広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-167:松森神社のクスノキ群
上西山町4(旧長崎村西山郷字松ノ森)【松森神社境内】
松森神社境内には7本の大きな(くすorくすのき)が点在しています。はふつう独立して立つものが多いのですが、松森神社は狭い範囲に郡をなしている点です。現在、市指定天然記念物に指定。




A-166:職人尽(しょくにん-づくし)
上西山町4(旧長崎村西山郷字松ノ森)【松森神社境内】
職人尽は、正徳3年(1713)松森神社境内の建物を改修した際に奉納されました。これは本殿を囲む瑞籬(みずがき:垣根の意)の欄間30枚に彫られていて、様々な職人の生活の様子が彫刻されています。下絵の作者は不明ですが、彫刻者は御用指物師の喜兵衛と藤右衛門とされています。さらに天保3年(1832)には石崎融思が色付けしたともいわれている。現在、県指定有形文化財に指定。




A-165:松森神社/松森天満宮
(まつのもり-じんじゃ/-てんまんぐう)
上西山町4(旧長崎村西山郷字松ノ森)
元和年間(1615−1623)肥前松浦郡の川上久右衛門光房が今博多町に移り住み、祖先より伝わる菅原道真自筆の掛け軸を大切にお祀りしていました。ある日、掛け軸を入れた筒が奇光を発したのできちんと社を造り安置するようになります。これが寛永3年(1626)松森神社の創建になります。明暦2年(1656)この地が市街地に囲まれるようになり現在の西山の地に移ることになるのですが、その場所はもともと諏訪神社があった場所で当時は元諏訪または圓山と呼ばれていました。延宝8年(1680)長崎奉行牛込忠左衛門の寄付により社殿が整備されます。牛込奉行は境内東側の三本の松の木を見てこう言いました。「三つの枝を合わせれば森の字になる」このことから松森と名付けられます。




A-164:西山(にしやま)
西山はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村西山郷とします。明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村西山郷、明治31年(1898)長崎市西山郷、大正2年(1913)西山郷は西山町1〜3丁目、上西山町、下西山町に分けられます。のちに西山1丁目を中心に再編され西山本町が作られます。地名の由来は長崎氏の居城があった桜馬場から見て西の方角にあたることから西山と命名されました。




A-163:料亭富貴樓(りょうてい-ふうきろう)
上西山町5(旧長崎村西山郷)
富貴樓は長崎でも有数の料亭で、明暦年間(1655頃)の吉田屋が始まりといわれています。延宝8年(1680)千秋亭と呼ばれるようになり、寛政の頃(1790代)には「崎陽松の森の千秋亭」と称されるようになります。またその頃、長崎奉行所勘定方であった大田南畝(蜀山人)もよく訪れていました。一旦、明治20年(1887)富士亭になりますが、明治22年(1889)内閣総理大臣であった伊藤博文が来亭した際、屋号を富貴樓と命名してもらいます。このほか富貴樓は宮内庁関係の方々が多く訪れ、卓袱料理を始めとする伝統料理を受け継いでいます。




A-162:西山口/西山街道(にしやまぐち/-かいどう)
長崎市炉粕町〜川平町〜三根郷〜野川内郷〜伊木力…大村
西山口は長崎の出入口の一つで長崎市中心部の東北に位置し、西山街道となって炉粕町の諏訪神社参道より始まります。西山街道は途中から3つに分かれ、右手は矢上、直進は多良見町伊木力、左は浦上へと向い、特に伊木力から海路大村へと続き大村藩が専用に使っていた街道でした。また、殿様道と呼ばれ川平町-長与町三根郷間には籠立場もありました。




A-161:真言宗功徳院跡(こうとくいん-あと)
上西山町2-12付近(旧長崎村西山郷)
延命寺開基の龍宣は寛永7年(1630)西山郷に功徳院を創建。その後能仁寺と合併。




A-159:真言宗旃檀山能仁寺跡(せんだんざん-のうにんじ-あと)
上西山町3付近(旧長崎村西山郷)
正保4年(1647)延命寺の僧:長音が弁財天を桶屋町に妙音院としてお祀りしたのが始まりで、寛文2年(1662)西山に移転、このとき材木町乙名:津田又左衛門が赤旃檀(あかせんだん)で彫られた釈迦像をシャムから持ち帰り堂内に安置します。ここから旃檀山能仁寺と改称されます。明治18年(1885)維持が困難となり延命寺内の愛染院に合併、のち愛染院も延命寺に合併。※旃=栴、栴檀は薬や家具材に利用。




A-158:マクドナルド顕彰之碑(-けんしょうのひ)
上西山町1-4前付近(旧大悲庵前)
江戸末期の嘉永元年(1848)アメリカ人のラナルド・マクドナルド(1824-1994)は、捕鯨船員として北海道近海までやって来ますが、その後、北海道利尻島に寄港、鎖国時代の日本では密入国者として捕らえられ長崎に護送されます。そして長崎では大悲庵の座敷牢に置かれますが、彼の教養が幕末社会に必要と認められ長崎奉行から英会話の指導者に任命されます。そして森山多吉郎などオランダ通詞らが英語を学び、約7ヶ月後、マクドナルドは帰国が許されアメリカに帰ります。帰国後マクドナルドはアメリカ議会に“日本人は礼儀正しく文化レベルが高い”と報告します。なお、森山多吉郎は下級通詞でしたがマクドナルドに優秀と評価されていたため、ペリーが来航した際の通訳に抜擢され外国奉行通弁役頭取に出世します。森山多吉郎の墓所は本蓮寺後山。




A-157:黄檗宗大悲庵跡(おうばくしゅう-だいひあん-あと)
上西山町1付近(旧長崎村西山郷)
大悲庵は崇福寺の末庵で、元禄6年(1693)崇福寺境内に創建されます。その後、宝永2年(1705)西山郷諏訪の馬場に移転します。しかし明治維新より維持が困難となり、崇福寺境内にあった廣コ院に明治10年合併されます。しばらくして廣コ院も廃寺となりました。




ケイズルの馬上練習
享保12年(1727)6月3日、オランダ船2隻が長崎に来航。このときの輸入品の中に馬2頭も含まれていました。そして6月25日、オランダ人馬術師ケイズルはこのを使って流鏑馬馬場において乗馬練習を実施します。この時、唐人2名も日本馬を使って乗馬練習をしたそうですが、当時、大変珍しい光景だったため、多くの見物人が集まったそうです。




A-156:流鏑馬馬場(やぶさめ-ばば)
馬町(旧 馬町)【松森通り】
流鏑馬馬場は別名横馬場ともいい、諏訪神社二の鳥居から松森天満宮までの通りをいいます。流鏑馬とは馬を走らせ矢で的を射る儀式のことで、江戸時代、諏訪神社の神事(例大祭)終了の日、ここで流鏑馬を行なったところからこの名が付いたといわれています。当時はこの通り、諏訪神社の所有地でしたが明治維新後、売却されたりや市有地にかわります。また、明治期から昭和の初めまでこの通り沿いに瓊林館(建物は現存)という料亭があって神社の茶屋(料亭の意)として利用されていました。




A-155:馬町大師堂(うままちだいしどう)
馬町73 (旧 馬町)
馬町大師堂の創建は定かではなく、馬町住民によってお祀りされている弘法大師のお堂です。ここは大正時代に開かれた旧長崎四国八十八霊場の中の七十七番目に当たる霊場で、このお巡りは第2次大戦時に途絶えてしまいます。
この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、昭和28年(1953)からは延命寺第22代住持:堤祐演によって復活されました。再開されたお巡りではこのお堂は入っていません。




A-154:諏訪神社(すわじんじゃ)
上西山町18-15(旧長崎村西山郷字玉園山)
諏訪神社には三体の神(諏訪、住吉、森崎)が祀られていて、そのうち諏訪神社は弘治年間(1556頃)長崎甚左衛門の弟の織部亮為英が京都より諏訪の神を受け東山(現在の寺町長照寺付近)にお祀りしたことに始まり、住吉神社は小島郷尾崎(現在の正覚寺付近)に、そして森崎神社はいつの頃か森崎(現在の県庁付近)に祀られていました。しかし、キリシタンによる迫害によって破却されたためその記録は定かではなく、特に慶長14年(1609)頃起った迫害では御神体まで廃棄されたといわれています。
 そこで修験者の青木賢清は神道の再興のため長崎入りし、寛永2年(1625)長崎奉行長谷川権六郎の援助のもと諏訪神社を西山郷圓山(現在の松森神社)に再建します。慶安元年(1648)現在の玉園山に移転、この頃は玉園山神宮寺とも称していました。江戸時代も中期になるとオランダ人や唐人なども参詣するようになり大いに賑います。度重なる台風や火災に何度も倒壊や焼失しますが、総町(長崎の全町)からの寄進によって再建を繰り返します。そして長崎の氏神様として親しまれ、10月に行なわれる大祭(くんち)は日本三大祭と称されています。




A-153:荒神社跡/天台宗宝泉坊跡
(こうじんしゃ-あと/ほうせんぼう-あと)
炉粕町45,46付近(旧爐粕町)【諏訪神社駐車場】
この荒神社は、宝泉坊量海という僧が官命により三宝荒神(かまどの神、火の神)を寛永11年(1634)にお祀りしたことに始まります。また、この荒神社は開基から宝泉坊とも称していて、言い伝えでは、ここの神像は弘法大師の作といわれていました。この荒神社は両部神道として神仏習合(神と仏が交じり合ったもの)の典型的な寺院で、荒神と称しても三宝荒神という仏様をお祀りするものでした。明治維新を受け廃寺となります。




A-152:曹洞宗大同庵跡(だいどうあん-あと)
炉粕町9付近(旧爐粕町)
享保16年(1731)晧臺寺の僧:古岳が一庵を構え大同庵と称しました。そして後山に中国の石工:鉅鹿道偉によって五智如来と羅漢像を建立します。この大同庵ですが、文化10年(1813)伊能忠敬が長崎を測量した際の滞在場所に使われました。明治12年(1879)大同山慈雲寺と改称して、明治15年(1882)波佐見町中尾郷に移転します。現在、その面影は何も残っていません。




諏訪荘跡(すわそう-あと)
本覚寺は明治維新を受け廃寺となり、その後、当時の豪商永見寛二が立て替えして大正9年(1920)に屋敷を構えます。昭和11年(1936)になると諏訪荘という旅館に変わりました。諏訪荘は純和風の旅館で皇族などがお泊まりになるなど長崎を代表する旅館でしたが、昭和59年(1984)に廃業し、一時、マンション建設などで解体されるところでしたが、日経連の今里廣記らの協力で平成2年(1990)諏訪神社境内の現在地に解体移転します。現在は諏訪神社の祭事などに使われています。




○本覚寺豊前坊鳥居
国道34号線の番所バス停付近から彦山(英彦山)および豊前坊に向かう登山道があって、頂上に英彦山神社があるところから登山道入り口には一の鳥居、日見新道(旧道)には二の鳥居がそれぞれ建っています。一の鳥居は安永9年(1780)に建立されたもので当初は長崎街道沿いに建っていて、その位置は水源地に水没しています。二の鳥居は天明6年(1786)炉粕町の本覚寺内に建立されたもので、明治維新を受け廃寺となり後五島町の松本卯市と末広町(現 出島町の一部)の御厨萬之助らが購入し松嶋神社に奉納するのですが、鳥居額面に「英彦山神社」とあることから英彦山神社参道に奉納となりました。




A-152:天台宗如意山本覚寺跡(にょいざん-ほんかくじ-あと)
炉粕町8,9付近(旧爐粕町)【旧諏訪荘跡】
元和元年(1615)大賢坊厳盛が、現在の福岡県英彦山から英彦山大権現勧請してお祀りしたのが始まりといわれています。当初は如意山正覚院神地寺として八百屋町にありましたが、寛延元年(1748)この地に移り本覚寺と改められます。ここの5代日照坊覚潭は飯盛山(本河内町)に豊前坊(ぶぜんぼう:神様の名前)をお祀りします。これが現在呼ばれている豊前坊(山の名前)の始まりとなります。明治維新を受け廃寺となりました。




A-151:曹洞宗コ光山高林寺跡(とっこうざん-こうりんじ-あと)
炉粕町43(旧爐粕町)
高林寺は正保3年(1646)晧臺寺一庭が禅僧:天宗融察とオランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け創建しました。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という晧臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受けてここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し移転することになります。これが現在、鳴滝にある高林寺の起源となります。なお、炉粕町の旧地は三菱長崎造船所に売却されました。現在地は鳴滝1-6-27。




日本銀行長崎支店(にほんぎんこう-ながさきしてん)
日本銀行は明治15年(1882)に日本の中央銀行として設立され、長崎支店は昭和20年(1945)の日本銀行長崎事務所が始まりで、当初は梅香崎町にある横浜正金銀行内に置かれました。昭和24年(1949)長崎市博物館を日本銀行長崎支店に譲渡することになり、増改築後、九州で6番目の支店「日本銀行長崎支店」が営業を開始します。昭和53年(1978)現在の建物が完成。他支店にない珍しい設計の建物として親しまれています。




A-150:市立長崎商品陳列所跡(ながさき-しょうひん-ちんれつしょ-あと)
炉粕町32 旧爐粕町【日銀長崎支店】
明治29年(1898)長崎市は広く市民に国内外の農工産物の紹介する施設として設置された施設で、あわせて県市の特産品の特産品の販路拡張の機関として長崎商品陳列所が置かれました。明治36年(1903)からは製品の委託販売も行なわれ、後に長崎商工奨励館と改称、昭和16年(1941)長崎市博物館となります。第二次大戦後、長崎市が旧長崎市博物館を日本銀行長崎支店に譲渡することになり、そのためその移転先として馬町にある山之邊邸を長崎市が購入して長崎市博物館に転用します。昭和30年(1955)平野町に長崎国際文化会館が完成すると長崎市立長崎博物館は会館内に移転。今に至ります。




A-149:日本最初の缶詰製造の地/松田缶詰製造所跡
炉粕町32 旧爐粕町【日銀長崎支店】
缶詰製造の始祖といわれる松田雅典(天保3:1832-明治28:1895/まつだ-まさのり)は、勝山町乙名:馬田家に生まれ後に金屋町乙名:松田家の養子となります。明治2年(1869)広運館の取締のとき、フランス人講師レオン・ジュリーが牛缶を食していたことに興味を持ち、缶詰製造の指導を受けるようになり、ついにイギリス人から購入した機械でイワシ缶製造に成功します。後に長崎県勧業御用係(農工業の奨励の役目)になり県令(知事)を説得。明治12年(1879)この地に長崎県缶詰試験所を置き、主任となります。しかし明治15年(1882)閉鎖。明治17年(1884)払下げを受け、自営にて松田缶詰製造所として立ち上げます。没後、経営者も変わり明治29年(1896)には合名会社とし、翌年、夫婦川町に移転、日露戦争では軍需品として成果を上げますが閉鎖となります。松田雅典墓所は皓臺寺。




A-148:長崎県立長崎図書館
長崎県立長崎図書館は明治45年(1912)それまで長崎にあった長崎文庫、長崎県回覧文庫、荒川文庫などが統合され長崎市新橋町(現 諏訪町:市立保育所)に開かれたものが始まりで、その後、大正4年(1915)大正天皇即位記念として交親館が増改築されたのを期に新橋町にあった長崎県立長崎図書館がここに移転します。
昭和29年(1954)当時の佐藤勝也副知事、田川努長崎市長、中部悦郎商工会議所会頭が発起人となり長崎国際文化センター建設の計画を発表。翌30年(1955)原爆投下10周年を記念し、5ヶ年計画で県立図書館、美術館、体育館、水族館、市公会堂などの建設を決定し長崎国際文化センター建設委員会を設立します。昭和34年(1959)多くの募金によって鉄筋コンクリート建に建て返られ、世界各地から書籍の寄贈が行なわれました。




A-147:交親館跡(こうしんかん-あと) 
立山1-1-51(旧長崎村西山郷)【長崎県立図書館】
現在の長崎県立図書館のある場所はもともと長崎奉行所立山役所の鎮守神の稲荷神社と馬見所があった場所で、明治維新によって奉行所が廃止されると稲荷神社は若宮神社に移転し、馬見所には明治14年(1881)長崎の迎賓館の役割を持つ交親館が建てられます。2階建の洋館で1階に長崎県会議事院、2階が迎賓館でした。明治44年(1911)現在の長崎県庁のところに長崎県会議事院が完成したため県会議事院は移転。その後は集会場となります。大正4年(1915)解体、改築され、新橋町にあった長崎県立図書館を移します。




A-146:長崎公園/諏訪公園(ながさき/すわ-こうえん) 
安禅寺は明治維新を経て廃寺となりすべて破却されます。明治政府は明治6年(1873)太政官布告(だじょうかんふこく)を出し日本の公園整備を推し進めます。長崎では明治7年(1874)その安禅寺の跡地を公園として整備、長崎初の近代的な公園:長崎公園(諏訪公園)の誕生となるのです。また、長崎公園には日本で始めて噴水が設置され(現在は複製)、さらに明治12年(1879)には日本で2番目の博覧会となった長崎博覧会が開催され長崎公園は大いに賑います。現在では、約20基以上の長崎の功労者などの記念碑、銅像などが立ち並び長崎人の憩いの場となっています。




東照宮神社【長崎公園丸馬場上手】
東照宮とは徳川家康を祀った寺院のことをいい、栃木県日光にある東照宮がその中心となるところで徳川家康の墓所に当たります。江戸時代初期、徳川幕府は全国の諸大名に東照宮建設の命を出し各地に東照宮が作られます。長崎では安禅寺に置かれることになり、承応元年(1652)江戸東叡山寛永寺大僧正:公海に安禅寺の開創を申し出た際、絵師:狩野探幽による東照大権現(徳川家康)の絵が送られ、ただちに東照宮を建立します。貞享4年(1687)からは長崎奉行の交代の引継ぎがここで行われるなど徳川幕府の象徴的寺院となっていましたが、明治維新を迎え廃寺となり諏訪神社に合祀されます。明治22年(1889)信徒によって(1889)現在地に移され明治30年(1897)社殿が再建され現在に至ります。




A-145:天台宗松岳山正光院安禅寺
(しょうがくざん-しょうこういん-あんぜんじ-あと)
上西山町19一帯(旧長崎村西山郷)【長崎公園】
安禅寺は正保2年(1645)僧玄澄が庵を建てたのが始まりで、承応元年(1652)長崎奉行黒川興衛門、甲斐庄喜右衛門らから多くの寄進を得、さらに江戸東叡山の大僧正公海に開創を申し出ると、絵師狩野探幽による東照大権現(徳川家康)の絵を送られます。その上、東照宮(家康廟)安禅寺に祀るようになると、徳川幕府の繁栄につれ安禅寺は大いに発展し多くの建物が造られます。文政2年(1819)には現存の石門が造られます。しかし幕末(安政時代)になると長崎の海外貿易も衰退、さらには徳川幕府も没落したことから存続が困難となり、ついに安禅寺は廃寺となります。そして、仏像や宝物などほとんどが売却や譲渡され、跡地が諏訪公園(後の長崎公園)となります。




A-144:炉粕町(ろかす-まち) 現 炉粕町
炉粕町(爐粕町)には開港直後、セント・ルカス教会があったと伝えられ、そのルカスが「ろかす」に変わったといわれています。しかし、その教会の存在は定かではなく、正確には灰吹銀(はいふき-ぎん)つまり銀の精錬する業者が数多く住んでいて、その炉の粕(かす:不純物の意)という意味で炉粕町となったようです。また、炉粕町は諏訪神社の参道を交差する通りで、諏訪神社の門前というところから別名を宮前(みやまえ)町とも呼んだり、当時の諏訪神社の有力者:宮崎氏が住んでいたところから宮崎町とも呼よばれていました。明治維新後は長崎の財界人が住むようになり、昭和30年(1955)頃には長崎貯蓄銀行の頭取:高見和平の名前や、もと十八銀行頭取:永見寛二などが住んでいました。




A-143:御座町/本御座町/新御座町(ござまち/しん-/もとござ-まち)
現 八百屋町、中町
江戸時代初め、畳やゴザなどを扱う商人らが多く住んで開かれた町が御座町で、当時、長崎では藺草(イグサ)を生産していなかったため畳の材料などすべてを筑後方面から運び入れていました。そのため筑後町に隣接する地域が選ばれ、さらに御座町は扱っている品物から別名を花御座町とも呼ばれていました。長崎の発展と共に畳ござの需要が増し御座町の隣りに新御座町が開かれ、これにより御座町本御座町に改称します。しかし、町域が複雑なことなどから正保時代(1645頃)には本御座町八百屋町に編入され、新御座町は中町に編入されます。なお、その中町に編入した新御座町ですが寛文12年(1672)に再び独立し東中町に改称します。




A-142:制札場跡(せいさつじょう-あと)
八百屋町34(町名変更なし)
慶長2年(1597)長崎奉行所は幕府から一般市民への広報の場となる制札場を大波止に設け、禁止事項や布告などを掲示し、のちには禁教令などの布告も行います。その後、延宝8年(1680)に豊後町、明和2年(1765)八百屋町と移り、文化5年(1808)には市内15ヶ所に増やされます。制札場は奉行所の管轄で、平時は各設置場所の乙名が管理し、夜警も行っていました。




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