広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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C-518:テーブル台
香焼町(香焼村字辰ノ口)
辰ノ口海水浴場近く岬先端付近に地元民からテーブル台と呼ばれる台があって、それは大木アコウの木の北側に位置します。その昔、香焼島沖で外国船ケーブル号が座礁、その後、破船となります。地元民はその破船となった船の払い下げを受け解体し、辰ノ口の浜に倉庫を作ります。いつしかケーブルが訛ってテーブルとなったといわれています。現存せず。




C-517:日露戦争出征記念碑跡
香焼町(香焼村字辰ノ口)
明治37年(1904)日露戦争では香焼から57人が戦場へと送り出されました。この記念碑はそれを記念して辰ノ口に住む瀬戸福次郎によって建立されたと伝えられていますが現存していません。この瀬戸氏の家は辰ノ口海岸の中央付近にあって出征当時にアコウの木が植樹されたといわれ、現在では大木となっています。なお、瀬戸氏宅は現在、娘婿の小川氏宅になっています。




C-516:辰ノ口・砂丘遺跡(たつのくち・さきゅういせき)
香焼町(香焼村字辰ノ口)
栗ノ浦遺跡は栗ノ浦の海岸部一帯に分布する遺跡で、昭和57年(1982)に長崎県教育委員会文化課によって実施された遺跡周知事業分布調査によって明らかになりました。遺跡は辰ノ口遺跡には縄文時代前期のもの、砂丘遺跡には曽畑式土器などが出土しました。




C-515:栗ノ浦砲台跡(くりのうらほうだいあと)
香焼町(香焼村字栗ノ浦)
栗ノ浦の西、大中瀬戸を見下ろす場所に明治30年代(1897〜)に築かれた衛所(=兵を置いて警備する場所)があり、当時、長崎は明治32年(1899)に施行された要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。区域内では測量や建造物に厳しい制限が行われます。区域は長崎港を中心に式見-滑石-三ツ山-日見-茂木-川原-高島-伊王島-式見といった長崎を円形に囲んだ地域でした。さらに第2次大戦中には要塞砲台が設置され、長崎港へ向かう船の警備などに当たったと考えられます。現在は伊王島とを結ぶ送電線の鉄塔になっています。




C-514:栗ノ浦鰯網漁遺跡
香焼町(香焼村字栗ノ浦)
栗ノ浦には香焼における鰯網漁の歴史を伝える遺跡が残っていて香焼島と瀬戸内方面との交流が伺えます。江戸時代、田畑への肥料は干鰯(ホシカ)が喜ばれ鰯が多く採れる長崎近海では瀬戸内地方や早津江村(現佐賀県川副町)などから出稼ぎする者が多く香焼島は賑わいます。特に栗ノ浦の墓地には寛政3年(1791)の銘で材質が徳山御影と同じ花崗岩が使用されている墓碑があって、おそらく干鰯商の船で運ばれたもので防州櫛ヶ浜(旧 徳山市)出身者と考えられています。このほか「坊州櫛ヶ浜住人笹戸屋久兵衛」と刻された享和2年(1802)の墓碑や明治期のものまであり100年にも及ぶ交流の歴史を知る資料といえます。現在は移転保管されています。




C-513:栗ノ浦遺跡(くりのうらいせき)
香焼町(香焼村字栗ノ浦)
栗ノ浦遺跡は栗ノ浦の海岸部一帯に分布する遺跡で、昭和57年(1982)に長崎県教育委員会文化課によって実施された遺跡周知事業分布調査によって明らかになりました。遺跡は縄文時代、弥生時代、古墳時代のそれぞれの特徴を持つ出土品があって、縄文式土器や弥生式土器、須恵器などが出土しています。




C-512:栗辰天満宮(くりたつてんまんぐう)
香焼町(香焼村字栗ノ浦)
香焼島の最高峰は現在の総合運動公園にもなっている天神山で、それは昭和58年(1983)に公園建設が行われるまで山頂付近(現展望台付近)に天満宮が鎮座していたことに由来します。祭神は菅原道真公。創建は不明ですが、石祠には安永2年(1773)とあり江戸時代の中期には存在していたことを伺えます。天満宮は香焼島の栗ノ浦、辰ノ口集落によって奉仕され毎年8月25日に祭礼をし奉納相撲が行われていました。現在は島の西側に移設され再建されています。市指定文化財。




C-511:首しめ(くびしめ)
恵里上から丹馬に抜けるあたりを「首しめ」といいます。大正年間、日本国中が干ばつによる飢饉で人々は食糧難に陥っていましたが、香焼島も例外ではなくイモの苗を畑に何回植えても枯れる日々が続いたといわれ、香焼村は救済基金で外米を安く売ったりしていたといいます。そんな中、安保炭鉱は最盛期でしたが主食の高騰によって賃金が追いつかず、炭鉱夫の一人はこの地で首をつって自殺したといいます。遺書には「物は上がる、おれはさがる」と書いてあったそうで、当時は草木が生い茂るたいへん物騒なところだったそうです。




C-510:五島どん(ごとうどん)
香焼島を東西に走る道路の中間付近、恵里地区の上手付近にその昔、古い松の木があって、その足元に古い石碑があったといいます。この石碑は「五島どん」と呼ばれ、それは昔、香焼には五島から多くの漁師が島に西の地区(海老瀬、辰ノ口)に移住し鮪網代を設け生計を取っていたといい、この石碑がその漁師の祖師が埋葬されたものといわれています。これは遺言で両地区の見渡せる場所が選ばれたといい、あるとき、石碑の横に立つ松の木を切ろうとしたら「まったー助けろー、まったー助けろ」という声がしてものすごい血を吹き出したといいます。




C-509:恵里(えり)
香焼町(香焼村字恵里)
恵里は香焼島における石炭発祥の地ともいえる地区で、元禄時代より露天掘りが行われていました。幕末から明治期にかけて高島に次ぐ県下有数の採炭地区でもありました。明治16年(1883)東京の島田慶助によって操業が始まり、明治27年(1894)東京の小出辰造と長崎の貿易商:松尾福三郎との共同経営(小出炭鉱)に変わります。恵里の炭鉱は初め立坑を掘って進められましたが地下水の影響で断念し、明治32年(1899)大阪舎密(セイミ)工業株式会社に買収され進められるも明治36年(1903)陸上掘りは中止され、安保海岸の方へ移ります。以降、恵里は工業用水地や発電所、炭鉱事務所などの地区となり、閉山後は住宅地へと変貌します。




C-508:安保トンネル(あぼとんねる)
香焼町(香焼村字安保)
安保トンネルは島の南部に安保地区と島の中心である里地区とを結ぶトンネルで長さ486メートル、片側1車線のトンネルです。このトンネルは第二次大戦中に川南工業によって建設されるも終戦によって貫通することなくそのまま放置されていました。その後、香焼村は国庫助成事業として着工し、昭和31年(1956)開通。トンネルはすぐに安保の香焼炭鉱の石炭を里の港に運ぶための通路として昭和39年(1964)の閉山まで使用されます。その後は狭小のため片側一方通行の信号が設けられていて、現在は安保から里に向かうのみの一方通行です。




C-507:安保(あぼ)
香焼町(香焼村字安保)
香焼島の南部に位置する安保地区は明治期から炭鉱の町として栄えた地区でしたが、閉山後は住宅地となり当時の面影を知る由もありません。江戸時代末期より露天掘りが始まり、やがて大阪舎密(セイミ)工業株式会社によって安保岳に坑道が設けられ採炭されます。大正13年(1924)にいったん閉鎖されますが昭和13年(1938)川南工業によって再開。昭和26年(1951)香焼鉱業鰍ェ経営を受け継ぎ、安保岳側が閉じられ横島に向けて海底鉱が拓かれます。当時海岸はボタで埋め尽くされ洗炭場の施設が立ち並んでいて、石炭は安保トンネルより香焼港へ運ばれていました。昭和39年(1964)ついに閉山されます。安保にはこのほか明治27年(1894)創業のコークス製造所もあって最盛期の昭和7年(1932)頃には赤レンガ造りの建物に煙突3本も立っていました。コークス工場は昭和25年(1950)に閉鎖します。




C-506:鎌倉様(かまくらさま)
香焼町(香焼村字丹馬)
丹馬の向というところには古い墓所が広がり、鎌倉様と呼ばれる自然石があります。それは㊀、⦿、○といった彫り物がある石で先住民の墓所と考えられています。おそらく平家の落人のものか、あるいは源氏方のものということで「鎌倉様」の名称だという説まであります。




日清・日露戦争戦役記念碑【産八幡社境内】
明治27年(1894)日清戦争、明治37年(1904)日露戦争では香焼からも多くの兵士が出征し、特に日露戦争では57人が戦場へと送られました。明治37年(1906)には兵士が帰還したことを記念し、村民に戦勝記念樹として2000本の苗木が配布され、産八幡社には楠150本の植樹がなされました。さらに明治41年(1908)には両戦争の戦役者に対して記念碑が建立されます。所在不明




C-505:産八幡社(うみはちまんしゃ)
香焼町(香焼村字尾上)
産八幡社は江戸時代、もとは両部神道として八幡宮であって、明治維新を経て八幡社となったものと考えられます。創建は不明ですが江戸時代後期の創建と考えられ、鳥居には安政4年(1857)の銘があります。その昔、丹馬に住む浜崎十右衛門という者が自邸の庭で夕涼みをしていたとき一つの炎を見つけます。不思議に思って翌朝掘ってみると法華経八巻が出てきたため、十右衛門はその後、自邸を尾上に移し、炎の場所に石塔を建て八幡大菩薩と称しお祀りしたといわれています。以降、字丹馬と字尾上の氏神とされ(現在は丹馬のみ)毎年11月15日を例祭と定めました。「産」の文字より地域では出産後の宮参りの神として親しまれ、一般に「八幡さん」と呼ばれています。現在は尾上の観音堂の境内にお祀りされています。




C-504:注進路(ちゅうしんみち)
注進路とは江戸時代に使われていた通路のことで、遠見岳より魚見岳の尾根道(稜線)をいいます。江戸時代後期になると頻繁にオランダ船以外の船が長崎港外に現れていました。そのため幕府は警戒し警備を厳重にします。遠見岳の遠見番で発見した異国船は、注進船の合図を受け魚見岳へと使者を遣わせます。このときこの注進路を通り、魚見岳で狼煙があげられ、または大砲を打ち対岸の深堀などへ知らせていました。深堀からは長崎を警備する西泊、東泊(戸町)へと伝えられ、長崎奉行所などへ伝わるようになっていました。




C-503:豊前坊社の榎(えのき)
豊前坊社の境内には樹齢200年ともいわれている大榎があって、幹回りが4メートルもある大木です。おそらく香焼島の中で一番の大木といわれ、旧香焼町の町木のもとになっていました。ここからは町市街地が一望できるところです。市指定天然記念物。




C-502:豊前坊社(ぶぜんぼうしゃ)
香焼町(香焼村字丹馬)
豊前坊社の創建は不明ですが、石祠に宝暦11年(1761)とあるところから江戸時代中期の創建といわれています。当時、水田地帯であった安保地区は水の便が悪く、そのため深堀の地頭である鍋島孫六郎の命によってこの丹馬地区に灌漑用水池を掘ったところ、偶然この祠が発掘されたといい、深堀村の田代源太、寺崎市太らによってこの地に移してお祀りされました。祭神は福岡県の英彦山や長崎の豊前坊と同じく、火進命(ホノススミ)、火明命(ホノアカリ)、大日孁貴命(オオヒルメノムチノカミ=天照大神)で、丹馬の地名の馬、昔の祭礼が11月の初丑の日だったところから、牛馬の神つまり農耕の神としてお祀りされたものと考えられています。




C-501:堀池神社の鳥居
堀池神社の鳥居は享和元年(1801)に周防国(現山口県南部)櫛ヶ浜(旧 徳山市:現 周南市)の笠戸屋久兵衛によって建立されたもので、材質が花崗岩ということもあり徳山名産の徳山みかげを使用したと考えられています。
寛政10年(1798)長崎港外の唐人瀬でオランダ船「エライザ号」が沈没。周防出身者である村井喜右衛門らは引き上げを開始し成功します。その後、村井喜右衛門らは香焼に移り住み漁業を行ったといわれていて、建立者である笠戸屋久兵衛もその一人だと考えられています。




C-500:堀池神社
香焼町(香焼村字里)
堀池神社は江戸時代、堀池権現と称され、創建は不明ですが江戸時代後期の創建といわれています。祭神は不詳ですが、その昔、社域に古池がありそれを祭神にした。または、祭事を2月の初午に行うところから稲荷神とも考えられます。明治維新を経て堀池神社となり、以前まで祭事を堀池宮日(クンチ)と称ししめ縄をかけ奉仕されていました。




C-499:遠見番所跡(とおみばんしょ-あと)
香焼町(香焼村字遠見)【遠見岳山頂付近】
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、特に深堀ー香焼島間は長崎に入津する外国船が航行することもあって、深堀の遠見台と常に連絡を取り警戒にあたっていました。そしてこの海峡では深堀藩に敬意を払うため帆を下してゆっくりとしたスピードで通過し、積み荷の一部を御礼として徴収することが通例となっていて、のちに通行料という形に変わります。これはわが国における税関の先駆けともいえる行為です。現在、遠見番所の形跡はなく深堀との送電線塔が立っている付近といわれています。当時は佐賀藩によって2門の大砲が供えられていました。




大師堂【円福寺境内】
円福寺奥の院には弘法大師を祀った大師堂があって、いわゆる空海が唐からの帰路、香焼に立ち寄り護摩を焚き、その香気が立ち込めたといわれる厳窟があり、現在は石祠となっていて、年に一度、4月21日(本来は3月21日で旧暦のため1カ月遅れとなる)に御開帳されます。




天満宮【円福寺境内】
祭神は菅原道真公。
弁天堂【円福寺境内】
本尊は弁財天。
豊川天【円福寺境内】
豊川天は豊川稲荷のことで祭神は稲荷神。




香焼鰯網漁関係資料【円福寺境内】
圓福寺には香焼における鰯網漁の歴史を伝える資料(石灯籠・石幢)が残っていて香焼島と瀬戸内方面との交流が伺えます。江戸時代、田畑への肥料は干鰯(ホシカ)が喜ばれ鰯が多く採れる長崎近海では瀬戸内地方や早津江村(現佐賀県川副町)などから出稼ぎする者が多く香焼島は賑わいます。
享保2年(1717)佐賀の早津江から来た漁師は瀬戸内から来た漁師に石幢を製作依頼し円福寺に奉納。文化4年(1807)には石灯籠が奉納されました。なお、石灯籠の火袋は弘法大師の縁日に灯されていたため黒く変色した跡が見られます。市指定有形文化財




C-498:唐船遭難供養塔【円福寺境内】
延享元年(1744)の第13番船として入港した唐船は、船主が馬奉天、乗組員は80名で、3年間の長崎での商いを終え、延享3年(1746)11月26日に長崎港を出港します。しかし翌朝、香焼島近くの黒灘で暴風雨に遭い転覆し遭難。溺死者54名(のちに1名加えられた)に上り、救出者24名と銅や俵物などの拾得物は長崎に送られました。
事故から7回忌に当たる宝暦2年(1752)亡くなった人々の名前が刻まれ供養塔が建立されます。市指定史跡。




C-497:円福寺の梵鐘
阿山家は代々鋳物師で有名な家で鍛冶職人街であった鍛冶屋町に屋敷を構えていました。初代の阿山助右衛門国久は寛永17年(1640)から慶安4年(1651)の間に祟福寺のほか興福寺や晧台寺、本蓮寺、諏訪神社などの梵鐘の鋳造や(現存は祟福寺のみ)、「大波止の大砲の玉」といわれる石火矢玉を造ったといわれていて、阿山弥兵衛国逵(クニキ?)においては祟福寺の大釜や円福寺の梵鐘、阿山弥兵衛国久においては本河内青銅塔、阿山弥五左衛門国久は茂木:円成寺の梵鐘を造っています。このほかにも作品があったのですが第二次大戦で供出されてしまいました。墓所は当初大音寺後山にありましたが現在不明。




C-496:曹洞宗香焼山円福寺(こうしょうざんえんぷくじ)
香焼町1034(香焼村字里)
延暦23年(804)僧空海は渡唐の際、香焼に一時避難したといわれ、大同元年(806)の帰国時には香焼島に立ち寄ったとされています。その際、空海は島の岩壁で香を焚いて修法し、後のここが真言密教の道場として開かれたといわれています。鎌倉時代の建長7年(1255)深堀領主となった深堀能仲が赴任した際、随従した中の一人:宇都宮光景(宇都宮光影か?)によって円福寺が建立されたという説があり、当時は長崎寺(チョウキジ)と呼び、長崎の地頭:長崎氏が祈願寺にしたといわれています。時代が下って、寛文11年(1671)荒廃した海岸部にあった堂宇を深堀地頭の鍋島茂春によって現在地に移し、天和3年(1683)賢外和尚によって曹洞宗寺院として再興されました。現在でも弘法大師信仰が盛んで毎年、縁日である4月21日には祠が御開帳されます。




C-495:蔭ノ尾大橋架橋記念碑【第一児童公園】
香焼はもともと長崎港外に浮かぶ二つの島(香焼島と蔭ノ尾島)のことをいい、大正12年(1923)蔭ノ尾大橋の完成により結ばれ、当時としては画期的は海上橋として注目された橋でした。この記念碑は橋のたもとに建てられましたが、昭和17年(1942)には川南工業の発展により海面が埋め立てられ一つの島になり、三菱香焼工場の建設のため移転を余儀なくされ、現在の字里にある第1児童公園内に置かれています。




C-494:分村記念碑【立岩神社境内】
香焼は江戸時代、佐賀藩深堀領に属し肥前国彼杵郡香焼村で、明治5年(1872)周辺3島6村と合併し新しい深堀村となります。明治13年(1880)周辺の村が独立して香焼村に戻り、明治22年(1889)市制町村制が引かれ深堀村、大籠村、香焼村が合併し新たに深堀村になり、深堀村香焼になります。明治31年(1898)再び分離され西彼杵郡香焼村となり、昭和36年(1961)町制が敷かれ香焼町、そして平成17年(2005)長崎市に合併し香焼町となります。
この分村記念碑は、明治31年(1898)深堀村より香焼村が分村したことを記念して建立されたもので、分村15周年記念事業として大正2年(1913)に建立されたものです。




C-493:立岩神社
香焼町(香焼村字里)
立岩神社は江戸時代、立岩権現と称され、創建は不明ですが円福寺と同じように延宝2年(1674)ごろに再興されたといわれています。祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)で、明治維新を経て立岩神社となります。毎年10月17日が大祭で以前までは香焼宮日(クンチ)として奉納相撲などが行われていました。また、立岩権現、日野山権現、堀池権現を香焼村三社と呼んでいました。境内には樹齢約200年の市指定天然記念物の榎(エノキ)があります。




C-492:日野山権現(ひのやまごんげん)
香焼町(香焼村字山中)
日野山権現は魚見岳山腹にお祀りされている神社で、本来は立岩権現、堀池権現とともを香焼村三社と呼ばれていましたが、現在は荒廃しています。創建は不明ですが江戸時代中期の創建と考えられ、石祠には「安永亥年改碑(1779)」の銘があり、大正2年(1913)に犬塚藤吉が石祠を建立して「日野山大明神」として祀ったという記録が残っています。また、一説には、弘法大師が唐からの帰路に立ち寄った際にここで護摩修行を行ったとき、龍神が感動して灯火を放ったといわれ、そこから「火の山」となり日野山と転化したといわれています。




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