広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-127:神ノ島防空壕跡(かみのしま-ぼうくうごう-あと)
神ノ島町(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)
神ノ島は江戸時代末期には外国船警備の最前線で台場などの建設がなされ、明治期以降も長崎要塞地帯の内側に位置し軍事的重要拠点でした。さらに昭和17年(1942)には長崎要塞防空隊(防空第21大隊→24大隊→134連隊)によって陣地が新設され、現在、神の島公園には当時使用されたと思われる防空豪群が並んでいます。




E-126:池之神社(いけのじんじゃ)
神ノ島町1-208付近(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、神の島はその昔、青い水をたたえていた池があって池の御崎といわれていました。池はいつしか涸れ井戸を残すのみとなり、現在の池之神社境内にある井戸がそれと考えられます。池之神社は島唯一の神社で島の鎮守神でもあり、境内には稲荷社や天満宮など数多くの祠が立ち並んでします。




マードレ・デ・デウス号事件B
南蛮船マードレ・デ・デウス号の積み荷には生糸30万斤、金塊30貫目、銀2600貫、陶磁器数百個、貴金属類など多数で、21年後の寛永9年(1632)、寛永13年(1636)、承応3年(1654)の3回にわたり引き上げが行われるも銀1000貫目ほどしか成功せず、昭和55年(1980)371年ぶりに長崎市が日本海洋開発と日本船舶振興会の笹川良一氏に調査を依頼し再度確認されるも木片のみしか発見できず断念。今なおお宝は海底に眠っています。




マードレ・デ・デウス号事件A
慶長14年(1609)マカオ事件は生存者によって有馬氏のところまで伝わり、早速幕府に対し南蛮船への焼き打ちの許しを得、ひとまず島原に戻ります。そして5月、いつものように南蛮船がマードレ・デ・デウス号入津。幕府は南蛮船が巨船のため軍勢を整えてから攻撃するよう有馬氏に伝えますが有馬氏は固辞し自らの手でかたきを取りたいと願いでます。乗組員らは殺気だった市内の様子に出航を早め風待ちのため神の島沖で停泊します。夜になり有馬氏はここぞと攻撃の準備を整え長崎港口に7000の兵を進め数百の小舟で追跡し伊王島と神の島の間で攻撃。南蛮船は追い詰められ自ら火を放ち沈没するのです。この戦に家康はご満悦で有馬氏には褒美が与えられます。




E-125:マードレ・デ・デウス号事件@
慶長13年(1608)徳川家康は伽羅(=高級沈香)を入手するため島原藩主有馬晴信に依頼し占城(チャンパ=ベトナム南部)へと船を向かわせます。帰途、寄港したマカオにおいてポルトガル人と衝突があり多数が殺傷されてしまいます。これは当時、日本の貿易進出とポルトガルの進出との争いが発端となったもので起こるべきして起こった事件でもありました。




E-124:神の島(かみのしま)
言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の際、風待ちなどでこの島にお立ち寄りになったことからから神の島となったといわれています。
江戸時代は佐賀鍋島藩深堀氏の所領で、幕末期、佐賀藩は比較的キリシタンへの取り締まりが寛大だったため外海地区から多くのキリシタンが移住しています。明治5年(1872)深堀村神ノ島名、明治13年(1880)独立して神ノ島村となり、明治22年(1889)浦上淵村字神ノ島、明治31年(1898)小榊村字神ノ島、昭和24年(1949)長崎市神ノ島町となります。昭和42年(1967)から埋立てによって陸続きとなり、埋立地は工業団地として開発がなされています。なお、非公式には神の島へ昭和17年(1942)頃から高射砲や陣地などの設置のため浅瀬を埋立て輸送路の確保がなされていた模様です。




E-123:観音崎跡(かんのんざき-あと)
神の島工業団地の北にこんもりとした小山があって埋立てられる前までは海に突き出した岬で観音崎と呼ばれ、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、神の島と対峙し岬と島の間は水深が浅く小船しか通らないと記されています。岬は五島灘に突き出した景勝地で岬の突端には観音大士を祀ってあるとありますが、埋立てられ開発が進みその所在は不明。




E-122:要塞地帯地標(ようさいちたいちひょう)【天神天満宮そば】
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい要塞地帯はその周辺の区域を指します。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。区域内では測量や建造物に厳しい制限が行われます。区域は長崎港を中心に式見-滑石-三ツ山-日見-茂木-川原-高島-伊王島-式見といった長崎を円形に囲んだ地域で、さらにこの中心付近も3段階に分かれました。この小瀬戸にある道標は第1区線の外側線上にあって道標には「長崎要塞第一地標」と刻されています。




E-121:天神天満宮(てんじんてんまんぐう)
小瀬戸町(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)
万治2年(1659)小瀬戸遠見番所天神天満宮のある高台に設置され筑前黒田藩、肥前鍋島藩が交代で警備にあたります。文化4年(1807)遠見番役人によって番所の一角に祠を設け大徳寺所蔵の菅公像(菅原道真公像)一体が安置され天満宮の創建となります。以降、番所の鎮守神として大切にされ嘉永3年(1850)には遠見番役人日高氏によって改修が行われています。




長崎市編入五十周年記念碑【小榊支所内】
昭和13年(1938)それまで小榊村に属していた神の島、小瀬戸、木鉢の三地区は長崎市に編入しますが、第二次大戦中まで長崎が要塞地帯に指定されていたことと移動手段が瀬渡し船のみという地理的条件から街の発展が大変遅れていました。昭和43年(1968)大浜町からの道路が開通し小瀬戸地区の港湾施設の整備が進み、昭和54年(1979)には木鉢トンネルの開通で神の島臨海地区の整備が始まります。昭和63年(1988)編入50周年を記念し歴代事業者を称え、また、今後の発展を祈念し小榊連合自治会によって記念碑が建てられました。




E-120:小榊村(こさかきむら)
小榊村は明治31年(1898)から昭和13年(1938)まで存在した西彼杵郡の自治体で、それまでの浦上淵村の木鉢郷、小瀬戸郷、神ノ島村(浦上淵村字神ノ島)など地域的につながりの深い地区を合わせ小榊村とします。小榊とは、小瀬戸の「」、木鉢の「」、神ノ島の「~」を組み合わせて小榊としたもので、現在でも長崎市の行政区分として利用され小榊支所が置かれています。




E-119:小瀬戸浦別れの場所(こせどうらわかれのばしょ)
小瀬戸町【小瀬戸公園】
文政11年(1828)8月9日。長崎は暴風雨に見舞われ帰国を予定していたシーボルトが乗船する船「コルネリウス・ハウトマン号」も難破し、シーボルトの荷物の中から日本地図や葵の紋服など御禁制の品が発見されてしまい世に言うシーボルト事件の発端となります。これによりシーボルトに関係する多くの者が入牢や投獄され、シーボルト本人も厳しい尋問を受けます。翌12年9月25日。シーボルトは帰国の許可を受けるも再渡来が禁じられ、同年12月5日、ジャワ号で出港。翌々日の7日、船が小瀬戸の沖に差し掛かったとき岩かげから一艘の小舟が近づき、その船にはシーボルトの門人である高良斎二宮敬作そしてシーボルトの妻楠本滝と娘が乗っていました。ジャワ号は停止しただちに船からボートが下ろされとの最後の別れを小瀬戸の浜で迎えます。当然、見送りの警備船もジャワ号の船長も知らん顔していたといい、最後には迎春花(=黄梅)と福寿草の鉢植えを贈ります。

○恵比須鳥居柱供養塔 文政13年(1830)




ドンバカマ
オランダ船が来ると空砲がドーンとなる。その音で町中の役人が袴をはいて奉行所に行き仕事を始めることをドンバカマといいます。まさに当時の長崎ののんびりした様子を表しているといってもいいのかもしれませんが、長崎の民謡「ぶらぶら節」の次のような歌詞が存在します。
ポンはかま あちゃさん そこぬけ 盆まつり 豚の角煮で二三日ぶうらぶら ぶらりぶらりというたもんだい チュウ




E-118:小瀬戸遠見番所跡(こせど-とおみばんしょ-あと)
小瀬戸町(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)
遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、寛永15年(1638)に松平信綱によって野母の権現山に置かれたのが最初となります。万治2年(1659)梅香崎、小瀬戸、玉園町の観善寺境内にも置かれ、権現山の番所で外国船を発見すると番所の水主(カコ)によって長崎奉行所に報告することになっていましたが、後に時間短縮のため各番所間で鏡などを使った合図が決められ、小瀬戸→梅香崎→観善寺→長崎奉行所という流れで報告されていました。小瀬戸番所は小瀬戸の山手(みなと坂付近)にあって中腹(天神天満宮付近)に中ノ番所(中宿)、海岸部に水主小屋(不寝番所)がありました。御注進船用杭現存




E-117:小瀬戸(こせど)
小瀬戸は始め「小峡」または「小狭」とも書き、小さく狭まった場所を意味し、小瀬戸では島と陸地の小さな海峡や浅瀬を意味します。現在は埋立てられているため分かりにくいですが神ノ島や鉾島、ネズミ島などと相対する場所です。
江戸時代は浦上淵村に属し小瀬戸郷で、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年(1898)小榊村、昭和13年(1938)に長崎市に編入し小瀬戸郷、昭和24年(1949)小瀬戸町になります。




先師の碑/顕彰碑/田中直治先生の碑【ねずみ島】
ねずみ島は長崎市游泳協会によって約70年間にわたり水泳道場として親しまれ青少年育成に大いに役立ちました。先師の碑/顕彰碑/田中直治先生の碑は、そこに従事した教師への感謝と発起人の一人でもある田中直治を顕彰するため昭和55年(1980)長崎市游泳協会が建立しました。

皇后島伝説之碑【ねずみ島】
皇后島伝説之碑は島の由来となった神功皇后の伝説やそれにまつわる経緯、さらには長崎港口の由来など後世に伝えるために刻まれたもので、平成元年(1989)地元小瀬戸町の平山久敏氏によって建立されました。
古の尊き比女の語り草花 千歳経るとも 復郁と咲く 久敏作

○舊跡の碑(きゅうせきのひ)【ねずみ島】
碑文には神功皇后の足跡を称え「神功皇后之御舊跡」と刻されています。建立年不明。




E-116:長崎游泳協会(ながさきゆうえいきょうかい)【ねずみ島】
明治36年(1903)東洋日之出新聞の鈴木天眼と東濱町に住む田中直治は瓊浦游泳会を立ち上げ、翌36年(1903)長崎港外の皇后島(ねずみ島)に水泳道場を開設し小中学生の水泳教育を実施します。瓊浦游泳会は昭和に入り長崎游泳協会に改称。皇后島での水泳教育は昭和47年(1972)まで続き、のちの長崎市民総合プールへと受け継がれます。発足当初の会員(小中生)810余名、大正13年(1924)約2000人。D-111:2007/05/07、D-499:2008/11/10参照




我が国初の外国人遊歩場【ねずみ島】
安政元年(1854)日英和親条約が長崎で調印され長崎函館が開港し、長崎はイギリス人に対し正式に開放され、翌2年(1855)幕府はねずみ島を外国人遊歩場と定め一般人上陸を認めます。これは我が国における一般人上陸解放の初めとなりますが、同3年(1856)幕府はイギリス人に対し市街遊歩を許可したためねずみ島の遊歩場は有名無実となります。そして万延元年(1860)大浦居留地が完成します。




E-115:鼠島/鼠嶼(ねずみじま)【皇后島】
鼠島鼠嶼とか子角島など複数の表現がありますが正式には皇后島といいます。しかし、ねずみ島といった方が一般的で、現在は埋め立てられているため島という印象は全くありません。
由来は深堀藩(もしくは戸町浦)の真北(子の方角)に当たる島というのが有力で、ネズミの異常発生した説や付近の村人が耕作したときネズミが多くて作物ができなかったことなど様々です。昔は深堀氏の領土でしたが、深堀氏と長崎氏がこの島を賭け事に使い長崎氏が勝ったため長崎に属するようになったといわれています。現在は長崎市小瀬戸町。




E-114:皇后島(こうごうじま)
小瀬戸町(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)【ねずみ島】
皇后島とはいわゆるねずみ島のことで、言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)のため長崎の港に立ち寄られた際、座乗の船からこの島に着かれ頂上の台地に諸武将を集めたといいます。そしてそのことからこの島を強剛島と命名されるのですが、列席の武将は皇后島と聞こえたらしく皇后島となった説。
神功皇后足跡の地ということで皇后島となった説。
島の形が佝僂(コウゴウ=せむし:背中が丸くなった人の意)のようでコウゴウ島となった説。
なお、島の西にあった瀬を舵懸(カヂガケ)といい、船がよく座礁していたものと考えられます。




E-113:阿蘭陀船難破
寛政10年(1798)出航したばかりのオランダ船エライザ号(アメリカ船籍)が(旧暦)10月17日の夜、急に北西の風に見舞われ高鉾島の浅瀬に座礁。原因は輸出銅や樟脳の積み過ぎで、積み荷の銅は少しずつ引き上げられるもすぐに沈没してしまいます。木鉢浦には仮設小屋が設けられオランダ人らが収容され引き揚げ方法が検討されます。いくつかの方法がなされるもことごとく失敗し、翌年1月になります。そこに周防国の船頭:村井喜右衛門が妙案があるとオランダ人が聞きつけ官許を得て早速実行されます。約半月かけオランダ船を引き揚げられ修復作業もなされ翌5月に出港の運びとなりますが、逆風により再び座礁、再修復が行われ、結局、翌年の船とともに9月に出港します。この話、よほど知られていたのか江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会に図入りで紹介されています。




E-112:唐船見送番所跡(とうせんーみおくりーばんしょーあと)
木鉢町(浦上淵村木鉢郷/小榊村)
江戸時代中期、長崎近郊では海上での密貿易が横行し、正徳4年(1714)幕府は外国船との海上密貿易を禁じ、享保元年(1716)木鉢浦に唐船見送番所を設けます。ここでは唐船など帰帆する船を遠くまで尾行し、積み戻しの船の海上密貿易を監視させました。一般に船姿3里(約12キロメートル)、帆姿9里(約36キロメートル)とずいぶん遠くまで追跡させていましたが、追跡した役人船は追跡の帰路は必ず油を売って帰り、余分に給金をもらっていたといわれています。




E-111:石銭番所跡(いしぜにばんしょーあと)
木鉢町(浦上淵村木鉢郷/小榊村)
江戸時代中期、長崎港は浦上川や中島川などから流れ込む土砂で海岸が遠浅になり船舶の停泊ら航行に支障をきたしたため浚渫工事を始めます。費用は帆別銭(通行税)つまり出入りの船から一石につき3銭、小舟はその都度15銭を取ることになり明和3年(1766)に設けられました。土砂は埋め立て工事に利用されていましたが、番所の成績が上がらず寛政3年(1791)廃止されます。この帆別銭は木鉢浦に置かれた石銭番所が管理していました。




E-110:一陣神社(いちじんじんじゃ)
小瀬戸町(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)
一陣神社は平家の落武者(落人)である一陣氏を祀りする神社といわれていて、境内に文政年間の灯篭があるところから代々小瀬戸の住民によってお祀りされたものと考えられます。本来は海岸沿いにお祀りされていたものを昭和53年(1978)ごろ前面の道路改修によって現在地に移されました。




E-109:浄土宗南海山大悲寺(-なんかいざん-だいひじ)
小瀬戸町218(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)
江戸時代初期(明朝末期:〜1644)中国明朝の皇帝の命を受けて陳氏が日本との貿易交渉のため長崎に向かいますが伊王島沖で難破。陳氏はすぐに中国仏教霊場の南海普陀山の観音様に願を掛け助けを求めます。一方、ちょうどそのころ小瀬戸浦の住民数十人が白装束の人に不思議なお告げを受けたということで唐船を救助することになり、陳氏ほか乗組員は一命を取り留めるのです。その後、陳氏は時の将軍:徳川家康に謁見し、慶長16年(1611)貿易の許可をうけるのですが、陳氏は感謝の意を込め小瀬戸の山に観音堂を建立し、これが大悲寺の創建となるのです。当所は聖福寺の末寺で大悲堂と称し、元文4年(1739)には唐船主によって海上安全祈願が行われ、毎年銀500目を贈られます。しかし慶応2年(1866)以降、唐船が入港しないようになると寄進が受けられなくなり、このため小瀬戸の浄土宗信徒がお堂の払い下げを受け大悲寺として再興します。




E-108:カトリック木鉢教会/聖ペトロ教会
小瀬戸町86(浦上淵村小瀬戸郷/小榊村)
カトリック信者の多い木鉢地区には明治43年(1910)網場の脇(木鉢の地名)に巡回教会が置かれますが、昭和13年(1938)正式に神ノ島の巡回教会として今の場所に教会が完成します。しかし昭和20年(1945)の原爆の影響で倒壊し、のちに復興。現在の新聖堂は昭和56年(1981)に建立されたものです。昭和63年(1988)教会設立50周年を記念しアーレンのコンピュータオルガンが設置されます。なお、聖堂名のペトロとは第1代のローマ教皇でイエスの12使徒の一人、本名をシモン・ガラリアといい、キリスト教団発展に尽力した人物です。




E-107:木鉢神社(きばちじんじゃ)
木鉢町2丁目(浦上淵村木鉢郷/小榊村)
江戸時代初め、中島川下流の賑町付近は材木の荷揚げ場や魚問屋が建ち並ぶようになり、あわせて水産業の守護神:恵比寿神(事代主命)がお祀りされます。当所は中島川の両岸に建立されたようで、西岸は賑町の事代主神社、東岸は万屋町の事代主神社があって、万屋町の方は大正14年(1925)木鉢地区の有志の念願で官許を得て現在地に移転され、木鉢地区の鎮守神として木鉢神社と改称され今に至ります。境内にはこのほか文政6年(1823)の鳥居や明治36年(1903)の灯篭、廻国供養塔など江戸時代のものもあり霊験あらたかな場所として大切にされていた場所と思われます。




E-106:土生田塩硝蔵跡(どしょうだ-えんしょうぐら-あと)
木鉢町1丁目(浦上淵村木鉢郷/小榊村)【木鉢双葉園付近】
土生田塩硝蔵は木鉢浦の東側斜面で天門峰の中腹に設置されていました。寛文5年(1665)夏にオランダ船が入津した際、誤って石火矢(大砲のこと)が暴発する事態があったため、以降、奉行所が管理することになります。始めは稲佐のほか西泊番所内にも置かれましたが、西泊は番所内に落雷があったことから元禄3年(1690)木鉢浦の土生田に移転します。規模は9間×10.5間で94.5坪(約310坪)で火薬庫2棟がありました。




E-105:木鉢(きばち)
木鉢の語源は定かではありませんが、すり鉢状の地形と湾の奥が深く、周りが切り立った山に囲まれている様子から木鉢となったと考えられます。江戸初期まで木鉢村といい、元禄〜天保年間(1688-1844)に浦上村に属し浦上淵村木鉢郷となります。明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年(1898)小榊村、昭和13年(1938)長崎市に編入し木鉢郷となり、昭和24年(1949)木鉢町1〜2丁目、小瀬戸町になります。




E-104:木鉢トンネル(きばちトンネル)
西泊町-木鉢町2丁目
木鉢トンネルは西泊町と木鉢、小榊、神ノ島地区を結ぶ一般県道神ノ島飽の浦線の一部をなす区間をいい、トンネルの長さは727メートル、幅8.5メートルの2車線道路で、開通当時、県内第2位を誇る長さのトンネルでした。総工費12.8億円で昭和54年(1979)5月21日開通しました。これにより飽の浦からカーブの多い山越えする道しかなかった木鉢地区はたいへん便利になり地区の発展のほか神の島工業団地の利用促進につながります。




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