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Cafe日誌No.18
2006年07月02日日曜日 23時04分
他の客も酔いが回ってきた頃に、何回かこの店を利用している淑女が入ってきた。苺と言う名前らしいがどうせ偽名だろう。苺は誰から聞いたかわからない噂話をはじめた。
無職 苺
「こんばんは。苺です♪いつも口語訳してくださって
ありがとうございます!また「すさまじきもの」
の続きなのですが、お願いします。

もの聞きに、宵より寒がりわななきをりける下衆男、
いともの憂げに歩み来るを、見る者どもはえ問ひにだにも問はず。

*え〜ず は「〜できない」と訳せばいいですかね?
よろしくお願いします!」
・・・不様としか言いようが無い。

明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター おじさん 3   2006年07月03日月曜日 07時53分
「やあ、昨夜はお酒飲んでたので今気づきました。
前回の続きの箇所ですね。

(除目での任命の)様子をうかがいに宵から寒がりながら震えて(待って)いた下仕えの男が、(国司に任命されたという知らせがなかったので)たいそうつらそうに歩いてくるのを、見ているものたちは(様子を見れば結果は明らかなのでどうであったかと)尋ねることさえもできない。

「もの聞きに」は、情報を聞くためにということです。ここでは「ここのご主人さまはどこそこの国司に任命された」という知らせを聞いて一刻も早く伝えるべく、夜通し寒さに耐えて待っているってことですね。「寒がりわななき」とありますから、下衆男は宴会に参加させてもらえず、屋外で待たされているのでしょう。
「え問ひにだにも問はず」は、おっしゃるとおり、不可能で訳しておけばよろしいです。同語反復は、文字通り動作の反復をあらわすか、強調を表すのが普通で、ここでは当然後者の意味ですが、訳出するのが非常に難しいので、そのままにしておきました。

間に合いましたかしらん。」

苺は語る事を止めない。
無職 苺 2006年07月04日火曜日 20時27分
「ありがとうございました♪すごく助かりましたw

((あッ内容はちょっと前のやつなのですが)) 上達部などみな出でたまひぬ で
「上達部のみなさまは退出してしまわれた」みたいな感じで
口語訳していただいたのですが、古文の先生に
退出と訳したらあんまりよくないと言われてしまいました。
なんか、謙譲語の意味を含んでいるから〜〜とかなんとか…
ど、どうなんでしょうか?」

これ以上騒ぎ立てられたら大事だ。
マスター おじさん 6   2006年07月04日火曜日 22時29分
「先生がおっしゃるのは、「出でたまひぬ」は「出で」が通常動詞で、「たまふ」が尊敬語なので、謙譲語がどこにも使われていない以上、「退出」はこの際不適である、ということでしょう。
わたしが「退出」と訳したのは、宮中の陣の座で人事の会議が行われている以上、そこから出て行くのが「退出」でないことはありえないからなのですが、意訳ですので、逐語訳として「退出」と訳すのはたしかに適当ではなかったですな。」

苺はまだ言い足りない。
無職 苺 2006年07月05日水曜日 17時34分
「そんな感じのことを言ってました。
意訳って分かりやすいけど、難しいですね…。
どうもありがとうございました!!!
テストも頑張れそうです♪♪またよろしくお願いしますw」

Cafe日誌No.17
2006年06月27日火曜日 00時35分
大分夜も遅くなった頃、見馴れない一人のレディが店に入ってきた。まあ良い噂を聞いた事が無いのは確かだ。武田なおは現地の人間でも分からないのでないかという癖のある訛りでがなりだした。
無職 武田なお
「はじめまして☆訳お願いしますっ☆

あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げ給ひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せ給へ。」と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日、門出して、いまたちといふ所に移る。年ごろ遊び慣れつる所を、あらはにこほち散らして、立ち騒ぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨て奉る、悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。」
ご高説をありがとう。

明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター おじさん 6   2006年06月27日火曜日 02時35分
「はじめまして。ようこそのお越しを。
更級日記は、物語さえあれば后の位だっていらないわ、というつぶやきが、千年もの間、書物好きの心をとらえて放さなかった作品です。わたしも大好き。友達のお姫様が猫に生まれ変わる話は、なんてことないんですけど、何度読んでもどこかしら心ひかれます。
ここはその冒頭部分。

東国へ至る道のはて(=常陸の国。今の茨城県の大半)よりも、さらに奥の方(=上総の国。今の千葉県の一部)で成長した人(=私)は、どれほどか田舎びていたであろうに、どうやって思い始めたのか、世の中に物語というものがあるそうだが、それをなんとかして見たいものだ、と思っては、することもない昼間や、宵を寝ないで過ごすときなどに、姉や継母などといった人々が、その物語やあの物語(=あれこれさまざまな物語)、光源氏の有様などをところどころ語っているのを聞くにつけても、いっそう読みたいという気持ちが強くなるのだけれど、自分が思う通りに、どうしてそらで覚えて語ることができようか。(いや、そんなことはできなかった)とても(物語が読みたくて)じれったいものだから、等身大に薬師仏を作って、手を洗ったりなどして、人のいない間に密かに(薬師仏のところへ)やってきては「京に早いうちに上らせていただいて、物語が多くございますそうですが、それをあるだけ全部お見せ下さい」と、身を投げ出して(=一心不乱に)ぬかずいてお祈り申し上げているうちに、十三歳になる年に、(京に)上ろうということで、九月三日に出発して、「いまたち」(=地名)というところに移り住んだ。長年遊び慣れた所を、(なにもかもが)丸見えになるように乱雑に取り壊して、大騒ぎして、日没間際の、たいそう物寂しいときに、車に乗るというので、少し目をやると、人目を忍んでお参りしては、ぬかずい(て祈りをささげ)た薬師仏がお立ちになっているのを、お見捨てするのが悲しくて、人知れず涙がこぼれてきてしまった。

「世の中に物語といふもののあんなるを」の「なる」は伝聞。後の「物語の多く候ふなる」の「なる」も同様。
「いかで見ばや」の「いかで」は、下に希望・願望の表現(ここでは「ばや」)を伴って、「何とか〜したい」の意。
「薬師仏」は、薬師如来ともいい、現世利益をもたらすという仏様。
「手洗ひなどして」は、仏様にお祈りするわけですから、少しでも身を清めているのでしょう。
「あらはにこほち散らして」は、「家の中が丸見えになるように乱雑に片づけて」という説があり、そちらの方が筋が通りますが、高校生には無理な訳でしょうから、上のように訳しておきました。「こほつ」はもともと「壊す」の意。
「門出」は、実際の旅立ちの前に、近くに住居を移すことなんだそうですが、そこまで訳す必要はないでしょう。」

武田なおは付け加えた。
無職 武田なお 2006年06月27日火曜日 21時12分
「ありがとうございます☆ひとつずつ丁寧に解説をしていただき、より深いところまで物語を把握することが出来ました!また訳をお願いすることもあると思いますがその時はよろしくお願いしますm(_ _)m」

Cafe日誌No.16
2006年06月26日月曜日 00時06分
大分夜も遅くなった頃、見馴れない一人の男の子が店に入ってきた。神経に血が通っていないそういう部類の人間だ。りなは誰から聞いたかわからない噂話をはじめた。
無職 りな 2
「こんばんは!始めまして★訳をお願いしますっ!!
さて、取りて着て、やがて出でにけり。胸うちつぶれて、わびしく悲しけれども、念じ返して、初瀬川のほどまで出でにけり。後ろに物いとののしりて来ければ、「あな悲し。さればこそ」と思ひて見れば、この事怪しむべき人にはあらで、馬に乗りたる者のあまたまかり出でけるなるべし。
さて、この馬に乗りたる男の言ふやう、「あの前に見ゆるは、女房にておはするにこそ。いかに夜深くはただ一人出で給ふにか。衣など着たるは、ことよろしき人にこそはべるめれ。あれとどめ聞こえよ。馬に乗せて明かからん所まで送り聞こえん」と言ひけり。さて、供の男、走り付きて、この由を言ひければ、そら恐ろしけれども、ただ仏を頼みて、「さらば、さも」とて乗りにけり。夜もほのめきて人顔見ゆるほどにて、この女を見れば、我が浅からず思ひし者の病に患ひて亡せにしに、つゆも違はず。喜びて、具して行きにけり。
男は美濃の国の、人に仰がれたる者にてぞはべりける。何事も乏しき事なかりけり。さて、この女をまたなくいみじきものに思ひて、年月を送りけり。
「閑居友」からです。
お願いしますっっ」
この男の子からこの話が出てくるとは思わなかった。

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター おじさん 2   2006年06月26日月曜日 01時28分
「はじめまして。ようこそのお越しを。
いきなり「さて」で始まるので、文脈がわからんなと思って閑居友引っ張り出してよんじまいましたよ。
貧しい女性が初瀬観音に月参りして身の上の苦しさを訴えているのですが、とうとう費用が切れそうになった夜に、ようやく夢にお告げがあって、「後に寝てる女性の着物を着て帰れ」と言われたので「泥棒しろというのかしら」と不審に思いながらも、仏のお告げだからというので言われたとおりに着物を着ていく場面です。

そうして、(後で寝ている女の着物を)取って着て、(月参りしている女は)すぐに(寺を)出て行ってしまった。胸が潰れるような思いで、つらく悲しかったが、思い返して(=じっと我慢して)初瀬川のあたりまで出てきた。後に何かがたいそう騒がしくやってくるので、「ああ悲しい。やっぱりだ」と思って見てみると、この事を怪しむはずの人(=衣を取られた女性)ではなく、馬に乗った者がたくさん(寺から)下向してきたようであった。
そして、この馬に乗った男が言うことには、「あの前に見えるのは、女房でいらっしゃるだろう。どうして夜更けにただ一人で出てお行きになるだろうか。衣なんかを着ているのは、それ相応の人なのでしょう。あの方をお引き留めせよ。馬に乗せて明るいところまでお送りしよう」と言った。そして、(馬に乗った男の)供の男が走って追いついてきて、この旨を言ったので、(女は)なんとなく恐ろしかったが、ただ仏を頼りにして「では、そのようにでも(お願いします)」と言って(男の馬に)乗った。夜もうっすら明けてきて人の顔が見えるぐらいになって(男が)この女を見てみると、自分が深く愛していた者で病気になって死んだ女に、少しも違わない(ほどそっくりであった)。(男は女を)喜んで連れて行った。
男は美濃の国の、人から尊敬を受ける者でございました。(女は男のもとにいて)何も不足はなかった。そして(男の方でも)この女をまたとない大切な者と思って、年月を過ごした。

「やがて」は、ここでは「そのまま」と訳しても問題はないと思います。
「さればこそ」というのは「思った通りだ」ということですが、ここでは「衣を取られた人が、私のことをあとから追いかけてくるのではないかと思ったが、やっぱりその通りだ」ということ。
「衣など着たるは、ことよろしき人にこそはべるめれ」は、「衣被き(きぬかづき)」のことを言っているものと思われます。「衣被き」とは、高貴な貴婦人が外出する際に、衣を頭から被って歩くことですが、主人公の女性は、顔を見られないように、取った衣を頭からかぶって歩いていたのでしょう、その様子を見て、馬の男が「衣被き」するような高貴な女性が歩いていると勘違いしたのです。「ことよろし」は一単語で、「それなりである、なかなか悪くない」の意味。
「我が浅からず思ひし者の病に患ひて亡せにしに」の「の」は同格。

最後がどうなるかはちょとめんどくさいので書きませんです。すんません。」

りなは周りを見渡してからこう続けた。
無職 りな 2006年06月27日火曜日 10時42分
「とてもわかりやすい訳をありがとうございます♪♪
かなり役立ちましたあっっ★また頼みます笑ww
最後・・どうなったんですか??気になります・・」

明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター おじさん 1   2006年06月27日火曜日 12時32分
「女は男に連れられて美濃の国まで下っていましたが、あるとき男が京に用事で出かけることになり、知り合いだっているだろうからと京までの同行を求められました。女には本当は誰一人知り合いもいなかったのですが、高貴な人と思わせている手前、正直に言うわけにも行かず、姉に会いに行くことにして、京までついてきます。適当なところで適当な家を見つけ、挨拶をしてくるといってその家に入ると、女主人がいたので、こっそりと、「事情があって、ここを姉の家と言うことにして泊めていただきたいのですが」と願い出ます。女主人が快諾してくれたので、姉への土産にと男が持たせてくれた財物を差し出して、あとからこれまでの事情を説明すると、女主人ははらはらと涙をこぼし、「初瀬観音で衣を奪われたのは私です。当時は私も生活に困窮していたので、観音様にお参りしていたのですが、何も御利益はないのに衣まで奪われることになったものだからお参りは止めてしまいました。どんどん落ちぶれる一方でしたが、いまこうしてたくさんの財物をいただいたのはすべて仏様のお導きというものだったのでしょう。これを縁に、本当に姉妹の契りを結びましょう」と言ったので、男に対しても最初からの事情を説明すると、男はますますこの姉妹を大切にするようになりました。ああ仏のお導きはありがたい、という内容です。

貧しい女が仏の導きで奇妙な行動を強いられ、富裕な男と結婚するにまでいたる、というのはまあ説話にはありがちな展開ですが、後日譚つきで他の女性まで救ってしまうというのはちょっと珍しい話です。
初瀬観音(長谷寺)は、お参りする人が御利益を得る、という内容の説話によく出てきます。
たしかわらしべ長者も長谷寺だったんじゃなかったかな。」

Cafe日誌No.15
2006年06月24日土曜日 23時35分
他の客も酔いが回ってきた頃に、何回かこの店を利用している箱入り娘が入ってきた。見ているこちらが辟易するくらいの派手な衣装だ。珠里はスラム街のど真ん中で聞いたという儲け話を始めた。
無職 珠里
「こんばんは。また訳をお願いしたいのですが・・・。堤中納言物語の、「虫めづる姫君」という題名です。
 蝶めづる姫君の住み給ふかたはらに、按察使の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづき給ふことかぎりなし。この姫君ののたまふこと、「人々の花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人はまことあり、本地たづねたるこそ心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫のおそろしげなるをとりあつめて、これが成らむさまを見むとて、さまざまなる籠箱どもに入れさせ給ふ。中にも「かはむしの心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは耳はさみをして、手の裏のそへふせてまぼり給ふ。若き人々は怖ぢまどひければ、男の童の物怖ぢせずいふかひなきを召しよせて、箱の虫どもを取らせ、名を問ひ聞き、いま新しきには名をつけて興じ給ふ。「人はすべて繕ふところあるはわろし」とて、眉さらに抜き給はず、歯黒め「さらにうるさし、きたなし」とてつけ給はず、いと白らかに笑みつつこの虫どもを朝夕に愛し給ふ。人々怖ぢわびて逃ぐれば、その御方は、いとあやしくなむののしりける。かく怖づる人をば、「けしからず、ばうぞくなり」とて、いと眉黒にてなむにらみ給ひけるに、いとど心ちなむまどひける。親たちは、「いとあやしくさまことにおはするこそ」とおぼしけれど、「おぼしとりたることぞあらむや。あやしきことぞと思ひて、聞こゆる事は、深くさいらへ給へば、いとぞかしこきや」と、これをもいとはづかしと思したり。「さはありとも、音聞きあやしや。人はみめをかしき事をこそ好むなれ。むくつけげなるかはむしを興ずなると、世の人の聞かむも、いとあやし」と聞こえ給へば、「くるしからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ事はゆえあれ。いとをさなきことなり。かはむしの蝶とはなるなり」そのさまのなり出づるを取り出でて見せ給へり。「絹とて人々の着るも、蚕のまだ羽つかぬにし出し、蝶になりぬれば、いともそでにて、あだになりぬるをや」とのたまふに、言ひ返すべうもあらずあさまし。
 今回もまた長くなってしまいましたが、もしよければ、おねがいします。」
人間もここまで落ちぶれると大したものである。

私は答えに窮したがとりあえずこう答えておいた。
マスター おじさん   2006年06月25日日曜日 18時54分
「堤中納言物語は、注がなければ受験生にはあらすじがなんとなくわかる程度だろうと思われる箇所がかなり多いですな。
「虫めづる姫君」もよく教科書に載ってたりしますが、この部分、実は正確に訳すのが相当難しいのです。

蝶をかわいがる姫君がお住まいになっている隣に、按察使の大納言の姫君が(お住まいで)、奥ゆかしく一通りでない様子に親たちが大切に養育なさることはこの上もなかった。この姫君がおっしゃることには、「人々が花よ蝶よともてはやすのは、愚かで変なことだわ。人というのは誠実な気持ちがあって、物事の本質を追究することこそ、気持ちがすばらしいのです」と言って、いろいろな虫で恐ろしげなものを集めて、「これが成長する様子を見よう」と思って、さまざまな籠や箱に入れさせなさる。中でも「かわむし(=毛虫)がものをわきまえている様子をしているのが奥ゆかしい」と言って、明けても暮れても耳挟み(=顔の前に垂れる髪を耳の後にはさむこと。忙しく働く際にする)をして手のひらにのせて観察なさる。若い人たち(=姫君にお仕えする若い女房たち)はひどく怖がったので、男の童で物を怖がるということもなくどうしようもないような者を呼び寄せて箱の中の虫どもを取らせて、名前を質問し、さらに新しいものには名前をつけて喜んでおられる。「人はだいだいにおいて繕うところがあるのはよくない」と言って、眉をまったくお抜きにならず、お歯黒は「ますますうっとうしいし、きたないわ」と言っておつけにならず、たいそう白々と(歯を見せて)笑っては、この虫どもを朝夕にかわいがりなさる。人々が怖くてたまらずに逃げると、その(姫君のおられる)方ではたいそう大騒ぎになるのだった。このように怖がる人を(姫君は)「とんでもない失礼なこと」と言って、とても眉を黒々とさせてにらみなさると、よりいっそう(人々は)途方に暮れるのであった。親たちは「とても不思議で異様でいらっしゃる」とお思いであったが、「(姫君には)考えがあるのだろうよ。不思議なことだと思って(姫君に)申し上げることは、考え深くそのようにお答えになるものだから、とっても恐れ入ったことです」と、このこと(=姫君に意見することか)についても恥ずかしいとお思いである。「そうではあっても、人聞きがよくないでしょう。人というものは見た目が美しいことを好むのです。『(あの家の姫君は)気味の悪いかわむしをおもしろがっておられるのだそうですよ』などと世間の人々が聞くのも、とても不都合です」と(親たちが姫君に)申し上げなさると、「かまいませんわ。何事も追求してみて、結論を見てみるからこそ、物事は趣があるのです。たいそう考えが足りないことです。かわむしが蝶になるのですよ」。(姫君は、かわむしで)その様子が変化し始めたやつを取り出して(親たちに)お見せになった。「絹といって人々が着ているのも、蚕がまだ羽を生やさないうちに作り出して、蝶になってしまうとまったく絹が作れなくなってだめになってしまうのですのに」と(姫君が)おっしゃると、(親たちは)言い返すこともできないぐらいあきれている。

「心にくくなべてならぬさまに」は、姫君と親たちのいずれの様子とも解釈できますが、ここでは親にしておきました。
「眉さらに抜き給はず」以下は、当時の年頃の女性の習俗で、成人すると、眉毛を抜いて眉墨で書き、歯はお歯黒で染めるものだったのですが、このお姫様はそういうことを一切しなかったわけで、当時の人からするとその方が異様に見えたのです。(眉に関しては今でもあまり変わりませんね)
「ばうぞく」は失礼で俗悪だということですが、どういう字を当てるべきなのかはわからないようです。
「いとあやしくさまことにおはするこそ」以下のやりとりは、訳が正確である自信がありません。「末を見ればこそ事はゆえあれ」などは、明らかに筋が通らないように思われます。(ここを含めて何カ所か書写の間違いではないかと指摘されている箇所があります)
「いともそでにて」は、解釈が不明の箇所で、だいたいの内容はわかりますが、はっきりした訳に関しては定説もないようです。」

一息入れた後珠里はまた語り始めた。
無職 珠里 2006年06月25日日曜日 21時05分
「ありがとうございます!堤中納言物語って、本当に難しいです・・・。私は選択授業で古典をとったので、一週間に四回古典があって、一回の授業で一つの物語を終わらせてしまうので、ほとんど毎日家で訳してこなくてはいけなくて、とても大変です・・・。それでたくさんの物語にふれるのですが、一番難しい物語は私は堤中納言物語です。あと、十訓抄も難しく思います・・・。
なるべく、自分で訳すように努力しますが、やはり週に4日古典を訳すのは少し大変なので、その時はまたここに来させてもらうと思いますが、もし迷惑でなければ、またよろしくお願いします。」

Cafe日誌No.14
2006年06月23日金曜日 19時44分
ここで私から読者諸氏に少しばかり面白い話をお聞かせしたいと思う。
マスター おじさん 3 
「おじさんは明日の夜までいません。
あしからず。」

Cafe日誌No.13
2006年06月21日水曜日 23時02分
他の客も酔いが回ってきた頃に、何回かこの店を利用している女性が入ってきた。食えない・・・その手の人間だ。タバコをもみ消すともったいぶったようにこう切り出した。
無職 珠里
「こんばんは。また訳をお願いしたいのですが・・・。徒然草の「ある者、子を法師に」という内容です。
 ある者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教へのままに、説経師にならむために、まづ馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられむ時、馬など迎へにおこせたらむに、桃尻にて落ちなむは、心うかるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらむに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習ふべきひまなくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をもつき学問をもせむと、行く末久しくあらます事ども心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつつ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、ことごとなす事なくして身は老いぬ。終に物の上手にもならず、思ひしやうに身を持たず。悔ゆれども取返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。
されば、一生のうち、むねとあらまほしからむ事の中に、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事をはげむべし。一日の中、一時の中にも、あまたの事の来たらむなかに、少しも益のまさらむ事をいとなみて、その外をばうちすてて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心にとり持ちては、一事も成るべからず。
 という文章です。もしよければ訳をお願いします。」
・・泣きたいだけ泣くがいい。今宵の酒は悲しい酒だ。

こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター おじさん 2   2006年06月22日木曜日 01時12分
「ある者が子を法師にして「学問をして因果のことわりを知って、説教などをして生活の手段としなさい」と言ったところ、(子は父の)教えにしたがって説教師になるために、まず馬に乗ることを習った。「(僧侶という)輿や車を持っていない身の上の者が、導師として招かれるようなことがあったとき、馬などを迎えによこしたような場合に、桃尻で(馬から)落ちてしまうようなことでもあれば、きっと情けないだろう」と思ったのである。次に、仏事のあとで(檀那が)酒などを勧めるようなことがあった場合に法師が全く芸がないのは檀那が興ざめに思うに違いないと思って、早歌ということを習った。(僧侶は)二つの芸能がようやく上達してきたので、ますます上手になりたく思えてきて、打ち込んでいるうちに、説教を習うことのできる余裕がなくて、年を取ってしまった。
この法師だけでなく、世間の人には総じてこれと同様のことがある。若いうちには、万事につけて、立身出世して、大成し、技能を身につけ学問もしようと、将来長くまで展望することなどを気にかけながら、世の中をのんびりと構えてなまけては、まず当面の目の前のことにばかり気を取られて月日を送っているものだから、他のことを成し遂げることがなくて体(だけ)は年老いてしまうのだ。最終的に何かの名人になるわけでもなく、思っていたようにその身の上にもならない。後悔しても取り返すことのできる年齢ではないので、走って坂を下る車輪のように(急速に)衰えてゆく。
そういうわけであるから、一生のうち、主として望ましいと思うことの中でも、どれが勝っているだろうかとよく比較検討して、第一の(重要な)ことを思い定めて、その他のことはあきらめて、その一つのことを熱心に行うのがよい。一日のうち、一時(=ひととき。二時間に相当するがここでは短い時間のたとえ)のうちにもたくさんのことがくるであろうなかで、少しでも利点のすぐれていることを励んでおこない、そのほかのことを捨ててしまって、重要なことを急ぐべきである。どれもあきらめまいと心に持ち続けては、一つも成し遂げることができないだろう。

「因果」は、前世のことが因縁となって現世の果報がある、という仏教の考え方のこと。
「導師」は法会の主導役となる僧のこと。
「請ぜられむ時」の「む」は、「招かれるような時」と、普通の婉曲の訳にしてもよろしいでしょうが、ここでは上記のようにはっきり仮想の意味で訳したほうがいいとおもいます。以下の「おこせたらむ」「落ちなむ」「勧むる事あらむ」も同様。
「桃尻」は、桃の実はすわりが悪いことから出た表現で、鞍の上のすわりが悪く、乗馬が下手なことを言います。
「檀那」は、本来「施主」という訳語をあてられるのですが、ここでは仏事を主催して僧侶を呼ぶ俗人、という意味合いでしょう。
「早歌(さうか)」は鎌倉時代の芸能で、歌詞は「宴曲」といい、早めのテンポで歌われる流行歌です。
「境に入る」は、一定の上達した境地にまで達することですが、意訳しておきました。
「あらます」は、名詞「あらまし」からの派生で中世に入って現れた語らしく、予期する、前もって考える、の意味です。ここでは将来設計のことですので、意訳しました。
「身を持つ」は、ある境遇に身を置くことで、ここでは「将来はこんなふうになろう」という心づもりをしていた自分の将来像のとおりになる、ということです。これはちょっと訳しにくく、あまり適切な訳語とはいえないかもしれません。
「むねとあらまほしからむ事」は、将来に関する多くの選択肢のうち、この事柄はぜひとも達成したり身につけたりしたいと思える、自分にとって理想的な姿、もしくはそれらの中でも特に重要と思えるもの、ということです。「む」は婉曲。
「一事をはげむべし」「大事を急ぐべきなり」の「べし」は、適当・当然のいずれに訳してもかまわないでしょう。両方とも「〜すべきだ」と訳しても、両方とも「〜するのがよい」と訳しても、かまいません。(さらに言えば、「〜しなさい」と命令で訳しても文意には影響ない)上の訳では、前者は適当、後者は当然で訳してあります。
一方、「一事も成るべからず」の「べし」は、可能もしくは推量のいずれとも取れるので、両者を折衷した訳にしておきました。」

珠里はようやく本題に入った。
無職 珠里 2006年06月22日木曜日 17時41分
「毎回、とても分かりやすい訳と説明をありがとうございます!いつもとても助かっています!」

Cafe日誌No.12
2006年06月20日火曜日 20時26分
店も賑わいを見せる頃、何回かこの店を利用しているコギャルが入ってきた。この界隈じゃ恋人にしたくないコギャルベストテンに入るらしい。このコギャルが話すことといえばいつも未成年の事だ。
無職 苺
「こんばんは。また訳をお願いできますか??
枕草子の「すさまじきもの」です。

除目に司得ぬ人の家。今年は必ずと聞きて、はやうありし
者どもの、ほかほかなりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、
みな集まり来て、井で入る車の轅もひまなく見え、物詣でする供に、
われもわれもと参りつかうまつり、物食ひ、酒飲み、
ののしりあへるに、果つる暁まで門たたく音もせず、
あやしうなど耳立てて聞けば、前駆追ふ声々などして、
上達部などみな出でたまひぬ。

長いですが、よろしくお願いします。」
だがその目元は全く笑っていなかった・・・。

私は前にもした話をもう一度繰り返した。
マスター おじさん 3   2006年06月20日火曜日 23時01分
「以前のものは別々の内容の短い文が列挙されていましたが、この文章はすべて「除目に司得ぬ人の家」について書かれています。
実は「すさまじきもの」をうまく訳すのは結構難しいのですが、「期待はずれなもの」とか「しらけてしまうもの」と考えておくとよいでしょうか。
この章段はきわめて有名なので、検索すれば訳はかなり見つかりそうな気がするなー。比べてみれば、私の訳がどっかミスってるのが見つかるやもしれませんねい。

除目(=官職任命式)で官職をもらえない人の家。「今年は必ず(任命されるはずだ)」と聞いて、以前にいた(=昔その家に仕えていた)者たちで、ほかのあちらこちらの家にいた(=別の家に仕えていた)連中や、田舎びた所に住んでいる者たちなんかがみんな集まってきて、出入りする車の轅(=ながえ。車についている二本の棒で、そこにくびきをつけて牛に車を引かせる)もすきまもないぐらい(たくさん)見えて、(官職に任命されるようにと主人が)お参りに行くお供に、われもわれもとご参詣して、ものを食ったり、酒を飲んだりして騒ぎ合っていると、(除目の儀が)終わる夜明け方まで(任命を知らせる使者が)戸をたたく音もしないで、おかしいななどと聞き耳を立てて聞いてみると、先払いをする声などがして、(人選を終えた)上達部の方々はみな退出してしまわれる。

「除目(ぢもく)」は非常に重要な官職任命の儀式で、公卿(三位以上の位を持つ上級貴族で、あとに出てくる上達部に同じ)が選考します。この箇所のあとの記述から、この家の主人が望んでいるのは国司の位であることがわかります。国司は財産を築くのに適した官職なので、ゴマをする連中が群がってくるのです。
「はやうありし者どもの、ほかほかなりつる」というのは、昔仕えていたが、今ではあちこちの他の家に奉公先を変えている連中、ということで、落ちぶれると見限り、羽振りがよくなると群がってくる節操のない連中、というニュアンスで書かれているのでしょう。
「ひまなし」は、ものがぎっしりと詰まっている様子を表し、「出で入る車の轅もひまなく見え」は、出入りする車がひっきりなしにあるということを示しています。
「物詣で」はお寺や神社にお参りに行くことで、主人も「是非とも国司になれますように」と神頼みをするのです。
「前駆追ふ」というのは、貴人の行列の前の人を追い払うことで、「前駆追ふ声」が聞こえたら、後から貴人の行列が続くのがわかるわけです。」

Cafe日誌No.11
2006年06月19日月曜日 17時56分
店も賑わいを見せる頃、前に見たことがある大和撫子が入ってきた。ハーレムから引っ越してきてまだ日が浅いらしい。私のむなぐらをつかむと今にもあばれそうな勢いでこう言った。
無職 珠里
「こんばんは。前に訳してもらった者ですが、またお願いできますか?私の本では、沙石集の、「正直者の夫婦」という題名なのですが・・・。以下の文章です。
 近年の帰朝の僧の説とて、ある人の語りしは、唐土にいやしき夫婦あり。餅を売りて世を渡りけり。夫、道のほとりにして餅を売りけるに、人の袋を落としたりけるを取りて見れば、銀の軟挺六つありけり。家に持ちて帰りぬ。妻、心素直に欲なき者にて、「我らは商うてすぐれば事もかけず。この主いかばかり嘆き求むらむ。いとほしきことなり。主を尋ねて返したまへ」といひければ、「まことに」とて、あまねくふれけるに、主といふ者いで来て、これを得て、あまりにうれしくて、「三つをば奉らむ」といひて、既に分かつべかりける時、思ひ返して、煩ひをいださむために、「さることなし。もとより六つなり」と論ずるほどに、果ては、国の守のもとにして、これをことわらしむ。国の守、眼さかしくして、この主は不実の者、この男は正直の者と見ながら、なほ不審なりければ、かの妻を召して、別の所にして、ことの子細を尋ぬるに、夫が申し状にすこしも違はず。この妻は極めたる正直者と見て、かの主不実のこと確かなりければ、国の守の判にいはく、「このこと、確かの証拠なければ、判じがたし。ただし、ともに正直の者と見えたり。夫妻また言葉違はず。主の言葉も正直に聞こゆれば、七つあらむ軟挺を尋ねて取るべし。これは六つあれば、別の人のにこそ」とて、六つながら夫妻にたびけり。宋朝の人、いみじき成敗とぞ、あまねく誉めののしりける。心直ければ、おのづから天の与へて宝を得たり。心曲がれるは、冥とがめて財を失ふ。この理すこしも違ふべからず。返す返すも心は清く素直なるべきものなり。
という文章です。もしよろしければ、お願いします。」
なかなか話し上手な大和撫子だ。

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター おじさん 1   2006年06月19日月曜日 22時33分
「おう、これは以前に某所で一部を訳したことがありますね。
訳文とっときゃよかったなー。
ちなみに、「煩ひをいださむために」の後に「七こそありしに、六あるこそ不審なれ。一をばかくされたるにやと言ふ。」という文が脱落しております。この文がないと、なんやようわからんことになってしまいますので、補って訳しますね。

近年日本に帰ってきた僧の話であるといって、ある人が語ったことには、中国に身分の低い夫婦がいた。(夫婦は)餅を売って生活していた。夫が道ばたで餅を売っていたところ、人が袋を落としたのを取り上げてみてみると、銀の軟挺(=銀貨)が六つあった。(夫はその銀貨の入った袋を)家に持って帰った。妻は心が素直で欲のない者で、「我々は商売をして生活しているから(生活に)不足はありません。この(銀貨の)持ち主は、今頃どれほど嘆いて探していることでしょうか。気の毒なことです。持ち主を捜してお返し下さい。」と言ったので(夫は)「ほんとうに(妻の言うとおりだ)」と思って、あちこちに触れて回った(=告げ知らせた)ところ、持ち主という者が出てきて、これ(=銀貨の入った袋)を手にして、あまりにうれしくて、「(銀貨六つのうち)三つをさしあげよう」と言って、まさに分け与えようとしたその時、考え直して、難癖をつけてやろうとして「たしかに(銀貨は)七つあった(はずな)のに(この袋には)六つある(=六つしかない)のはおかしい。一つをお隠しになったのではないか」と言った。(夫は)「そんなことはない。最初から六つです」と言い争っているうちに、最終的には国主のところでこの一件を判断(=裁判)させ(るまでに至っ)た。国主は眼力の優れた者で、この持ち主はうそつきだ、この餅売りの男は正直の者だと見て取ってはいたが、依然としてはっきりしないので、前述の妻を呼び出して、別の場所で細かい事情を尋ねてみると、夫が言った内容に少しも食い違っていない。(国主は)この妻はこの上もない正直者であると判断して、持ち主がうそつきであることが確実なので、国主の判決に言うことには「この一件は確かな証拠がないから判断を下しにくい。ただ、両者(=餅売りの男と銀貨の持ち主)ともに正直な者と見えた。夫婦は夫婦で供述が食い違っていない。持ち主の供述も正直に聞こえるので、七つあるような(=七つそろっている)軟挺を探して手に入れなさい。これは六つあるのだから、別の人のものでしょう」と言って、六つ全部を夫婦に下さった。宋朝の人は、すばらしい処置だといってあちらこちらで盛んにほめそやした。(餅売りの夫婦は)心がまっすぐなので自然と天が(宝を)与えて(その)宝を手に入れたのである。心がゆがんでいる者は、神仏がとがめて財物を失った。この道理は少しも外れるはずがない。くれぐれも心はきれいで素直であるのがよいものなのだ。

最後の教訓部分がなかなか訳しにくいですね。
「帰朝の僧」というのは、中国から帰ってきた僧侶ということです。
「軟挺」は精錬した銀のことで、中国でも日本でも、銀は貨幣よりも塊で流通することのほうが多かったので、銀貨と訳するのが適切かどうか難しいところですが、まあ銀貨と理解しておいて問題はないはずです。
「いかばかり嘆き求むらむ」の「らむ」は現在推量ですので、単に「だろう」だけでなく、「今頃は〜だろう」と訳します。
「煩ひをいださむために」というのは、直訳すると「迷惑を言い出す目的で」となりますが、ちょっとわかりにくいので上記の通り意訳しておきました。
「別の人のにこそ」は後に「あらめ」が省略されています。
「宋朝」というのは中国の王朝の名前で、沙石集が書かれた当時はこの王朝でした。冒頭に登場する僧侶は、宋朝の支配下の中国に行って帰ってきたわけです。別段そのまま「宋朝」と訳しても問題はないでしょう。
「冥(みやう)」というのは、もともと「くらい」とか「目に見えない」という意味で、ここでは人間にとって目に見えない神仏のことを指しています。
「この理すこしも違ふべからず」というのは、「この道理に少しも外れるようなことをしてはならない」とも訳せるように思います。もしかすると私の訳は間違ってるかもしれません。ただ「正直が得をして嘘つきには天罰が下る」という主張が沙石集のなかのいろいろな説話でたびたび繰り返されるので、「ほーらこの話もこの道理の通りだろ」という意味と解して上記のように訳しておきました。」

珠里はここで話題を変えた。
無職 珠里 2006年06月19日月曜日 23時25分
「ありがとうございます!本当です!「七こそありしに、六あるこそ不審なれ。一をばかくされたるにやと言ふ。」という文章が抜けていました!本当にすみません!次からは気をつけたいと思います。説明もとても分かりやすいです!本当にありがとうございました!」

Cafe日誌No.9
2006年06月11日日曜日 23時35分
他の客も酔いが回ってきた頃に、前に見たことがある令嬢が入ってきた。裏の世界しか見てこなかった、世の中にはそういう人間もいる。タバコをもみ消すともったいぶったようにこう切り出した。
無職 苺
「この前訳していただいたものです。またお願いできますか!?
「枕草子」の【ありがたきもの】です

つゆの癖なき。かたち・心・ありさますぐれ、世に経るほど、
いささかのきずなき。 同じ所に住む人の、
かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、
つひに見えぬこそ難けれ。」
この令嬢は金の話しかしてこない。

私は相手に誤解を与えないように噛み砕いて説明してやった。
マスター おじさん 5   2006年06月12日月曜日 06時14分
「章題は「めったにないもの」ということで、「めったにないもの」が列挙してあります。
1 つゆの癖なき。
2 かたち・心・ありさますぐれ、世に経るほど、いささかのきずなき。
2’同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬ
がそれぞれ「ありがたきもの」だというわけです。
わかりやすいように、それぞれ改行して訳しますね。

まったく癖がない人。
容貌・心ばえ・様子が優れていて、社会生活を送っているあいだに、すこしの間違いもしない人。
同じ所に住んでいる人で、互いに遠慮しあっていて、少しの隙もなく心配りをしていると思っている人が、最後まで(おたがいに対して)隙を見せないでいるというのも難しいものだ。

「同じ所に住む人の」というのは「同じ所に仕えている人」という説があるようで、たしかにその方が内容が筋が通りますが、中高生であれば上記の通り普通に訳しておいてかまわないでしょう。「の」はいわゆる同格の用法で、「用意したりと思ふ」までが主語となります。(「枕草子」の時代には逆接の接続助詞は存在が確認できないので、「が」はすべて格助詞に訳さなくてはなりません)」

苺はこうも言った。
無職 苺 2006年06月13日火曜日 21時46分
「ありがとうございます!本当に助かりました♪♪
分かりやすくて、授業もついていくことができました☆☆
「同格」と言うことも先取り?してたので、先生の質問も
すぐに分かることができました♪また、お願いすると思いますが、
そのときもよろしくお願いします。では♪失礼します。」

苺が本当に話したかったのは次のような内容だ。
無職 苺 2006年06月14日水曜日 23時13分
「すいません↓また来てしまいましたッ
上の続きなのですが
物語・集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、
いみじう心して書けど、必ずこそきたなげになるめれ。
 男、女をばいはじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、
末まで仲よき人難し。

よろしかったら、本文二行目の「なるめれ」の
めれの意味?文法的意味を教えください。
よろしくお願いします。」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター おじさん 5   2006年06月14日水曜日 23時48分
「「めり」はもともと「見えあり」(=〜のように見える)という言い方が縮まってできた助動詞だと言われており、視覚に基づく推定(推量と違って、根拠のあるものをいう)を表すのがもともとの意味ですが、のちに「〜みたいだ」という婉曲(=強い断定を避ける)を表す用法が生まれてきました。
意味としては、@「目に見えているもの」が示されている場合には推定、A示されていない場合は婉曲、と覚えておけばよいでしょう。
ただし、訳に関する限り、どちらの用法でも「〜(の)ようだ」としておけばだいたいうまくいくので、あまり深く考える必要はありません。
ここでの用法は、一般的事態を想定しているだけで、現に何かを目のあたりにして判断しているわけではありませんので、婉曲と答えるのが適切でしょう。

さて、全訳。

物語や歌集などを書き写す際に、原本に墨をつけ(て汚さ)ないこと(もなかなかできない)。立派な草子なんかはとても気をつけて書くのだけれど、かならず汚らしくなるようだ。
男女の間柄のことは言わないでおこう(=ともかくとして)、女同士であっても、友人関係が深くて親しく言葉を交わし合っている人たちで、後々まで仲がよいという人はなかなかないものだ。

「本」というのは、「書物」のことを指すのではなく、「手本」の意味です。
「草子」は、冊子状になった、現在の本の形になっている書物のことです。当時は他に「巻子(かんす)」と呼ばれる巻物になった書物もあり、重要な作品は巻子の方が一般的でした。
ご質問の「必ずこそきたなげになるめれ」という箇所は、「どうしてもよごれちゃったりするのよね」と訳すのがほんとは一番ぴったりくると思いますが、まあ学校的には上のように訳さざるをえないでしょう。
「契り」は訳しにくい語で、「約束」とか「縁」とかさまざまな訳語がありますが、ここでは「いつまでも友達でいましょうね♪」という友達同士の約束のことです。
「語らふ人の」の「の」は、同格の用法と考えるのが自然ですが、先生によっては無理矢理主格に訳す(=親しく言葉を交わしあう人たちが)人もいるかもしれませんね。(学校の先生には、文学専門であまり文法には詳しくない、という人が実に多くて、けっこういいかげんなことを教えるものなのです)」

苺は何かに取り憑かれたかのように話を続ける。
無職 苺 2006年06月19日月曜日 06時11分
「お返事遅くなってすいません汗”
めりの意味を教えてくださってありがとうございます!!
すごく分かりやすかったです♪
ありがとうございました☆☆
まだまだ、枕草子シリーズは続くので、またよろしくお願いします。」

Cafe日誌No.10
2006年06月12日月曜日 18時40分
店も賑わいを見せる頃、見馴れない一人の英雄が店に入ってきた。多分以前に別の客の連れで来た事があったはずだ。珠里はいかに女子高生というものが素晴らしいかを主張し始めた。
無職 珠里
「はじめまして。明日までの宿題があって、分からないので、訳してもしよければ訳して下さいませんか?平家物語の、「横笛」という題名なのですが・・・。以下の文章です↓↓
 滝口申しけるは、「老少不定の世の中は、石火の光にことならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば過ぎず。そのうちに身のさかんなることはわづかに二十余年なり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせむ。思はしき者を見むとすれば、父の命をそむくに似たり。これ善知識なり。しかじ、うき世を厭ひ、まことの道に入りなむ」とて、十九の年もとどりきつて、嵯峨の往生院におこなひすましてぞ居たりける。横笛これをつたへ聞いて、「われをこそすてめ、さまをさへかへけむ事のうらめしさよ。たとひ世をばそむくとも、などかかくと知らせざらむ。人こそ心強くとも、たづねて恨みむ」と思ひつつ、ある暮れ方に都を出でて、嵯峨の方へぞあくがれゆく。ころは如月十日あまりの事なれば、梅津の里の春風に、よその匂ひもなつかしく、大井河の月影も霞にこめておぼろなり。一方ならぬ哀れさも、誰ゆえとこそ思ひけむ。往生院とは聞きたれども、さだかにいづれの坊とも知らざれば、ここにやすらひ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞむざんなる。住みあらしたる僧坊に、念誦の声しけり。滝口入道が声と聞きなして、「わらはこそこれまでたづね参りたれ。さまのかはりておはすらむをも、今一度見奉らばや」と、具したりける女をもつていはせければ、滝口入道むねうちはぎ、障子のひまよりのぞいてみれば、まことにたづねかねたるけしきいたはしうおぼえて、いかなる道心者も心よわくなりぬべし。やがて人を出だして、「まつたく是にさる人なし。門たがへでぞあるなむ」とて、つひにあはでぞかへしける。横笛なさけなううらめしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり。
という文章です。長くなってしまいましたが、もし訳して下さるならば、よろしくお願いします。
 」
子供達が泣いてるぞ・・・。

明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター おじさん   2006年06月12日月曜日 22時01分
「はじめまして、ようこそのお越しを。
サッカーが終わったらにしようかと思ったのですが、お酒飲んでるでしょうから先に済ませておきます。

滝口が言ったことには、「老人と少年のいずれがはやく死ぬかの定めのない無常なこの世の中は、火打ち石を打ち合わせて出る光と変わりはない(ほどはかないものだ)。たとえ人が長生きするといっても、七〇歳か八〇歳を過ぎることは(まず)ない。そのなかでも身体が壮健であるのはわずかに二十年あまりのことだ。夢や幻のようにはかないこの世の中で、醜い者をわずかな間でも妻として何になろうか。(いや、自分の気に入った女性を妻としたい)気に入った者と結婚しようとすると、父の言いつけに逆らうようなものだ。これは仏道修行に入るよい機縁というものだ。つらいこの世を避け、真実の(仏の)道に入ってしまうことにしよう、それにこしたことはない」と言って、一九歳のときにもとどり(=髪の毛を根もとから束ねて頭上で結んだもの、俗人の証)を切って、嵯峨の往生院でひたすら仏道修行にはげんでいた。横笛はこれを人づてに聞いて、「私を捨てるのならともかく、(滝口が)出家までしてしまったのはなんと恨めしいこと。たとえ出家するとしても、どうしてこのようである(=出家する)と知らせてくれなかったのでしょう。あの人がどれほど薄情でも、訪ねていって文句を言ってやろう」と思いながら、ある日の夕暮時分に都を出て、嵯峨の方へとさまよい歩いていった。時期は二月十日過ぎのことであったので、梅津の里の(あたりで吹いてきた)春風に、どこからともなく漂ってくる香りに心引かれて、大井川に映る月の光も霞にへだてられてぼんやりしている。(横笛は)並一通りでない思慕の情も、一体だれのためにするのか(他ならぬ滝口のためだ)と思ったことであろう。往生院とは聞いていたが、はっきりとどこの坊(=僧の住居)とも知らなかったので、あるところでためらい、別の所で立ちつくして、人になかなか尋ねられないでいる様子は痛ましい。住み古した僧坊で、経文を唱える声がした。(その声は)滝口入道の声だと聞き取って、「わたしがここまでたずねて参りましたよ。(僧侶に)姿が変わっておられるのを、もう一度拝見したいものです」と、(横笛が)連れていた女に言わせると、滝口入道は胸が騒ぎ、障子の隙間からのぞいてみると、本当に人に尋ねあぐんでいる様子が痛ましく思われて、どのような(出家の)意志の固い者も(そのような様子を見ては)きっと心が弱くなってしまいそうである。(滝口は)すぐに人を出して「まったくここにはそんな人はいません。家違いでしょう」と言って、とうとう会わないで(横笛を)帰してしまった。横笛は薄情で恨めしく思ったが、どうしようもなくて涙をこらえて(都に)帰った。

あー、キックオフです。わからんところがあればまた質問を書いておいてください。」

珠里は付け加えた。
無職 珠里 2006年06月12日月曜日 22時21分
「ありがとうございます!!サッカーなのに、質問をしてしまい、本当にすみません!この文章に対しての質問はありませんが、また今度、来ると思いますので、そのときは迷惑でなければ、よろしくお願いします。」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター おじさん   2006年06月13日火曜日 06時56分
「はい、またのお越しを。
それにしても、焦って訳したからか、ちょっと日本語として整合性がとれてないところが多いですな。
我ながらひどいもんだこりゃ。
間違ってはいないようですが、みかねたので一部修正しておきました。」

珠里は少し考えてから話を続けた。
無職 珠里 2006年06月14日水曜日 22時32分
「わざわざご丁寧にありがとうございます!とても助かりました!」

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Narration BBS Ver 3.11
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