その2
2004/10/30
 その日、店でおでんの残りを食べた後、いつものようにうとうとしていると、郵便屋がハガキを配達してきた。差出人は文字ゲリラとある。早速、その中身をマスターが読む。吾輩もちょいと覗いてみると、こう書いてある。
『我が友人 第48代我輩 を紹介つかまつる。彼は、極めて真面目な男にて、言った事は必ず実行すると考えて構いませぬ』
 吾輩はこの第48代なる者を知っておるが、ものは言いよう、とはこの事だ。一体、この第48代という男は真面目そうな話しか出来ぬ男である。というよりも、全てを真面目に解釈する男である。その証拠に、漱石とかいういい加減な男の意訳書を本気に取って、吾輩の生年月日を割り出そうとした程だ。こんなガチガチの男がこの店で生き延びれるとはとても思えない。
 そもそも真面目とは何か? 例えば、某国首相や某国大統領の言う事を真面目に受け取る人間を想像するが良い。嘘つきの言う事を真に受けて、いくら嘘だといっても信用してくれない人間を想像するが良い。これが『真面目』な人間だ。こういう真面目な人間が、正義の戦いと信じて侵略を繰り返すのである。こういう真面目な人間が、正義の戦いと信じて人質テロに走るのである。或いは、人から止められても自己の信念と称して、近隣諸国の嫌がるような事をやるのである。交渉の余地なんかありゃしない。
 もっとも、あの文字ゲリラの言う『真面目』であるから、少しは差し引いた方が良いかも知れない。というのも、この文字ゲリラは某自称美学者と同じく『真面目』『気兼ね』『心配』『配慮』というものを生まれた時に何処かに置き忘れて来たに違いない男だからである。ラビン髭を生やしたこの男は、千一夜物語に出て来る空飛ぶ絨毯の材料で凧を作って世界一周して来たとうそぶくような人間である。その前は、錦糸卵の代わりにバナナの皮を使った寿司を食べて美味しかったと云っていた。こんな男の云う『真面目』は何処まで真面目なのか分かったものではない。現に第48代我輩なる男は吾輩の許可も得ずに第48代と自称している。しかも『吾輩』ではなく『我輩』と自らを呼んでいる。こんな男が常識的に意味で真面目であるとはとても思えない。寧ろ非常識な真面目、あるいは真面目な非常識と云うべきだろう。
 例えば、かつてある会合で第48代我輩が文字ゲリラを紹介した事があるが、その時の口上は極めて長く、文字ゲリラの趣味から好みからイタズラの数々に至るまで、こと細かく説明し、誉め上げていた。そうして、他の連中の紹介が尽く15秒以内で終るなか、第48代我輩だけが5分もかけていたのである。そもそも文字ゲリラの紹介なぞ「彼は和菓子好きのホラ吹きです」の一言で済む話ではないか。これはもはや紹介というものではない。宣伝、そう、選挙カーの連呼と同じく、政治家の演説と同じく、一種の洗脳行為である。見合いの席でならやっても構わないが、、、いや、見合いの席ですら長過ぎるだろう。
 それにしても、紹介する時に誉め言葉ばかり使うのには辟易する。いくら復讐が怖いからとは云え、もう少し真実を述べても良さそうなものだ。確かに第48代我輩と文字ゲリラの間の相互紹介は、第48代我輩の馬鹿真面目と文字ゲリラの皮肉が微妙に調和しておるから 理解できないとは言えないが、吾輩は他の例を知っており、それは確かに復讐が怖いからに違いないからである。それは山仙と海仙の間の紹介だ。

続く

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