広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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B-178:旧 鍛冶屋町(きゅう-かじやまち)
現 万屋町(万橋から東側の通り)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり古川町。そしてその南側に榎津町が形成します。榎津町の外側はもう市街地の郊外にあたり、火を使う鍛冶屋が立ち並ぶようになります。これが鍛冶屋町の誕生です。この鍛冶屋町は現在の鍛冶屋町ではなく江戸時代の初め頃に使われた町名です。




B-177:高麗町(こうらい-まち)
現 万屋町、鍛冶屋町(榎津町通り東寄り)
長崎の町建がまだ始まる前(16世紀末期)、長崎の市街地のはずれにあたる榎津町の東側に、秀吉の朝鮮出兵後、日本に連れて来られた朝鮮高麗の人たちを住まわせていました。当初はそこを高麗町と呼んでいました。しばらくして市街地の拡大に伴いさらに郊外へ高麗の人を移転させます。移転先は中島川の上流の伊勢宮付近で、新高麗町と呼ばれるようになります。その後、延宝8年(1680)伊勢宮にちなみ伊勢町に改称。現在は橋の名前にのみ高麗の文字を見ることができます。




B-176:榎津小学校跡(えのきづ-しょうがっこうあと)
万屋町(旧 榎津町)
明治5年(1872)学制発布にともない翌6年(1873)、長崎の中心部に3つの小学校が開かれます。第一番向明小学校、第二番啓蒙小学校、第三番楓川小学校の3校です。このうち第二番啓蒙小学校は翌7年(1874)舊川(フルカワ)小学校と改称。明治8年(1875)榎津町に移し榎津小学校と改称します。さらに明治19年(1886)磨屋町に移転させ鶴鳴小学校と改称、のち尋常鶴鳴小学校へ。明治26年(1893)小学校の統廃合と男女を分けを行い鶴鳴小学校を長崎尋常女児小学校とします。大正年間、長崎尋常女児小学校は磨屋尋常小学校となり第二次大戦後、磨屋小学校となります。しかし平成9年(1997)の新興善、勝山、磨屋三校統廃合によって幕を閉じ諏訪小学校として再出発します。




B-175:柴田方庵住居跡(しばたほうあん-じゅうきょあと)
万屋町(旧 榎津町)
柴田方庵(寛政12:1800-安政3:1856)は常陸国水戸の出身で、名を海、字を谷王、号を方庵といいます。若くして江戸に出て朝川善庵を師事して儒学や医学を学びます。天保2年(1832)長崎入りしシーボルトの門下である戸塚静海や伊藤玄朴らと交流し、嘉永2年(1849)蘭医などから種痘法を学び、吉雄圭斎とも関係があります。その後、水戸に戻るため長崎を出ますが、途中、大坂や京都で種痘を施し治療を行い、水戸では藩主より褒美を受けています。再び長崎で医業をはじめますが病にて倒れます。墓所:禅林寺後山。




B-174:清風亭跡(せいふうていあと)
万屋町-10,11(旧 榎津町)
土佐藩士だった坂本龍馬は文久2年(1862)に脱藩し、その後、幕臣の勝海舟と出会い勝海舟が進める海軍塾の塾頭となります。元治元年(1864)神戸海軍操錬所へ進み、慶応元年(1865)長崎入りし航海術を活かした商社「亀山社中」を鹿児島藩の援助で設立。慶応3年(1867)1月中旬に清風亭で土佐藩参政の後藤象二郎と会談し、同年4月、亀山社中は土佐藩より援助を得るようになり海援隊と改称します。慶応3年(1867)後藤象二郎に提案した「船中八策」は、後の第15代将軍徳川慶喜に送られる建白書に取り入れられました。この清風亭には12畳と8畳の部屋があって長崎における土佐藩御用達の料理店ともいわれています。




B-173:栄之喜座跡(えのきざ-あと)
万屋町6-38(旧 榎津町)
栄之喜座は明治初年に置かれた賃貸寄席が始まりで明治36年(1903)に改装して劇場となります。こけら落としには大坂歌舞伎の市川荒五郎一座が駆けつけています。昭和5年(1930)映画館となり中座と改称。第二次大戦中に閉館します。

〇あざみ湯
浜町界隈には中座の隣のあざみ湯と、かます横丁に浜の湯がありました。




B-172:榎津町(えのきづ-まち)
現 万屋町、鍛冶屋町(賑橋から東側の通り)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町から旧古川町が形成していきます。そしてその旧古川町の広がりの一部に福岡県筑後地方の人たちが海路長崎入りし一つの町を開き、特に榎津(現在の大川市役所付近)出身者が多かったことから榎津町となるのです。しかし昭和41年(1966)町界町名変更によって万屋町、鍛冶屋町に分割され消滅、今ではくんちの踊町のみ見ることができます。




B-171:中西啓住居跡(なかにしあきら-じゅうきょあと)
古川町6-27(旧 本古川町)
中西啓(大正12:1923-平成14:2002)は父の後を継ぐため長崎大学医学部へ入り同大学の付属病院へ進み医者として活躍した人物で、日本医師学会理事をも務める一方で西洋医学蘭学の研究にも熱心で多くの出版物を世に送ります。さらには向井去来の研究にも長け、自ら「萩置」という俳号を持ち高濱虚子系の俳誌「太白」の主宰および編集も行います。後年、長崎俳人会会長となり俳句の普及と育成に尽力します。そして長崎学の第一線で活躍し長崎中国交流史協会長も務めました。




B-170:池原日南(香穉)宅跡(いけはら-にちなん/かわか)
古川町(旧 本古川町)
池原日南(天保元:1830-明治17:1884)は江戸末期から明治にかけて活躍した国学者で、本名は池原?(しゅん)、諱は香穉、号を日南、字を九萬といいます。若くして父を失い大阪に出て勉学に励み吉田松陰などの影響を受け勤皇家でもありました。26歳で帰崎、本古川町で眼科医を営み(所在不明)、合わせて自宅で学問も教えます。さらに本木昌造の活版印刷を支え、活版印刷の文字を池原日南が書いています。そして国学や和歌にも長け宮内庁御用係としても奉仕しています。墓所:禅林寺後山。東京青山霊園。




B-169:鋳物師:萩原祐佐(いもじ-はぎわらゆうざ)
古川町(旧 本古川町)
江戸時代初め、本古川町鹿解川のほとりに鋳物師の萩原祐佐が住んでいました。寛文9年(1669)第6代長崎奉行竹中采女正重興の命令で真鍮(シンチュウ)製の踏絵板20枚を鋳造。これを使って長崎奉行竹中采女正は踏絵の制度を設け、キリシタン弾圧を強化します。しかしこの時、踏絵の出来栄えがあまりにも美しかったため萩原祐佐はキリシタンと疑われ、後に処刑される運命となります。なお、長与善郎の名著「青銅の基督」はこの萩原祐佐がモデルとされています。
※萩原という姓もしくは荻原という説もあります。




B-168:料亭萬年喜跡(りょうてい-まねきあと)
古川町6-15(旧 本古川町)
昭和始め頃からこの地に料亭萬年喜がありました。萬年喜は通りの反対側にあった鈴木天眼宅に度々訪れていた西郷四郎が足を運んだ店でもありました。昭和45年(1970)頃、廃業します。




B-167:料亭米春跡(りょうてい-よねはるあと)
万屋町6-16付近(旧 本古川町)
font color="#ff0000" size="3">料亭米春は昭和21年(1946)当時、フロリダダンスホール経営していた寺田實氏が第二次大戦後まもない日本には娯楽場が必要という思いから開業した料亭で、名前は日米親善の思いを込め米国からの「」の字と、“日(日本)”が隠れている様子の「」の字を取って米春としたそうです。料亭米春は昭和50年(1975)頃、廃業。なお、寺田實氏は第二次大戦後から平成初年まで東小島にあった旧高島秋帆旧宅を買い受け庭園を保存整備していました。




B-166:料亭菊本跡(りょうてい-きくもとあと)
万屋町6-11付近(旧 本古川町)
料亭菊本は昭和8年(1933)丸山で芸妓置屋:菊の屋を経営していた杉本わかが「」の字と「」の字をとって開業した料亭で、当時は芥川龍之介の河童の屏風で有名でした。それは大正11年(1922)芥川龍之介の2度目の来崎のとき、まだ芸妓だった杉本わか(照菊)に描き与えたもので、屏風は永見徳太郎邸「銀の間」にあったものでした。屏風には河童の絵と「橋の上ゆ 胡瓜なぐれば水ひびき すなはち見ゆる河童の頭」と一首が書き添えてあります。料亭菊本は昭和42年(1967)廃業。屏風はそのとき市博物館に寄贈されます。杉本ワカ墓所:正覚寺墓域。




B-165:孫文先生故縁の地(そんぶんせんせい-こえんのち)
万屋町6-33(旧 本古川町)
19世紀末期、中国(清国)では皇帝の後継者争いが始まり、民衆の中からは義和団という宗教結社が誕生、政治不安定の中、西欧の国々が次々と中国を植民地化していきます。一方、義和団は外国人排斥やキリスト教撲滅をスローガンに外国人を襲撃します(1899〜:義和団事件)。その頃、日本で政治家:孫文が中国革命同盟会を結成(1905)、中国(清国)では革命派の軍隊が反乱、辛亥革命(1911)となります。翌1912年(大正元年)中華民国が成立すると、孫文が臨時大総統に就任しますが、孫文は1913年(大正2)に追われ日本に亡命します。その後も中国は混乱、時代は大正昭和初期と流れ戦争に突入します。
そしてその孫文東洋日之出新聞鈴木天眼は支援し、孫文来崎時はこの地を訪ねていたといいます。特に鈴木天眼宅の前での集合写真は有名です。ちなみに油屋町に「孫文先生故縁の地」の碑は東洋日之出新聞新聞社倉庫があった場所です。




B-164:東洋日之出新聞社跡(とうようひのでしんぶんしゃあと)
万屋町6-33(旧 本古川町)
東洋日之出新聞鈴木天眼が明治35年(1902)に始めた新聞ですが、有名な話にポーツマス条約の支持があります。ポーツマス条約とは日露戦争(明治37-8年:1904-5)終結後に結ばれた日本とロシアとの条約で@日本の朝鮮半島における優越権を認めるA賠償金要求の放棄。などがあり、賠償金の放棄は日本中で反対運動が起こり、全国の新聞は一斉に条約の反対を唱えます。一方で東洋日之出新聞は条約支持を主張「勇気ある少数意見」として新聞史上に残っています。条約は締結され朝鮮半島の優越権で韓国併合へとつながります。




B-163:鈴木天眼住居跡(すずきてんがん-じゅうきょあと)
万屋町6-33(旧 本古川町)
鈴木天眼(明治元:1867-昭和元:1926)は福島県出身で本名を力といい、明治26年(1893)東京で発刊した「二六新報」の主筆となります。その後、長崎入りしこの地に住むようになり、明治31年(1898)九州日之出新聞を創刊、続いて明治35年(1902)東洋日之出新聞を創刊します。新聞は昭和9年(1934)まで続き、ここには宮崎滔夫や西郷四郎などが出入していました。




B-162:本古川町稲荷神社(もとふるかわまち-いなりじんじゃ)
万屋町6(旧 本古川町)【本古川町事務所】
本古川町稲荷神社は本古川町の鎮守で天保12年(1841)稲荷神をお祀りしたことに始まり、名称は祐徳稲荷、寶永稲荷、玉姫稲荷の三神からなります。社殿は道路拡張によって社域が狭められたとき建て直されたもので、1階をくんちの演し物である御座船の船蔵、2階を事務所を兼ねた社殿に改築されました。また、2階正面にある額「降福」は唐僧によるものと伝えられています。




B-161:サン・アウグスチン教会跡(San Agustin)
万屋町5(旧 本古川町)
キリシタン全盛期の慶長17年(1612)キリスト教の一派であるアウグスチノ会のベルナルド・アヤラ神父が同会の本部としてこの地にサン・アウグスチン教会を創立します。しかし、慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。敷地は中島川の常盤橋から旧第一勧銀付近までの広大なものでした。




B-160:西古川町相撲(にし-ふるかわまちとすもう)
中島川沿いの賑橋から魚市橋までの通りを以前まで西古川町といい、昔から相撲と縁が深く初代横綱:明石志賀之助の流れを受け継ぐ相撲取りが住んでいたといいます。江戸時代、横綱になるには肥後熊本の吉田司家の許しが必要で東京や大坂などから必ず吉田司家に詣でていました。そしてその帰りに長崎に立ち寄り長崎巡業を開催するのです。その際、西古川町の長老が肥前国興行の頭取に任命され取り仕切り行い、様々な世話をしていました。この時は西古川町には木戸御免の札が贈って来ていたといいます。ちなみに東(江戸など)の力士は西古川町に、上方(京や大坂など)の力士は万屋町や大黒町に滞在していました。西古川町のくんちの傘鉾に軍配などが飾られてるのはこういった由縁からです。




B-159:田中田士英旧居跡(たなか-でんしえい)
東古川町3-8(旧 古川町)
田中田士英(明治8:1875-昭和18:1943)は本名を英二といい、若い時から俳句を始め多くの作品を世に送り、「カクツチ」や「太白」などの俳誌を発行。さらに大正4年(1915)明治期以降で長崎初の句集といわれている句集「ナガサキ」を発行しました。この田士英は始め田中という姓ではなく大光寺から田中政平氏の養子になった方で、性格は大変まじめで36年間、小島小学校の教師として務められました。また、田士英という号は出身が士族ということもあって田中の「」と英二の「」とに「」を入れ込んで作ったということです。
主な句は「朱欒(ザボン)につるべおとしの日がしばし」「夕凪や行ったり来たり撒水車」など。




B-158:古田ラムネ店(ふるた-ラムネてん)
東古川町1-7(旧 古川町5-19)
古田勝吉商店は現在、ジュースなど飲料水の卸売店ですが、ここは九州で初めてラムネを販売した商店でした。ラムネは江戸末期の横浜で来日していた外国人によって飲まれていたのが始まりで、明治維新後、急速に日本各地に広まります。長崎では明治10年(1877)古田勝次がドイツ人から製法を学び、大浦の居留地で古田ラムネ店を開いたのが始まりでした。大正8年(1919)古川町に移転となります。当時はガラス玉ではなくコルクが使われ、このコルクをはずすとポンと音を立てるところからポン水ともいわれていました。また、開業した古田勝次はこれからの時代、世界の人々は手を握ってラムネを飲んで欲しいところからお手引ラムネと称し商標は握手した図案になっています。




B-157:よごれ古川町(よごれ-ふるかわまち)
昭和の始め頃まで東古川町通りを俗称でよごれ古川町と呼んでいました。これには色々な説がありますが、いわゆる“よごれ菓子”といわれた駄菓子屋が多かったとか、ヨーゴレという外国人が住んでいたなど様々です。理屈的には中島川には各町の通り対して橋が架かっていますが、この東古川町だけは橋がなく東側の鍛冶屋町の鍛冶屋からの煙が町内に流れて来ても、川の方に流れず町内に煙がたまるからよごれているという理由です。現在では中島川河川改修によって川沿いの家はなくなってしまいましたが、当時を物語る名称でした。




B-156:東古川町天満宮(ひがしふるかわまち-てんまんぐう)
東古川町3-20(旧 古川町7-31)
東古川町天満宮の創建は不明ですが、境内にある鳥居に刻されている「寛永十八年(1641)」からその創建は江戸時代初期と考えられています。また、この鳥居は肥前鳥居といって肥前国特有の形をしていて長崎市の有形文化財に指定されています。また、鳥居には「川添町・東古川町」と刻され、江戸時代初期の町名の存在を知ることができます。なお、「東」の文字はのちに刻されています。




B-155:本古川町/東古川町/西古川町(もと-ふるかわまち/ひがし-/にし-)
川添町から歌舞伎町、新歌舞伎町と開かれ、後に古川町となりますが、寛文12年(1672)寛文の大改革により均等に町建てが行われます。現在の鍛冶屋町から常盤橋までの通り(旧勧銀の通り)を本古川町、中通りに入り一つ目の通りが東古川町、中島川沿いの賑橋から諏訪町までの通りを西古川町と改称します。しかし、昭和41年(1966)町界町名変更によりほとんどが古川町と呼ばれるようになり、さらに昭和57年(1982)長崎水害により中島川の河川改修が行われると西古川町の川沿いの地域は公園化され消滅します。東古川町のみ平成19年(2007)に復活します。




B-154:旧 古川町(きゅう-ふるかわまち)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町と広がっていきますが、きちんとした区画のないまま拡大したため統制されることになります。そして、戸町村字古河(フルコ:現古河町)の住人が大半を占めるこの界隈は、古河から文字を取り古川町(古河町)と改められることになります。この古川町は現在の古川町ではなく江戸時代初めから寛文12年(1672)まで使われた名称です。




B-153:歌舞伎町/新歌舞伎町(かぶきまち/しん-)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり川添町が生まれますが、そこには歓楽街的な商売が自然発生的に生まれ、芝居小屋が建てられ芝居や歌舞伎などが行われます。当時はまだ娯楽などは引け目を持った商売で、芝居や歌舞伎などは下級の遊びと取られていて対岸に造られているのです。しばらくして川添町は歌舞伎町と呼ばれ、東側に拡大し新歌舞伎町が生まれます。これは江戸時代の初め頃のことです。




B-152:川添町/川添橋(かわぞえまち/ばし)
長崎開港後、中島川は大川と呼ばれ現在よりはるかに川幅が広く、古川町付近は大川と鹿解川の中洲のようになっていました。しかし、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がると同じく対岸の中洲にも人が住むようになり、川添いの町ということで川添町が生まれます。東古川町天満宮の鳥居には「川添町 寛永18年」の文字が刻され、寛永18年(1641)には川添町が存在したことになります。さらに、東古川町通りの鹿解川に架かる橋を川添橋といいます。




高野岩三郎(明治4:1871-昭和24:1949)は高野房太郎の弟で帝国大学法科大学卒業後ドイツ留学、その後、東京大学統計学教授となり法科から経済学部を独立させます。さらに大原社会問題研究所(労働関係の図書館)を設立し所長となります。第二次大戦後は日本社会党の設立に参加。昭和21年(1946)NHK会長に就任。NHK文化研究所を設立します。




B-151:高野房太郎生誕の地(たかのふさたろう-せいたんのち)
銀屋町(旧 古川町)
高野房太郎(明治元:1869-明治37:1904)は日本の労働組合の父と呼ばれる人物で銀屋町の出身でした。父は代々和服の仕立て職人でしたが明治に入り需要が減少、明治10年(1877年)家族で上京します。父は浅草で旅館:長崎屋を経営し、房太郎は働きながら横浜商業夜学校に通い、15歳のとき青少年の勉強会(図書など共同購入する組織):横浜講学会を結成します。17歳で渡米、働きながら英会話など学び、その後、日本雑貨店を経営します。このころ現地の労働運動などを経験。さらにサンフランシスコ商業学校入学。明治24年(1891)職工義友会を現地の日本人らと創立。卒業後、25歳のときニューヨークに移り、ここでも様々な労働組合などを学び、明治27年(1894)アメリカ総同盟のリーダーとして帰国。明治30年(1897)東京で労働組合期成会を創立。その後、委員として各地を回り労働者を支持します。明治33年(1900)中国に渡るも病死。墓所:本郷駒込吉祥寺




B-150:銀屋町稲荷神社(ぎんやまち-いなりじんじゃ)
銀屋町5-3(旧 鍛冶屋町4)
銀屋町稲荷神社は天保6年(1835)に創建した銀屋町の氏神様で、当初は五社神をお祀りしていました。明治維新を受け長崎奉行所立山役所が廃されると役所庭園にお祀りされていた稲荷神社4体は処分されることになり、4体は希望者に分けられ矢の平稲荷神社小曽根邸内などに移されます。そしてこの銀屋町にも1体移され、以降、銀屋町稲荷神社となり現在に至ります。社殿は平成7年(1995)建て替えられ自治会館に生まれ変わり、くんちの出し物(鯱太鼓)の保管庫などにも使われ、社殿は3階に設置されています。なお、神社前の橋を稲荷橋といいます。




B-149:古賀十二郎仮寓の地(こがじゅうじろう-かぐうのち)
銀屋町(旧 古川町)
古賀十二郎(明治12:1879-昭和29:1954)は長崎市五島町の黒田藩御用達の商家:萬屋に生れ、十二郎が12代目で明治12年生まれということもあって十二郎と命名されたともいいます。長崎市立商業学校から東京外国語学校へ、広島で3年間英語教師となりますが帰崎。長崎では長崎史談会を創設、長崎における歴史の基礎を築きます。大正8年(1919)長崎市史編纂の参与編纂主任として招かれ、いわゆる「長崎学」の基礎を引くのです。明治45年(1912)の長崎県立図書館創設に尽力、特に洋書収集ではオランダとの交渉役となり、その功績から大正9年(1920)オランダからナツソウ勲章が贈られます。大正時代、師は銀屋町に一時的に滞在していました。




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