広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成25年 〜2013年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



岩屋山神通寺
万治3年(1660)この一帯が大村藩領であるところから大村純長は寺の再興を進め、寺町延命寺第2代住持尊覚を開基として迎えます。その際、神宮寺を神通寺に改称し、大村の池田にある宝円寺の末寺として大村家累代の祈願所にあてます。以降、神通寺は発展し、茶店なども置かれ長崎市民の行楽の地として栄えます。




岩屋山神宮寺
岩屋山は古来より霊峰としてそびえ、奈良時代に僧:行基(668-749)が筑後巡回の際に訪れ、阿弥陀如来、釈迦如来、観音菩薩の三尊を安置して岩屋山大権現とします。平安時代には弘法大師が唐からの帰途に立ち寄られ神宮寺で護摩を焚き、以降、別院36坊を要する寺院に発展します。さらに、1350年(観応元/貞和5)に将軍足利尊氏によって修復がなされたという記録が残っています。弘治年間(1555-58)島原の有馬氏の滑石平宗の焼き打ちの際、神宮寺も焼かれ、さらに、慶長17年(1612)キリシタンによって破却されます。




天台宗神宮寺淨福寺
神宮寺の末寺:淨福寺は「山里村、白厳山の北」にあったと長崎市史には記されていますが、現在の三原、本原付近にあったと考えられます。慶長17年(1612)キリシタンによって一切が破却され姿を消します。この寺は一説によると岩屋山神通寺支院ともいわれています。




傘潭(からかさぶち)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、当時、大橋(本大橋)付近には多きな淵があって、淵には雨傘に似た巨石があったといいます。巨石は土台の基礎石に傘石が載っている形状で、大雨のときはその石を打つ水音が響いていたといいます。人々はそれを傘潭と呼んでいましたが、のちに大雨によって流失してしまいます。現在の浦上川は昭和57年(1982)以降に河川改修工事が行われたため当時を物語るものは何も残っていません。




天台宗神宮寺宗源寺
神宮寺の末寺:宗源寺が稲佐淵村庄屋志賀氏の居宅跡にあって、慶長17年(1612)キリシタンによって一切が破却され姿を消します。なお、そのときの鐘が浦上川に沈められたことからその淵を鐘潭(ツリガネフチ)と呼び、その後、村人たちによって引き揚げが試みられますが、突如として空が暗くなり怪異なことが起こったのですぐに中止したそうです。この寺は一説によると岩屋山神通寺支院ともいわれています。




荒神社/天台宗宝泉坊
荒神社は、宝泉坊量海という僧が官命により三宝荒神(かまどの神、火の神)を寛永11年(1634)にお祀りしたことに始まります。また、この荒神社は開基から宝泉坊とも称していて、言い伝えでは、ここの神像は弘法大師の作といわれていました。この荒神社は両部神道として神仏習合(神と仏が交じり合ったもの)の典型的な寺院で、荒神と称しても三宝荒神という仏様をお祀りするものでした。明治維新を受け廃寺となります。




天台宗神宮寺鎮道寺
神宮寺の末寺:鎮道寺は現在の諏訪神社踊り場下にある駐車場(旧大納言)付近にあって、以前まで荒神社、水神社あった場所でした。天正年間(1573-1591)この寺の上手の神宮寺別当職の玉園坊という猛者がいたといわれています。慶長17年(1612)キリシタンによって一切が破却され姿を消します。




天台宗神宮寺斎道寺
神宮寺の末寺:斎道寺は現在の夫婦川町付近(春徳寺下段)にあって以前まで観音堂として存在していました。斎道寺は当初、神宮寺の支院として建てられますが、キリシタンによって破却されます。その後、享保6年(1721)梅林利右衛門らの援助によって僧:良明によって再興されるもすぐに途絶えてしまい、明治36年(1903)付近の田川金吉らによって復興します。しかし再び途絶えてしまい現在は存在していません。言い伝えによると、元和年間(1615-1624)キリシタンが本尊を溝に放棄したところ、片淵一帯で疫病がはやります。すぐに青木賢清によって祈祷をしたところたちどころに回復したといいます。




天台宗神宮寺妙見祠
神宮寺の末寺:妙見祠は現在の淵神社のところにあって弁財天を祀り萬福寺と称していました。そしてその上の山頂に虚空蔵菩薩と玄武神をお祀りし、玄武神の化身が妙見菩薩ということもありその山を妙見嶺(妙見山)または虚空蔵峰と呼びます。そしてのちに2体の神を祀った山ということで寶山と呼び、のちに宝珠の玉のように峰が茂っているところから寶珠(宝珠)山と呼ばれるようになります。ここものちに荒廃しますが天保4年(1647)寺町にある延命寺開基の龍宣によって弁財天を勧請し一寺を設け萬福寺が再建されます。なお、当初の妙見祠は一説には岩屋山神通寺の支院でもあったといわれています。




天台宗神宮寺観音堂
神宮寺の末寺:観音堂は「西山村の内烏帽子山の下」にあったと長崎市史には記されていますが、それは現在の西山2-26-13の西山町地蔵堂と考えられ、正平5年(1350)に神宮寺が改修された際、同時に改修され観音寺と称されていました。長崎を治めていた長崎氏の妻はこの寺で祈願を行っていたこともあり、ここを加持聞場(カジキキバ)と呼び、地元民は字名が小川で「小川の観音」と呼んでいました。
観音堂はキリシタンの破却に遭い姿を消しますが、元禄年間(1688-1704)長崎の役人が霊夢を見、付近を掘って見ると数体の石塔を発見したため祠を設け石像を安置します。その後、聖福寺、皓台寺の末庵となるも明治維新によって廃寺となり現在は西山町地蔵堂となっています。




堂門橋/堂門川(どうもん-がわ)
中島川の支流、西山川の桃渓橋から大手橋までの間を堂門川といい、新大工町の入り口の橋を堂門橋といいます。堂門とはその昔、川上に毘沙門堂があって、その門前にあるところから堂門橋/堂門川と呼ばれるようになりました。その毘沙門堂ですが、おそらく諏訪神社の参道(流鏑馬馬場付近)にあって、諏訪神社が寛永年間(1624〜43)に神社と寺院を分離した際、隣りの神宮寺に移されたものと考えられます。現存せず。




天台宗神宮寺毘沙門堂
神宮寺内に建つ毘沙門堂は「諏訪流鏑馬場内大鳥居と能仁寺の間」にあったと長崎市史には記されていますが、それは現在の炉粕町59番地附近(公衆トイレ付近)と考えられます。
本尊の毘沙門像はキリシタンによる破却の際、何者か密かに持ち出し、寛永年間(1624-44)の諏訪神社再興の際に青木賢清へ届けられ安置されます。しかし神仏合祀が禁止となったため、以降所在が分からなくなり、その後、山中において毘沙門像は発見され島田某氏が安置することになります。宝永年間(1704-1711)安禅寺多門院に移され、当時の記録では高さが5寸(約16.5センチメートル)で兜を付け矛を携え鬼を踏んでいたということですが、明治維新による廃寺となり毘沙門像は行方不明になります。その後、一説には聖無動寺に安置されたといわれていましたが原爆によって焼失してしまいました。




天台宗神宮寺薬師堂
神宮寺内に建つ薬師堂は「東上町東角長崎県女子師範学校付属体操場附近」にあったと長崎市史にはあって、現在の長崎歴史文化博物館の大門前の下段広場付近と考えられます。
本尊は薬師如来でキリシタンによる破却の際、地中に埋められていましたが、寛永年間(1624-44)西山村の農夫の娘が霊夢に感じたため父に頼んで地中を掘って見ると6寸ほど(約20センチメートル)の木像が現れます。朽ち果てていたため始めはキリシタンの聖像と思い恐れていましたが、鑑定の結果、薬師像と判り家に安置したといいます。その後、中川の八幡神社に移したとありますが現存していません。




天台宗神宮寺についてE
寛永元年(1624)島原出身の修験者:常樂院快晴は八幡町に修験道場を開き、のちの第3代住持:長慶の代になって八幡町乙名:木下潤蔵の保護の下、宝永2年(1705)讃岐国象頭山より金毘羅大権現を勧請し、瓊杵山(現 金比羅山)山頂の岩窟に納められます。享保10年(1725)には真言宗無凡山神宮寺の名称となるのですが、これは古来長崎にあった神宮寺の再興という位置づけでした。元文元年(1736)には中腹に拝殿が作られ、また、祭神が航海安全の神ということもあって唐人や唐船主などからの銀や石灯籠などの寄進を受けるようになります。しかし、明治維新を受け神仏混淆が禁じられ金刀比羅神社に変わると寺院施設は廃され、鐘楼ほか仏具は長崎裁判所に納めることになり、入口にあった半円形の石門は聖福寺に売却されます(現存:市指定文化財)。




天台宗神宮寺についてD
16世紀の戦国時代には神宮寺は荒廃していましたが、それでも薬師堂、毘沙門堂、観音堂、虚空蔵堂などの寺院は残っており、それらは慶長の初めごろ(1596-)キリシタンによって破却、焼失させられ姿を消したものと伝えられています。しかし、一説には長崎を治める大村純忠がキリシタンの洗礼を受けたことにより天正2年(1574)に領民に対し改宗を強制し、一部で反乱も起こりますが寺社などを次々に教会堂に変えているところから、神宮寺の破却は天正年間(1573-1592)とも考えられています。




天台宗神宮寺についてC
神宮寺は聖徳太子が活躍していた推古天皇5年(597)、朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が北極星を神格化した信仰「星王修法(妙見菩薩)」の道場を、のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし、その後、代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。また、戦国時代、嘉吉元年(1441)にあった嘉吉の乱では劣性であった大名:大内氏が、この神宮寺に祈願したことにより優勢に転じたとも伝えられ、当時は寺院が駐屯地になっていたため荒廃していたともいわれています。




天台宗神宮寺についてB
江戸時代後期に書かれた長崎図志や名勝図会などには、神宮寺は崇岳(金比羅山)のふもとにあって、現在の諏訪神社から長崎公園、長崎県立図書館、長崎歴史文化博物館一帯と下西山町から炉粕町、馬町、上町までの広大なものだったと伝えられています。しかし当時の記録は全く残っておらず正確な範囲は分かっていません。そして、炉粕町には慶長時代(1596-1615)セント・ルカス教会という教会があって、そのルカスが「ろかす」に変わり炉粕町になったという説があります。※天正9年(1581)の説あり。




天台宗神宮寺についてA
室町時代の嘉吉元年(1441)大名:赤松満祐(ミツスケ)は将軍足利義教(ヨシノリ)を暗殺(世にいう嘉吉の乱)。これにより足利義勝が兵を出すよう大宰(府)の少弐嘉頼(ヨウニヨシヨリ)に命令するも応じなかったため、大名:大内教弘(ノリヒロ)が兵を出すと少弐軍は肥前に逃げ、その際、大内軍は神宮寺に立ち寄り参拝したといわれています。これは大内氏が琳聖太子の末裔ということと、神宮寺の神を信仰していたからだといい、しかし駐留するなどして寺は荒廃し、さらには※慶長時代(1596-1615)キリシタンによって跡形もなく焼き払われ、神宮寺跡地には教会が建ったと伝えられています。なお、教会はセント・ルカス教会といい、そのルカスが「ろかす」に変わり炉粕町になったという説があります。※天正9年(1581)の説あり。




天台宗神宮寺について@
江戸時代後期に書かれた長崎図志には、古来長崎には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近に立っていたと記されていますが、始まりは聖徳太子が活躍していた推古天皇5年(597)朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が建てた道場で、のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし、その後、代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。




(72)日本最初の缶詰製造の地/松田缶詰製造所跡【長崎公園入口】
缶詰製造の始祖といわれる松田雅典(天保3:1832-明治28:1895/まつだ-まさのり)は、勝山町乙名馬田家に生まれ後に金屋町乙名松田家の養子となります。明治2年(1869)広運館の取締のとき、フランス人講師レオン・ジュリーが牛缶を食することに興味を持ちます。そして缶詰製造の指導を受け、イギリス人から購入した機械でイワシ缶製造に成功。後に長崎県勧業御用係(農工業の奨励の役目)になり県令(知事)を説得。明治12年(1879)この地に長崎県缶詰試験所を置き、主任となります。しかし明治15年(1882)閉鎖。明治17年(1884)払下げを受け、自営にて松田缶詰製造所として立ち上げます。没後、経営者も変わり明治29年(1896)には合名会社とし、翌年夫婦川町に移転、日露戦争では軍需品として成果を上げますが閉鎖となります。松田雅典墓所は晧臺寺後山。




(71)西岡竹次郎先生像【長崎公園入口】
西岡竹次郎(明治23:1890-昭和33:1958)は、長崎市生まれで幼少の頃から苦労しながら早稲田大学へ進み、在学中から政治の道に進み、大正13年(1924)から約20年間、衆議院議員を務めます。第2次大戦後一旦、政治から離れますが、昭和26年(1951)から昭和33年(1958)まで長崎県知事を務め、西海橋架橋など戦後復興に尽力します。墓所:大音寺後山。
この像は昭和49年(1974)有志によって建立され、像は北村西望作です。




(70)中村三郎歌碑【長崎公園入口】
中村三郎(明治24:1891-大正11:1922)は長崎市麹屋町の写真屋に生れ、勝山高等小学校卒業後、長崎新報の記者となります。そしてあわせて作家活動を始めます。大正8年(1919)上京し、若山牧水に仕え全国区となりますが、31才の若さでこの世を去ります。この歌碑は昭和48年(1973)長崎歌人会によって建立。碑文の文字は書家:小曽根星堂によるものです。
碑文「川端に牛と馬とがつながれて 牛と馬とが風に吹かるる 三郎




(69)田口長治郎翁像【長崎公園入口】
田口長治郎(明治26:1893-昭和54:1979)は島原市生れで、島原中学校から農林省水産講習所へ進み水産学を学びます。それからは各県の水産試験所を廻り、滋賀県では我が国初のマス(鱒)の養殖に成功します。その後、第二次大戦中から戦後にかけ水産関係の会社へと進み、昭和24年(1949)衆議院議員、昭和43年(1968)参議院議員となり国政の場で水産業の振興に尽力します。この像は昭和50年(1975)水産関係の多くの団体によって建立。「なるほど」が口癖でした。




(68)オランダ王女お手植えの木【長崎県立長崎図書館内】
昭和38年(1963)日蘭親善のためにオランダのベアトリック女王が国賓として来崎。出島オランダ商館や平和公園などを視察。そして長崎県立長崎図書館にも訪れ、図書館前庭に白サザンカ(白山茶花)をお手植えになりました。
解説板には「オランダ国皇嗣ベアトリックス・ウィルヘルミナ・アームハート内親王殿下御来館記念お手植」とあります。
※現在、サザンカはお手植えの木ということを知る人もなく荒れた庭の一部となっています。




(67)古賀十二郎翁碑【長崎県立長崎図書館内】
古賀十二郎(明治12:1879-昭和29:1954)は長崎市五島町の黒田藩御用達の商家:萬屋に生れ、十二郎が12代目で明治12年生まれということもあって十二郎と命名されたともいいます。長崎市立商業学校から東京外国語学校へ、広島で3年間英語教師となりますが帰崎。長崎では長崎史談会を創設、長崎における歴史の基礎を築き、大正8年(1919)長崎市史編さんの参与編纂主任として招かれ、いわゆる「長崎学」の基礎を築くのです。また、明治45年(1912)の長崎県立図書館創設に尽力、特に洋書収集ではオランダとの交渉役となり、その功績から大正9年(1920)オランダからナツソウ勲章が贈られます。墓所本蓮寺後山。
この記念碑は昭和45年(1970)長崎開港400年を記念して古賀十二郎ゆかりの地:長崎県立図書館に有志により建立。
碑文「港あり 異国の船をここに招きて 自由なる町をひらきぬ 歴史と詩情のまち長崎 世界のナガサキ・・・・古賀十二郎のことばより)」




(66)長崎県立長崎図書館
長崎県立長崎図書館は明治45年(1912)それまで長崎にあった長崎文庫、長崎県回覧文庫、荒川文庫などが統合され長崎市新橋町(現 諏訪町:市立保育所)に開かれたものが始まりで、その後、大正4年(1915)大正天皇即位記念として交親館が増改築されたのを期に新橋町にあった長崎県立長崎図書館がここに移転します。さらに第二次大戦後の復興事業の一環として昭和34年(1959)多くの募金によって鉄筋コンクリート建に建て返られ、世界各地から書籍の寄贈が行なわれました。




(65)交親館跡(こうしんかん-あと)【長崎県立長崎図書館】
長崎県立長崎図書館がある場所は、もともと長崎奉行所立山役所の稲荷神社や馬見所があった場所で、明治維新を受け廃止されると稲荷神社は若宮神社境内に移転します。明治14年(1881)長崎の迎賓館の役割となる建物が必要となり交親館が建てられます。2階建ての洋館で1階に長崎県会議事院、2階が迎賓館でした。なお、県会議事院は明治44年(1911)現在の長崎県庁のところに長崎県会議事院が完成したため移転。その後は集会場となり、大正4年(1915)改築され、新橋町にあった長崎県立長崎図書館がここに移転し現在に至ります。




(64)ツュンベリー記念碑【長崎公園入口】
ツュンベリー(1743:寛保3-1828:文政11)は、スエーデン出身の植物学者で、安永5年(1776)オランダ医官として出島にやって来ます。約1年間の日本滞在でしたが限られた地域での植物採取や、江戸参府に随行の際、警備の目を避けての採取など、苦労の末での日本の植物研究はその後のシーボルトの日本研究の基礎となるのです。さらに政治や社会生活なども観察、オランダ通詞の吉雄耕牛などはツュンベリーの影響が特に大きいといわれています。
この記念碑は昭和32年(1957)日本学術会議と日本植物学会によって建立。正面のラテン語は「日本に初めて植物学をもたらした徳学もつとも優れた人 ケーペーツュンベリーを記念して」という意味で、裏面の文字は書家:小曽根星堂によるものです。




(63)施福多君記念碑/建施君記念碑題名【長崎公園入口】
シーボルト(1796:寛政8-1866:慶応2)は、ババリア王国(現ドイツ南部)出身の医師で、後にオランダ海軍軍医となり日本へ派遣されます。当時、オランダは日本貿易が不振だったためシーボルトへは貿易不振の解消と日本文化の調査が命じられます。文政6年(1823)来崎、出島オランダ商館の官医となり外科部屋に入りますが、オランダ通詞との交流が盛んになり出島以外での教育や診療が許され文政7年(1824)鳴瀧塾をを開設、多くの門人を輩出します。
この記念碑はシーボルト没後13年の明治12年(1879)シーボルトの功績を称え皇族の有栖川熾仁、東伏見嘉彰のほか個人152名、病院関係の6団体によって建立されたもので、題名を見ると、岩倉具視大隈重信北島秀朝(長崎県令)、吉雄圭斎松田雅典金井俊行(長崎区長)など、そうそうたる人物の名前が彫られています。なお、「施福多君記念碑」の文字は書家:小曽根乾堂によるものです。「施福多」と「」はシーボルトの漢字表記で、「建施君記念碑題名」はシーボルト記念碑建立設立者名という意味になります。




(62)上野彦馬翁銅像【長崎公園入口】
上野彦馬(天保9:1838-明治37:1904)は御用時計師:幸野俊之丞(後の上野俊之丞)の四男として銀屋町に生まれます。20才前にオランダ通詞:名村八右衛門についてオランダ語を学習、安政5年(1858)化学研究所である舎密(せいみ)試験所に入り、さらに海軍伝習所でポンペに化学を学びます。その後、フランス人ロッシュから写真術の指導を受けフランスから写真機を購入、江戸神田で萩藩主らを撮影します。そして文久2年(1862)帰崎し中島鋳銭所跡地に上野撮影局を開き写真文化の発展の基礎を築くのです。昭和9年(1934)全関西写真連盟によって新大工町の旧邸に記念碑と像が建立されますが昭和20年(1945)戦災により破損。昭和26年(1951)日本写真師会などにより再建されます。




(61)ナンキンハゼ【長崎公園丸馬場中央】
ナンキンハゼは「南京黄櫨」と書き、中国原産のトウダイグサ科の落葉樹で江戸時代に長崎に伝わり長崎から全国に伝わりました。夏は緑色の美しい葉と黄色い小花をつけ、秋には真っ赤な紅葉。落葉した後は白い種子が輝きます。種子から蝋(ロウ)が、葉から染料を取り、材は家具・器具などに使われます。漢方では「うきゆう」 といい利尿剤に用いられます。
昭和50年(1975)長崎市は中国と関係の深いこの木を長崎市の木に決定。長崎市街地の公園樹や街路樹として多く植えられています。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16