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<< 13年前の俺 >>


2004/02/08(Sun)

13年前の俺が今頃何してかといえば、そりゃ大学受験真っ只中でしっかり勉強してたでしょう。
高校3年生の6月には、今では俺の母校となった『神戸市外国語大学』を第一志望に絞って受験勉強に励むことなったんだけど、そこまでに到達するまでには何回か寄り道がありました。

まず、俺が小学校からなりたかった職業が何かというと「小学校の先生」。
元来、子供が好きだったし、小学生の時にお世話になった先生(女性)がやさしくて憧れてたのがその第一の理由。
でも、中学・高校と進学するにつれてその志望もすこしづつ変化してきた。
というのも、中学から勉強を開始した「英語」にはまったらしく、将来は英語をつかった仕事をしたいなって思いはじめてきたのがその大きな原因。

(小学校の先生は無理だけど、中学&高校の英語の先生ならいいかな?)
と、その進路の変更を考え出したのが、確か俺が高校2年生くらいからだったような記憶がある。

でも、俺の希望(野望とも言う(笑)はそんな穏やかなものに収まることはなく、果てはケニアかどっかアフリカ大陸で動物のお医者さんをしてみたいなという域まで達したこともあった(当時、動物のお医者さんという漫画が流行ったということもあったが、そもそも貴光家は動物が好きな家系らしく、俺も多分にその血を引き継いでいるらしい)。
ただし、動物のお医者さんになるには、英語が話せるだけじゃ当然無理で、理系の知識が要求されることに気付いた瞬間「あ、こりゃ俺には無理だ」と悟り、とりあえず「学校の英語の先生」という教職になる夢を抱きつつ、それが一番実現しそうな大学を選定することで、高校2年生の1年間が過ぎ去って行った。

それで、最終的に第一志望に決めたのが「神戸市外国語大学外国語学部英米学科」。
先生になりたいだけなら広大の教育学部でも良かったんだけど、なんか『教育学部』って先生になるのが第一の目的で、俺が一番関心を抱いている『英語の勉強』についてそんな授業の時間を大きく割いてしそうなイメージがなかったんよね。
実際に全国にある様々な大学で開設されている「外国語学部英米学科」や「英文学科」を調べていくと、俺のイメージが間違いじゃないって確信をもつまでにいたった。

というわけで、どうせ「英語」という外国語をとことん勉強するのなら『やっぱ外国語学部かな?』という印象を今度は持ち出し、全国にある外国語学部についてリサーチ開始!
その結果、全国にある国公立で外国語学部を擁するのは、『東京外国語大学』『大阪外国語大学』『神戸市外国語大学』『愛知県立大学』『北九州市大学』の5大学しかないことが判明したのは高3生の春だった。

私立大学までその範囲を広げるとそりゃあもっといっぱいあったけど、「うちはそんなお金持ちじゃないんだから、県外の大学にいくなら国公立以外はだめだから!」と小さいころから親が呪縛のようにそんなことを言い続けてきたもんだから、俺の頭にはもう「県外は国公立しかだめなんだ!」というある種、不動の文言があったわけ。

さぁ、じゃあこの5大学からどこの大学を第一志望にするか?いう次に控えている問題があったんだけど、
1)都会での生活は、その生活費が親の負担になる
2)物価がそんな高くない(生活費が安くつく)場所
3)広島から比較的距離が遠くない場所(実家に戻ることが負担にならないという理由)
以上3点をクリアするということを条件で選んだ結果、
東京と大阪の2大国立大学は却下とあいなりました(;_;)
そりゃあ、外国語大学を目指す受験生にとってこの2大学は憧れの大学よ?
受験するだけでもしてみたかったけど、たとえ合格しても通えないし、その受験費用だけでもバカにならなかったんであえなく辞退となりました。

で、残った3つの大学の中で順番をつけることになったんだけど、高3のゴールデンウィークに親の運転で北九州市立大学と神戸市外国語大学を下見につれてってもらったことで、その順番が決定しました。
神戸が第一。北九州が2番目という順位になりました。
愛知県立は広島から場所が遠いのと、神戸と比較すると神戸の方が有名(というか外国語大学という地位の上下で比較すると、神戸のほうが愛知より歴史があるということでランクが上位になった)というので、愛知は却下となり。高3のゴールデンウィークを終了した時点で、俺の志望大学は決定していたのであった。

志望大学が決定したのはいいけど、合格するまでの道のりはそりゃあ穏やかなもんじゃなかったよ。
当初、神戸市は5教科5科目がセンター試験必須だったんだけど、高3の6月におもいっきり変更があり、3教科3科目で受験できることになっちゃっいました(!!)
しかも、英語と国語は必須だけど、残り1教科は受験生が任意に選択できるというこれまたえらい融通が利く受験体制になってしまったわけっすよ!

正直数学で頭を抱えていた俺には朗報だったんだけど、これって逆に言えば私立大学向けの勉強しかしてないやつも受験できるって意味でしょ?
受験倍率がめっちゃあがるんじゃないん??

その予感は的中。実際、神戸市外国語大学の英米学科ではアシキリ(いわゆる、ある一定の合格ラインに達していない受験生は二次試験さえも受ける前に不合格とされることを指す)が実施され、その倍率は最大の5倍に設定(合格者120名に対し600名まで自動的に搾られた)されました。

とりあえず、センター試験は今まで受けた模試のなかでも一番いい点数を取得!(本番に強い性格らしい^^ヾ)
というわけで、アシキリは余裕で突破!(この時点で、北九州の英米学科はほぼ9割方合格が決まったようなもんだった)
2次試験が開始される2月25日まで、センター試験を終えた後はずーとひたすら英語と小論文の勉強をしてたかなぁ。

途中、とりあえず滑り止めに受けた修道大学の人文学部英文学科は当然合格。
あと、記念受験にうけた創価大学の英文学科も合格(うちの家族はみんな創価学会。で、おかんの強いススメで仕方なく受験したわけ。たとえ合格しても東京だから通えないっていうのに一応受けさせられたんよねぇ)。
関西外国語大学も一応受けることは受けたんだけど、ここだけは唯一不合格の結果に終わってしまった…(高槻市に親戚がいるから、いざとなったらその親戚の家から通わせてもらうという背景があり、その結果関西外大は受験したという経緯があり)。

そして、神戸市外国語大学の2次試験の当日がやってきた。
この日、俺が緊張しないようにという理由で、なんと両親が会社を休んで会社の人から借りた大きなワゴンにのって前日から俺と一緒に神戸にインしてました。
前日に迷いながら大学の駐車場に到着したあの日の夜のことは、なぜかいまでも鮮明に覚えてるよ。

当日の朝、車の中で朝食をとって受験会場に向ってまずは英語を受けてきた。
さすが外大の2次試験の英語だけあって、めっちゃむずかしいかったという記憶は今でも覚えてるよ(!!)
とにかく、ヒアリングがめっちゃむずかしいかったねぇ〜。

「あーこりゃ俺だめかも…」といつになく弱きな俺の発言。車の中で家族3人で昼飯食べるときも元気のなかった俺だったはず。

「そうは言っても、ここまできたんだからやるだけやらなきゃ損だよね!」
と、自分に言い聞かせながら午後からの小論文を受けるため、車から降りて会場に向った俺。

この小論文っていうのがまたえっらいチンプンカンブンでさ(苦笑)
_
「貴方が思う自由な選挙とはなにか?」っていうテーマで論じなさいって言われてもねぇ…。
あれから13年も経ってるっていうのに、まだ試験内容を覚えている俺って…。

で、小論文を終えた俺は、おそらくめっちゃ暗い顔してたと思うよ(苦笑)。神戸から広島への帰り道も、多分ずっと暗かったと思うよ。
俺のなかでは「こりゃ落ちたな」と思ったもんね。

で、試験発表のあった当日。俺はわざわざそのために神戸までいくお金がもったいなかったので電報で合否結果を知らせてもらうサービスを申し込んでたんだけど、来た来た。合否結果を知らせる電報が!

仏壇の前に座り、呼吸を整えて、一気に電報を開いてみた。
「カザミドリ カゼヲ ハコバズ」なら不合格の意味。
果たしてその電報には何が書いてあったか!

「カザミドリ ハルヲ ヨブ」

やった!合格だ!
マジで? 本当に俺、神戸市外国語大学に合格したん?!

うれしかったよ。思わず俺、うれし泣きしたもんな。
すぐに両親が働いている会社に電話して合格したことを連絡したよ。あと、姉ちゃんの職場にも電話して合格したことを伝えたよ。
この日、既に高校を卒業した同じクラスメイト3名が待ち構えていた安佐南区図書館に行って合格したことを伝えてきたのを覚えてるよ。
「まじで〜。貴光も絶対おちて俺ら浪人メンバーの仲間入りしたと思ってたのにー(笑)」
「残念。ごめんなー(笑)」
高3の時のクラスメイトでいっつも俺と一緒に勉強してたメンバー4名(俺含む)の中では、俺と岩井(こいつは俺より一足先に広大経済学部合格が決定してた)だけが現役合格。
残ったよっこんは一年遅れて俺の後輩(中国語学科に入学)になり、じゃこは一浪の結果福岡大の経済学部に入学。
こんとき一緒に勉強したメンバーとはいまでも時々交流があるよ。やっぱ一緒に苦労しながら勉強したり、お互いの悩みを言い合ったメンバーだからね!

それからほどなくして、91年の4月に晴れて神戸市外国語学部英米学科の1年生になった俺。
途中、ニュージーランドにワーキングホリデー制度を利用して旅行しにいったり、フィリピンにボランティアの一員として診療所を建設するために訪れたり(時のアキノ大統領とも謁見したよ!)と外大生らしく国外をいろいろ飛び回ったりしたよなぁ。

大学1年の10月から始めたホテルオークラ神戸でのウェイターのバイトは、大学卒業するまでずっと続けたよ。
時給1360円のバイトってさ、今思ってもなかなかないよね?時給いい分、かなり肉体的にも精神的にもきつかったけど、ホテルでのマナーを覚えたりいい経験になったよ。

大学生活のことや、大学を卒業して最初に就職した伊藤忠商事入社までの話しについては、またいつか別の機会に触れるとするけど、13年前の俺があってこそ今の俺が存在するのは間違いのない事実。

行ける大学を選択して受験→進学というパターンじゃなく、最後まで自分が行きたい大学を目指して合格→進学できたという俺のパターンは、受験生からしてみたらかなり理想的なパターンだと思う。
でも、最初からそんなトントン拍子に話しが進んでいったわけじゃなく、色々な葛藤があってその結果、そうなったことはわかってほしいと思いながら、今日は「13年前の俺」というテーマで徒然なるままに書いてみました。

追伸:13年前の大学合格した3月14日。その日は、アストラムラインの上安駅近辺の橋げた落下事故が発生した日でもあり、多数の人が犠牲にあった日でもあります。なくなった方のご冥福をお祈り申し上げます。

貴光



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