広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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中国貿易についてE
一般に唐人とは中国人のことを表しますが、当時の意味合いでいえば東洋人全般を表す言葉で、地域は中国からベトナム(アンナン)、タイ(シャム)なども含まれいました。一方、来航する船は出発地によって分類され、長崎に近い南京や蘇州、杭州地方の船を口船(クチブネ)、福州、泉州、アモイ方面を中奥船(ナカオクブネ)、ベトナムやタイ方面からの船を奥船(オクブネ)と呼び、江戸時代初めは口船がよく来航し、その後、中国:明の混乱のため渡航禁止となり奥船が中心となります。そして中国:清が安定しだした貞享3年(1686)頃から中国貿易のピークを迎えます。




中国貿易についてD
市法売買法により輸入総額が増大し金銀が流出が加速。幕府は貞享2年(1685)年間貿易額を制限する定高貿易法(貞享法)を始めます。貿易量に達した時点で取引は終了となり、その後に入港した船は追い返されるのです。追い返された船は元禄元年(1688)には77隻にも達し、これが後の密貿易の温床となるのです。正徳5年(1715)新井白石は金銀銅の流出抑制のため正徳新令を発布。物価高騰や密貿易の防止のため、長崎の貿易改革が行われ貿易額の縮小が行われます。これにより貿易額、入港数を制限し、金銀銅の代わりに俵物を送るようにし、中国船には信牌(シンパイ)といって貿易の許可書を発行し密貿易を防止します。これは幕末まで採用され、逆にこのシステムが長崎港の衰退につながるのです。




中国貿易についてC
寛文12年(1672)金銀の流失を防ぐため幕府は市会所を設け長崎奉行の下、価格が決定されることになります。これを市法売買法といいます。これは各地の商人の中から目利役(鑑定役の意)を出し輸入品を鑑定した上、価格を市会所に提出。一番低い価格を採用してオランダや中国側に提示し同意すれば取引成立で、ここで初めて輸入品が荷揚げされます。次に市会所は目利役が提示した金額の最高額を出した商人へ輸入品を売却し、そして差額が利潤となり、各地の商人(全国で約6700人)に買高に応じて配分していました。このシステムが採用されたためオランダや中国側の売上額減少、オランダや中国はその穴埋めのため輸入量を増やし、反対に輸入総額が増加する結果となります。




中国貿易についてB
中国貿易は初め、貿易額や唐船の入港数などに制限がない自由貿易が行われていました。そのため長崎人の中には巨額の富を得ていた者がいた反面、江戸幕府は輸入超過をきたし金や銀の流失を招く事態となります。慶安4年(1651)から宝永5年(1708)の46年間に1億1000万斤(66000t)の金が海外に放出します。
慶長9年(1604)から始まった糸割符貿易(2003-06/07参照)ですが、物価高を招き明暦元年(1655)江戸初期のように相対(アイタイ)貿易に変更されます。しかし、オランダや中国側から勝手に金額が決められてしまいさらなる物価高を招き金銀の流出が激しくなります。




唐人屋敷での暮らし
元禄2年(1689)唐人屋敷の完成を受け、唐人(中国人)もオランダ人と同じように隔離・収容されます。周囲を堀で囲み厳重な監視の下、窮屈な生活を余儀なくされます。しかしそうした中、その相手をしたのが丸山遊女で「唐人行き」と呼ばれるのです。正徳3年(1713)には長崎奉行所によって遊女や禿、遣手などに探番(サグリバン)を置き、唐人屋敷入口での取締りを強化。唐人からの贈り物などを厳しく検査します。それでも「唐人行き」は最盛期の享保17年(1732)には1年間に延べ24,644人に上ります。このほか唐人屋敷の中では中国郷土の風習から蛇踊(龍踊)が演じられたり、彩舟流しといって精霊流しの原型となる行事が行われます。そうした中、長崎人は唐人に限りない尊敬をし先進国の中国にすべてを模範し教えをこうむります。蛇踊ペーロン卓袱料理精霊流しなど、今なおその文化は長崎人に息づいています。




中国貿易についてA
寛永12年(1635)以降、唐船の入港は長崎港のみとなり、長崎では主に差宿制度が主流となり、唐船主によって指名することが出来なかったり漂着した者などに対しては、日本側から宿屋を斡旋する宿町(ヤドマチ)という制度が寛永18年(1641)に生まれます。さらに、承応2年(1653)宿町を補佐する付町(ツキマチ)が作られ、消防や人夫の斡旋などを行います。その後、この制度は財力の差を生み出すことから口銭銀の限度額を定めたり、宿主らの取り分を抑えるなど制度改革が行われます。そうした中、寛文3年(1663)長崎は大火によってほとんどの町が焼失。長崎の再興は町域の平均化や口銭銀の各町平均化を進め、ようやく市民総参加型貿易が完成するのです。この制度は元禄2年(1688)の唐人屋敷設置以降も続き、宿主らは役人の仕事であった唐人の監視や管理まで行うこととなり、その仕事に対する給付金(市中配分銀)まで支払われるようになります。なお、この制度は安政の開国まで続きます。




中国貿易について@
寛永12年(1635)第3次鎖国令によって九州各地に来航していた唐船は長崎港に限定され、長崎の町は大変賑やかな町となります。当時、唐船に対して特に検査や税などはなく自由相対貿易が行われ、町中に自由に宿泊し貿易品を売りさばいていました。これを船宿(フナヤド)といいます。これら多くは行商を行っていて、中には日本人の妻をもらい屋敷を構える唐人もいたといいます。輸入品は薬や砂糖、織物、陶磁器などが中心で、長崎人はその仲介料(口銭銀)を取り、その率は輸入品売り上げの1割に上りました。このため唐船入港時は競って唐人を迎え入れるなど弊害も多く、後に唐人が指名する差宿(サシヤド)という制度が作られます。




ちゃんぽん発祥の地:四海楼跡(しかいろう-あと)
籠町6-1(旧 広馬場町)
福建省福州出身の陳平順(明治6:1873-昭和14:1939)は明治25年(1892)来崎。行商をして資金を貯め、明治32年(1899)中国人居留地であった広馬場町に中華料理店の四海楼を開業します。当時、陳は中国からの留学生の食生活の悪さに憂い、安価で栄養の取れるメニューの「ちゃんぽん」を考案。これが後に中華街全域に広まり、さらに長崎の代表的な食べ物になります。なお、店舗は昭和48年(1973)松が枝町に移転します。




居留地境の碑(きょりゅうちざかいのひ)
籠町2-32付近(旧 本籠町-旧 広馬場町境界)【森米穀店横】
唐人屋敷に入れられていた中国人は、江戸時代末期の開国によって開放されることになり、新地と広馬場などを中国人居留地と定め唐人屋敷から移り住むことが許されます。この居留地境の碑はそのときの境界を意味し広馬場町と本籠町の境界で、館内町東部自治会あじさい婦人会によって昭和46年(1971)に復元されました。この居留地制度ですが、幕末から明治32年(1899)まで続き、このときほとんどの中国人が新地に移住したところから、居留地制度が今の新地中華街の形成の発端といえるでしょう。




C-176:広馬場(ひろばば)
現 籠町、十人町、梅香崎町(旧広馬場町)
長崎開港前、今の湊公園付近は十善寺浜と呼ばれ、元禄2年(1689)唐人屋敷完成以降は、唐人屋敷前波止場となり、波止場番所、唐人糧米精所、矢来門番所、制札場などが置かれ、矢来で囲まれた広場でした。主に唐船の出入港時の儀式や奉行所の検査などが行われる広場として使われ、享和2年(1802)の地図を見ると、石火矢台(砲台)が置かれる重要な場所となり、その後、行商人などが集まり出し賑わいが生まれ、広馬場と呼ばれるようになります。明治以降は人家や商家が建つようになります。当初は長崎村十善寺郷に属し、明治22年(1889)から長崎市に編入し広馬場町となります。昭和48年(1973)町界町名変更により籠町や十人町、梅香崎町などに分断され消滅。しかし今でも商店街や自治会組織などは広馬場の名称が使われています。




十善会病院(じゅうぜんかい-びょういん)
籠町7-18(旧広馬場町)
江戸時代、柳川藩の御典医(お抱え医師)だった木文章は、明治8年(1875)中新町に木医院を開設。十善寺地区の病院として出発します。昭和2年(1827)本籠町に移転。昭和13年(1938)廃止された広東会所に移ります。昭和33年(1958)十善会病院と改称。長崎中心地区の拠点病院として広く市民に利用されています。




C-175:広東会所跡(かんとん-かいしょ-あと)
籠町7-18(旧広馬場町)【十善会病院】
広東会所は文久2年(清同治元年/1862)に中国広東省出身者らが同郷の交流の場として建設したもので、当初は嶺南会所といい、現在の唐人屋敷の入口付近にありました。その後、名称を広東会所に改称。大正4年(民国紀元4年/1915)広馬場町、現在の十善会病院のところへ移転します。しかし、日中戦争が始まった昭和13年(1938)頃に閉鎖され、当時から広東省の人々と交流のあった十善会病院の木氏に譲渡されます。
重建広東会所碑記(じゅうけん-かんとんかいしょ-ひき)【聖福寺境内】
重建広東会所碑記広東会所について記した碑で、広東会所の経緯や改修などのことが刻されていて大正4年(民国紀元4年/1915)に建立されたものです。現在、筑後町聖福寺境内にあって、閉鎖された後に移設されたものと考えられます。




C-174:福建会館(ふっけんかいかん)
館内町11-4(十善寺郷字館内)
明治元年(1868)福建省出身者が八閩(パービン)会所として同郷の交流の場を建設し(現 館内公園)、合わせて会所内に天后堂を建設します。その後、八閩会所福建会館と改称し、これを機会に天后堂も新築します(現 福建会館)。当時、天后堂の祭事には福済寺の僧侶を招き儀式を行うのですが、その儀式のひとつに廻拝というものがありました。廻拝は館内にある観音堂、天后堂、土神堂を巡拝するもので、参同する中国人は祭事の特別な衣装をまとい各お堂を僧侶の後に従い廻ります。各お堂では拝礼の後に爆竹や金銀紙銭などを焼献していました。しかし、そういった祭事は次第に衰退し昭和の初め頃にはなくなり、また、昭和20年(1945)の原爆の爆風で福建会館(現 館内公園)は倒壊し姿を消します。このほか福建会館では福建地方出身者らが、祭、儀式、集会、宴会などを行っていたといいます。なお、八閩(パービン)の(ピン,ビン)は古代福建省一帯の国の名称でした。B-40:2004/07/30参照。
福建会館重修石碑(ふっけんかいかん-じゅうしゅうせきひ)【福建会館内】
福建会館重修石碑福建会館の建てられた経緯や、その後に改修されたことなど各寄付者の名前や屋号などが詳しく刻されています。




尋常十善寺小学校跡
(じんじょう‐じゅうぜんじ-しょうがっこう-あと)
館内町内(所在不明)
明治10年(1877)頃、十善寺郷の教育機関として尋常十善寺小学校が設けられます。明治22年(1889)下長崎村管轄から長崎市管轄となり昭和26年(1893)市内小学校の統廃合によって廃校となります。
真宗大谷派長崎教務所跡【緑ヶ丘保育所】
(しんしゅう‐おおたには-ながさききょうむしょ-あと)
真宗大谷派(本山:東本願寺)は全国を30の教区に分け、本山からの連絡事務所的役割を持つ教務所が置かれています。長崎教区は長崎県下を統括しその中心が長崎教務所です。
唐人屋敷は明治維新を受け廃されると多くの移住者が入り、その移住者の大半が真宗信徒で、当時、付近に真宗寺院がなかったため大谷派の僧:荒木圓陵が明治9年(1876)館内町の観音堂横に説教場を設けます。明治27年(1894)大谷派教務所となり、昭和初期、西坂町(現 西坂公園)に移転。しかし昭和20年(1945)原爆による火災によって焼失し、後に筑後町に移ります。D-299:2008-1/5参照
緑ヶ丘保育所(みどりがおか-ほいくしょ)
館内町5(十善寺郷字館内)
昭和24年(1949)長崎市立保育所条例の制定で緑ヶ丘、立神、戸町の保育所が開設されます。長崎初の保育所です。




C-173:観音堂(かんのんどう)
館内町5(十善寺郷字館内)
観音堂は別名を館内観音堂といい創立年代は定かではありませんが、瓢箪池(お堂脇の泉のこと)の奥の石に「元文二年(1737)」と刻されているところからこの年が創建と考えられています。その後、天明4年(1784)の大火で一度焼失し、天明7年(1787)に再建。当時は約19坪(約63平方メートル)の規模でしたが、その後、数度の改修が行われるものの唐人らの信仰も次第に衰退し大正時代には約6坪(約20平方メートル)のお堂になっていました。大正6年(1917)老朽化のため長崎在住の中国商人らにより改築工事が行われ、今に至ります。なお、堂内には観世音菩薩像関帝像が安置され、基壇には「合端合せ」の技法が見られ、沖縄的な要素も伺えます。市指定史跡。
観音堂石門(かんのんどう-いしもん)【観音堂境内】
観音堂の入口には唐人屋敷時代から使われている石造り半円形の石門が残っています。上部には「荘嚴rn」、左柱には「法雲永蔭」、右柱には「慧日常懸」と刻した聯題があります。




C-172:皇太神宮(こうたいじんぐう)
館内町18(十善寺郷字館内)
皇太神宮は明治期以降、館内の豪商:森伊三次によって建立されたもので、鳥居の奉納年の明治19年(1886)から明治始め頃の創建と考えられます。皇太神宮伊勢神宮(内宮)にお祀りされている天照大神をお祀りするもので、当時、明治政府は伊勢信仰を奨励していたこともあり、また、長崎は特に伊勢信仰が盛んだったことから、館内町にも皇太神宮がお祀りされたものと考えられられます。なお、社殿後にそびえる大楠は唐人屋敷があった頃からのものです。




C-171:豪商:森伊三次(もりいさじ)
森伊三次は明治時代の豪商で、唐人屋敷が廃された後、その敷地の大部分を購入し整備を行った人物です。現在、館内町の中心部に1棟の蔵がありますが、氏の蔵だといわれています。当時、廃されたばかりの唐人屋敷は江戸時代の名残で塀と堀に囲まれ、出入りは広馬場の表門しかありませんでした。そこで氏は明治25年(1892)館内と十人町とを結ぶ森橋、館内と中新町を結ぶ栄橋森伊橋を次々に架け、付近住民の往来を便利にします。このほか氏は浦上川を埋立てに尽力し広大な土地を拓き、自らの名前から里が茂る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれます。墓所:稲田町小田の原墓地




仁田川(にたがわ)
十人町と館内町の境目に一つの深い堀(溝)がありますが、これは江戸時代、唐人屋敷の堺をなしていた川(溝)でドンの山を源流とした通称:仁田川という流れです。館内からは広馬場通りの裏手を流れ、湊公園の下へ進みます(その先は不明)。ほとんどが住居の裏手を流れるため目にすることが難しいですが、仁田川の構造は長崎特有のいわゆる「えご端/江胡端(エゴ゙バタ)」で全面石張りとなっていて鹿解川(B-149:2004-12/13)のような構造となっています。参照:2005/07/18




旧唐人屋敷門跡(きゅう-とうじんやしき-もん-あと)
館内町18-3付近(十善寺郷字館内) 【天后堂前付近】
興福寺境内に国重要文化財の旧唐人屋敷門がありますが、この門はもともと天后堂前付近にあった人家の門でした。昭和35年(1960)多くの家屋が老朽化で解体されていた時代、この門だけは保存のため興福寺境内に移設されます。門の材料はすべて中国産で天明4年(1784)大火の後に建てられたものといわれています。なお、表示が「唐人屋敷門」とあるため唐人屋敷の入口の門と勘違いしている方が多いようですが、あくまでも唐人屋敷内の人家の門です。B-46:2004/08/07参照




重建碑(じゅうけんひ)【天后堂内】
重建碑は明治39年(1906)の改修工事を記念したもので、天后堂の創建から寛政2年(1792)の改修、さらには明治39年(1906)の改修工事に至る経緯などが記されていて、各寄付者の名前や屋号なども詳しく刻されています。また、寄付者は出身地毎に分けられていて、神戸2名、横浜17名、上海17名、大阪38名、長崎25名とあり、長崎の欄には現在でも営業されている屋号を見ることができます。




C-170:天后堂(てんこどう)
館内町18(十善寺郷字館内)
天后堂は別名を館内天后堂といい、江戸時代は關帝堂(関帝堂)とも呼ばれていました。創建は元文元年(1736)で唐人屋敷内の唐人(中国人)のうち南京地方の者が建立し、天后聖母像つまり媽姐像(2004-08/03参照)と関帝像、千里眼順風耳などの像を安置します。唐人らは航海安全と福運を祈願して信仰を盛んにし、寛政2年(1792)お堂の改修なども行います。しかし幕末には唐船の入港が減少。祭事も衰退し、さらに明治維新を受け唐人屋敷が廃されると老朽化が目立つようになります。明治39年(1906)在留中国人や上海在住で長崎に縁のある者、全国の華僑から資金を集め改修を行い、現在に至りますが、堂内の仏像などは第二次大戦時、すべて盗難に遭い失われてしまい、現在の仏像などはその後にお祀りされたものです。市指定史跡




館内市場(かんないいちば)
館内町15-1(十善寺郷字館内)
館内市場は昭和23年(1948)館内町公設市場として開設された市場で、十善寺地区の台所である中心的な施設です。
丸金湯(まるきんゆ)
館内町15-6(十善寺郷字館内)
丸金湯館内市場開設と同じ時期の昭和23年(1948)ごろに開業した銭湯で、屋号は創業者の山本金兵衛にちなみます。現在も営業中。




重修土地祀碑記(じゅうしゅう-どじしひ-き)【土神堂境内】
重修土地祀碑記は明治維新後に土神堂の改修を行ったことを記したもので、明治26年(1883)当時の清国(現 中国)の駐剳(駐在)長崎正理事府の張桐華が発起人となり改修したことと、明治38年(1905)在留中国人である欧陽仁、蕭炳華、葉書琳らが発起人となり改修したことが刻されています。また、碑文には建立年を中国の年号で記されていて「大清光緒19年」は明治26年(1883)、「光緒31年」は明治38年(1905)を意味します。




C-169:土神堂(どじん-どう)
館内町16-1(十善寺郷字館内)
元禄2年(1689)唐人屋敷完成当時、西南隅に1本の老木がありました。ある夜、福建省泉州から来た唐客(中国からの客人)が次のような夢を見ます。龍のような長い眉毛の老人が現われ「我は長年、老木の下に居たここの土神であるが、もし我をここに祀らなければ我も皆も福徳が授からない」とのお告げがありました。唐客は在留の唐人にこの夢のこと話し、老木の根元に線香を立て拝礼。日本の役人たちにも説明し老木の根元に祠を設けます。元禄3年(1690)唐客は夢で出会った老人を中国で彫刻してもらい、長崎奉行所の許しを得、改めてここの本尊とします。これが元禄3年(1690)土神堂の起源といわれています(一説には唐船の船頭たちの願いによって建立されたともいわれています)。
その後、財神や天后聖母を合わせてお祀りし、以降、福徳正神として中国人の崇敬を得、宝永4年(1707)からは長崎奉行の命で唐四箇寺が輪番で祭儀を行うこととなります。天明4年(1784)火災によりお堂は焼失。長崎会所からの借り入れによって再建。その後もたびたび改修が行われます。明治維新を受け唐人屋敷が廃されると土神堂の信仰も衰退し老朽化が目立つようになり、明治中ごろ、在留中国人によって改修されるも昭和20年(1945)の原爆の影響で大破。昭和25年(1950)解体され石殿だけが残ります。昭和52年(1977)お堂が再建。現在に至ります。なお、土神つまり福徳正神は土を司るため農業守護や土地鎮守の神ともいわれています。市指定史跡




C-168:館内町(かんないまち)
唐人屋敷は明治維新を受け廃され、住所を十善寺郷字館内となり、大正2年(1913)町界町名変更によって館内町となります。唐人屋敷は別名を唐館(トウカン)ともいい、唐館の内という意味で館内となります。そして、長崎のはやし歌では「めしは館内十善寺 とこピントコ小田ん原 祇園清水 高野平 肥やし担桶(タンゴ)のおきどころ そこまでいふて くだはんな」と歌われ、これは、館内十善寺地区が長崎の下町的地域だったことを表しています。




阿爹さん(あちゃ-さん)
以前まで(昭和40年代まで)長崎では唐人(中国人)のことを“阿爹さん(アチャサン)”と呼んでいました。この言葉は江戸時代から続く言葉で、当時は唐人も日本人に向かって“阿爹”と呼んでいたといいます。これは唐人が町宿(雑居)をしていた古い頃からの言い習わしのようで、主に漳州(チャクシュウ/ショウシュウ:福建省)が使っていた言葉といわれています。その漳州人はもともと自分より目上の人を“阿爹”と呼んでいて、それを長崎人が聞き慣れて唐人を尊敬して“阿爹さん”と呼び、いつしか“阿爹さん”が唐人の異称のように思い込まれてしまいます。さらに唐人もまた“阿爹”と言うのは人を呼ぶ日本語だと勘違いし、日本人唐人ともお互いに間違って広がったものといわれています。しかし、日清戦争後、この“阿爹”という言葉は友好的な言葉から差別的な言葉に変わり、中国と長崎の関係において残念な過去を残す結果となります。これからの時代、われわれ長崎人と中国人は江戸時代のようにますます友好的な関係になるよう努力することが大切です。なお、「講談社中日辞典」によると「阿爹」とは[お父さん,お父ちゃん]の意と書かれています。




C-167:唐人屋敷跡(とうじんやしき-あと)
館内町全域,籠町7,6(旧長崎村十善寺郷字館内)
江戸時代初め、中国人は自由に長崎市内に雑居することが出来ましたが、密貿易の増加で長崎の中心地から離れた場所を元禄元年(1688)に整備して、翌元禄2年(1689)唐人屋敷とし中国人を収容します。唐人屋敷は現在の館内町とほぼ同じ面積で、9376坪(30,940平方メートル)をほこり、中国人たちは当初、出島同様、監獄的意味合いに思っていました。約1万人が居住し域内には中国人が信仰する観音堂土神堂天后堂などが建てられ、ここでの行事は長崎市民に文化的、風俗的に様々な影響を与えます。しかし、明治維新を受け、唐人屋敷は廃止され、ほとんどの中国人が新地蔵所(現 新地町)などに移転するようになります。




C-166:御薬園跡(おやくえん-あと)
館内町付近(旧長崎村十善寺郷字館内)
この地にあった十禪寺は慶長年間(1596-1615)にキリシタンによって焼却され、教会が作られますが、教会には付属の薬草園が設けられます。しかし慶長19年(1614)の禁教令によって破却され姿を消し、その跡地は長崎代官の末次家(A-114:2003-9/17参照)によって薬園となり、オランダ船や唐船から持ち込まれた薬草を栽培する施設となります。当時、薬園は長崎のほか江戸、駿府、京都の3ヶ所に置かれていました。しかし、末次家は密貿易による不祥事で滅亡し、薬園は延宝8年(1680)から幕府経営の本格的薬園と変わります(8,700坪)。そしてこの地での薬園は元禄元年(1688)の唐人屋敷建設まで続き、この後は立山奉行所内に移転となり、享保5年(1720)一旦、十善寺郷(現十人町付近)に移転しますが、最終的には文化7年(1810)西山郷に置かれ、明治初年まで続きます。




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