家に持ち帰り神棚に祀っていたところ、当時コレラの流行したくさんの犠牲者が発生したためこの石のたたりだとうわさが立ち、あわててもとに収めたといわれています。中央のひときわ大きい供養塔は寛文2年(1662)建立です。




くんちのためお休みしております。




C-460:馬場崎(ばばさき)
深堀町5-139?(旧 深堀村)【深堀小学校西側付近】
深堀小学校のグランド付近を昔は馬場崎と呼んでいました。その昔、深堀小学校のグランド付近まで入り江があって、東屋敷や西屋敷などは砂州になっていました。その砂州に突き出た場所がのちに馬をつなぐ馬場となり、馬場崎と呼ばれるようになったものと考えられます。今でもグランドを掘削すると海砂が出て来るそうです。




C-459:深堀神社跡(ふかほりじんや-あと)
深堀町5-148(旧 深堀村)【深堀小学校】
深堀神社の創建は不明ですが、鎌倉時代の建長7年(1255)領主となった深堀能仲がこの地に入ったときにはすでにお祀りされていたといいます。当初は現在の深堀小学校の地にあって名称も幸天宮といい、明治維新により深堀神社となり、以降、深堀村の鎮守神として大切にされます。祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)で二神は夫婦です。寛文3年(1663)には第21代深堀志摩守茂春によって石神門の建立記録があり、文政12年(1828)台風によって倒壊したものの天保8年(1837)現存の一の鳥居が建立されています。明治7年(1874)〜19年(1886)ごろ小学校建設のため神社は現在地に移転し今に至ります。




C-458:深堀陣屋跡(ふかほりじんや-あと)
深堀町5-272(旧 深堀村)【深堀カトリック教会】
深堀陣屋は通称を御屋敷といい、深堀藩主の居城があった場所でした。深堀の中心となる建物で石垣の一部のみ現存しています。一番下段の幼稚園のところは囲馬場で、その一段上に書院、さらにその上には二階建ての御座があって庭には川原海岸にある黒石が一面に敷き詰められていたそうです。昭和35年(1960)教会の渋谷師の隠居所となり、没後の昭和51年(1676)深堀教会が建てられました。




C-457:城島治部右衛門宅跡(じょうじまじぶえもんたく-あと)
深堀町5-241?(旧 深堀村)
城島治部右衛門は元禄13年(1700)に起こった深堀騒動の時、遠島を申し付けられた9人のうちの一人で、その子孫、城島薫氏の母は第30代深堀藩主の娘にあたります。なお、ここには藩で使用した石金庫があってその金庫には当時の責任者の名前が刻されていました。




C-456:深堀台場跡(ふかほりだいば-あと)
深堀町5-235(旧 深堀村)
江戸時代、馬小屋の海沿いには矢火矢や石火矢の施設つまり台場がありました。これは深堀香焼間は唐船やオランダ船の航路でもあったため警戒にあたっていました。また、寛永年間(1624-44)より佐賀藩と福岡藩は隔年で長崎港の警備にあたっていましたが、佐賀藩の警備のときは佐賀藩の支藩である深堀の港が拠点となりました。




C-455:深堀(藩)厩舎跡(きゅうしゃ-あと)
深堀町5-235(旧 深堀村)
江戸時代、この地に深堀(藩)の馬小屋がありました。位置的に海岸沿いの広大な敷地を誇っていました。明治時代になり民間所有となります。なお、佐賀本藩の馬小屋は筑後町3-24(旧 西上町)の現在の長崎財務事務所のところでした。




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