広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
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子供の頃「数を数えるとき」何と言ってましたか?例えばお風呂につかる時、かくれんぼで数を数える時など。一般的に“だるまさんがころんだ”を使いますが、これはちょうど10文字、数を数えるには都合がいいのです。でも、長崎は違います。“アチャさんのきんたま”こういう数え方です。ここで注意しなくてはいけないのは“ちゃ”と発音せず“ちや”といいます。つまり、“あちやさんのきんたま”です。アチャさんとは古い長崎弁で中国人の愛称です。もともと尊敬の意味があって、長崎人は当時から中国の人々をとても大切にしていた訳です。こういうところにも中国の影響があったのですね。




江戸時代末期、現在の上長崎小学校付近に御薬園がありました。漢方薬製造のため様々な薬草が植えられていたそうですが、特に大黄という種の培養製造方に唐人屋敷の出入り医師福地苟庵(こうあん)が任命されます。苟庵は漢方医で蘭学にも理解があった人物でした。その苟庵の子供が福地源一郎で、後の福地櫻痴です。櫻痴は幕末に幕府の外交交渉使節に随行し通訳を任されたり、その後も岩倉具視大使らと欧米を周り活躍します。そのほか、東京日日新聞では「社説欄」を新聞で初めて設けたり、歌舞伎座の創設も手掛けました。当時、東京で最も名の知れた長崎人といわれます。福地櫻痴(天保12:1841〜明治39:1906)墓所は大音寺。




史跡が移動する”どういう意味かというと「記念碑がいつの間にか撤去され、いつの間にか別の場所に建っていた」「一夜のうちに移動していた」など、よくある話です。例えば、万才町にあるグランドホテル横の「活版伝習所跡の碑」や梅香崎町の「気球初飛行の地の碑」が移動したことは有名な話です。間違っていた訳ではなく、歴史が解明されたり、解釈が変わったり、理由は様々。八坂神社の一の鳥居のそばに以前「福地櫻痴生誕の地」という碑がありました。最近、当初の場所から100メートルほど移転し油屋町寄りに建っています。ところで、福地櫻痴(おうち)とは・・・明日にでも




昨日の氷人について。中国の歴史書である晋書(しんじょ)のなかに月下氷人(げっかひょうじん)という話があります。その昔、狐策(こさく)という男が夢を見ました。その夢は大変不思議なもので、孤策が月の光る氷の上に立っていると氷の下に人がいて、孤策はその人と話をしたということでした。不思議な夢に孤策は占い師にその夢の話をします。占い師は孤策にいいます。「氷の下は陰(いん)、氷の上は陽(よう)、陰と陽が話し合ったのだから、氷が溶ける頃にあなたは結婚の仲立ちをするだろう」と予言します。するとその翌日に土地の有力者から「息子の結婚の仲立ちをしてほしい」という依頼を受けます。そしてその結婚はうまくいったそうですが、このことから月下氷人とは“良縁を結ぶ仲人”という意味になりました。




23日のつづき。聖天堂山門右には「奇縁氷人石(きえん-ひょうじん-せき」という石柱があります。左側に「たつぬるかた(訪ねる方)」、右側に「をしゆるかた(教える方)」と刻んであります。奇縁とは不思議なめぐり合わせという意味。氷人とは婚礼の仲人という意味です。これの使い方は、結婚相手を探しているとき、自分の名前を紙に書いて左側に貼ります。いい人がいますよ!と伝えたい方はその人の名前を紙に書いて貼るのです。これで完了。お互いお見合いという事になります。つまり、伝言板のような、今でいうところの“出会い系サイト”といったところでしょうか。




25日天神さまの日。朝から坂の上天満宮の大祭に行って来ました。それでは坂の上天満宮のお話。今から約380年前の元和寛永年間。現在の万才町の法務局のある所に大音寺がありました(4/23参照)。ある日一人の旅人が菰(こも:ワラの包み)を抱えてお坊さま(傳譽上人)にお話を聞かせて欲しいと訪ねて来ました。菰をしばらく預かってもらい話を聞くことになります。お坊さまの話が終わるとその旅人は菰を置いたままどこかに出かけてしまいました。数日待っても帰って来ないため寺の僧が怪しく思い、その菰を開いて見ると天神さま(菅原道真公)の像が現れました。粗末にしてはいけないと、すぐに社を建てました。数年後、大音寺は現在の寺町に移転します。天神さまも一緒に移転します。ある夜、お坊さま(傳譽上人)の夢枕に天神さまが現れ“元の場所に戻すように”とお坊さまに伝えます。すぐに最初の場所に戻したそうですが、当時、このことからこの天神さまのことを土産天神と呼んだそうです。坂の上天満宮の起源でした。




24日はお地蔵さまの日。清水寺下の道路沿いの塩かけ地蔵(4/16参照)は以前紹介しましたが、それから小島小学校へ向う途中に目当ての地蔵さまがいらっしゃいます。小島小学校は創立直後は今より清水寺に近い所(鳴川橋付近)にありました。それから明治41年(1908)4月に現在地に移ります。移転当時は畑の真ん中、通学路も何の目印もなく分かりにくかったようです。そこで通学路の別れ道に道案内と登下校の子供達の安全を祈り、お地蔵さまが作られました。目印の意味で目当ての地蔵さまです。今では家が密集し当時のことは想像もつきませんが、のどかな光景があったんですね。




清水寺の石垣の下に一つお堂があります。ここも清水寺の一部で聖天堂といい普段は入ることが出来ません。この聖天堂の門の横には「許不五辛酒肉入院内」という石柱があります。9/3に「許不葷酒入山門」を紹介しましたが、聖天堂のものはさらに厳しいものになっていて、まず、五辛(ごしん)とは五葷(ごくん)ともいい、辛味があって臭気の強い野菜で1大蒜(にんにく)2茖葱(らっきょ)3慈葱(ねぎ)4欄葱(のびる)5興渠(こうご:カレーの香辛料に用いる)のことをいいます。そしてこれらにが加わり五辛酒肉となります。つまり、これらを取ると臭気だけでなく精力を高めるため修行の妨げになるという理由から禁止されているのです。




昨日のつづき。妊娠5ヶ月目のの日に参詣する事について。の日(カレンダーの下などに“ね-うし-とら…”と干支が書いてありますが、その最後から2番目のいぬです)をあてるのは、のお産は軽く、また多産ということをあやかっていて、“小さく産んで大きく育てる”という言い慣わしがあるそうです。そして、腹帯(岩田帯ともいう)をする意味は、帯をきつく締めるとおなかの子に良いといわれていて大きくなり過ぎて難産にならないようにということだそうです。関係ありませんが私は年生まれです。




清水寺の本尊は観世音菩薩です。観世音菩薩、つまり観音さまのことですが、なぜ観世音というのかは「の中のすべての人々の(声)をる(知る)仏さま」ということで観世音菩薩だそうです。昔から子宝や子授けを叶えてくれる仏さまといわれています。特に妊婦さんは5ヶ月目の戌の日に参詣して腹帯を頂き、妊婦のおなかに巻くと安産になるといわれ、出産後にはお礼参りに出かけます。今でも長崎の清水寺では、そういった光景を見ることが出来ます。




その昔、慶順(けいじゅん)というお坊さんが京都清水寺から霊験あらたな場所を探して全国を旅していました。そして長崎に入り、小島辺りの民家で修行をしていたそうです。ある夜、東の方から光り輝くものを見つけます。翌朝、その光り輝く所に行って見ると大きな石がを発していたそうです。慶順は以前から信仰していた観音さまのお告げと信じ、その場所に清水寺を建立したという伝説が残っています。今でも本堂裏にまわると光り輝いたという石:瑞光石(ずいこうせき)が残っています。清水寺(きよみずでら)と私達は言いますが、正式には真言宗長崎山清水寺(しんごんしゅう-ながさきざん-せいすいじ)です。




16日のつづき。高平町の旧名を高野平(こうやびら)といいましたが、この高野平という地名は弘法大師(空海)に関係があります。空海は修行のため中国:唐に向われましたが、その途中、嵐に合い長崎港外の香焼島に立ち寄られたと伝えられています(6/17参照)。その後この付近に移り、清水寺の上手辺りの岩の上で修行されたといわれ、弘法大師が後に和歌山県高野山(こうやさん)(真言宗総本山の金剛峰寺)を開いたのを機に高野平となったそうです。ここでという字ですが、は傾斜のある場所を指す文字です(3/7参照)。当時この辺りは傾斜のある広野(曠野:こうや)であった所からが使われました。




4月3日にも紹介しましたが、長崎四国八十八ヶ所巡りのご案内です。これは長崎市内にある八十八ヶ所のお堂を4日間かけてお巡りするものです。四国八十八ヶ所巡りが困難な方に設けられたもので今年で50周年になるそうです。長崎の八十八ヶ所をお巡りすれば四国八十八ヶ所と同じご利益があるそうで、毎回100名前後の方が参加しています。私のこの会(長崎四国八十八ヶ所霊場会)の役員ですので、交通整理として参加しています。みなさんもこの機会にいかがですか。9月27日から30日まで。




高平町へは正覚寺下電停横から行くことができますが、ここにも面白い俗称の地名がありました。徳利町(とっくりまち)です。ちょうど、浜の町アーケードから油屋町通りを抜けると急に道幅が小さくなります。この道は少しづつカーブがかった通りで、奥に進むにつれだんだん狭く感じる不思議な道です。先の方が狭くなるのを徳利びんになぞったのでしょう。このほかフラソコ町(フラスコが訛って)ともいわれていたそうです。残念ながらこの徳利町を知っている人は少なくなりました。残して欲しい俗称の一つです。




崇福寺の墓所を登り詰めると矢太の所に出て来ます。矢太とは観光ホテルの矢太です。変わった名前だなぁーと思って調べて見ると、付近の地名だった事が判りました。以前までは長崎村高野平郷矢太でした。読み方は「こうやびら-ごう、あざ-やたろう」です。こうやって古い字名(あざめい)が残っている所もあれば消えてしまった所もあります。もともと伊良林は伊良林郷でしたし、本河内は本河内郷、十善会病院の所を十善寺郷といっていました。そして、字矢太のある高野平郷は長崎市に編入の際、高野平(こうやびら)高平(たかひら)町に変えただけなのです。




崇福寺の仏さまには五臓六腑(ごぞうろっぷ)が入っているといいましたが、五臓六腑をご存知でしょうか。五臓は、肺.心臓.脾臓(ひぞう).肝臓(かんぞう).腎臓(じんぞう)。次に六腑は、大腸.小腸.胃.胆(たん=肝臓).膀胱(ぼうこう).三焦(さんしょう)です。江戸時代、日本では人間の内臓は五臓六腑から出来ているものだと信じられていました。これは漢方的考えで中国の影響からです。西洋医学のように解剖して正確に身体の中を調べるという考え方ではなく、恐らくこうなっているだろう、こう考えなさいという概念です。だから、シーボルトが伝えた西洋医学は日本人にとって、とても驚くべき内容だったのです。ちなみに、六腑の中の三焦はどこを指しているのか、わからないそうです。




崇福寺の大雄宝殿(本堂)には正面にお釈迦さま、両脇に迦葉(※かよう)と阿難(あなん)がいらっしゃいます。昭和20年8月9日原爆の爆風により崇福寺は壊滅状態になりました。その時、この仏像も破損し、仏さまの首が取れたりしたそうです。その時、偶然にも仏さまの体に穴が空いていたのが見つかりました。そしてその中から銀製の五臓と布製の六腑が出てきたそうです。これは、仏さまにも魂があるという考えに基づき、人間と同じように内臓を作っていたのでしょう。(※迦葉の迦は本来は「点」が2つ付きます)




今日は私自身が思う崇福寺のことを。崇福寺は丸山の私の家から歩いて5分ほど。小学生の頃だと10分ぐらいでしょうか。“今日は遠くで遊びたい”と思ったときは崇福寺まで足を運びました。崇福寺といってもお寺の境内は当時から有料でしたから、三門の右側の小さな路地を入ります。10数メートルほど入るとブランコと鉄棒、滑り台はあったでしょうか、小さな公園がありました。ここは自分自身、秘密の遊び場的場所で友達を連れてくる度、自慢していたようです。今思えば、家の近くの丸山公園(当時の)の方がたくさんの遊技があったので、こっちの方が楽しいと思いますが、小学生の私は崇福寺の公園の方が優越感に浸ることが出来たのでしょう。20数年経って今では崇福寺を観光客に案内する立場となりました。“国宝”の崇福寺を案内しつつ、ちょっと優越感に浸っています。




長崎の唐寺の特徴に寳瓶(ほうびん)があります。寳瓶とは寺院の瓦の上に載っているのことです。崇福寺の三門や興福寺の大雄宝殿にはひょうたん型のが載っています。は水に関連する物、火災のときから水が噴き出すと信じられています。日本の屋根にはシャチホコがありますが、これも水に関係した物、一種の災い除けと考えていいでしょう。また、唐寺や日本の古い家屋など、屋根の一番先端部分の瓦には、(ともえ:おたまじゃくしが3匹回っているようなもの)を見ることが出来ます。これも水に関係したもので、やはり火災除けといわれています。




崇福寺の後山は歴史の宝庫。「即老和尚闍維處」って読めますか?“そくろう-おしょう-じゃいしょ”と読みます。崇福寺の住職であった即非禅師(9/8参照)は生前「自分が死んだら墓など作らず火葬しなさい。そして灰は麦の粉に混ぜて魚に与えよ」と弟子達に伝えていたそうです。そして寛文11年(1671)5月20日正午息を引取りました。遺言どおり火葬が行なわれ崇福寺三塔(9/7参照)のところに葬られます(半分は小倉の福聚寺)。さすがに魚には与えていないようですが、一般的に土葬だった時代の出来事でした。そして火葬の場所が闍維處という形で残っています。




9/7のつづき。崇福寺三塔の左側は千呆禅師の寿塔です。千呆性o(せんがい-しょうあん:1636-1705)禅師は即非禅師の高弟です。元和元年(1681)長崎では大飢饉が起こりました。米不足で餓死者もでたほど。千呆禅師や福済寺の慈岳禅師らは托鉢(たくはつ:禅宗では修行の一種でお米やお金を鉢に受ける事)を行ない施粥(せじゅく:お粥の施し)を実施。また、そのほかに富のある者から寄付をもらうのですが足りず、崇福寺にあるほとんどの宝物を売り払います。これによって多くの窮民を救ったそうです。翌年、千呆禅師大釜を造らせ引き続き施粥を行ないます。その時の大釜が現在見ることの出来る崇福寺の大釜という事になるのです。私達のご先祖様もこのおかげで生き延びていたのかもしれません。




范道生(はん-どうせい:1635-1671)という中国人の仏師がいました。仏師とは仏像を作る職人のことです。中国では若い頃から名声が高く26歳という若さで日本に迎えられました。長崎では福済寺に滞在、その後、隠元禅師がいらっしゃる京都の萬福寺に招かれます。現在萬福寺には約40もの仏像が安置されていますが、その内の27体は范道生のものとされ、すべてが文化財です。その范道生ですが、萬福寺の仏像を仕上げた後の寛文4年(1664)に生まれ故郷の広南(現ベトナム)に向います。6年後再び長崎に渡来するのですが、長崎奉行所から上陸が認められません。何らかの病にかかったのでしょう、11月2日に吐血し急逝します。許可が認められたのはそのあと。今では萬福寺の華麗さに反して静かに崇福寺の後山に眠っています。




崇福寺三塔の右側は即非如一(そくひ-にょいち)禅師の寿塔ですが、この即非禅師隠元禅師の高弟にあたります。性格がとても荒々しい方と聞きました。崇福寺大雄宝殿に掲げてある扁額の「世尊」は長崎で一番美しい文字ともいわれ、見上げるだけで即非禅師の荒々しさが伝わってくるかのようです。※扁額(へんがく)柱聯(ちゅうれん)は唐寺に多く掲げてあります。扁額は横に長い額のことで、柱聯は門や柱に対になっている縦長の額のことです。崇福寺などに特に多く、当たり前のように風景に溶け込んでいますが、ほとんどが高僧といわれる方の物ばかり、以外に気付かない文化財です。




インゲン豆の隠元さん。お墓は京都の黄檗山萬福寺にありますが、長崎には興福寺と崇福寺にゆかりの塔が建っています。崇福寺後山には崇福寺三塔という三つの大きな塔が立っていて、向って右は高弟の即非(そくひ)禅師の舎利塔、そして左は千呆(せんがい)禅師の寿塔ですが、真ん中の塔は隠元禅師の寿塔になります。寿塔とは生前に作られるもので、ここでは隠元禅師髪の毛が埋められているそうです。崇福寺見学は境内だけではなく、ちょっと階段を登って見ましょう。歴史上の人物が身近なものに感じられるはずです。




今日9月6日は長崎学の祖:古賀十二郎先生の命日です。今日は朝からお墓参りに行って来ました。先生は長崎市五島町の黒田藩御用達の商家に生まれます。昭和12年生まれという事と古賀家の12代目にあたるという事で十二郎になったともいわれています。長崎の歴史研究の原点、いわゆる長崎学の基礎を築かれた人物です。近年、なかにし礼先生著「長崎ぶらぶら節」で一躍有名になりましたが、実際はもっともっと忙しい方とお聞きしました。先生をたたえる碑が長崎県立図書館入口に建っています。明治12年(1879)-昭和29年(1954)75歳没。墓所は本蓮寺後山。




インゲンと聞いて思い出すものは何ですか?誰もがインゲン豆を思い出すでしょう。このインゲンとは明僧:隠元隆g(いんげんりゅうき)のことで、江戸時代初期、中国の学者の頂点であった方です。承応3年(1654)に来崎、長崎では興福寺に滞在しました。隠元和尚は日本にインゲン豆のほか、ハクサイ、胡麻豆腐、それに顔を洗う習慣まで日本にもたらします。興福寺三門(裏)の「初登寶地」、崇福寺三門(表)の「聖壽山」の額は隠元和尚の書です。今日からは隠元豆を有り難く頂きましょう。




唐寺(とうでら)と聞いて思い浮かぶお寺はどこですか?興福寺(寺町)、福済寺(筑後町)、崇福寺(鍛冶屋町)それとも聖福寺(玉園町)ですか?1興福寺2福済寺3崇福寺、この三ヵ寺を三福寺(唐三箇寺)といいます。そして残り4聖福寺を加え四福寺(唐四箇寺)となります。これら4つのお寺、同じ唐寺でもお世話をする人(檀家)がすべて違います。興福寺は中国南京地方出身、福済寺は泉州地方出身、崇福寺は福州地方出身の中国人の寄付で建てられました。一方、聖福寺だけは日本人の寄付で建てられました。4つのお寺それぞれ雰囲気が異なるたたずまいです。1箇寺づつ廻るのもいいでしょう。




多くの禅宗の寺には必ずといっていいほど山門の手前に石柱が建っています。「許不葷酒入山門」です。“くんしゅ-さんもんに-いるを-ゆるさず”と読んで下さい。葷酒とは韮(にら)や葱(ねぎ)大蒜(にんにく)そして酒を表わします。つまり、臭いの強い野菜は人に迷惑をかけるしお酒は心を乱すので、そういった人は入らないで下さい!修行の妨げになります!という意味です。崇福寺では入口入ってすぐ左、2メートルほどの大きなものです。




シナ盆は中国福州地方の習慣が始まりですが、この福州の人達のゆかりのお寺が聖寿山崇福寺(しょうじゅざん-そうふくじ)です。シナ盆はこの崇福寺を中心に賑やかに行なわれます。私が長崎を案内する時は決まって崇福寺を案内します。なぜなら、ここには国宝建築物の宝庫だからです。九州には国宝建築物が5ヵ所指定されていて、そのうちの2ヶ所、それが崇福寺の中にあるのです。参考までに@崇福寺第一峰門A崇福寺大雄宝殿B大浦天主堂C大分県富貴寺D大分県宇佐八幡宮です。




旧暦7月26日〜28日(新暦9月3日〜5日)は中国のお盆:盂蘭盆勝会(うらぼん-しょうえ)、長崎では一般にシナ盆といいます。シナ盆の歴史は比較的新しく福州地方の普度(ぽーる)という習慣が江戸時代後期に入り、完全なものになるのは明治30年(1897)頃といいます。これは日本のお盆のような先祖(有縁仏)供養に留まらず無縁仏まで供養する施餓鬼(せがき)という習慣です。最終日には金山-銀山-銭山(金貨銀貨など)-衣山(衣類)など紙で見立てた飾りを燃やします。これはご先祖様や餓鬼(無縁仏)にお供えする意味があり、小遣いやお土産を持って、迷うことなく再び向こうの世界に戻れるようにという意味が込められています。




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