広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
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中国に行って思ったことは、私たち日本人にとって中国とは近くて遠い国だと思いました。こんなに近くにお隣りの国があるのに私たちは飛行機で何時間もかかる欧米の方ばかり向いているように思えます。先日ある新聞に“欧米の顔をしたアジア人”とありました。戦争の影響、文化のレベル、国の考え方など様々な要因が考えられます。しかし、日本人は1000年以上も多くのことを中国から学びました。特に長崎人は江戸時代、中国の高貴な血筋を入れようと中国人と結婚をし、中国と接点を持つことを誇りに思っていました。興福寺や崇福寺、眼鏡橋に孔子廟、唐人屋敷、新地中華街、卓袱料理にちゃんぽん、くんちの蛇踊り、唐人船など、すべて中国と関わりがあるもの。「古きを訪ねて新しきを知る」中国を知ることは、今の日本、それも長崎を知ることになるでしょう。




福建省の泉州と福州の中間地点の山あいに黄檗山萬福寺は存在します。長崎でいうところの矢上の「滝の観音」といったところでしょうか。萬福寺は1978年の中国の宗教性策や大水害などでほとんどの建物が破壊されました。その後、多くの信者や日本の黄檗宗関係者の寄付により現在の黄檗山萬福寺が建設されます。長崎の興福寺や崇福寺の10倍とも20倍ともいえる敷地に天王殿、大雄寳殿、観音堂など10余りの建物で構成されています。この地に立った時、私は震えが来るくらいの驚きと感動を覚えました。この中国の山あいのところから隠元禅師は船にのって日本に渡る。今でさえ大変なことを350年も昔に成し得たこと、頭が下がります。




今回の中国旅行のハイライトは何と言っても隠元禅師ゆかりの黄檗山萬福寺でしょう。隠元禅師は日本の仏教(臨済宗)の再興のために、江戸時代初めに日本に渡って来られました。それも3回の招きがあってようやく4回目に日本に来られたのです。それに日本に渡った年齢は63歳。当時のことです。今でいう100歳!ともいわれています。この3回も拒んだ理由に隠元禅師の中国での地位です。中国の第一の学者ともいわれた人物であったため中国の国自体が許さなかったのです。その後、3年という期限付きで日本に渡られるのですが、最後は日本に骨を埋める覚悟をします。ここで日本の国がいかに隠元禅師を必要としたかというと、時の将軍家綱公や天皇までも隠元禅師のお弟子さんになったといいます。それだけ隠元禅師は当時の中国の最先端の文化を持っていたという訳です。ここから食生活や生活習慣が現代のように変化していきます。このすばらしい隠元禅師をもっと長崎人は知って欲しいと思います。




今回、訪れたところを紹介します。厦門市:コロンズ島、南普陀寺、烏龍茶製茶工場。泉州市:開源寺、海外交通史博物館、清源山。福清市:万福寺。福州市:鼓山、湧泉寺、西禅寺。などなど。一つ一つ紹介したいのですが、何かの機会にでも・・・。ここでクイズです。次の漢字は何を意味しているでしょう?@莫斯科A新加坡B法国(1~3ヒント:地名) C肯徳基D百事可禾E拉面(4~5ヒント:食べ物飲物) F馬可波羅(ヒント:人物) G洗手間(ヒント:場所) H火車I汽車(9~10ヒント:乗り物)
答えは掲示板に書いておきます。




中国に行きましたが、長崎から空路で上海(しゃんはい)へ渡りました。長崎空港を午後1時15分発、上海浦東空港に午後1時30分に着きました。“15分?”間違いではありません。時差が1時間!日本より1時間遅れなのです。つまり、所要時間は1時間15分という訳です。東京より近いでしょ!こういう点からでも、江戸時代や明治大正昭和初期、長崎の町が江戸よりも中国との交流が深かったことが伺えられます。昭和の始めは長崎港から上海行きの船が出ていました。気軽に中国に行く、パスポートも必要としない時代、長崎県上海市と呼ばれた時代があったそうです。




中国福建省から帰って来ました。とても楽しい旅で大満足です。今回の旅は長崎史談会主催の研修旅行で、普段なかなか立ち入ることのない所を巡りました。いわゆる旅行ツアーではない史談会オリジナルコースという訳です。中国福建省といってもピンとこない方は沖縄の南、台湾から海を挟んで大陸沿岸地域をいいます。今回の旅は私の人生観まで変えるくらいの感動がありました。また、すぐにでも中国へ行きたいと思っています(今回の旅行のローンが終わってから・・・)。中国はもともと興味がある国でしたが、好きな国に昇格です。拉面(ラーメン)が5元(1元=約16円)というのも感動です。




【おしらせ】
明日(10/21)から、10/25日まで
長崎史談会中国研修旅行のためお休みします。
興福寺や崇福寺の隠元和尚ゆかりの地
中国福建省に行ってきます。みやげ話をお楽しみに。




諏訪神社の裏手、たくさんの楠(くすのき)の森があります。いわゆる諏訪の森です。この諏訪の森の中に一本の道路があります。車1台がようやく通る場所もありますが、たくさんのカーブを通り立山の方につながります。この道を霞路(かすみじ)といいます。昔の絵巻物など場面が変わるとき雲(霞:かすみ)が区切りとなりますが、この道もゆらゆらと流れて行く感じがかすみという訳です。一説には六角道という言い方もありますが(六角形の東屋があるところから)、霞路の方が雰囲気が出ますね。




諏訪神社は知る人ぞ知る全域が狛犬の美術館です。一の鳥居から入り拝殿の裏や奥の方まで大小様々な狛犬さまに出会います。参道の左右にあるもの、一人ぼっちのもの、不思議ないわれがあるもの、狛犬なのにカッパの形のもの、ぐるぐる回転するものなど様々です。このように視線を変えて歩いて見ましょう。記念碑、記念樹、句碑、銅像、珍しい植物、そして、神社グッズも面白いです。長崎人が以外と立ち寄らない場所、それは諏訪神社ではないでしょうか。




昨日のつづき。森崎さま恵美須さまという説がありますが、他の文献には杵崎(きねさき)大明神が祭られていたとか、熊野権現をお迎えしたなどとあります。しかし、結論としてはやはりよく分からないということ。それは長崎開港後、長崎の町(森崎を中心とした地域)はクリスチャンの町となり県庁のところにあった森崎さまの社は破壊されてしまったからです。
※ここで16日に“森崎さまの表記がイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)とあります”この理由は、熊野権現の神さまは@家都御子神(けつみこのかみ=素戔鳴尊:すさのおのみこと) A熊野速玉男神(くまのの-はやたまの-おのかみ=伊邪那岐命:いざなぎのみこと) B熊野夫須美神(―ふすみの-かみ=伊邪那美命:いざなみのみこと)以上の三神からなり、ABを意味していると考えられます。




長崎といえば森崎のこと。現在の諏訪神社のところから市役所〜県庁にかけて細長い岬、長い崎になっているところから長崎と呼ばれるようになったともいわれています。そして今の市役所付近から消防局前〜長崎県警付近にかけて松並木があって県庁のところだけ木が生い茂り森になっていました。だから※森崎という訳です。当時(長崎開港前:元亀2年:1571以前)長崎は小さな漁村に過ぎませんでした。猟師の人々は海の神様の恵美須さまをお祭していたものと思われ、岬の先端はシンボル的場所であったのでここには恵美須さまの祠(ほこら:小さな社)があったものと考えるのが自然でしょう。つづく・・・ 

※【岬の先端に木が生い茂ればすべて森崎です。今の青柳のある丸山の小高い所も森崎と呼ばれていました:長崎森崎森崎長崎




10/1に“お諏訪さま”のことを紹介しましたが、今日は“諏訪神社”について紹介します。長崎の諏訪神社にお祭されているのは、お諏訪さま森崎さま住吉さまの三体です。お諏訪さまは長野県の諏訪大社を中心に全国に5千社、住吉さまも大阪や博多などに多く祭られています。森崎さまイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)とあります。




諏訪神社にマクドナルドがあります。といってもハンバーガーショップが諏訪神社にあるのではありません。アメリカ人のラナルド・マクドナルド(1824-1994)のことです。流鏑馬馬場(10/14参照)の途中にあるマクドナルド顕彰之碑を紹介しましょう。彼は江戸時代末期、捕鯨船員として北海道近海までやって来ます。その後、北海道の利尻島に寄港しますが鎖国時代の日本では密入国者として捕らえら、長崎に送られます。しかし、彼の教養が幕末社会に必要と認められ長崎奉行から英会話の指導者に任命されます。その後、帰国が認められアメリカに帰るのですがアメリカ議会に“日本人は礼儀正しく文化レベルが高い”と報告します。




古い資料によると諏訪神社の宮日は9月9日から11日までの3日間開催と明記してあります。もちろん旧暦ですので現在でいうところの10月です。そして、11日のお上りの後、長崎奉行を始めとする役人さん達にはお神酒が振舞われ、直ちに流鏑馬(やぶさめ)を見ていたそうです。流鏑馬とは馬に乗りながら的(まと)を目掛けて矢を射ることで、宮日の一連の行事の一つでした。では、その流鏑馬はどこで行なわれていたのでしょう。それはニの鳥居と三の鳥居の間、松の森天満宮に向う一直線の道です。この道は現在、松の森通りと明記してありますが、実はきちんと流鏑馬馬場(やぶさめばば)という名前を持っています。




昨日のつづき。四の鳥居の女石の上手にはまよひ子志らせ石(迷い子知らせ石)という石碑があります。建立当時の明治時代、諏訪神社は今以上に参詣者であふれていたそうですが、参詣者が多いということは迷子が多いということで、たくさんの子供の泣き声もよく聞こえていたそうです。そこで、長崎県警察課警察署の警部さん達の手によってこの石碑が建立されます。石碑には「たづぬる方」「おしゆる方」と書いた面があって、子供を探している親は“自分の住所と子供の名前”を書いた紙を「たづぬる方」と書いてある面に貼って石碑の前で待ち、一方、子供を保護した人は“その子の名前と年齢と特徴”そして“保護した人の住所と名前”を書いた紙を「おしゆる方」と書いた面に貼り、石碑の前で待つといった方法です。この石碑建立以降、この前で多くの親子の再開を見ることが出来るようになったとの事。建立当初は一の鳥居のそばにあったそうですが今では引退してこの地に立っています。参照:9/26の欄も見て下さい。




諏訪神社を一の鳥居から登ります。社殿に着くまで多くの碑や史跡に出会います。今日からいくつか紹介したいと思いますが、まず初めは、一の鳥居をくぐると出迎えてくれるのが陰陽石男石です。男性の象徴を輪切りにしたものと考えて下さい。真ん丸の石を路面に見ることが出来ます。次に、三の鳥居の先には陰陽石女石があります。六角形をしている女石は女性自身を表わしています(見るとなるほどと思う形です)。男性は女石を女性は男石を参詣の際は石の上に載ると異性運が上がるでしょう。




諏訪神社の宮日が終わるといよいよ郷(さと)ぐんちが始まります。郷ぐんちとはいわゆる長崎の旧市街地以外のお宮の大祭です。郷ぐんちの始めは伊良林にある若宮稲荷神社の秋の大祭からでしょうか。秋の大祭の目玉といえば竹ン芸ですね。10メートル程の青竹を二本立て、雄ギツネ役と雌ギツネ役にふんした男性が曲芸をするというもの。若宮さまはお稲荷さま、キツネはお稲荷さまのお使いという訳です。はらはらドキドキの曲芸は一見の価値あり。この竹ン芸、お諏訪さまの宮日と同じようにシャギリから始まります。そして、おキツネさまが登場と共に曲調が変わり、この独特の音色が会場を沸かします。曲芸と共に音色もお楽しみ下さい。10月の14、15日開催です。




宮日が終わってもまだ忙しいのが各踊り町の役員の方々です。踊り町となった町(ちょう)事務所には踊りの呈上を受けた方々からお花(ご祝儀)が届けられます。そのため10月いっぱいは朝から晩までその対応に追われます。10月中旬から下旬、踊り町はそのお花を頂いたところにお礼回りをするのが礼儀です。このお礼回りですが、もちろん草履(ぞうり)に紋付き、唐人パッチスタイル。宮日が去って少し寂しくなった長崎の町に、宮日のあの余韻を感じさせる草履の音が・・・。長崎もいよいよ秋が深まります。




宮日の祭事に神輿の渡御(とぎょ)があります。つまり、御旅所お諏訪さまが出かけることですが、どうしても奉納踊りの方が目立ってしまいます。でも、諏訪神社にとって神輿が大波止御旅所に向われることは大変なことなのです。呼び名も7日の諏訪神社からの出発がお下り、そして再び諏訪神社の方へ帰られるのがお上りです。なぜ、わざわざ旅に出なければならないのでしょうか? わかりやすくいうと、リフレッシュの旅、大波止の海(水)で一年間の厄を洗い流すところから来ています。神様も人間と同じように“温泉に入ってのんびり”といったところでしょうか。でも、最近は長崎港はきれいとはいえませんが・・・。




宮日では踊り場での奉納踊りが終わるといよいよ庭先廻りとなります。神様への奉納踊りを氏子のみなさんにもお裾分けするという意味ですが、踊り町にとっては大切なお花集めです。お花とはご祝儀のことで、まず、踊り町が各氏子の家へ踊りを呈上(ていじょう:披露の意)します。すると踊り町は呈上札を渡します。踊りを受けた側は“”と書いた花紙を渡します。これは約束手形のようなもので「披露しました」「受けました」ということを示したものです。そして、宮日が終わった後、呈上札を持って(最近は持って行かなくなりました)踊り町の町事務所にご祝儀を持って行くのです。ここで間違ってはいけない事、それは踊りの呈上後、その場でご祝儀を渡す行為です。これは失礼に当ります。もし、その場で渡せば物乞いと同じ意味になり、あくまでもお裾分けということを理解しなければなりません。




宮日(くんち)の奉納踊りで主役といえば踊り町、脇役といえば白とっぽでしょうか。この白とっぽ、一説によれば起源は罪人だったといわれています。桜町にある長崎市役所別館水道局のところはその昔、牢屋があった場所です(4/15参照)。当時、車や町の騒音がなかった時代です。諏訪神社で奉納踊りが行なわれていた時、この桜町の牢屋の辺りまでは踊りの鳴り物や声援はよく聞こえていた事でしょう。ところがその音に罪人達は騒ぎ出します。役人達は困り果て仕方なく罪人達を踊り馬場に連れて行くことにしました。しかし、罪人達が並んで入ると迷惑がかかるため思い立った事が、全員に法被(はっぴ)を着せたそうです。時代は流れ、いつの間にかその法被姿が白とっぽになったといわれています。




いよいよ宮日が始まります。宮日の奉納踊りが始まるときと終わるときに聞こえて来るものにしゃぎりがあります。このしゃぎりとはの意味があり、踊りの始まりと終わりに流れるという事は、が開いたり閉じたりする事と同じで、踊り馬場にはが無いためこのしゃぎりが節目という意味になります。“しゃんと切る”からしゃぎりとなったともいわれていますが、狂言や歌舞伎などにもあって、やはり一幕一幕の間に流されています。また、文献には「商宮律」の中国語読みから変化したともいわれていますが、いよいよ長崎人にとって落ち着かない日々が始まります。




今日は質問があったので・・・。宮日はもともと日に行なわれいました。だからくんちという訳ですが、日は重陽の節句、これを説明するには中国の重日(じゅうにち)思想が関係します。重日とは月の数と日の数が同じ数字となる日付。中国伝来の陰陽説によれば、奇数は陽(よう)の数、偶数は陰(いん)の数と考えられ、その中でもは一桁の奇数としては一番大きな数ということで陽の最大の数、つまり陽数でいちばん力の強い数と考えられました。日とはそのが2つも重なっています。一年中でいちばん最大、つまり縁起のいい日という訳です。だから、おめでたい日に氏神様に感謝する。踊りを奉納するということです。氏子としてはいちばん幸せなことではないでしょうか。明治になって暦(こよみ)が旧暦から新暦に変わります。宮日も月から10月に変わり現在に至っています。




3日の庭見せに引き続き今日4日は人数揃いです。読み方は“にいぞろい”“にぞろい”と人によって違いますが、私は“にぞろい”を推します。人数揃いとは各踊り町で行なわれるもので、お諏訪さまに披露する前に、まず自分の町内の人に見てもらおうというもの、つまり、踊りをお諏訪さまに披露しても失礼がないかどうかを見てもらおうということでしょう。江戸時代は乙名(おとな:今でいう町内会長)屋敷から始まり町内の各家々を廻っていたそうですが、予行練習の意味があって足並みを揃えるというところから人数揃いとなったといわれています。




今日は宮日(くんち)庭見せです。庭見せの起源は江戸時代の庭おろしといわれています。もともと9月1日(宮日本番は9月9日)に行なわれていて、行事としては長崎奉行所に今年の奉納踊りがどの様なものかを披露することでした。夜ともなると各踊り町の家や商店を開放し、ご自慢の家宝や傘鉾、曳(ひ)き物、衣装、それにお祝の品などを市民に見せるのですが、これは現在と一緒ですね。明治時代になり10月3日(宮日本番10月7〜9日)の庭見せに変わります。この庭おろし庭見せ、始まりは京都祇園祭りの宵宮(よいみや:前夜祭のようなもの)の影響が大きいといわれています。よく“切支丹(きりしたん)ではないという証拠に家の中を見せる儀式”といわれますが、庭見せが現在のようなものに確立したのは明治時代です。明治時代はもう自由に信仰していいはず。非切支丹説はあまりうなずけません。




お諏訪さまの踊り馬場から本殿に延びる階段を長坂といいますが、この長坂、何段あると思いますか?なんと73段です。なぜ73段なのか?「か」「“”が“”か 」つまり「七の」と「三の」で「か」です。あやしい理論ですが、なにもお諏訪さんだけが長坂ではありません。長崎市西部の飽の浦町にある伊勢宮さん(塩浜町)の階段も73段、やはり長坂なのです。そのほか、社殿前に階段がある所は73段が多いと聞きましたが、誰か他にこのような場所があったら教えて下さい!




今日から10月、いよいよ宮日(くんち)です。諏訪神社の歴史や宮日の歴史はもうご存知でしょう。そこで、お諏訪さまについて紹介します。お諏訪さまとは建御名方神(たけみなかたのかみ)のことをいい、建御名方神のお父さんは大国主神(おおくにぬしのかみ)です。大国主神は出雲大社に祭られている神さまのことで、いわゆる七福神の中の大黒さまのことです。大国主神はまた恵美須さまのお父さんでもあります。つまり、七福神の大黒さまの子供の一人がお諏訪さまであり恵美須さまであって、恵美須さまお諏訪さんは兄弟ということになります。※鍛冶屋町の奉納踊りは七福神の宝船:つまり「お父さんが子供に会いに来る」ということになります。




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