広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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○遠見番所跡(とおみばんしょ-あと)
香焼町(香焼村)【遠見岳山頂付近】
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、特に深堀ー香焼島間は長崎に入津する外国船が航行することもあって、深堀の遠見台と常に連絡を取り警戒にあたっていました。そしてこの海峡では深堀藩に敬意を払うため帆を下してゆっくりとしたスピードで通過し、積み荷の一部を御礼として徴収することが通例となっていて、のちに通行料という形に変わります。これはわが国における税関の先駆けともいえる行為です。現在、遠見番所の形跡はなく深堀との送電線塔が立っている付近といわれています。当時は佐賀藩によって2門の大砲が供えられていました。




C-491:魚見岳(うおみだけ)
香焼町(香焼村字山中)
魚見岳は香焼瀬戸を隔て深堀と対峙する山で、遠見岳の遠見番より外国船入港の合図があれば平ノ辻番所を経てこの魚見岳にある魚見台に知らされ、2門ある大砲を打ち合図していました。また、魚見岳北側には日野山権現がお祀りされていて、頂上には標高61.8メートルの一等三角点があります。




里のキツネ
その昔、里地区には4匹のキツネがいてそれぞれ名前がついていました。里地区の中の「向い」に棲む“向いのはっちょん”、「ぬげ」に棲む“きんぱち”、「石門」に棲む“石門やたろう”、そして「小屋の前」に棲む“小屋の前のふんばり”の4匹で、このうち「やたろう」「ふんばり」は大変な力持ちで、ともに相撲好き。2匹が相撲を取りふんばってかったので“ふんばり”の名となったといわれています。キツネと人間の共存共栄のころの話でした。




C-489:香焼の唐人街
香焼町(香焼村字里)
香焼の市街地に当たる里地区(旧町役場付近)はその昔、唐人町を形成していた地区といわれています。江戸時代初期(明末期)頃は香焼島にも多くの貿易船が入港していて、ちょうど里地区は碇繫地(テイケイチ)でした。現在の円福寺の階段下(墓所)付近を「唐の船」と称し、付近に唐人街を形成していたものと考えられ、さらに、同地区には「つぼ」という地名があって、そこには唐人石と呼ばれる岩があります。これは長崎に来航した唐船が波のために難破しこの岩に唐人が打ち上げられたところからこう呼ばれ、その犠牲者が円福寺に埋葬されました。




C-488:きどんたん・ろくび波止
香焼町(香焼村字里)
里公民館付近から海岸方向に下る石段を「きどんたん」といいます。江戸時代、深堀藩士の屋敷の木戸(門)に通じていたことに由来し、木戸の(階)段から「きどんたん」と呼ばれました。
石段から降りた付近は江戸時代の海岸線で旧町役場(行政センター)にかけて続きます。特に老人センター付近を「ろくび波止」といい、その昔、諸国を廻っていた六部(回国)がこの島に来て海岸に防波堤を築いていました。しかし志し半ばで命を失ったため地元民が後を引き継ぎ完成を見ます。以降、ここを「ろくび波止」と称したといいます。現在は道路になっています。




C-487:硝煙庫跡(しょうえんこ-あと)
香焼町(香焼村字浦)
浦地区の大野崎(元時津宅)の上手には硝煙庫がありました。ここは佐賀藩によって置かれた火薬庫で長崎警備のために設けられた各台場で使用する火器用のものと考えられます。




C-486:(うら)
香焼町(香焼村字浦)
浦地区は香焼の中心に位置し通称「本村」といいます。香焼村のときは浦地区を本郷と称していたこともあり本村となりました。地名の由来は地区の中心である旧役場(香焼行政センター)付近が深い入り江で、古くから港として栄えていたこともあり浦の名が生まれます。香焼島は昔から鰯漁が盛んでしたが浦地区は宿屋として利用された地区で、防州櫛ヶ浜(旧 徳山市)から来た村井喜右衛門や弟の亀次郎らが来島し、特に亀次郎の住居跡や浦上墓地には墓碑などがあります。昭和初期からは旧海岸通りに商店が立ち並び港町を形成していました。




C-485:長崎市立香焼小学校
香焼町(香焼村字浦)
香焼小学校は明治9年(1876)第五大学区第一中学区香焼小学校として誕生し、当初は円福寺の2階の部屋で児童数男子33名で始められました。明治15年(1882)岩立神社近くに移転し、明治26年(1893)現在地に新築移転、香焼尋常小学校に改称します。明治45年(1912)香焼尋常高等小学校に改称。昭和16年(1941)学制改革により香焼村立香焼国民学校になります。昭和20年から26年までの期間は川南青年学校跡を仮校舎として使用し、昭和22年(1947)新学制により香焼村立香焼小学校になり、昭和36年(1961)には町制によって香焼町立、平成17年(2005)長崎市に合併し長崎市立香焼小学校になります。




C-484:長崎市立香焼中学校
香焼町(香焼村字田の浦)
昭和22年(1947)新学制により香焼村立香焼中学校が開校。当初は堀切にあった川南工業青年学校の旧校舎を仮校舎として授業を開始します。昭和24年(1949)里地区にあった旧香焼小学校校舎を仮校舎として使用し移転します。昭和32年(1957)現在地に木造新校舎が建設され移転。昭和36年(1961)には町制によって香焼町立となり、昭和60年(1985)鉄筋コンクリート校舎が落成します。平成17年(2005)長崎市に合併し長崎市立香焼中学校になります。




C-483:田の浦(たのうら)
香焼町(香焼村字田の浦)
田の浦は香焼が島だった頃、入り江に面した平地で田が広がっていたと考えられていて、言い伝えでは空海が渡唐の際、この田の浦から出航したといわれています。現在の香焼中学校の敷地が広い入り江で、あさり貝やワタリガニが生息し潮干狩りや海水浴場として賑わっていたといいます。そして海岸沿いに鰯の網元、鰯網干場、煮干し製造所、石灰・煉瓦工場、コークス製造の野焼き場などの工場が立ち並ぶ地域でした。それが第二次大戦中、埋立てられ戦争で捕虜(俘虜)となった外国人の収容所が置かれ、高台には陸軍の高射砲陣地になります。終戦後は整備され海岸には中学校、高台には団地となります。




C-482:深浦(ふかうら)
香焼町(香焼村字深浦)
深浦は深堀から香焼に走る一直線の県道の突き当りに位置し香焼の玄関口です。もともとは地名にあるように深い入り江が広がり二つの島(小島、千登瀬島)があって、小島には2、3本の松が生い茂っていたといいます。入江は遠浅でアサリの産地で干潟になると二つの島まで歩いて渡れていました。大正7年(1918)まずは松尾鉄工所が入江を少し埋立て社宅が造られ、昭和11年(1936)松尾鉄工所跡に川南工業が進出し、深浦は完全に埋立てられ住宅地へとかわりました。




丸山華まつりとそのあとかたずけのためお休みしています




香焼の造船B
昭和25年(1950)朝鮮戦争や昭和30年(1955)第一次輸出船ブームなど世界情勢に景気は左右されるものの次第に日本の造船業界も持ち直し、石油輸送需要の増大からマンモスタンカーの時代を迎えます。一方、長崎県は昭和41年(1966)深堀と香焼間の海面埋め立てを実施し臨海工業用地建設を始めます。昭和43年(1968)には陸続きとなり新規企業「九州鋼板加工乾が進出。昭和45年(1970)には三菱香焼工場に100万トンドック建設が始まり昭和47年(1972)世界一の規模を誇る幅100メートル、長さ970メートルのドックが完成します。




香焼の造船A
空襲による被害はありませんでしたが昭和20年(1945)終戦によって軍需工場は解体。多くの人々が島を離れます。川南造船は漁船中心の小型船が主流となります。翌年、造船所内に労働組合が結成され、昭和23年(1948)いわゆる川南労働争議といわれるストライキに突入。約3カ月近くに及ぶ争議によって工場のみならず島民にまで影響がおよび最後は川南覚書に調印し組合側の敗北で幕を閉じます。しかし昭和26年(1951)全従業員約5000人が解雇され工場が閉鎖。ついに昭和30年(1955)川南工業は破産し昭和37年(1962)昭和重工鰍ニして再出発しますが、昭和42年(1967)旧川南造船施設の税滞納処分によって公売がかけられ、昭和43年(1968)三菱重工業鰍ェ売却し、いよいよ三菱が香焼に進出するわけです。




香焼の造船@
明治16年(1883)松尾孫八は稲佐に機関工場として松尾鉄工所を創設。明治25年(1892)には造船も手掛けるようになり、明治35年(1902)には香焼島に敷地面積約26,000平方メートル(約8000坪)の本格的造船所を竣工させます。香焼工場は3000トン級以下の船舶の建造ができ、最盛期には約1千超人の従業員を誇りました。大正10年(1921)を境に第1次大戦の影響を受け海運業は不振となり、昭和初期の恐慌は島を衰退させます。そのような中、昭和11年(1936)川南工業に買収され、翌12年(1937)香焼島造船所が誕生します。そして時代は戦時色が強くなり造船所は軍事施設と化し、一時は日本一の建造量を誇りました。昭和17年(1942)海軍管理工場となりますが戦況悪化のため衰退がはじまりやがて昭和20年(1945)の終戦を迎えます。




香焼の炭鉱C
昭和13年(1938)川南造船によって炭鉱が再開され、終戦を経て昭和26年(1951)九州採炭の協力を得て香焼工業鰍ニ改称。昭和29年(1954)島の南部にあたる竹崎より横島方向へ海底鉱を掘進し良質の石炭を得ます。そして一方の旧抗は廃坑されますが恵里安保地区は住宅や施設が立ち並び人口も増加、活気に満ち溢れ昭和30年代初めが最盛期となります。しかし世の中は石炭から石油へのエネルギー転換を受け昭和39年(1964)閉山となり島は一気に過疎化へと進みます。




香焼の炭鉱B
文久元年(1861)に深堀藩の直轄として採炭されていた香焼の炭鉱ですが、明治7年(1874)深堀村の峯真興、その後、経営者が点々とかわりますが明治37年(1904)陸上採炭が終了します。明治40年(1907)大阪舎密工業株式会社によって海岸地区のボーリング調査が行われ着炭し明治42年(1909)から海底炭鉱として採炭が再開します。しかし大正4年(1915)にはガス爆発によって死傷者約70名を出す事故があり、翌5年(1916)には九州初の労働組合「友愛会香焼支部」が結成。次第に闘争運動が盛んになり検挙者150人を出すいわゆる香焼炭鉱騒動事件が起こります。そして景気悪化もあってついに大正13年(1924)休止解散します。




香焼の炭鉱A
香焼島の南西にある横島は現在は岩礁に近い状態ですが、明治31年(1898)には三菱合資会社によって設立された横島炭鉱がありました。当時は120戸ほどが住していて明治33年(1900)には私立横島尋常小学校が立っていたほどでした。海底炭鉱として始まりましたが湧水や坑道の隆起などで採算が合わず約12万トンの出炭で明治35年(1902)あえなく閉山に追い込まれ無人島となります。




香焼の炭鉱@
香焼島では島の南西地区で露頭といって石炭層の地表に現れている部分を江戸中期、元禄年間(1688-1704)に農民によって勝手掘りが行われ昭和初期までいろりや風呂など薪と併用で使用されていました。実際、江戸後期になると深堀の鍛冶用燃料、長崎に入船の船舶の燃料ほか海外への輸出が行われだし、安政2年(1855)には海外へ1440万斤(約8,640トン)が輸出され、文久元年(1861)には藩直轄としての事業となります。当時の採炭は人がようやく入れるだけの穴で通称狸穴と呼んでいました。今でもその形跡を安保岳周辺で探すことができます。




香焼の伝説
平安時代、弘法大師(空海)は入唐し、その帰路、香焼に立ち寄られたといいます。ここでは護摩密法により航海安全と帰還の感謝を捧げるのですが、その香気が厳窟内に染み入ったため、この山を香厳、香山そして香焼山というようになり香焼の名前が誕生したものといわれています。そしていつのころからか真言密教と関わりを持ち、真言宗寺院(弥陀院、自教院、寿松院、南林院など)が立ち並び「西の高野山」と称された時代があり信仰の島として多くの参詣者が訪れたといわれています。




香焼の由来
香焼はもともと長崎港外に浮かぶ二つの島(香焼島と蔭ノ尾島)のことをいい、大正12年(1923)蔭ノ尾大橋の完成により結ばれ、昭和17年(1942)川南工業の発展により海面が埋め立てられ一つの島に、さらに昭和41年(1966)より深堀水道が埋め立てられ長崎半島と陸続きになります。香焼の語源は定かではなく、一説によれば「クワヤキ」が訛って香焼になったといわれ、「クワ」とは茎のことで山の木々を焼き払って畑作をする焼畑農業を指しているともいわれています。また、神八木と書いてカムヤキ、コウヤギと称していたともいわれています。




C-481:香焼(こうやぎ)
鎌倉時代の建長7年(1255)上総国伊南荘深堀を治めていた深堀能仲が戸八浦に入り地頭となり深堀と命名しますが、もともとこの地を治めていた戸町俊長は、深堀能仲の子息で代官を務めた深堀行光との抗争が起こり香焼島だけは戸町氏の支配下となります。江戸時代は佐賀藩深堀領となり肥前国彼杵郡香焼村で、明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県となります。そのとき周辺3島6村と合併し新しい深堀村となりますが、明治13年(1880)周辺の村が独立して香焼村に戻ります。明治22年(1889)市制町村制が引かれ深堀村、大籠村、香焼村が合併し新たに深堀村になり、深堀村香焼になります。明治31年(1898)再び分離され西彼杵郡香焼村となり、昭和36年(1961)町制が敷かれ香焼町、そして平成17年(2005)長崎市に合併し香焼町となります。




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