広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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亀井戸天満宮(かめいど-てんまんぐう)
享保2年(1717)第3代住持:毒龍は妙相寺上手の滝のそばに天満宮を勧請し、東京にある亀戸天神を模し太鼓橋を設け整備し、以降、亀井戸天満宮と呼ばれます。しかしその後、本堂裏手の不動堂に合祀されると祠は荒廃し石橋が面影を残しています。

長崎西国三十三観音霊場
長崎西国三十三観音霊場とは、関西を中心とした西国三十三観音霊場に由来したもので、長崎市内にある観音堂33ヶ所をお巡りするものです。お巡りは春と秋の2回行われ3月と9月の17-18日の二日間でお巡りします。妙相寺後山には第18番霊場と第17番霊場がお祀りされています。

:川の上流に高さ5メートルほどの滝があって神道系の新興宗教「神道実行教信心教会」が中心となって修行が行われ、付近には不動明王、弁財天、子安地蔵尊、弥勒菩薩などたくさんの石仏を見ることができます。




水徳尊神石(すいとくそんじんせき)
水徳尊神石は水の神をたたえたもので文化11年(1814)野村守平という者が建立し、石には(正面上)~道水(左)水徳尊神(中央)瀬織津姫命(右)辨才有徳天と刻されています。本来は上流約50メートルの滝付近にあったのですが洪水などの影響で現在地に掘り出されています。
※瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)とは橋の神です。




秋葉山(シュウヨウザン)杉田阿弥陀堂【妙相寺境内】
昭和50年代、信仰者の杉田氏によって阿弥陀如来、地蔵菩薩、観世音菩薩を建立。長崎四国八十八ヵ所霊場第五十七番霊場。

(ヒイラギ)稲荷大明神:寛政4年(1792)第10代住持活歩によって創建
白髭稲荷大明神:創建不明
〇地蔵尊堂:堂内には五百体地蔵とし真鍮製の地蔵尊500体が納められています。
○不動・観音・粟島堂:左に粟島大明神、中に不動明王、右に聖観世音菩薩が祀られています。

〇妙相寺歴代住持墓所:上段に19基。下段左に12基。右に10基。長崎の僧侶の墓地としては皓台寺、大音寺についで数の多い整った墓です。

戸隠権現:長野県上水内郡戸隠村に本社(戸隠神社)とする鎮座する神で山岳信仰の神です。昭和35年(1960)建立。




A-298:妙相寺不動堂【妙相寺境内】
妙相寺前面にある山(分紫山)には以前まで妙相寺上宮があって青山(オオヤマ)不動明王お祀りされていました。明治34年(1901)妙相寺本堂の背後にお堂を設け遷宮し、現在、お堂には不動明王のほか天満天神、秋葉大権現がお祀りされています。一方、不動明王移転後、信者に分紫山に帰りたい旨のお告げがあり、高野平地区(西トンネル付近)の住民によって再び不動明王がお祀りされることになりお堂が設けられています。




長崎大水害犠牲者慰霊の碑【妙相寺境内】
昭和57年(1982)7月23日夕方、長崎市は梅雨末期の記録的な豪雨に見舞われます。いわゆる7.23長崎大水害といわれるものです。午後7時から8時までの1時間に112ミリ。8時から9時まで102ミリの雨が降り、この本河内奥山地区では午後8時15分ごろ妙相寺北側の山が崩壊し土石流となり25名の尊い命が失われました。この慰霊碑はその犠牲者への冥福とこの水害を後世に伝えるために昭和58年(1983)に建立されました。




藤原鐵玄の墓所(ふじわらてつげんのぼしょ)【妙相寺境内】
藤原鐵玄(?-文化5:1808)とはどういう人物か定かではありませんが墓石には剣豪宮本武蔵(1584-1645)の神明流剣道と府内與三兵衛行貞の九策兵法の両道を教授したと彫られ、また、辞世の句も刻されていて侍の墓であることは間違いありません。おそらく長崎において没したあと妙相寺に葬られたものと考えられます。「宮本武蔵」の文字を見ることができる大変珍しい墓石です。
辞世之句「實相眞如月 照無量虚空 清風颯々兮 流水悠々兮




地蔵堂:山門手前にあり宝永4年(1707)に建立された地蔵菩薩を安置しています。

石灯篭:明治20年(1887)に本河内郷の住民によって奉納されたもので「奉」と刻された一基と「納」と刻された一基があり対になっています。

水盤:妙相寺庭園内の池にある水盤は忍冬(ニンドウ=スイカズラ)型で、同じような形態は松森天満宮の水盤に見られ、妙相寺のものは松森天満宮の雛型です。




〇妙相寺山門【妙相寺境内】
本堂の前面にある山門は石造アーチの石門で正面中央に開基逆流の書で山号である「瑠璃光山」が刻された長方形の石額があります。建立は不明ですが、逆流の書があるところから創建した延宝7年(1679)から逆流が示寂した元禄7年(1694)までの間で、しかも設置場所は当初の場所である今篭町にあったものと考えることができ、宝永4年(1707)に本河内に移転する際に移設されたものと考えられます。また、石門はもともと奥山の道路の下方にありましたが、明治22年(1889)本河内高部水源地の建設が始まった際に現在地に移されました。

不許葷酒入山門(くんしゅ-さんもんにいるを-ゆるさず)【妙相寺境内】
禅宗寺院の山門横には「許不葷酒入山門」の碑が立っていますが、これは臭気の強い野菜や酒は人に迷惑をかけ心を乱してしまうので寺院に立ち入らないようにという意味があります。この葷酒とは韮(にら)葱(ねぎ)大蒜(にんにく)、酒を意味します。




A-297:曹洞宗瑠璃光山妙相寺(-るりこうざん-みょうそうじ)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字トヤ)
寛永19年(1614)薬師如来を本尊とした宗圓寺が今籠町(現 大音寺付近)に創建され多くの信者が訪れていましたが後に衰退し、延宝7年(1679)晧台寺第5世逆流妙相寺として再興します。宝永4年(1707)本河内の吉川儀部右衛門より土地を購入し移転。境内に天満宮や秋葉大権現などを設け境内を整備します。文化5年(1808)には非常時の唐人らの避難所に指定され、唐船主らの参詣が常となります。明治に入り檀家が少ないため寺院維持のため仏像などは整理され、さらに農地財産も売却し第二次大戦後は無住持となります。現在は波の平町の太平寺が住持を兼務し自治会によって管理されています。なお、本尊は明治の初めに(明治8年以前)釈迦如来に変更されましたが、現在は再び薬師如来に改められています。




A-296:白髭稲荷大明神(しらひげいなりだいみょうじん)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字西山口)
白髭稲荷大明神は滋賀県高島市に鎮座する白髭神社を本社とする神社の別称で猿田彦神が祭神です。鳥居に昭和44年(1969)の年号を見ることができ、おそらくそのころに建立された稲荷神社と考えられます。たくさんの赤い鳥居とネコが目印です。

大山津見神社(おおやまづみじんじゃ)
瑠璃光山橋のたもとに「山大神」とある神社は大山津見神社といい、明治43年(1910)当時の長崎市水道課水源地主任の井上人八がお祀りしたもので、初めは岩盤をくりぬき祠を設けていました。当時、水源地は完成後20年前後で水位の変動などから地滑りなどを起こすことがあって、この神社は山の神を鎮めるために建立されたのではないかといわれています。その後、本河内高部水源地のかさ上げ工事などで移転を余儀なくされ平成8年(1996)に現在地に再建されています。




日見バイパス
日見バイパスは国道34号線の日見トンネル付近を中心とする慢性的渋滞の緩和のために計画された拡幅工事で長崎市田中町切通交差点より馬町交差点までの全長7.1キロメートルのバイパスです。計画では上下4車線でトンネルを2か所(新日見トンネル・本河内トンネル)と橋梁4か所(新番所橋・本河内橋・新妙相寺橋・奥山橋)を設置する予定で、現在、下り線用の新日見トンネルを除けばほぼ完了しています。




A-295:幻の石橋(山口橋)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字西山口)
この橋は奥山方向から流れている妙相寺川に架かる自然石アーチ橋で明治22年(1889)本河内高部水源地の建設が始まった際に池の底に水没し昭和43年(1968)に水位が低下したときに確認されるまで忘れられていた橋で、俗に幻の石橋と呼ばれています。江戸時代末期から明治初年にかけて架けられたと考えられていて、今後も渇水期または工事などで水位が低下したときのみ見られる橋です。文化財登録名は本河内高部貯水池内石橋といいますが、本来は地区の字名である山口から山口橋といいます。市指定文化財




長崎火山(ながさきかざん)
今から500〜80万年前、長崎市街地一帯は火山で稲佐山-岩屋山-三ツ山-烽火山-彦山-唐八景など市街地を囲むように並んでいる山はその外輪山であると考えられています。範囲は直径20キロメートルもあり富士山に匹敵する大きさで、現在、地質学者の布袋厚氏がその解明に努めておられます。
本河内水源地横の崖にはその火山時代の形跡を知ることができ、岩脈といってマグマと岩盤の境界面、アバット不整合といって火山が活動していたころの変化を確認することができます。




五釐金(ごりんきん)
貿易五厘金制度といって慶長年間(1600頃)から続く積立制度がありました。これが文久元年(1861)から貿易商人らの申し出により貿易額の5/1000(0.5%)を積立てる制度に変わります。使い道として0.3%を身許備(ミモトソナエ=身元保証金)、0.2%を長崎市街地の整備に使うものでした。しかしその7年後(明治維新)その積立金は新政府に没収されてしまいます。貿易商人らは再三に渡り払戻しの申し出を行ない、明治9年(1876)に積立金の0.3%。明治16年(1883)残り0.2%が払戻されました(約6万6千円)。当時、長崎は水問題が深刻だったためこの約6万円は本河内高部水源地建設に使われます。その後も長崎貿易会所を主体として積立制度は行なわれ明治21年(1888)まで続き、これによって長崎市内の整備が進むのです。




A-294:本河内高部水源地(ほんごうちこうぶすいげんち)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字西山口/東山口/田ノ平)
長崎には延宝元年(1673)に完成した倉田水樋という上水道がありましたが、幕末、明治期と外国船の入港に端を発したコレラの流行で何百人もの犠牲者が出るようになり、さらには神奈川や函館の開港で貿易額が減少し、あわせてコレラによる入港拒否もからみ長崎は経済的打撃をこうむります。また、倉田水樋の構造上、汚物混入も免れず市民の衛生意識の欠如も相まって伝染病拡大につながります。そのため当時の日下長崎県知事は水道会社設立を計画しましたが政治問題化し区民が賛成反対と対立。会社設立を断念し政府補助金(5万円)と貿易積立金(五厘金:6万円)と公債(19万円)で建設することになり明治22年(1889)長崎区議会で決定され建設となります。明治24年(1891)竣工。横浜、函館に次ぐ日本で3番目となる近代式水道のはじまりでした。本河内水源地は日本初の河川取水方式をとっており、総工費:26万4357円(予算30万円)今のお金だと約6億円、安くついたのは多くの囚人を利用したことによります。




A-293:妙相寺橋(みょうそうじばし)
本河内3丁目-4丁目堺(旧 長崎村本河内郷字道光)
中島川の上流部:本河内高部水源地付近から奥山寄りを妙相寺にちなみ妙相寺川といい、以前まで江戸時代末期から明治初年にかけて架けられた自然石造りのアーチ橋が数基並んでいました。そして妙相寺橋自然石造りで昭和57年(1982)の長崎大水害でも流失しませんでしたが、河川拡張工事の影響で撤去され姿を消し、現在は鉄筋コンクリート橋にかけ替えられています本河内高部水源地内にあるいわゆる幻の石橋(山口橋)と同形。




A-292:秋葉山大権現道標(あきばだいごんげん-どうひょう)
本河内3-4(旧 長崎村本河内郷字道光)【本河内浄水場内】
秋葉山大権現は妙相寺上宮にお祀りされている権現で、創建は正徳5年(1715)と伝えられています。当時は妙相寺とは別に秋葉山大権現信仰が盛んで多くの参詣者が祈願に訪れていて、この道標は旧長崎街道の分岐点に立っていました。しかし、明治に入り水源地工事で水没することから現在地に移設されました。碑には「妙相寺/秋葉大権現道/従寛光孫山城國久世郡槇嶋(現 京都宇治市)之住/太田野右衛門尉行成三男/太田益右衛門直徳建立」とあります。




足引観音堂(あしびきかんのんどう)
本河内3-6-9付近(旧 長崎村本河内郷字道光)
足引観音堂の創建ははっきりしませんが、旧長崎街道沿いに建つ観音堂です。長崎四国八十八ヵ所霊場第十番霊場。

出来屋敷観音堂(こもりかんのんどう)
本河内3-6-37(旧 長崎村本河内郷字出来屋敷)
出来屋敷観音堂の創建ははっきりしませんが、国道の完成した明治から大正期に創建されたものと考えられていて、当時、コレラなどいろんな伝染病がはやっていた時代、住民の健康と安全、そして子ども達の成長を祈願して観音菩薩をお祀りされています。昭和29年(1954)地区の集会場として改修され、観音堂公民館とも呼ばれています。長崎四国八十八ヵ所霊場第八十一番霊場。

以上2か所は昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の一つになっています。長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




本河内青年会創立記念碑【本立軒】
本河内青年会は上長崎村本河内郷(高野平、峠、御手水地区を除く)の住民によって構成され、大正4年(1915)本河内出身で当時:上長崎村村会議員の渡邊平三が会長となり、上長崎尋常小学校本河内分教場の教諭:長島盛衛が副会長として創立されました。

御大典記念碑【本立軒】
この御大典記念碑は昭和天皇の即位を記念して昭和3年(1928)に本河内青年団(会)によって建てられ、あわせて諸会場として利用していた本立軒に幕を一張寄贈しています。




耶蘇教退治地蔵(やそきょうたいじ-じぞう)【本立軒】
言伝えでは春徳寺第14代住持:鐡翁(寛政3:1791-明治4:1871)が安置したといわれる石造の地蔵尊があって、耶蘇教(キリスト教)退治に霊験あらたかなと伝えられ本河内の個人宅にお祀りされていました。大正年中、本立軒に移されました。

寺蓮観音菩薩(じれんかんのんぼさつ)【本立軒】
平成2年(1990)東シナ海において操業中の底引き網により引き上げられた仏像で、縁あって本立軒に安置されています。

七福神彫像(しちふくじん-ちょうぞう)【本立軒】
寺蓮観音菩薩と同じく底引き網により引き上げられた彫像です。




A-291:浄土宗寿b山白道院本立軒
(-じゅこうざん-びゃくどういん-ほんりゅうけん)
本河内3-5-20(旧 長崎村本河内郷字道光)
本立軒は延宝3年(1675)本紙屋町(現 麴屋町/八幡町川端)の住人:朴長左衛門が菩提のために地蔵菩薩をお祀りし地蔵堂を建立したのが始まりで、翌4年(1676)には観世音菩薩もお祀りされます。明治20年(1887)大音寺の開基:傳譽が寛永年間(1624-44)に本河内の地に住したという縁から堂宇の修復が行われ、あわせて本河内地区の説教所として指定を受けます。長崎四国八十八ヵ所霊場第六十八番霊場。




A-290:上長崎尋常小学校本河内分教場跡
本河内2(旧 長崎村本河内郷字道光)
明治9年(1876)旧シーボルト鳴滝塾跡に第5大学区第1中学校区鳴瀧小学校(のちの上長崎小学校)が開校します。その後、工区が広いため現在の本河内低部水源地内にあった寺小屋が鳴瀧小学校の分校として本河内分教場が置かれます。明治33年(1900)本河内低部水源地に工事のため閉鎖され、明治35年(1902)本立軒横に新校舎が再建されます。大正11年(1922)今度は国道工事のため再び閉鎖され、昭和2年(1927)現在の本河内2丁目公園の所に再建し、伊良林尋常小学校本河内分教場と改称します。昭和16年(1941)廃止。




A-289:寺屋敷跡(てらやしき-あと)
大師院がある場所はもともと寺屋敷といわれていたところで、寛永年間(1624-44)大音寺の開基:傳譽が野母にあった蔵徳寺よりこの地に訪れた際、一時住した場所でした。寛永8年(1631)島原藩主松倉氏は傳譽に島原藩領である日見村や茂木村の教化を命じていて、そのころのこの本河内を拠点としていたものと考えられ、それは本河内地区に多くの大音寺信徒が存在することに表れています。




A-288:本河内郷大師院跡(ほんごうちごう-だいしいん-あと)
本河内3-5(旧 長崎村本河内郷字道光)
大師院は俗にランゲンサンといい現在は廃院となっています。本河内に住む五島空如(俗名:五島イマ)は弘法大師信仰に厚く明治44年(1911)伊良林小田講所有の宮殿(玉垣に囲まれた石祠)を譲り受け、弘法大師と不動明王ほか六角形石仏を安置し大師院を創建します。そして高野山金剛峯寺の末寺となります。大正4年(1915)地元の西山由蔵らが発起人となり本堂を建立。大正6年(1917)には高野山より弘法大師分身像一体をもらい受け安置します(現存せず)。大正10年(1921)国道の拡張工事により敷地の大部分が削り取られ縮小し宮殿のみとなります。その後の経緯は不明で現在は荒廃し石仏と宮殿(祠・玉垣)だけが残っています。
※本立軒そば国道沿い




A-288:仏舎利/宗祖御真骨内臓大宝塔跡
本河内2(旧 長崎村本河内郷字舞岳)
慶応3年(1867)本河内の広曇院日照上人と林蘭甫、岡本清人、青木啓五郎らは宗祖である日蓮上人の600遠忌を記念して仏舎利/宗祖御真骨内臓大宝塔を建立します。これはお釈迦様のお骨(コツ)である仏舎利と、日蓮聖人のお骨が納められているといわれるもので当初は本河内町(257番地)にありました。昭和37年(1962)発起人の一人であった林蘭甫の子孫:林春江氏は、長崎で最初に日蓮宗寺院である本蓮寺へこの大宝塔の寄進を望み、県内日蓮宗寺院や篤志者の協力のもと翌38年(1963)に移設され、あわせて玉垣などが整備されました。D-335:2008/02/23




A-287:本河内低部水源地(ほんごうちていぶすいげんち)
本河内2(旧 長崎村本河内郷字具佐平/キツネ岩)
本河内高部水源地は長崎の区内の人口が6万人になることを目標に明治24年(1891)に完成しましたが、翌年には6万人を超え、明治27年(1894)には少雨の影響で制限給水から停水に至ります。その後も人口が増加し、日清戦争後に伴う戦艦の給水などの影響から年々水不足が深刻化し、明治33年(1900)人口予測を18万2千人とし本河内低部水源地西山水源地の建設が始められ本河内は36年(1903)、西山は37年(1904)に完成し給水を開始します。この時、本河内低部水源地には浄水場敷地がなかったため、西山高部水源地と兼用の浄水場(旧西山低部水源地)を使用することになり、本河内から西山までの水道トンネルが造られ、そこから市内へ給水されました。




A-287:番所跡(ばんしょあと)
本河内2(旧 長崎村本河内郷字舞岳)
江戸時代、日見峠は難所といわれ明治以降、開削は長崎近代化への早急な課題でもあり、明治14年(1881)長崎県令:内海忠勝は貿易商の松田源五郎らに要請し日見峠新道会社を設立します。工事は難航しますが翌15年(1882)に完成。1等国道(1級国道)に指定され工費約4万7340円のうち2万9000円が国庫助成金によって賄われ、残りは有料道路制を取り利用者負担とします。返還は15年とされ(のちに県が買収し無料化)日本最初の有料道路ともいわれています。この道路は一瀬橋起点-切通終点の道路で明治新道とも呼ばれ、通行料(道銭)は、通行人1名につき5厘。人力車一挺2銭。荷車3銭。牛車1銭5厘。乗馬3銭。駕籠2銭。馬車5銭で、掲示札には日本文、漢文、欧文で書かれ、付近住民には無料パス券が配布されました。また、道銭取立所(料金所)は本河内と日見に置かれ、現在のバス停名の番所はその取立所があったところでした。この道路は日見トンネルが開通する大正15年(1926)まで長崎の大動脈として使用されます。A-242:2008-12/6




A-286:七高山巡り(しちこうさんめぐり)
七高山巡りとは江戸時代より伝わる正月行事の一つで、当時は1月2日から15日ごろまでに七高山詣でと称し七つの山を草履がけで気軽に登っていました。七つの山は金比羅山、七面山、秋葉山、烽火山、峨眉山(彦山)、愛宕山豊前坊または岩屋山を入れた7つで、山に登ることで福が開けるといい縁起を担いでいました。このうち七面山と秋葉山は実際には存在しない山で、七面山は日蓮宗七面山妙光寺のことをいい、秋葉山は秋葉大権現のことを指します。




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