広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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B-127:鐘鼓楼(しょうころう)【祟福寺内】
媽姐門に向い合っている鐘鼓楼は鐘と太鼓がある寺院内に時を知らせる役割を持っています。創建は正保5年(1648)で享保13年(1728)に再建、大正11年(1922)にも修復が加えられています。材料は中国で切り込まれ長崎で組み込まれますが、職人が日本人だったため細部の建築様式に和風の特徴を持っています。国指定文化財。




B-126:媽姐堂/媽姐門(まそどう/まそもん)【祟福寺内】
媽姐堂は開山堂の南側に隣接している建物で創建年代は定かではないが、おそらく祟福寺が開かれた寛永12年(1635)頃に建てられたものと考えられています。しかし、当時のお堂の規模や位置は正確には判っていません。また、寛政6年(1794)には唐人によって白砂糖一万斤(約60トン)の寄附を受け修繕が施された記録があり、その後、文政10年(1827)に再建されます。県指定史跡。
媽姐門は文字通り媽姐堂の門ですが、大雄宝殿と方丈(僧侶の居住場所)との通路通路も兼ねています。さらに媽姐門は不思議な構造を持ち、軒の外側は黄檗天井、内側は和風の様式(山形天井)で、媽姐堂に門をつける寺院は日本にほとんど例がないといわれています。国指定文化財。




開山堂の堂内【祟福寺内】
開山堂には開法の即非禅師、第4代住持:千呆禅師、第7代住持:大衡禅師の各像があり、隠元禅師の扁額「正法眼」や大衡禅師の注聯「全提摩竭令/別展少林風」、千呆禅師の扁額「無盡光」と注聯「遮那性海光明蔵/優鉢羅花劫外春」「功垂鹿苑金湯固/福被壇門世代昌」、さらに堂外には即非禅師の扁額「法海慈航」を見ることが出来ます。開山堂は大雄宝殿同様、すべて石張りで丸い窓(円窓)が設けてあります。また、堂内に中国の黒い棺桶が立て掛けてあり、一説には幸運の縁起担ぎともいわれています。




開山堂(かいざんどう)【祟福寺内】
開山堂は大雄宝殿の真後ろに建つ建物で創建年代は明らかではないが宝永4年(1707)の長崎社寺帳に伝法堂とあり、おそらくこれが開山堂のことと考えられています。大正11年(1922)祟福寺開創300年と即非開法250年記念法要の際、大改修が行われるも、昭和20年(1945)原爆の爆風で大破、さらには昭和57年(1982)長崎水害で裏山が崩れ開山堂内部が被害を受けています。




護法堂の韋駄天(-いだてん)【祟福寺内】
護法堂には韋駄天がお祀りされていますが、この韋駄天はインドのバラモン教のシヴァの子供といわれています。その昔、お釈迦さまが亡くなられた後、仏舎利(遺骨)を盗み逃げ去った鬼神という神がいました。そしてそれを聞いた韋駄天はいち早く追いかけ仏舎利を取り戻すのですが、これが後の「韋駄天走り(素早く走る意)」の語源となるのです。また、韋駄天はいつも剣を持っている仏像ですが、その昔、この剣の持ち方でそこの寺院の運営が判るようになっていたともいわれています。それは韋駄天が剣を両手で持っていればその寺院は裕福な寺院、地面を突き刺していればあまり裕福な寺院ではないという意味になっていて、当時、修行僧が寺院を訪ねるとき、受け入れてもらえるかどうかの判断材にしていたのです。




護法堂の關聖帝の伝説(-かんせいてい-のでんせつ)【祟福寺内】
護法堂にある關聖帝像は昔から唐人の崇敬者が多く特に商売の神といわれていますが、祟福寺の關聖帝には次のような言い伝えが残っています。その昔、關聖帝像にお菓子などを供えると決まってネズミが食べてしまうので寺の僧は關聖帝の霊験のなさをあざ笑っていました。これを聞いた僧:即非關聖帝の行いを一日中責め立て、最後は右頬(みぎほほ)に傷をつけます。すると翌日、關聖帝像の横にある韋駄天像の剣先に1匹のネズミが射抜かれていて、これはまさに韋駄天關聖帝の汚名を晴らしたようでした。僧たちはこのことに恐れすぐに關聖帝の傷を補修します。しかし何度直しても直らず、今でもその傷が残っているといいます。




B-125:護法堂(ごほうどう)【祟福寺内】
大雄宝殿に向い合っている護法堂は享保16年(1731)鼎建(テイケン)によって韋駄天、五方五帝、緊那羅、伽藍などの仏像を安置したことに始まり、これらの仏像から天王殿、關帝堂、迦藍堂、観音堂などとも称されています。中央に観世音菩薩が安置され正面には即非禅師の扁額「護法藏」と、第4代住持:千呆禅師の注聯「一座壽山觀自在」「無邊jC大圓通」があります。




大雄宝殿の堂外【祟福寺内】
大雄宝殿の軒先には上から突き出た柱があってこれを逆擬宝珠型束(さかぎぼうしゅ-かたつか)または垂下柱(スイカチュウ)といい黄檗建築の特徴ともいえる構造で、足元の廊下には板石が敷き詰められ、内部は四角い瓦が斜め45度に敷かれています。この敷き方を(セン)といい禅宗系の寺院によく見られる敷き方です。正面入口には即非禅師の注聯があって「佛是了事漢」「世豈無全人」と記され、入口正面にある大壇越の何高財魏之琰によって掲げられた扁額「大雄寶殿」はお堂の存在感を表現しています。そして大雄宝殿下には祟福寺の修復を記念した「重修祟福寺碑」および「祟福寺重修寄附者芳名碑」が建っています。




大雄宝殿の聯額(-れんがく)【祟福寺内】
書などの横長の額を扁額(ヘンガク)、縦長で柱など掛けられ左右対のものを注聯(チュウレン)といい総称して聯額といいます。特に禅宗寺院によく見られ黄檗宗系寺院の特長にもなっています。
大雄宝殿内正面にある扁額「世尊」と注聯「一棒酬恩雲門之大機用超凡越聖」「破顔契旨迦葉之正法眼耀古騰今」は隠元の高弟で祟福寺の中興:即非禅師のもので、「世尊」は長崎で一番美しい楷書といわれています。扁額13枚、注聯6対が県指定文化財に指定。




釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)【祟福寺内】
大雄宝殿中央に鎮座する釈迦如来像、両脇の阿難(アナン)像、迦葉(カヨウ)像の三像を釈迦三尊といい、この三尊の組み合わせは他の唐寺にない特徴です。祟福寺の釈迦三尊は承応2年(1653)大壇越の何高財が寄進したもので仏師は中国江西省の徐潤陽らの手によります。昭和10年(1935)頃、仏像修繕の際、偶然にも釈迦三尊の胎内から五臓六腑と巻物が発見されます。そのうち五臓は銀製の装飾品のようなもので、六腑は布ぎれ、巻物は寄進者の名前が書かれていました。胎内に模型を入れる風習はインドや中国の一部にしかなく、さらに金属製のものは祟福寺がわが国最古のものといえます。




十八羅漢像(じゅうはち-らかんぞう)【祟福寺内】
大雄宝殿堂内には十八羅漢像があって左右の壇上に9体づつに分かれて置かれています。これらは黄檗系彫刻を代表するもので延宝5年(1677)祟福寺境内で造られました。一方、京都宇治にある萬福寺にも十八羅漢像があってこれが唐の名工:范道生(ハン-ドウセイ)によるものだったため、近年まで祟福寺の十八羅漢像も作風からそう信じられていましたが、調査から別の職人の作と判明。しかし祟福寺のものも黄檗系彫刻の代表的彫刻といえます。なお、羅漢とは阿羅漢の略で一般にはお釈迦さまの教えを守り誓った16人の弟子を十六羅漢といい、そこに第17番慶友(ケイユウ)と第18番賓頭盧(ビンヅル)を加えたものが萬福寺や祟福寺に見られる十八羅漢です。




B-124:大雄宝殿(だいゆうほうでん)【祟福寺内】
大雄宝殿とは仏殿つまり本堂のことでお寺の中心となるお堂をいいます。正保3年(1646)大雄宝殿は大壇越(だいだんのつ=代表的寄進者)の何高財によって第2代住持:百拙如理のとき建立。建築材はすべて中国で切り出され唐船で運搬、そして長崎で中国の職人によって組み建てられました。この時は中国の建築様式で造られているため黄檗天井などの技法が見られます。一方、天和元年(1681)頃、当初の屋根の上に別の屋根を重ね天井を高くする構造(重層屋根)が加えられ、これは日本の職人による改良だったため和風様式となります。このように唐風と和風が組み合わさった構造は大変珍しく大雄宝殿の見所の一つとなっています。江戸時代や明治大正と度々改修が加えられますが、昭和20年(1945)原爆の爆風で大破したり昭和57年(1982)長崎水害で裏山が崩れ本堂内部が被害を受けるも多くの華僑などの協力により復興をとげ、長崎の代表する名所となっています。国宝。




長崎の唐寺の寺格(-じかく)
江戸時代初期、禅宗黄檗派(後に黄檗宗)の総本山は京都宇治にある黄檗山萬福寺でしたが、長崎にある祟福寺、興福寺、福済寺は本末(上下)の関係を持たない単立の寺格でした。しかし黄檗宗の規律などは萬福寺から取り入れ他の寺院並みの関係を持っていました。しかし、長崎の三ヶ寺には特別な役割があって、中国から渡来する僧(唐僧)は必ず三ヶ寺に入り住持とならなければなりませんでした。それはこの期間に長崎で日本の情勢を学ぶためで、その後、上京し萬福寺や他の黄檗宗の寺院に入るのです。




B-123:祟福寺の大釜【祟福寺境内】
祟福寺の大釜は別名:万人鍋、済貧鍋ともいい、さらには「祟福寺の大釜」とも「大釜の祟福寺」とも称された名物の一つです。天和2年(1682)鋳造のこの釜は、深さ5尺7寸(約1.7メートル)、口径6尺1寸1分(約1.9メートル)、重さ1965斤(約1.2トン)もあり1回で4石2斗(420升)もの米を炊くことが出来るといわれていて、鋳造は鍛冶屋町で行われ銘はないものの鋳物師:安山弥兵衛国逵のものといわれています。鋳造費は銀1貫300目を要し、釜の周囲には「祟やW寺施粥巨鍋天和二年壬戌仲春望後日」と刻されています。当初、大釜は鐘鼓楼と天王殿の間にあって明治36年(1903)現在の場所に移されました。




千呆施粥(せんがいの-せがき)【祟福寺境内】
延宝3年(1675)前年に続き日本各地で風水害が起こり飢饉が続いていました。長崎でも米不足で米価高騰し飢餓に苦しむ者が増え、祟福寺第4代住持:千呆はこの年の5月から祟福寺で施粥を始め、以降、毎日1500人もの人が列を成します。6月に入り千呆は市内を托鉢に廻り、第24代長崎奉行岡野孫九郎貞明が米10表寄進すると、代官、町年寄、豪商らが競って寄進を始めます。施粥は7月末まで続きます。延宝8年(1680)再び飢饉が起こり、年始から夏まで福済寺住持:慈岳が、秋からは千呆施粥を始めます。しかしこのときは米不足を起こし長崎奉行や町年寄からの支援を受けながらの施粥で、千呆は寺の書類や器物を売り払い米の購入に当てます。天和2年(1682)施粥用の大釜が完成。本堂前にかまどを設け大釜施粥が行われます。その後、米価は下落、大釜の使用は1ヶ月程度となります。




B-122:黄檗宗聖壽山祟福寺(せいじゅざん-そうふくじ)
鍛冶屋町7-5(長崎村高野平郷字風頭/旧今籠町)
寛永年間(1624-1643)年々キリシタンの取締りが厳しくなり唐人の中にもキリスト教を信仰する者も現れるようになり唐人に対しての取締まりも厳しくなっていました。寛永5年(1628)長崎奉行は中国:泉南地方の唐人に対しキリシタンではないという証として福済寺を建てさせると、福州地方の唐人は寺院の建立がなく福州出身者は同様に寺院建立を急いでいました。寛永6年(1629)福州地方出身の王引、何高財、魏之琰、林仁兵衛らの援助で唐僧:超然を招致、風頭のふもとにお堂を建立します。しかしここでは宗教的行事はなく航海安全の祈願や先祖供養を主としていました。寛永12年(1635)ようやく長崎奉行所の許可を得、祟福寺の建立となります。当時、祟福寺福州出身者で建立されたことから福州寺(-でら)とも呼ばれました。その後、寄進によって大雄宝殿や山門、媽姐堂など整備が進み寺院としての機能を持つようになります。承応3年(1654)には高僧:隠元が一時滞在したほか、江戸時代中頃まで住職は唐僧が就きます。幕末、唐船来航が著し減少したため寄進がなくなり寺院維持が困難に直面。多くの末庵が廃庵に陥ります。大正11年(1936)開山300年祭が行われ内外から約7000円の寄付を得、再興がなされます。昭和20年(1945)の原爆では爆風によって壊滅的な影響を受けました。




B-121:料亭辰巳跡(りょうてい-たつみ-あと)
鍛冶屋町5(旧今籠町)【レジデンシャルヒルズ崇福寺通り】
祟福寺山門の南側には第二次大戦後、料亭辰巳がありました。ここの女将は丸山の旧料亭鹿島屋の女中:おたつの経営で芋料理が自慢だったといいます。のち有川呉服店所有となり、平成15年頃マンションとなりました。このほか今籠町には東検番の秀丸が後に経営する大津加という料亭もあって、第二次大戦中、秀丸は中国人とのロマンスが有名でした。




B-120:緒方洪庵宅跡(おがたこうあん-たくあと)
鍛冶屋町(旧今籠町)
緒方洪庵(文化7:1810-文久3:1863)は岡山出身。大坂や江戸で蘭学を学んだあと26歳のとき来崎。長崎では今篭町に滞在します。出島オランダ商館官医:シーボルトを師事し、3年後、大坂で適塾を開き福沢諭吉を塾頭に当てます。また、シーボルトの娘のイネとも親交があり、明治天皇のお子さまの誕生に際し福沢諭吉がイネを宮内省に推薦した書状は国の文化財になっています。




B-119:北村元助宅跡(きたむら-げんすけ-たくあと)
鍛冶屋町5-72(旧今籠町)【東亜閣パーキング】
北村元助は出島オランダ商館官医:シーボルトの門下生で、今篭町に屋敷を構えていました。広大な庭園が有名だったといいます。昭和初期、萬歳亭という中華料理店が始まり、第二次大戦後は中華料理店の東亜閣となります。現在は駐車場になっています。




B-118:寶珠山延寿院現應寺跡
(ほうじゅざん-えんじゅいん-げんのうじ-あと)
鍛冶屋町8-53(旧長崎村高野平郷)
江戸時代初め、佐賀出身の山伏:高覚院が今籠町東南部(大光寺下付近)の樹齢数百年の老木のそばに小さな祠を建て須佐之男命(天王社)をお祀りしていました。当時はキリシタンの勢力が強く参詣の者を脅迫することもあったといわれています。その後、禁教令によってキリシタンの勢力がなくなると高覚院は長崎奉行水野河内守の許しを得、寛永3年(1626)祠からお堂に立て替えます。寛永15年(1638)今の八坂神社の場所に移転。明和3年(1766)に火災で焼失するも再建し、安永8年(1779)諏訪町の住人から鳥居の寄進を受け、さらには毎年、唐船の船主より寄附を受けるようになります。しかし、明治維新によって現應寺八坂神社に改称。お寺から神社に変えられました。




B-117:前熊山不動院南光寺跡(ぜんゆうざん-ふどういん-なんこうじ-あと)
今籠町天満宮跡(いまかごまちてんまんぐう-あと)
鍛冶屋町6-17付近(旧 今籠町)
南光寺は寛永18年(1641)不動院快元によって開かれ、観世音菩薩や不動明王などが本尊とされていました。しかし明和3年(1766)と天保14年(1843)に火災と弘化2年(1845)暴風雨に遭い消失してしまいます。当時の住持:義憧は再建のため相撲、歌舞伎、手踊り、軍団琵琶、物語などを八幡町の芝居地や南光寺などで開催、資金集めを行いますが実らず、ついには明治維新によって廃寺となります。その後、菅原道真公をお祀りするようになり今籠町天満宮に改称。さらにそれまで大音寺に境内にあった天満宮も今籠町天満宮に合祀します。しかし、昭和53年(1978)道路拡張のため解体され八坂神社内に移されます。この解体の際「わが国には中国から漢字が輸入される前に古代文字があった」と江戸時代の国学者:平田篤胤などが主張した古代文字が天井裏から発見され話題となりました。現在行方分からず。




B-116:今籠町(いまかごまち)
祟福寺山門前から大光寺山門前、大音寺山門前そして鍛冶屋町の通りまでの通りを以前まで今籠町と呼んでいました。江戸時代初期、中国への貿易品の梱包には竹篭(籠)が使われていて長崎港の南側に竹篭の職人街が形成され籠町または船籠町と呼ばれるようになります。その後さらに竹篭の需要が増し、風頭のふもとに新しい籠町が作られ新籠町と呼ばれ、これによって最初の籠町本籠町となりました。しかし正保年間(1645頃)新籠町今籠町に改称されます。しかし一般には本籠町十善寺籠町今籠町大音寺籠町と分かりやすく区別して呼んでいました。昭和41年(1966)鍛冶屋町に吸収され、自治会のみの名前になっています。




B-115:大光寺墓域
大光寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】祟福寺大壇越:林家、唐通事:頴川家、唐通事:神代家、
【江戸時代中期】水害復興のため多くの寄進をした豪商:石崎太兵衛、
【江戸時代後期】オランダ通詞の本木昌造、新橋町乙名:岩清谷家、唐絵目利:広渡桂洲、唐大通事:鄭家、国学漢学者:船曳大慈、江戸開成所教授:堀達之助、
【明治時代以降】貴族院議員:橋本辰二郎、姿三四郎のモデルの西郷四郎、郷土史家:宮田安、貴族院議員:橋本雄造、明治初期に東京浅草で写真館を開いた内田九一ほか




B-114:発心寺梵鐘(-ぼんしょう)【発心寺境内】
発心寺梵鐘は長崎最古のものといわれ永享10年(1438)中国(明)で造られた物です。最初から発心寺のものではなく明治中期に長崎の貿易商:村上氏から発心寺が購入したもので、日本の梵鐘のように下が平ではなく、波型で丸くなっているのが特徴です。市指定文化財。




B-113:浄土真宗本願寺派横超山発心寺(おうちょうざん-ほっしんじ)
鍛冶屋町5-84(長崎村高野平郷/旧今籠町)
発心寺はもともと大光寺の末庵で宝永7年(1710)僧:圓識が大光寺内に滞在したことに始まります。文政元年(1818)本山よりの許しで一寺として許可され、以降、発心寺はその圓識の子孫が継承して行きます。文久3年(1863)僧:心浄は豊後(大分県)速見にある覚正寺におもむくも帰らず発心寺は一時衰退してし、明治3年(1870)心浄は再び発心寺に招かれ再興し、明治11年(1878)公式に独立し現在に至ります。




○大光寺末寺:法輪寺跡(ほうりんじ-あと)【大光寺駐車場】
法輪寺は山門北側今篭町通りに面し、大光寺の役職の僧(五役僧)が在籍する寺院で文化年間(1810頃)に断絶するも、天保14年(1843)三谷泰之助眞観という者が京都より下ってきて第10代住持の達朗を師事し、文久3年(1863)より法輪寺の寺号を受け再興されます。昭和に入り廃寺。このほか山門北側の墓域付近に照光寺という寺院もありましたが昭和に入り廃寺しています。




○大光寺本堂・書院・庫裏ほか
大光寺の本堂、書院、庫裏などは万治3年(1660)第2代住持:西詠がこの地に移転したときに建てられたもので、大正11年(1922)や第2次大戦後の改修、そして昭和60年頃の改修と、歴史上一度も火災に遭ったことがなく長崎でも貴重な木造建築といえます。山門は創建年代が不明ですが塀の鬼瓦は珍しい桃の果実が施されています。総門は大正3年(1914)に作られた花崗岩製のものです。




唐人花見仏参(とうじん-はなみぶっさん)【大光寺境内】
江戸時代後期(文政年間)大光寺境内には大変美しい花をつける数本の桜があって、あまりの美しさに唐人屋敷に住む唐人らもわざわざ見物に来ていたといいます。しかし見物には多くの手続きを必要とし、まず、見物したい旨を長崎奉行所に届け出、そして唐方会所から規定の書面にて寺院に時間などの問合せをします。寺院の都合がつくと唐方会所から規定の書面を寺院に差し出し、今度は寺院が長崎奉行所長崎代官所に届け出を出し、ようやく花見となる訳です。見物当日、長崎奉行所からは検使が、長崎代官所からは足軽3名、さらに唐通事5,6人ほか掛役人が数名同行するというものでした。当時、花見をした唐人は1回に20,30-100人程度で、到着後、まず仏前にロウソク線香を供え、参拝後は書院にて茶菓、さらには酒などの接待を受け、帰りは桜の花一枝と菓子一箱を受けるというもの。しかしこれは唐人の恒例行事のようになり定額寄進の名目で毎年、贈り物を受けるようになります。




事変避難所跡(じへん-ひなんじょ-あと)
鍛冶屋町5-74(長崎村高野平郷/旧今籠町)【大光寺境内】
文化5年(1808)8月イギリス軍艦フェートン号が長崎港へ不法入港したフェートン号事件がありましたが、同年11月からは大光寺を浜手町の内、本籠町、船大工町、西浜町、銅座跡居住者の避難所に指定されます。




B-112:浄土真宗本願寺派大谷山大光寺(おおたにざん-だいこうじ)
鍛冶屋町5-74(長崎村高野平郷/旧今籠町)
佐賀の大名:龍造寺家の一族とされる三浦彌助は、江戸時代初め、野母崎の高浜村を支配していました。のち、思うところあって京都の本願寺を参詣し僧となり慶了と称し伊良林に庵を構えます。慶長19年(1614)中紺屋町(現在の?原橋南側)に一寺を建立。正覚寺:道智、光永寺:慶西、大音寺:傳譽、晧台寺:泰雲と共にキリシタンの改宗に努めます。慶安2年(1649)2代住持:西詠は本山の西本願寺に奉仕したため御坊の格式を与えられ、西詠は長崎真宗一派の長となります。万治3年(1660)西詠は現在地に移転。延享3年(1746)第3代住持:慶栄のとき訳あって随專寺、長專寺の寺号を用いることとなり、天明5年(1785)大光寺に復します。幕末、浦上で多くのキリシタンが捕えられたのを受け仏教の教化に努めることになり、本山からも激励を受けています。明治7年(1874)佐賀の乱の警戒によって大光寺は新政府軍の駐屯地となり、西南戦争では軍隊の指定宿舎に指定され、明治12年(1879)まで官軍の参謀などが滞在していました。




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