広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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伊王島の民話「おじいさんとおばあさん@」
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ、おばあさんは川で洗濯をしていました。すると川上から桃が流れてきたので、取り上げ家に持ち帰り戸棚に入れます。そうしておじいさんが帰ってきてその桃を人に分けてやったといいます。

伊王島の民話「おじいさんとおばあさんA」
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈に、おばあさんは川で洗濯をしていました。すると川上から桃が流れてきたので、取り上げ家に持ち帰ります。そうしておじいさんが帰ってきたのでご飯にして食べました。




伊王島の民話「海の水」(うみのみず)
昔々、あるところに二人の兄弟が住んでいました。兄は欲張りで弟は心立てのいい人でした。ある日、弟はある村の一寸坊からひき臼を貰いましたが、兄はそれを盗み船の中で「塩出ろ塩出ろ」とずっと回していました。そうしたら塩が船いっぱいになりついには船が沈んでしまいます。しかし海の中でも臼は独りでに回り続け、こうして海の水が塩辛くなったといいます。

伊王島の民話「上の爺と下の爺」(うえのじじとしたのじじ)
昔々、あるところに上の爺さんと下の爺さんが住んでいました。ある日、上の爺さんは下の爺さんを誘って魚釣りに向かいますが、上の爺さんはどこもここもエサを石の上に撒いていたので下の爺さんに釣らせません。そして二人が家に帰っていたところ、上の爺さんは疲れてしまい道に座り込んでしまいます。そのため下の爺さんは先に帰ってしまいます。上の爺さんはそのうち眠ってしまい、釣った魚はすべて猫に食べられてしまったそうです。




伊王島の民話「蛇と蟹」(へびとかに)
昔々、あるところに孝行娘が住んでいました。ある日、蟹売りがやって来たのでその蟹を全部買って逃がしてやりました。ある日、蛇が娘を食べに来たとき、おばあさんはとっさに長持ちの中に入れ助けます。しかし蛇はその長持ちを取り巻いて出られないようにしたところ、突然、蟹が現れその蛇を喰い殺します。その蟹は以前娘が助けた蟹だったのです。蟹はその恩返しにやってきたとのこと。




伊王島の民話「百足と虱と蚤」(むかでとしらみとのみ)
昔々、百足と虱と蚤がいました。百足は虱と蚤にたいし「今日は寒いので酒を買いに行ってくれ」と頼みます。すると蚤は「私はぴょんぴょん飛び跳ねるので瓶を割ってしまう」と答えます。今度は虱が「私はグジグジするから遅い」と答えます。しかたなく百足が買いに行くことになるのですが、いつまでたっても帰って来ません。虱と蚤が捜しに行き百足を呼んだところ、百足はひとこと「今わらじを履いている」と答えたといいます。




伊王島の民話「大明寺の化け物」
昔々、谷の山の化け物が横山の化け物のところへ攻めて行きました。そのため横山の化け物は全部木の上に登ってしまいます。そして谷の山の化け物は木を切り倒して、とうとう横山の化け物を皆殺しにしたという。
※横山とは大明寺地区の字名、谷の山は番所谷のことか?

伊王島の民話「猫と鼠」
昔々、あるところに猫と鼠がいました。猫と鼠は兄弟のように仲良しでしたが、あるとき、猫は鼠を捕まえてがぶっと食べてしまったため鼠はとうとうなくなりました。




伊王島の民話「猿と蟹」(さるとがね)
昔々、猿とガネが川端で遊んでいたところ、猿は柿の種を拾い、ガネは握り飯を拾います。猿はガニに柿の種と握り飯を交換するよういい、ガネは「よかろう」といい柿の種を家に持ち帰り育て始めるのです。柿はみるみる大きくなり真っ赤な実をつけます。しかしガネは木を登ることができないため取ってくれるよう猿にお願いします。猿は木の上に登るやいなや赤い柿を食べ始め全くガネに渡しません。ガネがもう一度お願いしたところ今度は青い柿を投げつけ、ガネは青い柿にあたりとうとう死んでしまったという。




C-583:弁慶岩(べんけいいわ)
伊王島町1丁目(伊王島村字大平次)
伊王島の北西海岸に一つの大岩があって弁慶を思わせるところから弁慶岩といいます。ある初冬の日、おそらく遠方の国からと思われる一人の男が船で渡ってきてこの岩の近くに滞在し、日中は村人たちの開墾を手伝いますが、夜ともなればその岩の上で八幡大菩薩を祈祷していたといいます。しかし、一年ほど経ちその男は村人の願いも聞かず旅立っていきます。現在は崩壊し原形をとどめていません。




C-582:キイレツチトリモチ(喜入土鳥餅)
キイレツチトリモチはツチトリモチ科の寄生植物で、主に九州の鹿児島-熊本-長崎に分布。トベラ、ネズミモチ、シャリンバイなどの地表に近い細い根に寄生しています。10月中旬から2月までが時期で、一見キノコのように見えますが顕花植物で高さが10から15センチメートルの白黄色をしています。このキイレツチトリモチですが明治43年(1910)鹿児島湾に面した喜入村(当時)発見され、植物学者:牧野富太郎博士によって命名されました。さらに昭和16年(1941)秋、長崎でもその自生が発見され、調査によって長崎市本河内がキイレツチトリモチ自生の北限地となります(昭和26年(1951)国天然記念物の指定)。長崎では伊王島灯台付近や稲佐山で確認ができます。
※この発見には裏話があり、喜入で発見される3年前、長崎市飽の浦ですでに発見されていたのです。しかしこの時の標本が悪く新種とは断定できなかったそうです。




C-581:伊王島灯台記念館
灯台記念館はもともと灯台守の宿舎として建てられたもので、灯台が建設された明治3年(1870)ごろに竣工した建物です。設計はイギリス人主席技師のプラントンで洋風無筋コンクリート建です。昭和46年(1971)に灯台が無人化された後は倉庫として領され昭和57年(1982)長崎県の有形文化財となり、昭和63年(1988)からは灯台記念館として灯台の歴史や当時使用していた資料を展示しています。なお、灯台東側には当時使用していた井戸が残っています。




C-580:伊王島灯台(いおうじまとうだい)
伊王島町1丁目(伊王島村字真鼻)
慶応2年(1866)日本はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4国との間に江戸協約を結びますが、これは安政2年(1855)の安政五か国条約(いわゆる不平等条約)を改定したもので、関税の低減のほか灯台8か所の設置を約束したものでした。その8か所とは観音崎(神奈川県横須賀市)、剣崎(同三浦市)、野島崎(千葉県南房総市)、神子元島(ミコモトシマ:静岡県下田市)、潮岬(和歌山県串本町)、剣崎(同)、佐多岬(鹿児島県南大隅町)、伊王島で、伊王島灯台は明治3年(1870)に完成し翌4年に本点灯します。
当初は第一等不動白色反射灯で光到達距離は21浬(カイリ:1浬=1.852キロメートル)、レンズは1.800燭光(ショッコウ:1燭光=蝋燭1本分の光度)でした。昭和20年(1945)原爆の影響で破損したため改修されコンクリート四角形の造りになります。昭和46年(1971)無人化となり、平成15年(2003)当初の六角形の造りに復元されました。天井などは当時のままのドーム天井が使われています。




C-579:炭住(たんじゅう)
炭住とは鉱業所請負業関係従業員の居住地域をいい、昭和16年(1941)以降、炭鉱開発に伴い下請け業の従業員が多くこの伊王島にやって来ます。そのため伊王島の千崎埋立地、沖ノ島向イ(馬込付近)、丘町遠見番所谷、小浦丘陵地帯(伊王島灯台入口付近)などに住宅が設けられ、従業員ほかその家族が居住させます。伊王島町役場はそれらの住居を総称して炭住と呼びました。現在、炭住はすべて整理され現存していません。




C-578:丘町(おかまち)
伊王島の北、白浜の付近を丘町と称します。明治期以降は、陸海軍の駐屯地として兵舎などがありましたが、昭和16年(1941)以降は炭鉱開発によって開かれ、鉱員社宅や職員社宅のほか商店や保育園、医療診療所などが立ち並ぶ地域でした。また、海岸近くの字中ノ田には炭鉱の立坑があり、地域民40世帯、炭鉱関係者150余世帯の町が形成されていました。俗に炭鉱関係者からは遠見町、潮見町、平山などと呼ばれていたといいます。現在は住居や商店などは全くなく空き地になっています。




C-577:月野木少将「誠」の碑(つきのきしょうしょう-まことのひ)
伊王島町1丁目(伊王島村字小平次)【ながさき暮らし推進事業管理事務所内】
月野木正雄は陸軍の少将で長崎要塞司令部の最後の司令官でした。この碑は昭和18年(1943)に建立されたもので、なぜこの場所にあるかは不明。なお、伊王島の白浜海岸には要塞地帯の道標があって「長崎要塞第三地帯標 第七号 陸軍省」と刻されています。
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい要塞地帯はその周辺の区域を指します。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。区域内では測量や建造物に厳しい制限が行われます。区域は長崎港を中心に式見-滑石-三ツ山-日見-茂木-川原-高島-伊王島-式見といった長崎を円形に囲んだ地域で、さらにこの中心付近も3段階に分かれました。




C-576:大明寺遠見番所跡(だいみょうじとおみばんしょ-あと)
伊王島町1丁目(伊王島村字番所谷)
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、鍋島藩は自領である深堀、香焼、神の島、伊王島、高島、脇岬に陣を設け警戒していました。山のふもとには駐屯所や火薬庫などが設けられ現在でも石垣の一部を見つけることができます。大明寺の番所は通称:遠見高りといい、山のふもとには駐屯所や火薬庫などが設けられ現在でも石垣の一部を見つけることができます。




C-575:丹波少将藤原成経の庵跡
伊王島町1丁目(伊王島村字大明寺)
藤原成経(?〜建仁2:1202)は俊寛僧都と共に流罪を受けた大納言の藤原成親(-ナリチカ)の嫡男で、鹿の谷事件の際は右近衛少将兼丹波守として仕えていたので丹波少将と称されていました。事件では連座として処罰されますが平清盛の弟の教盛(ノリモリ)の娘を妻としていたため教盛によって死罪を免れ、父と共にこの伊王島に渡って来たといわれています。文献には藤原成経が住していた場所は「武庫山の北、大明寺村にあり民家四十余字、次郎左宅地の内竹林是也」とあり、伊王島の字大明寺に庵がありました。




C-574:大明寺教会(だいみょうじきょうかい)
伊王島町1丁目(伊王島村字大明寺1060番地)
西暦1865年3月17日(元治2年2/20)に男女14人の日本人が大浦天主堂を訪ねたといういわゆる信徒発見を受け、同年5月、馬込地区の信者の長である総代数名と大明寺の総代は話し合いをし、やはり大浦天主堂へとひそかに信者数や状況を伝えに行っていました。明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤去されると大浦から大明寺へ神父の巡回ができるようになり、そこで大明寺の総代である副島長吉(通称:長衛門さん)宅が巡回神父の宿泊所兼仮聖堂として使用されます。
明治9年(1876)プチジャン神父は将来の日本の布教活動を見据えヨーロッパで資金調達に走り、翌年から長崎県下を7つのブロックに分け教会を建設。ブロックごとに神父を活動させ、大明寺はその第3司牧区の中心に位置づけ本部教会として明治12年(1879)大明寺聖パウロ教会が誕生します。建築はフランス人宣教師プレル(Bourelle)神父を迎え伊王島村の大渡伊勢吉によって建てられ、当時“une belle eglise(美しい教会)”と称されます。昭和48年(1973)老朽化のため鉄筋コンクリート造の建物に変わり、旧教会は昭和50年(1975)解体され愛知県明治村に移設改修され保存されています。




C-573:沢清水/嗽沢清水跡(さわしみず-あと)
伊王島町1丁目(伊王島村字干場)
沢清水は嗽沢清水とも書き、藤原成経が毎朝、嗽(ウガイ)をした場所といわれ、小さな流れがありました。文献には「武庫山の北八丁(約870メートル)浜にあり」とあります。現在の大明寺下の海岸に流れ込む小さな流れをいいます。




C-572:大明寺(だいみょうじ)
大明寺は伊王島の中心に位置し、大明寺の由来は一説には長崎の福済寺の旧称の大明(テイミン)寺からや、深堀の菩提寺の大壇越:呉五官は過去帳に「寛永十二年乙亥六月大明林氏五官」とあるところからその関係なのか、はっきりわかっていません。しかしこの地域は潜伏キリシタンが多く居住していた地域だったため、唐寺である大明寺は何らかの関係があったと考えられています。また、当時、大明寺地区は漁業が盛んで、外海地区などとも交流があって縁組も盛んだったといいます。




C-571:赤坊主(あかぼうず)
伊王島町1丁目(伊王島村字外の平瀬)
仙崎地区の海上にある瀬で、外の平瀬または前の平瀬といい、通称を赤坊主といいます。長崎港を出入りする船がたびたび座礁するところから赤い標識が建てられていました。おそらくそこから赤坊主という名前になったものと考えられます。昭和31年(1956)赤い明滅灯が建てられ座礁はなくなりました。




金刀比羅神社の言い伝え【唐船岳山頂】
その昔、出雲の神々が金比羅大権現に対し「貴神のところでは“神送り・神迎え”の祭礼日はいつが良いか」と尋ねたところ9月29日と10月29日とこたえます。そのあと出雲の神はともに金比羅大権現をお祀りしている村を訪ねたところ、その日は村で最も多忙な日だったため出雲の神はウソをつかれたと怒り、「貴神のところでは大祭はせぬでよい」と告げたといいます。そのため金比羅大権現では“神送り・神迎え”の大祭がないということです。




C-570:金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)
伊王島町1丁目(伊王島村字唐船守)【唐船岳山頂】
金刀比羅神社は伊王島の最高峰唐船岳山頂にあって船津の白髭神社一の鳥居脇からが正式な参道で、一の鳥居が白髭神社横にあります。船津地区の鎮守神です。もともとは両部神道として金比羅大権現をお祀りし明治維新を受け金刀比羅神社と改称したものと考えられます。石祠は昭和48年(1973)伊王島炭鉱の閉山に伴い日鉄鉱業活ノ王島鉱業所によって改修されています。




C-569:唐船岳(とうせんだけ)
伊王島町1丁目(伊王島村字唐船守)
唐船岳は伊王島の最高峰で標高は108.6メートル。付近の字名を唐船守というところから唐船を見守る遠見番所があったものと考えられます。




C-568:俊寛僧都臥所跡(しゅんかんそうずふしど-あと)
伊王島町1丁目(伊王島村字鷺ノ巣)
俊寛僧都らは流罪を受けこの伊王島へと流されましたが、何もない伊王島で夜寝るところとして使われた臥所は武庫山の西8丁(約870メートル)の磯にありといわれ、現在の字鷺ノ巣にあった洞穴だといわれ、そばには俊寛僧都が使用した井戸の「前の川」があります。なお、鷺ノ巣とは当時、松林が多く鷺が巣を作っていたところからこう呼ばれています。




C-567:康頼舞台石(やすよりぶたいいし)
伊王島町1丁目(伊王島村字西鷺ノ巣)
康頼舞台石は、その昔、伊王島に俊寛僧都とともに流された藤原成経と平康頼の二人が紀伊半島にある熊野三山になぞって参詣した岩殿恵比須に平康頼が馴子舞(ナレコマイ=神仏に手向けとして舞う舞)をした舞台といわれ、現在、千畳敷といわれる海岸の岩場をいいます。




C-566:殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)
明治時代以降、伊王島村出身者で日清日露戦争ほか国のために命を失った戦没者の慰霊碑:忠霊塔が円通寺境内にありました。それが昭和15年(1940)現在の武庫山に移され、昭和20年(1945)3月、福岡県鞍手郡小竹町字御徳に住む田代廣によって現在の殉国慰霊塔として再建されています。また、昭和61年(1986)には伊王島町殉国者遺族会によって改修されています。




C-565:振分関・嶋ヶ崎関墓所(ふりわけぜき・しまがさきぜき-ぼしょ)
伊王島町1丁目(沖之島村字瀬戸屋敷)
振分関は江戸時代中期に活躍した力士で振分文右衛門といい文政8年(1825)没します。振分関は旧伊王島村字元村の村田岩太郎が末裔といわれています。一方、嶋ヶ崎関は江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した力士で嶋ヶ崎芳太といい、旧伊王島村字西ノ浦出身で明治8年(1875)に没します。当時は船津にある白髭神社で旧暦の10月15日に奉納相撲がなされていて、両力士はその当時の強豪だったと考えられています。奉納相撲では遠く三重村の方からも力士が参加し賑わっていたといいます。
※墓所周辺は現在、大変荒廃しています。墓所は俊寛僧都の墓所の南東側約50メートルのところにあります。




C-564:北原白秋歌碑(きたはらはくしゅうかひ)【伊王島中央児童公園】
北原白秋(明治18:1885〜昭和17:1942)は福岡県出身の歌人で与謝野鉄幹の門人。明治から昭和にかけて日本文学に多大な影響を与えた詩壇です。昭和10年(1935)伊王島に来島し俊寛僧都の遺跡などを見学。昭和17年(1942)には自らが主宰する雑誌「多磨」に伊王島について長歌と短歌を発表します。この歌碑は長崎県の有志によって昭和25年(1950)に建立されました。
「(伊王島は俊寛の遺跡なりという)夏早き 伊王嶋 家つづき石たたみ道 その下り人気あらぬに 仰ぎ寝る男童ひとり 何怒る両腕拱み 何睨むその面がまへ 将た募るそのいきどほり 離れ島この海中の 果敢なき凪に口も結びて」
(反歌)「いにしへの流され人もかくありて すゑいきどほり海を睨みき」




C-563:俊寛僧都墓所(しゅんかんそうず-ぼしょ)
伊王島町1丁目(伊王島村字瀬戸屋敷)
俊寛僧都(康治2:1143〜治承3:1179頃)は後白河上皇の近臣で、治承元年(1177)俊寛の鹿ヶ谷の山荘で大納言の藤原成親(-ナリチカ)が中心となって、俊寛僧都、西光法師、平康頼らで平家の打倒を計画。しかしこれが平清盛に知られてしまい直ちに処罰されます(鹿の谷事件:シシノタニ-ジケン)。西光法師は斬殺、首謀者の藤原成親は備前(岡山県)児島に、俊寛僧都、平康頼らは硫黄島に流されます。数年後、高倉天皇の皇后が懐妊。その恩赦で罪を許され都に戻りますが、俊寛僧都のみが許されず島に残されます。そして俊寛僧都は食を絶ち息を引き取ります。この流された場所についていろいろな説があって、鹿児島県硫黄島や喜界島、そして長崎の伊王島があります。いずれの地にも俊寛僧都の墓が存在します。なお、この物語は近松門左衛門によって人形浄瑠璃となり、歌舞伎にもなりました。




C-562:武庫山大聖長福寺跡
伊王島町1丁目(伊王島村字仙崎)
宝暦5年(1755)長崎の清水寺の僧:末棄天龍は長崎の儒者:勝木枕山らと図り、肥前国武雄の鳥海村にあった廃寺の長福寺を俊寛僧都を弔うため伊王島の武庫山に移し武庫山大聖長福寺を建立します。本尊は不動明王で深堀鍋島藩は航海安全の祈祷所として毎年3石6斗を寄進するなど手厚く保護していましたが、天保初年(1830〜)住持が何らかの理由で追われ無住となります。そのため天保2年(1831)近くの円通庵(現 円通寺)に合併され姿を消します。その後、長福寺のことを「寺のほか」と称し、第二次大戦後まで小学校の運動場として利用。現在は歴代住持の墓所があるのみで児童公園になっています。




C-561:武庫山(むこやま)
伊王島町1丁目(伊王島村瀬戸屋敷)
武庫山とは俊寛僧都の墓所がある山のことをいい、武庫とは武器庫のようなものを意味し、寛永20年(1643)佐賀鍋島藩が沖之島の遠見山と伊王島番所に見張り番所を置いた際、この地に武器庫を置いたとされています。




C-560:伊王島台場跡(いおうじまだいば-あと)
伊王島町1丁目(伊王島村)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、弘化3年(1846)長崎の警備にあたっている筑前黒田藩、佐賀鍋島藩は幕府に対し港口にあたる伊王島と神ノ島に砲台建設が急務であることを建議しますが多額の費用がかかることから拒否。しかし次第に日本への外国船の来航が頻繁になり、嘉永6年(1853)佐賀藩は自領である伊王島と神ノ島に幕府より5万両を借りて洋式砲台を建設し警備に備えます。
伊王島の台場は円通寺下(船津夏の上)、大明寺干場(萩)、中ノ田、真鼻(出鼻)の4か所にありました。




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