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D-224:長崎県立美術博物館跡【長崎歴史文化博物館】 昭和29年(1954)当時の佐藤勝也副知事、田川努長崎市長、中部悦郎商工会議所会頭が発起人となり長崎国際文化センター建設の計画を発表。翌30年(1955)原爆投下10周年を記念し、5ヶ年計画で県立図書館、美術館、体育館、水族館、市公会堂などの建設を決定し長崎国際文化センター建設委員会を設立します。昭和40年(1965)一連の事業の締めくくりとして県立美術博物館が完成します。工費:1億8687万円。平成14年(2002)閉館し平成17年(2005)長崎歴史文化博物館としてスタートします。 〇長崎県立長崎図書館:同事業の一環として昭和35年(1960)完成。 〇知事公舎跡:昭和40年代に設置し平成14年(2002)まで使用されます。 |
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D-223:長崎県庁仮庁舎跡【長崎歴史文化博物館】 昭和20年(1945)8月9日。原爆投下後の自然発火により長崎県庁一帯は焼失し、その後、県庁機能は勝山国民学校(旧 勝山小学校)や県立長崎高等女学校内に移転し業務を続けていました。昭和22年(1947)立山に木造2階建の仮庁舎を設け業務を開始。昭和28年(1953)現在の県庁舎の完成まで使用されました。A−34:2003/06/14参照 |
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D-222:長崎県防空本部跡【長崎歴史文化博物館】 第二次大戦中の昭和17年(1942)長崎県警察部は防空学校を開校。昭和20年(1945)1月。長崎県は県の防空施策を行う司令部として長崎公園の下に巨大な地下構造物を建設し3月末に完成させます。ここには知事室や警察部長室、防空監視隊の本部が置かれ県の中枢機能がここに移されます。そして原爆投下時には刻々とすさまじい被爆情報などがここから国の防空総本部長官に送られ、救護などの応援を求めました。現在は、平成18年(2006)より被爆建造物「長崎県防空本部跡」として一部が公開されています。 |
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D-221:長崎区立長崎商業学校跡【長崎歴史文化博物館】 明治17年(1884)商業学校通則の交付で神戸、横浜、大坂などに商業学校が開校。当時の長崎県令の石田英吉は嘆き、急いで松田源五郎などの有力者に強力を求め、創立委員会を設立し、翌年市民からの寄附や貿易五厘金などを利用し明治18年(1885)大村町に長崎区立長崎商業学校が開校します。翌年には夜間学校である長崎商業徒弟学校も誕生し充実が図られます(20年袋町に移転/26年廃止) 明治19年(1886)県立長崎外国語学校と合併し県立長崎商業学校と改称。立山に移転します。 明治22年(1889)県会によって県立学校を廃止し、市に移管。長崎商業学校となります。 明治32年(1899)長崎村馬場郷伊良林に移転。明治34年(1901)市立長崎商業学校と改称。 大正14年(1925)長崎市立商業学校と改称。 昭和8年(1933)敷地拡大のため油木谷(現 油木町)に移転します。 昭和20年(1945)原爆の被害を受け一時、上長崎小学校を仮校舎として使用。 昭和23年(1948)学制改革により新制高校となり長崎市立長崎商業高校に改称。 昭和62年(1987)現在の泉町/長与町高田郷に移転、現在に至ります。B-9:2004/06/09 |
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D-220:長崎県立長崎中学校跡【長崎歴史文化博物館】 明治9年(1876)小学校卒業者が増え中学校設置が求められ県立準中学校が外浦町に開校。同年、生徒増加によって伊勢町の中島聖堂内に移転します。明治11年(1878)長崎英語学校の廃止を受け立山に移転し長崎中学校とし(のち県立)、明治17年(1884)文部省令によって県内の7つの中学校を廃して長崎県立長崎中学校が開校、校舎が新築されます。明治19年(1886)長崎県尋常中学校と改称。明治32年(1899)長崎県長崎中学校。明治34年(1901)長崎県立長崎中学校。明治41年(1908)福富町(現 幸町2,3)に移転。大正2年(1913)鳴滝に移転。昭和23年(1948)教育改革により長崎県立長崎中学校は長崎県立長崎高等女学校、長崎県立瓊浦中学校、長崎市立高等女学校と統廃合され、長崎県立東高等学校と西高等学校の2校に編成、鳴滝の校舎は西山の東高へ移転します。A-150:2003-11/1、A-230:2004/02/25参照 |
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D-219:長崎県女子師範学校跡【長崎歴史文化博物館】 明治17年(1884)西濱町築地の公立崎陽師範学校附属小学校内に長崎県女子師範学校が開校。明治19年(1886)女子師範学校は男子師範学校と合併します。明治41年(1908)改めて立山に長崎県女子師範学校が開校。大正12年(1923)男子師範学校が大村に移転したため女子師範学校が桜馬場に移転します。しかし昭和9年(1934)男子と女子の師範学校の入れ替えが行なわれたため大村に移転。昭和18年(1943)西浦上に移転、長崎師範学校男子部・女子部となります。これが後の長崎大学教育学部の前身です。A-203:2004/01/21,D-22:2006/12/23 |
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D-218:官立長崎師範学校跡【長崎歴史文化博物館】 明治7年(1874)長崎外国語学校内に官立長崎師範学校と付属小学校を設立。官立は全国に東京、大阪、宮城、長崎だけでしたが、明治11年(1878)官立東京師範・女子師範学校のみを残し廃止されます。付属小学校は公立崎陽師範学校第2付属小学校とします。 |
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D-217:明治天皇御臨幸跡 (めいじてんのう-ごりんこう-あと)【長崎歴史文化博物館】 明治天皇は明治5年(1872)西国ご巡幸を実施され、6月14日、ご召艦:龍驤(リュウジョウ)で長崎港に入港されます。滞在中、立山の長崎県庁、飽ノ浦造船所、そして小菅修船場などをご見学になり、行在所(臨時の滞在所の意)は萬歳町の旧町年寄高木邸があてられます。長崎の滞在は17日までで、その後は熊本に向かわれました。明治天皇このとき20歳。 |
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D-216:長崎府庁跡(ながさきふちょう-あと)【長崎歴史文化博物館】 慶応4年(1868)1月14日長崎奉行河津伊豆守は引越し騒ぎに乗じて外国船アトリン号で江戸へ脱出すると、1月16日東役所は長崎在崎の諸藩代表の協議により福岡黒田藩預かりとなり後に大村藩預かりとなります。長崎奉行所西役所は長崎会議所となり、5月4日長崎府と改称。8月8日長崎府庁は西役所より東役所に移転します。明治2年(1869)6月20日長崎県に改められ、明治3年(1870)長崎県庁と定め、明治7年(1874)外浦町(現 県庁)に洋風木造2階建の庁舎を建て移転となります。 |
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D-215:英語伝習所/広運館跡(えいごでんしゅうじょ/こううんかん-あと)【長崎歴史文化博物館】 安政4年(1857)幕府は長崎奉行所に対し西役所でオランダ通詞や唐通事および一般市民に対し英語、フランス語、ロシア語を学習させるように命じ、奉行所は英語学習者を募集。語学伝習所が始まります。 安政5年(1858)東役所内に移し英語伝習所と改称。 文久2年(1862)英語稽古所(英語所)と改称して片淵郷乃武館内に移転。 元冶元年(1864)江戸町にも仮語学所を設ける。 慶応元年(1865)新町の旧長州藩蔵屋敷に移転。広運館と改称。 慶応4年(1867)閏4月に長崎奉行所東役所内(立山役所)に移転。8月に西役所に移転します。 明治5年(1872)広運館は文部省により一番中学に改称。明治6年(1873)広運学校となります。同年、長崎県庁(東役所)と地所の交換をして立山に移転。 明治7年(1874)長崎外国語学校に改称。すぐに長崎英語学校に改称。 明治10年(1877)文部省の経費削減により長崎英語学校は廃止されます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この広運館には督学(監督)に丸山作楽(マルヤマ-サクラ:島原藩士国学者)やフルベッキ(オランダ人宣教師)が就いたり、井上馨(イノウエ-カオル:明治政府の外務,内務,大蔵等の諸大臣を歴任)が館長兼国学や漢学の講師にもなりました。その他卒業生に西園寺公望(サイオンジ-キンモチ:第12代総理大臣)や伊東巳代治(イトウ-ミヨジ:伊藤内閣農商務相)などがいました。A-33:2003/06/13 |
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D-214:長崎奉行所東役所(立山役所)跡 (ながさきぶぎょうしょ-ひがしやくしょ-あと) 立山1-1-5,12,14,32【長崎歴史文化博物館】 文禄元年(1592)本博多町(現 万才町)に長崎奉行所を置き、肥前唐津藩領主:寺澤志摩守広高を奉行に任命。寛永10年(1633)からは2人制とし奉行所を東西に分けて執務を行います。しかし同年、火災によって焼失したため外浦町の糸割符会所(現 県庁)に奉行所を造築し移転します。寛文3年(1663)の大火で再び焼失(同年再建)。寛文11年(1671)奉行:牛込忠左衛門は火災などの影響を考え奉行所の分離を幕府に申請。延宝元(1673)に立山に屋敷を完成させ東役所を移転。外浦町を西役所と称することとなります。享保3年(1718)老朽化のため前面増改築をしこの形態が幕末まで続きます。総面積は6533坪(22,000平方メートル)。A-27:2003-6/8,A−62:2003/07/15参照 |
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D-213:立山旧屋敷跡(たてやま-きゅうやしき-あと) 立山1-1-5,12,14,32【長崎歴史文化博物館】 慶長19年(1614)禁教令によって「山のサンタマリア教会」破却された跡地は更地となりますが、しばらくして屋敷が建てられます。この屋敷は大目付で宗門改役の井上筑後守政重が長崎に下向された際に使用したという記録が残っていて、井上筑後守は正保4年(1647)のポルトガル使節への通商の不許可および来航厳禁の通告の際と、明暦3年(1657)の2回、長崎下向を行っていてそのどちらかもしくは両方に立山の屋敷が使用されています。 |
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D-212:山のサンタマリア教会跡(St.Maria) 立山1-1-5,12,14,32【長崎歴史文化博物館】 文禄3年(1594)長崎郊外にあたる立山の地に「山のサンタマリヤ教会」が開かれます。慶長6年(1601)桜町にあったキリシタン墓地にサン・フランシスコ教会(修道院)を建立するためメスキータ神父は墓地を「山のサンタマリヤ教会」後方へ移設し、このとき「山のサンタマリヤ教会」参道が整備され長崎初となる石畳が整備されたといわれています。慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。A-80:2003/08/04 |
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D-211:立山(たてやま) 江戸時代、立山は上長崎村岩原郷に属し、上長崎村岩原郷字立山といい、西坂という地名が長崎甚左衛門の居城であった桜馬場地区から見て西にあったことに関連し、この付近が夕日をさえぎる盾となった山であることから立山と呼ばれたといわれています。明治22年(1889)岩原郷は長崎市に編入し長崎市岩原郷となり、大正2年(1913)岩原郷の字立山と字下笠頭、字屋敷岩原が合併し長崎市立山町となります。近年、立山町は立山1〜5丁目に分けられ、町域には長崎歴史文化博物館や長崎市立東高等学校、立山公園などと有名な施設が多く建ち並んでいます。 |
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D-210:長崎地方裁判所長官舎跡 上町4-17,21(旧 東上町)【長崎地方裁判所官舎】 現在、グラバー園内にある旧長崎地方裁判所長官舎は以前まで上町の長崎地方裁判所所長官舎内ににあって、昭和52年(1977)国の新築計画により洋館部分のみをグラバー園内に移築しました。旧官舎は明治16年(1883)に建てられた木造2階建て寄せ棟造りの大変大型の洋館で、洋館の評価額は当時のお金で36,000円で、長崎市が北九州財務局から譲り受けました。参照C-308:2006/08/31 |
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D-209:長崎会所跡(ながさきかいしょ-あと) 上町4-14,17,21(旧 東上町)【長崎県警官舎/裁判所官舎】 江戸時代初期、オランダ貿易や唐貿易は生糸(白糸)中心の貿易で糸割符制度(2003/06/07参照)が取られていて、この制度は日本側の一方的な価格設定ができる反面、唐船の入港操作で価格が高騰。明暦元年(1655)幕府は相対貿易(自由貿易)に制度を変更します。しかし国内景気の好調や中国・オランダの価格つり上げによって輸入超過となり、寛文12年(1672)幕府は市法売買法(2006/02/26参照)に変更します。この方法は長崎奉行の管理の下、目利役が一方的に金額を決定する方法で中国・オランダは反発しますが、逆に輸入量を増やし輸入総額の増加につながり失敗するのです。次に取られた措置は貞享2年(1685)の定高貿易法で、輸入量の上限付きの糸割符制度でした。そうした中、長崎奉行所は元禄10年(1697)長崎会所を新設し(翌11年業務開始)、貿易業務の合理化を進め一元化を図り幕府直営の会所を作ります。これは財政難の幕府を建て直しの意味もあって、形式上、町年寄高木彦右衛門を責任者に据え業務を始めますが、実際の業務は長崎商人や地役人の手で進められ、利潤の中から地下配分銀(長崎の取り分)を差し引いた額が幕府に送り込まれる仕組みをつくります。これにより一方的な利潤の吸収がなくなり幕府も長崎も利害が一致した措置でもあります。安政6年(1859)開国によりその役割を終えます。 |
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D-208:立山書院跡(たてやましょいん-あと) 上町4-14,17,21(旧 東上町)【長崎県警官舎/裁判所官舎】 正保4年(1647)儒学者の向井元升(A-94:2003-8/26参照)は、当時の長崎奉行:馬場三郎左衛門に願いを出し東上町(現 上町4-14)に官学として聖堂を立てます。聖堂とは孔子を祀った儒教のお堂で儒学の学問所でもあって聖堂が立山付近に立ったので立山書院と呼ばれます。万治元年(1658)向井元升が京都に移り、その上、寛文3年(1663)の大火の影響で聖堂は一時途絶えてしまいますが、延宝4年(1676)長崎奉行:牛込忠左衛門は南部竹寿を迎え聖堂を再興。その後、向井元升の三子:元成に継がせ、以降は明治維新まで向井家が世襲します。一方、正徳元年(1711)からは伊勢町の旧鋳銭所(中島銭座)に聖堂を移し規模を拡大しますが、明治維新後の明治4年(1871)諸制改革により官学の地位を失うと聖堂は向井家の管理となり衰退し、明治30年(1897)に大浦に孔子廟を開かれた際、備品等が移され、建物は解体され大成殿と大学門のみ昭和34年(1959)に興福寺に移転保存され、今に至ります。A-167:2003/11/26参照 |
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〇八百八狸(はっぴゃくやだぬき) 言伝えによると、八百屋町の鎮守神は八百八狸で、その狸を稲荷神として町内にお祀りしていました。しかし第二次大戦中に建物疎開によって立ち退きになり、現在はその所在は不明です。 この八百八狸ですが「文福茶釜」や「証城寺の狸囃子」と並んで日本三大狸噺といい、隠神刑部(イヌガミキョウブ)といって四国松山が発祥です。 その昔。松山藩には藩を守護する808匹の狸とその親分で神通力を持つ隠神刑部(イヌガミキョウブ)という狸が棲んでいました。ある日、松山藩家老が公金の横領を企て隠神刑部も加担させられるはめになります。家老の様々な悪事の企てに隠神刑部も怪しく思い反撃するも、時すでに遅く、家臣によって家老とともに成敗されるのです。そうして808匹の狸と隠神刑部は窟に閉じこまれる訳ですが、隠神刑部の罪はのちに許され、神となって人々を守って下さるようになったという話です。 |
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D-207:制札場跡(せいさつじょう-あと) 八百屋町34(町名変更なし) 慶長2年(1597)長崎奉行所は幕府から一般市民への広報の場となる制札場を大波止に設け、禁止事項や布告などを掲示し、のちには禁教令などの布告も行います。その後、延宝8年(1680)に豊後町、明和2年(1765)八百屋町と移り、文化5年(1808)には市内15ヶ所に増やされます。制札場は奉行所の管轄で、平時は各設置場所の乙名が管理し、夜警も行っていました。A-120:2003/09/23参照 |
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D-206:八百屋町(やおやまち) 八百屋町は当時の船着場であった船津町付近から文禄3年(1594)に開かれた「山のサンタマリヤ教会(現 長崎歴史文化博物館)」へ直線に伸びる参道という考え方と、慶長6年(1601)に「山のサンタマリヤ教会」後方へメスキータ神父が桜町のキリシタン墓所を移設した際に新設された通りという考え方があって、後者はそのとき石畳に整備され、これが長崎初の石畳の通りといわれています。その後、往来が増えるにつれ立山や西山などで採れた野菜などを販売する露天が生まれ八百屋町が誕生。町名町界は変化なく今に至っています。 |
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D-205:御座町/本御座町/新御座町(ござまち/しん-/もとござ-まち) 現 八百屋町、中町 江戸時代初め、畳やゴザなどを扱う商人らが多く住んで開かれた町が御座町で、当時、長崎では藺草(イグサ)を生産していなかったため畳の材料などすべてを筑後方面から運び入れていました。そのため筑後町に隣接する地域が選ばれ、さらに御座町は扱っている品物から別名を花御座町とも呼ばれていました。長崎の発展と共に畳ござの需要が増し御座町の隣りに新御座町が開かれ、これにより御座町は本御座町に改称します。しかし、町域が複雑なことなどから正保時代(1645頃)には本御座町は八百屋町に編入され、新御座町は中町に編入されます。なお、その中町に編入した新御座町ですが寛文12年(1672)に再び独立し東中町に改称します。 A-121:2003/09/24参照 |
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〇恩師頌徳碑(おんし-しょうとく-ひ)【桜町小学校校庭】 恩師頌徳碑は勝山小学校に関係した歴代の先生を称えたもので、昭和3年(1928)勝山同窓会によって建てられました。碑文によると「権太 政」「百村卓爾」「北野孝治」の3人の名前を見ることが出来ます。このうち権太政は勝山小学校の創立当初の校長で、それまでの寺小屋式の教育を改め西洋の教育方法を取り入れるなど長崎県内外の教育を開拓した人物で、百村卓爾もまた校長を務め模範的な指導方法を知事より表彰されます。さらに、北野孝治は明治27年(1894)から大正13年(1924)まで勝山小学校の校長を30年間務めたとても教育に熱心な人物で、また、勝山小学校校歌の作者でもあります。A-118:2003/09/21参照 ♪勝山小学校校歌:御代の光のさしそいて あおぐも高き勝山の 学びの庭のみをしへを 日々に守りていそしまん これぞ我等のつとめなる これぞ我等つめなる |
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D-204:教員仮師範所跡(きょういんかりしはんじょ-あと)【桜町小学校】 明治5年(1872)明治政府は学制を頒布。 明治6年(1873)第一番向明学校(のちの勝山小学校)内に教員伝習所(教員仮師範所)を設け、私塾の教員に教授法の指導を始めます。 明治7年(1874)改めて小学教則講習所を設置。 明治8年(1875)小学教則養成所と改称し、興善小学校(旧 新興善小学校)に移転。 明治9年(1876)→小学教師養成所→長崎公立師範学校と改称。 明治10年(1877)旧 勝山小学校に再移転。公立崎陽師範学校と改称。 同年、新町(現 興善町:自治会館)に新校舎を設け移転し、あわせて付属小学校も開校します。 明治11年(1878)長崎県師範学校と改称。 明治19年(1886)長崎県尋常師範学校と改称。 明治22年(1889)桜馬場(現 桜馬場中学校)に移転します。 大正12年(1923)〜昭和8年(1933)まで大村に移転。跡地に女子師範学校が移転。 昭和9年(1934)桜馬場に再移転。女子師範学校と交換。 昭和12年(1937)西浦上(昭和町)に移転。 昭和18年(1943)長崎師範学校男子部・女子部となります。 昭和24年(1949)新学制の下、長崎大学が開学。長崎師範学校は大村に移転。 昭和26年(1951)長崎師範学校の最後の卒業生を送り出す。 A-65:2003/07/17,A-117:2003/09/20,A-202:2004/01/20参照 |
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D-203:勝山小学校跡(かつやましょうがっこう-あと) 勝山町30(旧 勝山町)【桜町小学校】 明治5年(1872)学制発布にともない翌6年(1873)長崎の中心部に3つの小学校が開かれます。第一番向明学校、第二番啓蒙学校、第三番楓川学校の3校です。このうちの第一番向明学校は翌7年(1874)勝山小学校と改称され同時に5つの分校を置きます。明治6年から昭和10年まで木造の校舎で授業を行なわれ、昭和11年(1936)鉄筋コンクリート造3階建ての校舎となります。この建物は長崎市建築課技丁で郷土史家、勝山小学校卒業生の丹羽漢吉(A-88:2003-8/11参照)の設計で、竣工当時はモルタル仕上げの明るいクリーム色でしたが、戦時中は勝山尋常小学校となり、建物は迷彩に塗られてたそうです。戦後は元の姿に戻されましたが平成12年(2000)解体。さらに平成9年(1997)新興善、勝山、磨屋三校は統廃合によって幕を閉じ、平成16年(2004)からは桜町小学校として再出発します。A-116:2003-9/19 |
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〇代官井戸(だいかん-いど)【桜町小学校校庭】 桜町小学校は江戸時代、長崎代官の末次平蔵や高木作右衛門が代々屋敷を構えていたところで、現在、敷地南側角には、その当時使用されていた井戸が残っています。この井戸は昭和57年(1982)旧勝山小学校プール新設工事の際、偶然発見され保存されることになりました。井戸の直径は約1メートル、深さは約9.6メートル。このほかサント・ドミンゴ教会資料館内にも数ヶ所の井戸跡を見ることができます。A-115:2003/09/18 |
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D-202:末次平蔵宅跡(すえつぐ-へいぞう-たくあと) 勝山町30(旧 勝山町)【桜町小学校】 慶長19年(1614)の禁教令によってサント・ドミンゴ教会が破却された後、その跡地には第3代長崎代官:末次平蔵(政直)が屋敷を建て長崎代官屋敷とします。代官の制度は内町以外の地域(外町)から定額の地租を納めさせて統治するもので、文禄元年(1592)の村山東安から始まり元和2年(1616)から末次平蔵(政直)となります。末次家は代々世襲されていくのですが、第6代末次平蔵茂朝のとき(延宝4:1676)密貿易が発覚、一族は死罪や流罪となり末次家は滅亡します(参照A-93:2003-8/25)。以降、町年寄の高木作右衛門が代行するようになり、元文4年(1739)長崎代官が再設され、代々高木家が世襲することになります。A-114:2003/09/17 |
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D-201:サント・ドミンゴ教会跡(Santo Domingo) 勝山町30(旧 勝山町)【桜町小学校】 長崎開港後(元亀2:1571)イエズス会は現在の県庁のところにサン・パウロ教会(参照A-25:2003-6/2)、慶長13年(1608)フランシスコ会は現在の市役所別館のところにサン・フランシスコ教会(参照A-80:2003-8/4)、そして慶長14年(1609)キリスト教のドミンゴ会はこの地にサント・ドミンゴ教会を建てます。この土地は第2代長崎代官村山等安(参照A-63:2003-7/16)の所有地で、等安がドミンゴ会に寄進したといわれています。しかし慶長19年(1614)禁教令によってほとんどの教会を破却されます。平成16年(2004)に開館したサント・ドミンゴ教会跡資料館には、桜町小学校建設の際に発掘された花十字紋瓦など貴重な埋蔵物や当時の遺構の一部をそのまま展示しています。A-113:2003/09/16 |
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D-200:橘中佐下宿の跡(たちばな-ちゅうさ-げしゅくの-あと) 勝山町22-1(旧 勝山町)【長崎県税事務所】 橘中佐は本名を橘周太といい慶応元年(1865)長崎県千々石町生まれ、幼少の頃から漢文や日本外史を学び11歳のとき長崎の勝山小学校に入学します。13歳で長崎中学校に入学し、その後、軍人を志願して15歳で上京、陸軍士官学校に入学します。卒業後は陸軍の道を進み、少尉、小隊長、東宮侍従武官、38歳で少佐となり、明治37年(1904)日露戦争で軍の管理部長として中国遼東半島に向います。そこで連隊大隊長となり活躍するのですが、旅順港の攻防で部下のために自らの命を捨て戦い明治37年(1904)8月31日戦死(40歳)します。橘少佐は8月31日付けで陸軍歩兵中佐を命ぜられ、以降、橘中佐は軍神としてあがめられ昭和15年(1940)雲仙市千々石町に橘神社を設け神としてお祀りされるのです。ここは橘中佐が勝山小学校に入学したときから数年間、下宿していた家があった場所です。A-119:2003/09/22 |
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D-199:長崎版画:文錦堂跡(ぶんきんどう-あと) 勝山町3(旧 勝山町) 江戸時代後期、オランダ人や唐人などの風俗や姿を描いた長崎版画が登場し人気を博しますが、長崎版画は風俗以外にも地図なども発行し享和2年(1802)「享和二年肥州長崎図」を発行します。肥州長崎図は幕末にかけてたびたび再版しています。これら長崎版画の出版元の一つとして文錦堂があり、勝山町の上の段、現在の国道沿いに店を構えていました。 |
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D-198:勝山町(かつやま-まち) 勝山町は開港後に開かれた六町と長崎甚左衛門の居城の桜馬場地区とを結ぶ地域で、由来は諸説あって、長崎甚左衛門の家臣:勝山左近(カツヤマ-サコン)の屋敷があったとか、もともとこの付近は小高い丘だったところから、長崎氏と深堀氏が戦ったとき(天正6年頃1578:合戦場にて:C-5:2005-5/9)、長崎氏が勝利したのを期に勝山に改称したともいわれています。町自体は江戸時代始め頃に開かれここから外町に属します。勝山町は以降、町界町名変更などなく今に至っています。A-112:2003/09/15参照 |
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