広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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福田(ふくだ)





端島(はしま)
端島は文化7年(1810)石炭の露頭が発見され、明治3年(1870)に天草の小山氏によって端島坑として開業します。明治15年(1882)には鍋島孫六郎によって採掘が進められ、明治23年(1890)三菱が買収します。大正5年(1916)には我が国初となる鉄筋コンクリート高層アパートが誕生し、さらには石炭採掘によるボタで周囲が埋め立てられ周囲はすべてコンクリート護岸で固められました。昭和10年(1935)のガス爆発では死傷者34名という大惨事を起こし、のちもたびたびガス爆発事故などが起こります。最盛期の昭和34年(1959)に5,259人まで膨れ上がり世界一の人口密度となりました。昭和49年(1974)ついに閉山。以降は無人島となります。近年まで三菱の所有でしたが現在は長崎市の所有となり、産業遺産として注目を集めています。




高島炭鉱についてL
昭和61年(1896)11月27日の閉山を受け撤収作業が行われ、あわせて進出企業の受け入れも開始し12月には菱高開発梶A翌年1月には高島興産鰍ェそれぞれ設立されます。前者はコンクリート二次製品の販売、後者はヒラメの養殖で、島の産業の維持のため三菱をはじめとする各企業が下支えします。しかし島の人口が激減しアパート群の荒廃。そのため町では昭和63年(1988)よりアパート取り壊し作業を開始します。平成2年(1990)三菱石炭鉱業鰍ヘ解散し工場群などほぼすべてが撤去されます。




高島炭鉱についてK
昭和46年(1971)二子坑はバラ色の飛島坑区といわれる区域に着炭。一時閉鎖されていた二子斜坑第二斜坑が再開し飛島坑区の揚炭が再開します。その中で昭和48年(1973)会社の合理化も進み三菱高島社と三菱大夕張社が合併し三菱石炭工業鰍ェ発足します。昭和50年(1975)坑内で死傷者27名を出す大事故が発生。昭和52年(1977)には出炭量2,500トン/日となります。さらに昭和60年(1985)坑内で死者11人の大災害が起こり炭鉱は存続の危機に直面します。会社、組合、県や町がたびたび国や関係機関に陳情がなされますが昭和61年(1896)11月27日閉山。以降、撤収作業が始まります。




高島炭鉱についてJ
昭和25年(1950)島の西の蛎瀬立坑が完成し、あわせて蛎瀬仲山間に通勤電車が運航し始めます(34年に廃止)。昭和32年(1957)二子立坑の開削工事が始まり深部開発の増強、通気の改善がなされます。この年、日本初となる海底送水管が完成し水問題の解決に一役買うことになります。昭和40年(1965)第10回国勢調査で人口は19,825人、世帯数は5,062世帯でした。翌41年、出炭数が13万3400トン/月で過去最高を記録。しかしエネルギー政策は石炭から石油へと舵を切るようになります。




高島炭鉱についてI
昭和23年(1948)次第に坑内の機械化が進み、坑内電車や岩石を詰め込む機械など能率向上が図られます。この年はほかに雲仙保養所が完成し保健施設が建てられたり文化活動が盛んになり、昭和25年(1950)には鉱業所病院の開業、保育園、保育所といった福利厚生施設が次第に充実していきます。その一方で労働組合の分裂やストライキなど主義主張の問題がクローズアップするようになります。




高島炭鉱についてH
第二次大戦時、昭和20年(1945)6月、このときはじめてアメリカ潜水艦によって端島が魚雷攻撃を受け、7月に高島にアメリカ軍機が襲来し爆弾が投下され発電所や事務所が被害を受け、発電不能で坑内が水没。ついには高島新坑は廃坑となります。終戦を受け作業員は帰郷させ操業を自粛させていましたが、昭和21年(1946)一転、増産運動が行われます。その後は労働組合が立ち上がり労働環境などの改善につながります。




高島炭鉱についてG
明治41年(1908)に開坑した二子斜坑ですが高島に住む労働者の通路として、小船の避難所として二子島と高島間の埋め立て工事がなされ大正9年(1920)に竣工、以降、のちの新坑開発によるボタにより現在の広大な埋め立て地となります。大正9年第1回国勢調査で島の人口は8,907人、世帯数は1791世帯でした。このころの社宅は島の北東側に日吉岡社宅、島の東に百間崎社宅、二子島にそれぞれ社宅が置かれていました。昭和に入り炭界不況に陥り従業員の配置転換がなされるなど苦しい時代がありましたが、昭和12年(1937)軍備拡充体制となり一転好景気となります。




高島炭鉱についてF
明治34年(1901)島の西、蛎瀬坑開削が始まり翌35年に採炭が始まります。しかし明治39年(1906)創業以来最悪の事故となった蛎瀬坑ガス爆発事故が起こり、この事故以降、坑内通気方式が変更されることになります。明治40年(1907)には島の南側の二子斜坑が開坑。翌41年の発電所の完成を機に二子坑動力電化の始まります。このころから炭鉱の機械化が進み坑外エンドレスや排水ポンプ、電気巻き上げ機などの使用が始まります。




高島炭鉱についてE
明治14年(1881)高島炭鉱の譲渡を受け岩崎彌太郎は社内の鉱山関係の技術者を集め、翌年から増産体制を進めます。明治17年(1884)伊王島、沖ノ島、中ノ島などの試掘権や事業を譲り受けますが着炭できなかったり湧水のため断念。翌18年(1885)には岩崎彌太郎は志半ばで逝去してしまします。この時期はコレラや天然痘の流行、坑内火災に悩まされます。明治22年(1889)島の東の百間崎坑、仲山坑が開坑(これにより尾濱坑が近接することで廃坑になります)。翌23年(1890)三菱は端島炭鉱を買収し経営にあたり、明治27年(1894)三菱は横島鉱区を取得し採炭を拡張します。しかし、端島をのぞく百間崎坑、仲山坑、横島坑区など湧水や海水の侵入に合い相次いで廃坑することになります。




高島炭鉱についてD
明治3年(1870)高島炭鉱が順調に出炭している頃、貿易の中心が神戸や横浜に移るとグラバー商会の長崎の業績が悪化。多くの負債を抱えたグラバー商会は倒産。高島炭鉱の採掘権はオランダ商社ボードウィンに移譲されます。明治7年(1874)明治政府はボードウィンに債務40万円(今のお金で40億円以上)を支払い高島炭鉱は官営となるも、出炭が一日250トンまで落ち業績が悪化。民間払い下げが検討され、政府の参与や大阪府知事、参議を務めた後藤象二郎に55万円で払い下げられます。しかし、ガス爆発や坑内火災、さらには大暴動など様々な事件事故に見舞われたため、明治14年(1881)岩崎弥太郎が経営する三菱に譲渡されます。




高島炭鉱についてC
明治元年(1868)佐賀藩とグラバー商会の合弁会社はイギリス人技師モーリスを召致し近代的技術によって高島の元村の海岸で立坑開削が始まります。このとき掘進に火薬が使用され、石炭などの巻き上げや排水に蒸気による巻き上げ機やポンプを使い、通気には扇風機、照明に安全灯を使用します。そして我が国初となる馬車による四輪車(坑内炭車)が登場しました。掘削を始めて1年後の明治2年(1869)着炭し、我が国初となる洋式立坑として北渓井坑(ホッケイセイコウ)が開坑します。ここは翌3年(1870)には出炭一日300トンに達しました。この年、高島の尾浜でも開削を始め明治4年(1871)採炭を始め南洋井坑が誕生します。




高島炭鉱についてB
安政2年(1855)長崎奉行所西役所内にオランダから海軍を学ぶために海軍伝習所が設けられ、第二次伝習の指導者カッテン・ダイケ艦長は安政5年(1822)高島坑に赴き坑内の機械化の必要性を説きました。翌6年(1859)幕府は露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、多くの外国人が来日。8月上海からイギリス(スコットランド出身)人のトーマス・ブレーク・グラバーが来日します。グラバーはすぐに貿易商社のグラバー商会を立ち上げ営業を始め、安政4年/明治元年(1868)佐賀藩とグラバー商会は共同経営契約を結び、近代化による本格操業が始まります。




高島炭鉱についてA
文化10年(1813)石炭運搬船が高島と香焼島の間にある横島付近で遭難し乗組員20余人のうち男4人、女1人が溺死します。記録の上ではこれが初めての事故となっています。文化15年(1818)には炭鉱数6坑。島の北側に集落(71戸、372人)ができ本村が誕生。文化7年(1810)の端島における石炭発見。天保5年(1834)の香焼坑の開坑など周辺の各地で石炭の採掘が始められ安政2年(1855)高島炭の出炭数は24,996トンを記録します。




高島炭鉱について
元禄8年(1695)佐賀鍋島藩支藩深堀藩の下僕であった五平太は、広磯の地で野焼きをしていたところ石に火が引火し、五平太はこれを燃石と呼び村人に分けたやったといわれています。いつしかのこの石を五平太と呼ぶようになります。その後、深堀藩はこの燃石に着目し深堀の鍛冶町などにあった鍛冶屋の燃料として使用したり、瀬戸内地方への製塩用燃料として販路を広げ藩の収入とします。天明7年(1787)深堀藩は烏山平次郎に対し長崎での石炭販売を許可。文化元年(1804)佐賀藩本藩は深堀藩の評判を受け佐賀藩直轄事業とし、製塩燃料や船舶燃料の販売を促進します。




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