広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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大乗妙典一字一石之塔【円通寺境内】
大乗妙典一字一石塔とはたくさんの信者が各自一つ一つの石に一文字書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので円通寺に墓所内にある塔は享保10年(1725)に「願主拾余」つまり10人ほどの施主によって建立されています。一説には深堀郷土史に「深堀の菩提寺六代賢外普門大和尚法華経三部を書写して本尊仏の下(菩提寺内)、馬場崎井水の上(現深堀小横)、伊王島、この三処に埋納し・・・」とあるところからその一つとも考えられています。




C-569:鰹船遭難碑(かつおふねそうなんひ)【円通寺境内】
文化12年(1815)2月21日昼ごろ、伊王島や為石村の漁師を乗せたカツオ船が五島沖で大風に遭い遭難し、20名ほどは助かったものの100名余りが溺死しました。このことは伊王島の男子がいなくなったといわれるほどの犠牲者で、この碑はその供養塔として建てられたもので、あわせて地蔵菩薩が建立されました。なお、為石には溺死萬霊塔が建てられ犠牲者の霊を慰めています。




C-568:曹洞宗蓮台山円通寺(れんだいさんえんつうじ
伊王島町1丁目(伊王島村字鍛冶屋町)
元文4年(1739)深堀村の菩提寺第12代住持の桃龍玄浪は伊王島の字仙崎に庵を構え円通庵を創建します。ここは深堀の菩提寺の布教所や葬祭に利用されていました。天保初年(1830〜)武庫山の長福寺住持の大雅は何らかの理由で追われ天保2年(1831)円通庵に合併。長福寺の宝物などを引き継ぎます。現在の本堂は昭和44年(1969)に建立。




八坂神社(やさかじんじゃ)【白髭神社境内】
八坂神社は京都の八坂神社を本社とする須佐之男命をお祀りする神社で、須佐之男命は祇園天神(ギオンテンジン)または牛頭天王(ゴズテンノウ)ともいいます。八坂神社を祇園社(天王社)といい、お祭を祇園祭といいますがそれはここから来ています。伊王島の八坂神社の鳥居は船津郷の職人有志によって建立されたもので、職人の信仰を篤く受けていました。




C-567:大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)【白髭神社境内】
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。また、一説には神奈川県の三浦半島を治めていた三浦氏の一族が茂木から深堀に入り深堀氏に性を代えるのですが、その際、守護神としていたのが大山祇神であったといわれています。そのため深堀と隣接し深堀氏の支配下であった伊王島に置かれたものと考えられます。




C-566:三宝大荒神(さんぽうだいこうじん)【白髭神社境内】
白髭神社境内にお祀りされている三宝大荒神は「火止めの神」と呼ばれ、以前までは3月の28日の例祭に「火止め守り」や「火止めの御幣」が各戸に頒布される習わしになっていました。船津地区では火事になったためしがなく、それはその御幣のおかげといわれ、大正12年(1923)の関東大震災や大正末期の築町の大火のときにこの御幣を携えていた者は不思議と災いに遭わなかったといわれています。石祠建立は明治36年(1903)。

正一位伊王崎稲荷神社(-いおうざき-いなりじんじゃ)【白髭神社境内】
伊王崎とは伊王島の出鼻(真崎/真鼻)のことで、伊王崎稲荷神社はもともとは灯台付近にお祀りされていました。それがお祀りしにくいなどの事情でいつしか白髭神社に遷座して今に至ります。




C-564:白髭神社(しらひげじんじゃ)
伊王島町1丁目(伊王島村字瀬戸屋敷)
白髭神社は瀬戸屋敷地区にあって福岡の新宮より移り住んだ人たちによってお祀りされたもので祭神は武内宿祢(タケウチノスクネ)です。伊王島の住人は江戸時代の初め、筑前国新宮村(現 新宮町)の漁師7人が暴風のため伊王島に漂着しそのまま住したといわれているところから、創建は江戸時代初期と考えられています。

弁財天(べんざいてん)【白髭神社境内】
白髭神社境内にお祀りされている弁財天は漁業の神ということもあり伊王島の漁民などに信仰をもって建立されています。石祠建立は明治12年(1879)。




C-563:八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
八幡大菩薩は伊王島の字新組にある八幡社をいい、吉井貞彦宅が先祖代々お祀りされている神社です。
※船津地区、船津生活館より北に約30メートル

〇慰霊碑【船津地区】
旧満州国東安省密山県廟嶺/歩兵第五中隊井伊隊




縣村稲荷大明神(あがたむら-いなり-)
縣村稲荷大明神は伊王島の字縣村にあった稲荷社をいい、旧商家の諸国屋(故佐藤岩太郎宅)先祖代々お祀りされていた神社でした。現存せず。※船津地区、賑橋より西側か?

祇園稲荷大明神(ぎおんいなり-)
祇園稲荷大明神は伊王島の字縣村にあった稲荷社をいい、故岩永康衛宅が先祖代々お祀りされていた神社です。もともとは沖之島字渡りにお祀りされていましたが近くの唐船江が炭鉱用地に使用されたため伊王島字瀬戸屋敷に移されました。現存せず。※船津地区、賑橋より西側か?




C-562:白岩稲荷大明神(しらいわ-いなり-)
伊王島町1丁目(伊王島村字縣村)
白岩稲荷大明神は伊王島の字縣村にある稲荷社をいい、故平戸テツ宅が先祖代々お祀りされている神社です。境内には弘法大師、地蔵菩薩、不動明王、観音菩薩ほか仏体もたくさんお祀りされている神仏混淆の名残を見る神社です。
※船津地区、賑橋より西に約100メートル




C-561:泊瀬御前霊社(はせごぜんれいしゃ)
伊王島町1丁目(伊王島村縣村)
泊瀬御前霊社は藤原成経を慕った女性の霊を祀った神社で、源氏と平家の戦いを記した書物「源平盛衰(セイスイ)記」にも記してあります。それによると「海人の女と契りを結びて御子一人出来、後はいかになりけん」とあって、創建は不明ですが、境内にはそれにまつわると伝えられる井戸もあります。地元では「権現さま」と称されています。鳥居は明治22年(1889)建立。場所は船津地区の「東の浜」で大渡酒店前付近です。




C-560:琵琶川(びわがわ)
伊王島町1丁目(伊王島村字縣村)
琵琶川は伊王島の南、船津地区に流れる川、ここでは泉のことをいい、伊王島に最初に人が移り住んだ場所といわれています。泉がちょうど琵琶の形をしていたところから琵琶の名がつけられ、俊寛僧都も使用したであろう井戸であり、倭寇が飲料水としての補給井戸として使ったともいわれています。場所は船津地区の「東の浜」で大渡酒店前付近です。




C-559:船津(ふなつ)
船津は伊王島と沖之島の中間で伊王島側の地域をいい、伊王島の中でも最も古く定住が始まった場所といわれ、古文書などで伊王島といえばたいていこの船津地区に住することを指します。また、江戸時代の初め、筑前国新宮村(現 新宮町)の漁師7人が暴風のため伊王島に漂着しそのまま住したといい、その住み着いた地域を字七軒町といいます。この地域は船を係留するのに最適地で、それが船津の由来になったものと考えられています。船津とは通称で字名には七軒町、鍛冶屋町、勝町という地名があり、さらには肥前屋、五島屋、恵美須屋、小江(コイ)問屋、豊後屋、諸国屋などの屋号をもった旧家があって、それはこの地に各地から移住し商いをしていたことを物語るものといえます。




簡易水道竣功記念碑(かんいすいどうしゅんこうきねんひ)
伊王島町1丁目(伊王島村字仙崎)【伊王島開発総合センター】
碑文「伊王島村簡易水道は日鉄礦業株式会社及び国県の絶大なる援助により伊王島鉱業所海底水道島内貯水槽を水源として実現せるものなり。起工昭和33年4月30日竣功昭和34年2月11日仍て記念のための碑を建つ/昭和34年2月11日 村長大森辰二誌」
題字は当時の長崎県知事の佐藤勝也による




松村茂翁之像(まつむらしげる-おうのぞう)
伊王島町1丁目(伊王島村字仙崎)【伊王島開発総合センター】
松村茂(明治17:1884-昭和31:1956)は東京都出身。明治43年(1910)東京帝国大学工科大学卒で明治鉱業に入社。その後、大正15年(1926)嘉穂鉱業(福岡県)の常務取締役となり、さらには満州炭鉱、満州重工業開発、常磐炭鉱などの役職を歴任し、昭和28年(1953)嘉穂長崎鉱業の社長となります。生涯を通じ石炭鉱業界をけん引し、当時は謎とされた伊王島の開鉱に着手し良質な石炭を発見。昭和24年(1949)には鉱山技術界最高の栄誉である渡辺賞を授与されます。
この像は伊王島の発展に寄与した功績をたたえ昭和34年(1959)に当時の村長であった大森辰二ほか村議会長の永光光ほか議員15名、顧問として伊王島鉱業所所長の河北四郎を迎え建立されました。




松本三郎氏之像(まつもとさぶろう-しのぞう)
伊王島町1丁目(伊王島村字仙崎)【伊王島ターミナル前】
碑文「本町は昭和47年3月基幹産業であった炭鉱が閉山 以来 人口流出に伴い過疎化が進み 苦難の歩みを余儀なくされた 昭和63年6月 松早石油株式会社社長 松本三郎氏の御決断により「伊王島スポーツリゾート開発株式会社」の進出が決定 これにより本町はリゾートの島として新たな歴史を刻み始めた 平成元年7月にオープンした「ルネサンス長崎 伊王島」は年々整備充実され 今日では県内外から数十万の来島者があり 島にかつての賑やかさと活気をよみがえらせ 町民に確固たる希望と自信をもたらした これもひとえに松本三郎社長の地域振興に対する情熱と卓越した企業経営感覚 加えて類まれなる先見性の賜にほかならない リゾート立町10周年にあたり ここに伊王島町 町議会 町民こぞって市の優れた識見と高潔な人柄を偲び その御功績をたたえて 永く後世に伝えるためにこの像を建立する。平成10年10月吉日」
※「ルネサンス長崎・伊王島」は平成15年(2003)より「やすらぎ伊王島」へと経営が変わります。




C-558:千崎稲荷大明神(せんざきいなり-)
千崎稲荷大明神は伊王島の字千崎にある稲荷社をいい、大渡鶴太郎宅が先祖代々お祀りされている神社です。その昔、神社後山の山林は大明寺の住人のものでしたが、地区の老婆が林に入って薪を切ったところ、山に入って薪を切った夜に限って腰痛をおこすため、これは山の祟りと思い、船津の網元の吉井亀次郎に相談し薪を買ってもらいました。亀次郎は早速、祠を建てたところ、港は大漁に恵まれ船津の漁民を驚かせたといいます。
※伊王島港ターミナルより西に約50メートル




C-557:足摺石(あしずりいし)
伊王島町1丁目(伊王島村千崎)
足摺石とは伊王島に流された俊寛僧都をはじめとする藤原成経と平康頼らはその後の恩赦で帰ることを許されますが俊寛僧都だけは認められず、二人の乗った船が伊王島を出るとき、その不公平さに憤り、その場で足摺をして悔しがったといいます。その足摺りをした石を足摺石といい伊王島の港付近にあったといいます。今は道路となり現存していません。




C-556:仙崎/千崎(せんざき)
伊王島の南東側海岸を仙崎/千崎と称します。現在はホテルやレストランが立ち並ぶ地域ですが、ここは昭和16年(1941)以降に炭鉱採掘によって出たボタによって埋立てられた地域です。埋立ては伊王島ターミナルのある字千崎から大明寺の字横山に至る約6万坪を計画的に埋立て、鉱員木造住宅とコンクリート造4階建てアパート6棟に従業員約400世帯が住み、さらに小学校、中学校、郵便局、銀行、それに各商社などの出張所などは次々に建てられました。現在は地域センター(旧役場)や開発センターなどが立っています。




C-555:畦の岩這(あぜのいわばえ)
伊王島町2丁目(沖之島村字畦)
沖之島の南西の畦地区の海岸にはいわゆる鬼の洗濯岩のような岩礁があります。沖之島の南部から西部にかけては波による浸食によって波食台を形成し、沖之島層と呼ばれる泥質砂岩からは貝化石やオウムガイなどの化石を採取することができます。一つの地域でこれほど多くのオオムガイの化石が見つかるのは全国的にも珍しいとのことです。オオムガイは現在は日本には産せずフィリピン近海に生息していますが、沖之島層が形成された当時は今より亜熱帯的な水温だったと考えられています。




C-554:伊王島大橋
伊王島大橋は沖之島と香焼島間の大中瀬戸を結ぶ橋で、橋長876メートル、幅員8メートルの橋で、平成23年(2011)完成しました。総事業費約60億円。なお、この伊王島大橋は一般県道伊王島香焼線の一部として整備されたもので、県道の総延長は2.7キロメートル、伊王島大橋のほかに栗ノ浦高架橋(69メートル)と香焼トンネル(603メートル)の施設があり総工費は約120億円となります。橋の開通で島へのアクセスが向上し消防活動なのが迅速に対応しましたが、交通量の増加で島民の交通事故が懸念されています。




C-553:大中瀬戸(おおなかせと)
沖之島と香焼島の間の瀬戸を大中瀬戸といいます。昭和43年(1968)に香焼島と深堀の間が埋め立てられると潮流が激しくなり馬込の付近の浜の砂が洗い流され岩礁が露出する事態となります。馬込の浜は伊王島や沖之島の中で一番いい海水浴場だったといわれていましたが、現在は護岸工事など埋立てられています。香焼深堀間の埋め立てにより船舶の往来が増えたため昭和42年(1967)沖之島の南端に灯台が設けられ、黒瀬灯台と称されます。




C-552:屋敷跡(やしきあと)
伊王島町2丁目(沖之島村字屋敷)
屋敷とは沖之島遠見番所の派兵部隊の屋敷があった場所で、責任武士として割合身分の高い派兵がいたと考えられています。そのため地区の字名として残っており、現在の伊王島大橋取り付け道路入り口付近にありました。




C-551:沖之島遠見番所跡(おきのしまとおみばんしょ-あと)
伊王島町2丁目(沖之島村字遠見)【遠見岳山頂付近】
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、鍋島藩は自領である深堀、香焼、神の島、伊王島、高島、脇岬に陣を設け警戒していました。山のふもとには駐屯所や火薬庫などが設けられ現在でも石垣の一部を見つけることができます。当時、50〜60浬(カイリ=約100キロメートル)沖に帆影を発見すれば番所へ申し出が行われ、5〜6里(約20キロメートル)で奉行所より検視通詞などの掛を乗せた小舟を向かわせ、白、赤、紺の幟を立てます。これに相手方も同じ幟が揚がると祝砲が放たれ、これを幟合せといっていました。逆に同じ旗が揚がらない場合は追い返されるという訳です。なお、敷地には天満宮がお祀りされていて、文政9年(1826)頃の地図にすでに小祠が明記されています。この天満宮はのちに字小山に移されました(現存せず)。




C-550:沖之島台場跡(おきのしまだいば-あと)
伊王島町2丁目(沖之島村字屋敷)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、弘化3年(1846)長崎の警備にあたっている筑前黒田藩、佐賀鍋島藩は幕府に対し港口にあたる伊王島と神ノ島に砲台建設が急務であることを建議しますが多額の費用がかかることから拒否。しかし次第に日本への外国船の来航が頻繁になり、嘉永6年(1853)佐賀藩は自領である伊王島と神ノ島に幕府より5万両を借りて洋式砲台を建設し警備に備えます。沖之島の台場は観音崎台場といいおそらく馬込地区の東(長菱船舶工事付近)にあったと考えられます。




C-549:炭住(たんじゅう)
炭住とは鉱業所請負業関係従業員の居住地域をいい、昭和16年(1941)以降、炭鉱開発に伴い下請け業の従業員が多くこの伊王島にやって来ます。そのため伊王島の千崎埋立地、沖ノ島向イ(馬込付近)、丘町遠見番所谷、小浦丘陵地帯(伊王島灯台入口付近)などに住宅が設けられ、従業員ほかその家族が居住させます。伊王島町役場はそれらの住居を総称して炭住と呼びました。現在、炭住はすべて整理され現存していません。




C-548:馬込天主堂(まごめてんしゅどう)
伊王島町2丁目(沖之島村字土井下)
江戸時代中期、大村藩はキリシタンに対する取り締まりを強化。さらには財政難から子供の間引き制度を進めます。そのため弘化年間(1844-1848)外海など大村藩領に住むキリシタンは比較的禁制のゆるい五島や佐賀領である長崎港周辺の伊王島や神の島、善長谷などへ移住します。西暦1865年3月17日(元治2年2/20)に男女14人の日本人が大浦天主堂を訪ねたといういわゆる信徒発見を受け同年5月、馬込地区の信者の長である総代数名と大明寺の総代は話し合いをし、大浦天主堂へとひそかに信者数や状況を伝えに行っていました。しかし、逆に神父たちの島への巡回は奉行所の監視が厳しくなかなか実現には及びませんでした。明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤去されると馬込地区への巡回ができるようになり、沖之島村字椎山にあった村上宅が巡回神父の宿泊所兼仮聖堂として使用されます。明治17年(1884)ころになると信者が増加したため仮堂も手狭となり、明治21年(1888)初めて主任として赴任したマルマン神父は聖堂建設を申し出、明治23年(1890)木造漆喰造の聖堂が完成します。明治25年(1892)には神父館もそばに建てられ神の島や蔭ノ尾など周辺地区の本部となります。しかしその後の落雷や昭和2年(1927)の台風によって倒壊したため、昭和6年(1931)現在の天主堂が新築されました。この建物はゴシック式鉄筋コンクリート造で、正式名称は馬込大天使ミカエル天主堂です。国登録文化財




C-547:大田エン女史宅跡(おおたえん-じょしたくあと)
伊王島町2丁目(沖之島村字小山)【純心聖母会伊王島修道院】
明治7年(1874)長崎では赤痢が蔓延しこの伊王島でも大発生となる事態に陥ります。その中で当時24才だった大田エンは献身的にその患者らの看護にあたり、当時来崎していたロカイン副司教やド・ロ神父は「博愛修道会のシスターでも、これ以上の勇気と熱意を発揮し得ようか」と賛美したといいます。このときの伊王島での犠牲者は62人、感染者は219人に上りました。明治44年(1911)大田エンは馬込に数名の女子を集め共同生活を行い労働と教育を兼ね備えた施設「馬込共同園(通称女部屋)」を設立します。これは修道院の先駆け的施設で、大田エンは伝道婦として生涯を捧げます。大田エンの家は現在の伊王島修道院のところでした。




椎山キヤ(しいやま-きや)
椎山キヤ(文化2:1805-明治27:1894)は戸籍上は村上キヤといい、字椎山に住していたところから通称:椎山キヤと呼ばれていました。村上家の先祖は外海の永田村に住し、のちにこの沖之島に移住します。キヤの夫で5代目でしたが夫に先立たれ、さらには子供もなかったことから3、4人の養子をもらいます。しかし豪傑な性格で借金など人にものを借りることをせず、最期は子供を実父に返し村上家は途絶えます。墓所は椎山共同墓地の後方にあって、墓石横にはキヤの甥の村上寅蔵によって碑が建てられています。なお、この村上寅蔵宅も宿主として巡回神父の宿舎兼仮聖堂に使用されていました。




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