広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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C-546:椎山小聖堂跡(しいやましょうせいどうあと)
伊王島町2丁目(沖之島村字椎山800番地)
明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤去されると馬込地区へ大浦天主堂などから神父の巡回ができるようになり、沖之島村字椎山にあった村上宅などが巡回神父の宿泊所兼仮聖堂として使用されます。村上氏の先祖は外海の永田村出身でのちに沖之島に移住し沖之島で信仰を守っていました。そして仮聖堂設置にあたり寡婦(カフ)となっていた村上キヤが字椎山の敷地を寄進し小聖堂の完成を見ます。あわせて字小山の敷地も寄進し共同墓地として使用されました。小聖堂は馬込天主堂が完成する明治23年(1890)まで使用されました。




C-545:招魂碑跡(しょうこんひ)
招魂碑は山ノ神社の境内に置かれていた碑で、伊王島炭鉱の事業場で事故などで犠牲となった人々の霊を慰めるために建立されたものです。炭鉱操業時、事業所の記念日には遺族をお迎えして慰霊祭が執り行われていました。招魂碑は閉山とともに姿を消しました。




C-544:山ノ神社跡(やまのかみしゃあと)
伊王島町2丁目(沖之島村字岩戸/堂ヶ岳)
山ノ神社の祭神は大山積大神で昭和16年(1941)2月11日に総本宮である愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祗神社より祭神を勧請して創建されました。この2月11日は伊王島炭鉱の開坑記念日で、山ノ神ということで炭鉱の神として大切にされていました。また、境内には招魂碑があって日鉄鉱山の創業記念日でもある5月20日には山ノ神社の例祭のほか従業員殉職者115柱への慰霊祭も執り行われていました。昭和47年(1972)炭鉱が閉山とともに山ノ神社ほか招魂碑も姿を消しました。旧鉱業所事務所裏の山で現在は荒廃し立ち入れなくなっています。




C-543:岩殿恵比須(いわどのえびす)
伊王島町2丁目(沖之島村字岩戸/堂ヶ岳)
沖之島の北部の岩戸山にはそびえたつ岩がありそこを岩殿恵比須といいます。その昔、伊王島に俊寛僧都とともに流された藤原成経と平康頼の二人が紀伊半島にある熊野三山になぞって参詣した場所といわれ、のちに恵美須神をお祀りしたと考えられています。旧鉱業所事務所裏の山で現在は荒廃し立ち入れなくなっています。




C-542:馬込(まごめ)
馬込は沖之島の東の海岸付近を指し、船津とは通称で、浜、土井下などの小字名があります。地名の由来は土井の浜に深堀の役人が馬をつないでいたことから馬込と呼ばれるようになったという説。江戸時代初期に浦上の馬込村に住むキリシタンが移り住んで馬込と称したという説などがあり、この地域も外海地区などとも交流があって縁組も盛んだったといいます。




C-541:築港(つきこう)
沖之島の東側海岸を築港と称します。現在、仲町から築港に向けてトンネルがありますが、その先が昭和16年(1941)以降に炭鉱開発によって築かれた港で、石炭はこの港に運ばれていました。築港も北側には石炭積み込み岸壁、荷揚げ岸壁、坑木などの資材置き場があって、築港の南側の土井の浜には木造やコンクリート造りの職員住宅など社宅街になっていました。




C-540:塩町(しおまち)
沖之島の北側、仲町の西側の地域を塩町と称します。現在は市営塩町住宅や浄化センターなどがありますが、ここは文政9年(1826)の鍋島藩の地図によれば塩浜と書かれ塩釜があった場所で、田んぼもあって「ドベの浜」とも呼ばれていました。もともとは大明寺や一本松地区の所有地で民家も8軒あって八軒谷などといわれ、その後、それが訛って「ハツチンダニ」と呼ばれていたころは、山腹に馬込の野副家一軒しかない寂しいところだったといいます。昭和16年(1941)以降は炭鉱開発によって開かれ、鉱員住宅、鉄筋コンクリート建の鉱員独身寮、商店などが立ち並び約330世帯が住む町となったとき塩町と呼ばれるようになります。




C-539:東町・西町(ひがし/にしまち)
沖之島の北側で仲町と椎山の共同墓地に挟まれた地域を東町と称します。現在は広大な空き地になっていますが、ここは昭和16年(1941)以降に炭鉱開発によって開かれた地区で、附属病院、事務所、工作工場、運搬施設、送炭施設などがあって、海側には職員住宅、浴場、警察派出所などがあり、伊王島炭鉱の心臓部といえる地域でした。現在は石垣のみを確認できます。その東町の西、谷あいの地区には職員住宅が立ち並び、ここを西町と称していました。




C-538:仲町(なかまち)
沖之島の北側、伊王島との瀬戸に面する字唐船江付近を仲町と称します。現在は消防局や民宿唐船江などがありますが、ここは昭和16年(1941)以降に炭鉱開発によって開かれた地区で、本来の港が埋め立てられ、商店、映画館、郵便局、電話局、市場や料理店などが立ち並んでいました。また、背後には従業員約200世帯にも及ぶ社宅が立ち並び、仲町は伊王島の繁華街を呈していました。




C-537:龍宮社(りゅうぐうしゃ)
伊王島町2丁目(沖之島村字唐船江)
龍宮社は沖之島にあって伊王島と対じする瀬戸に面しています。龍神を祭神としてお祀りし、あわせて大漁祈願の恵美須神もお祀りされています。創建は不明ですが鳥居は天保9年(1837)で江戸時代の中期にはあったものと考えられます。また、一の鳥居は船溜まりの中にあって瀬戸のシンボルとなっています。




C-536:唐船江(とうせんえ)
伊王島町2丁目(沖之島村字唐船江)
沖之島の北端、伊王島との間の瀬戸に唐船江という地名があります。ここの瀬戸はちょうど風よけなどの退避地になるところからその昔、商船か遣唐使を乗せた船などが一時停泊した港と考えられています。




伊王島の炭鉱B
炭鉱閉山後の伊王島は事業所や選炭場などの施設はすべて撤去され、当時を物語るものはほとんど残されていませんが、現在の「やすらぎ伊王島」やホテルが立ち並ぶ埋立地はすべて炭鉱のボタによるものです。沖之島の築港は炭鉱の積み込み施設があった場所で護岸は当時のもの。塩町団地の東側の広大な空き地が炭鉱の施設があった場所で、数十メートルに及ぶ石垣は事業所のあった場所でした。その北側の一軒屋があるところは炭鉱病院で、現在の民宿唐船江のところには炭鉱会館として娯楽施設になっていました。




伊王島の炭鉱A
昭和10年(1935)ついに炭層に着炭したため売却を中止し採掘に舵を切られ、明治鉱業、三菱鉱業、日鉄鉱業、中野商店の出資により(のちに日鉄鉱業の50%出資へ)、長崎鉱業株式会社が設立され、昭和16年(1941)2月11日伊王島炭鉱が開坑に至ります。しかし第二次大戦の影響で人や物資の不足に悩まされ、積み出しは昭和19年(1944)に始まりました。当初、三菱側より採掘量の見通しが問題視されますが順調に採掘され昭和25年(1950)年産1万トンとなり、昭和28年(1953)嘉穂鉱業、翌年には日鉄鉱業とそれぞれ合併し合理化を進めます。そして昭和45年(1970)嘉穂炭鉱の閉山に伴い優良鉱員を投入し、ついに年産40万トンを突破します。しかし世の中は石炭から石油へのエネルギー転換を受け昭和47年(1972)閉山となり島は一気に過疎化へと進みます。




伊王島の炭鉱@
以前から伊王島と沖之島の間の瀬戸に炭質頁岩(ケツガン)の存在が知られていて、伊王島字鷺ノ巣と字西ノ浦では採掘がなされた跡があるといい、明治初期にも高島炭鉱の外国人技師が調査した記録がありますが着炭しませんでした。その後、伊王島の鉱区を福岡県幸袋町(現 飯塚市)の中野徳次郎が買収。以降は全く手が付けられず、昭和5年(1930)になって2か所の試掘を条件に三菱鉱業へと売却する話し合いがもたれます。そして昭和8年(1933)三菱によって沖之島字畔で試掘が行われますが高島炭鉱の赤崎層に着炭したため伊王島にはないという結論がなされ三菱側は断念。そのため嘉穂鉱業の松村茂に話を持ちかけ、明治鉱業の機械によって嘉穂鉱業が試掘をすることになります。以前より松村茂の見解では沖之島の中央部に可能性を主張していたので沖ノ島の字乗越を試掘したところ昭和10年(1935)着炭し、売却を中止し採掘に方向転換するのです。




C-535:沖之島(おきのしま)
沖之島は江戸時代は佐賀藩深堀領に属し彼杵郡深堀郷のうちで、後に分村して沖之島村となります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に入り、深堀村沖之島名となり、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡に属し、明治13年(1880)分村して西彼杵郡沖之島村となります。明治22年(1889)市制町村制が引かれた際、伊王島村に属し伊王島村沖之島名に変わり、昭和37年(1962)からは西彼杵郡伊王島町大字沖之島になり、平成17年(2005)長崎市に合併し伊王島町2丁目となります。




C-534:伊王島(いおうじま)
伊王島は江戸時代は佐賀藩深堀領に属し彼杵郡深堀郷のうちで、後に分村して伊王島村となります。明治4年(1871)佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県に入り、深堀村伊王島名となり、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡に属し、明治13年(1880)分村して西彼杵郡伊王島村となります。明治22年(1889)市制町村制が引かれ沖之島村と合併し西彼杵郡伊王島村大字伊王島となります。昭和37年(1962)からは西彼杵郡伊王島町大字伊王島になり、平成17年(2005)長崎市に合併し伊王島町1丁目となります。




C-533:伊王島の由来
伊王島とは一般に香焼島の西に浮かぶ二つの島をいい、伊王島が西側、沖之島が東側になります。伊王島は古くは祝島(イワウジマ)や硫黄島といい、言い伝えによると3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)された際、この島の船津に軍船の整備ために立ち寄られたといいます。そのとき美しい島の風景に感激し祝詞を賜ったことから祝島となったといい、江戸時代の儒学者:西川如見によれば古くは泉湯(セントウ)があって硫黄が出ていたところから硫黄島と呼ばれたといいます。一方、沖ノ島は古くは滝島と呼ばれ香焼島の沖にあるところから沖ノ島と呼ばれました。




C-532:忠エ門落し鼻(ちゅうえもんおとしばな)
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
忠エ門落し鼻は旧蔭ノ尾島の北に飛び出た断崖で蔭ノ尾台場があった付近です。言い伝えによれば、その昔、キリシタンであった忠エ門が弾圧により落された場所でその名がつけられたといいます。




C-531:蔭ノ尾灯台跡(かげのおとうだい-あと)
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
蔭ノ尾灯台は三菱香焼工場の北、香焼島の北端にあった灯台で明治14年(1881)にイギリス人技師の協力によって建設され、数度の改修を経て昭和54年(1979)まで使用された灯台です。記録によれば開設当初、灯台は石造り円形白色で、赤色灯を8英里(マイル:1英里=1.6キロメートル)まで照らしていたといい、付属の官舎は平屋瓦葺で事務所と住居棟があり二世帯が居住していました。当時、この灯台は香焼小学校の遠足の地で香焼の子供たちに大変親しまれていました。




C-530:長刀台場跡(なぎなただいば-あと)
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正保4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守鎮信に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうち4か所は長崎港外に設けられ、蔭ノ尾島の北、長刀岩に設けられ侵入の船を警戒していました。この台場は旧蔭の尾灯台一帯にあったものと考えられていて、文化5-7年(1808-10)には増台場が増築。さらに駐屯小屋が上下2段の平地に設けられ、石垣と大井戸が現存しています。




C-529:蔭ノ尾台場跡(かげのおだいば-あと)
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正保4年(1647)ポルトガル船(マカオカリアン船)が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうち4か所は長崎港外に設けられ、一つは蔭ノ尾島の西側に設けられ侵入の船を警戒していました。ここでは小笠原信濃守が警備に当たります。この台場はおそらく忠右衛門落し鼻一帯にあったものと考えられていて、文化5年(1808)には一の増台場と石蔵、その下段に番所、さらにその下段に駐屯小屋2棟が増築されます。これ以外に石火矢上屋および付属施設など3棟がありましたが風雨や波浪の影響で現存していません。




C-528:蔭ノ尾島(かげのおじま)
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
蔭ノ尾島は香焼島と高鉾島の間にあった島で、現在は三菱香焼工場の大部分を占める位置にありました。香焼島と蔭ノ尾島の間は幅8間(約15メートル)で船は櫓を漕いで渡っていたところから「おしとおし」と呼ばれ、イワシや伊勢エビなど漁業が中心で、全島民がカトリック信徒の島でした。明治18年(1885)には戸数32戸、人口は181人で、松尾鉄工所が始まると従事者も増え、大正7年(1918)には戸数40戸、人口273人にまで増えます。そして集団移転が始まる昭和44年(1969)には116戸、419人でした。現在では島の北部、旧蔭ノ尾灯台付近のみその姿を見ることができます。




C-527:吉田守警長之碑(よしだ-しゅけいちょうのひ)【金吉稲荷社】
吉田氏(慶応2:1866-昭和11:1922)は島原市出身で明治17年(1884)長崎県巡査となり、その後、警部を経て稲佐警察分署長となります。その後、退職し長崎市役所に入り衛生業務に従事し、大正6年(1917)松尾鉄工所の守衛長となります。しかし大正14年(1925)の工場閉鎖で独り荒廃した工場の管理にあたり、雨の日も風の日も毎日欠かさず工場の警備を務めます。昭和11年(1936)川南造船所による再開に際し、ふたたび守警長に任ぜられました。この記念碑は第二次大戦中の時勢に際し模範となる吉田氏の功績に対し昭和14年(1939)建てられたもので、題字は当時の海軍大臣:大角岑生(オオスミミネオ)によるものです。




C-526:金吉稲荷大明神(かねよしいなりだいみょうじん)
香焼町(香焼村字長浜)
天保12年(1841)長浜には佐賀藩が置いた長浜御番所があり、その背後の山には番所の守護として置かれたと考えられる神社があります。神社には金吉稲荷社と遠能稲荷社、そして不動尊と土神、山神があります。なお、境内には香焼に造船所を初めて開いた松尾孫八らが大正3年(1914)に建立した不動尊鳥居の建立者碑があります。




C-525:長浜番所跡(ながはま-ばんしょあと)
香焼町(香焼村字長浜)
現在の三菱の正門の西側一帯に天保12年(1841)に置かれた長浜御番所がありました。江戸末期、ここは長崎港の警備のため佐賀藩が置いた番所で、佐賀本藩より勤番隊50人が送られ海防に関する教育実習、軍事訓練なども合わせて行われます。ここは3棟の長屋と1棟の番所からなり文部方、武術方、医者が置かれていました。文久元年(1861)に廃止されます。現在では使用の井戸が残っています。




C-524:長浜(ながはま)
香焼町(香焼村字長浜)
長浜は深浦の交差点から三菱香焼工場の正面入り口までの地域をいい、昔は南北に長い浜があったところから長浜と呼ばれています。その浜は明治20年(1887)代まであり、明治35年(1902)松尾鉄工場分工場(松尾造船所)が長浜の海面3000坪を埋め立て工場を建設しました。ここは香焼における造船発祥の地です。大正14年(1925)に閉鎖し、昭和11年(1936)川南造船によって再開。このとき蔭ノ尾島まで埋立てられ東洋一といわれた10万トンドックが完成します。第二次大戦後、昭和26年(1951)工場は閉鎖し、昭和40年代から現在の三菱に引き渡されます。




C-523:馬手ヶ浦(まてがうら)
香焼町(香焼村字馬手ヶ浦)
馬手ヶ浦は香焼島の北側に位置し三菱香焼工場の西側の地区です。この地域は昭和17〜18年(1942-3)に川南造船所の拡張工事に伴い長浜地区などから集団移転して開かれた地域で、もともとは鳶ノ巣と呼ばれた海岸に山が迫ってくるような狭小地区でした。馬手ヶ浦の北には、えのき浜と呼ばれた海岸があって昭和35年(1960)から10年間、香焼町漁業協同組合によってハマチが養殖され最盛期には2.5万尾ものハマチが養殖されていました。ここは長崎県初のハマチ養殖場でした。現在は三菱香焼工場の敷地になっています。




C-522:香焼カトリック教会
香焼町(香焼村字堀切)
江戸時代中期、大村藩はキリシタンに対する取り締まりを強化。さらには財政難から子供の間引き制度を進めます。そのため弘化年間(1844-1848)外海など大村藩領に住むキリシタンは比較的禁制のゆるい五島や佐賀領である長崎港周辺の伊王島や神の島、善長谷などへ移住します。また、推測の域から脱せませんが、蔭ノ尾島にも文化12-3年(1815-16)ごろに移住してきたものといわれていますが、蔭ノ尾島で信仰が活発になったのは幕末に外国人宣教師が来日してからでした。そうした中、比較的キリシタン政策に寛大だった佐賀藩も慶応3年(1867)ごろから厳しくなり深堀藩からも入牢された者が出ますが、すぐに放免されます。明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤去されると、明治6〜15年(1873〜82)ごろに仮教会が造られ、神の島教会より巡回を受けていました。そして明治29年(1896)蔭ノ尾教会が設立されました。昭和45年(1970)蔭ノ尾地区の集団移転によって現在の堀切地区に移転。今に至ります。




C-521:私立川南工業青年学校跡
香焼町(香焼村字堀切)
昭和10年(1935)の青年学校令を機に昭和13年(1938)堀切地区に私立川南工業青年学校が創立し、川南工業轄¥ト島造船所の従業員のうち14歳から20歳までの青年を学ばせます。ここでは工場での生活をはじめとする知識や技能向上を図るもので、公民科、普通科、職業科、教練科の4課からなる学校で、第二次大戦中は3000名近くの学生が在籍していました。終戦により廃校し、校舎は昭和20年(1945)から昭和26年(1951)まで香焼小学校や香焼中学校の仮校舎に利用され、のち解体され今では住宅地になっています。




C-520:長崎総合科学大学発祥の地
香焼町(香焼村字堀切)
香焼島の西側、堀切西地区の住宅地は長崎総合科学大学の前身である川南高等造船学校があった場所です。昭和17年(1942)川南工業鰍ヘこの地に川南高等造船学校を設立し、昭和19年(1944)川南造船専門学校、翌20年(1945)長崎造船専門学校と改称。昭和25年(1950)新学制によって長崎造船短期大学となります。昭和36年(1961)網場町に移転。昭和40年(1965)からは長崎造船短期大学は4年制大学として長崎造船大学となり、昭和53年(1978)長崎総合科学大学と改称します。また、平成14年(2002)には旧長崎水族館の建物を購入し校舎に活用します。一方、昭和24年(1949)新学制として長崎造船高等学校を設立させ昭和37年(1962)からは付属高校とします。
長崎総合大学は造船技術だけではなく日本の最先端の科学技術を研究する学園として多くの人材を輩出しています。




C-519:こまんが浦のこまん嬢(こまんがうらのこまんじょう)
香焼町(香焼村字海老瀬)
香焼島の西、海老瀬と浄化センターとの間付近を「こまんが浦」といいます。その昔、五島から来たという「こまん」という娘がこの付近にいて長崎へ奉公に出されていました。数年後、奉公が終わり運搬船に乗って村に戻っていたとき、船の中で稼いだお金をはぎ取られ、ひどいことに海に投げ飛ばされたといいます。その後、その亡き骸は海岸に流れ着き、このことに同情した村人が手厚く葬ったとのこと。いつしかこの海岸を「こまんが浦」と呼ぶようになったといいます。




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