広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
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昨日の話題と前後しますが杉本について。丸山が誕生したのは寛永19年(1642)。58年後の元禄13年(1700)梅園天満宮が創建。1740年代には梅園天満宮の大祭で相撲の興業(第3代横綱丸山権太左衛門来崎)が行なわれます。その相撲興業ですが、天満宮境内と現在青柳のある高台で行なわれました。当時、青柳の場所は小島郷字尾崎といわれ何もなく原っぱだったといわれています。その後、花街に接していたこともあり山崎屋という亭(=料亭)がおそらく1750年以降に建っています。青柳横の階段:山崎屋の坂(3/11参照)は、この山崎屋からつきました。この頃に作られ残っているものが石垣であり石段です。そして、寛政年間(1800年頃)杉本が創業します。




旧料亭杉本家とありますが、この杉本家は昭和20年頃、戦争の激化のため廃業。終戦後は三菱電機が3年間の期限付きで家族寮に利用します。なぜ家族寮かといえば、三菱の各建物は空襲で全滅、職員の臨時の宿舎が必要とされていました。そこで、市内の広い建物はすべて三菱関係の家族寮や独身寮になります。昭和23年、後を継ぐように青柳が購入(一時期賃貸:家賃2万円/月)し、営業準備に取りかかります。営業準備といってもゼロからの準備、器から掛け軸に至るすべての物をそろえなければなりません。また、壁や障子(しょうじ)、庭の植木に至るまですべて“めちゃくちゃ”、営業開始まで1年を要しました。今の青柳はここから始まります。




昭和9年の創業後、青柳は順風満帆のようでしたが戦争が激化する昭和10年代後半、食糧不足となり鰻など食する世相ではなくなりました。戦時中は配給の南瓜やじゃが芋、うどんなどを出す食堂として営業を続け、昭和20年6月、疎開のため一時閉店、東浜町時代が終わります。昭和21年に疎開先(佐賀県鹿島)から長崎に戻るのですが戦後のドサクサで帰る家がなくなり、しばらく中川町(国道沿いバイク屋付近)にバラックを建て、住むことになります。祖父はメッセンジャー(今でいう運送業)で生計を経て新しい店舗の資金を稼ぎ、昭和23年、丸山町の旧料亭杉本家(すぎもとや)を購入します。翌24年、料亭青柳がスタートします。




青柳は昭和9年(1934)5月2日に創業しました。今は亡き私の祖父が初代です。祖父はもともと引地町(現 興善町)にあった鰻料理の泉屋に弟子入りし、昭和9年に青柳として独立したのです。創業当初は東浜町(現 浜町:文明堂隣)に鰻屋としてスタートしました。メニューは鰻のコース(※1円20銭)のみで、付出しの三品盛(刺身、湯引、煮豆)と鰻の蒲焼、ご飯と肝吸いを出していました。当時、鰻は高級品、それでも多くのお客さまに恵まれ大変忙しかったそうです。鰻は静岡県(遠州)浜松から汽車により仕入れ、長崎駅から中島川のいけすに運んでいました。注文が入ると自転車に篭を載せ店まで運んでいたそうです。※当時の相場で茶碗蒸は80銭でした。あすへ




阿弥陀橋(昨日参照)の上流側の伊勢町寄りには小さな地蔵堂があります。この付近、20年前(昭和57年)の長崎水害までは数ヶ所のいけすの跡がありました。昭和40年頃までは石垣の所からこんこんと水が湧き出し、とても豊富な水量だったところから水場となりいけすなどに利用されていました。いけすは上段中断下段と分かれ、上段は割烹泉屋(浜町)中段は青柳が使用し、下段は付近の洗濯場になっていました。しかし、付近に大きなビルが建ったり大量の地下水の汲み上げなどで枯渇し、跡のみとなっていましたが、それも水害後の河川改修で姿を消してしましました。つづく




中島川の石橋群。一番上流の石橋は八幡町-伊勢町に架かる阿弥陀橋です。一つ下流側は旧町名の新高麗町に架かる高麗橋(現伊勢宮前)そして、8番目が眼鏡橋、9番目の袋(町)橋と続くのですが、実はこの橋の名前は命名されてから100年程しか経っていません。つまり、橋に名前が刻まれて100年程しか経っていないということです。それでは、それまでどのように呼ばれていたのでしょう?橋の名は明治中期に正式に決まったもので、それまでは長崎奉行所によって上流から番号が打ってありました。第一橋(きょう)第二橋第三橋・・・・第十四橋まで。しかし、市民の間では付近の町名や橋に関連のある名前を呼んでいました。古町橋袋(町)橋や、編笠橋眼鏡橋など。当たり前が当たり前でないのが歴史です。




昨日はがひどかったですね―。のおまじないを知っていますか?「くわばら-くわばら」です。漢字では「桑原桑原」と書きます。約1,100年前。天神さまである菅原道真公は学者でありながらとてもオシャレだったそうです。当時は流行の最先端は中国。中国の官僚の影響で日本の上層階級しか手が出せなかった物にがあります。道真公の着物を着るために自分の荘園(領地)に桑畑を設け養蚕を行なっていました。道真公が大宰府に左遷させられお亡くなりになった後、京の都ではが襲います。しかし、道真公の桑畑だけはが落ちなかったとか。そこで、人々はが鳴った時、「ここはあなたのための桑畑ですよ。は落さないで下さい」と祈り、いつしか「桑原桑原」「くわばら-くわばら」と唱えるようになったのです。




毎月24日はお地蔵さまの縁日、特にお盆の月(旧暦の7月)の24日を地蔵盆といいます。なぜ24日がお地蔵さまの日なのかは定かではありませんが、現世(人間のいる世界)に姿を現した日とされています。それではなぜ「」と「」なのか、それはインドに端を発し“大地を所蔵する者”というところから来ていて、ものすごく大きな心を持っているということです。日本では子供達を守る仏様といわれ、赤い帽子よだれかけをするのは子供との関係が深いことを物語ます。これは「賽の河原」に由来するそうです




新紙屋町の町内には八幡神社、中島川を挟んで対岸の新高麗町(5/20参照)には伊勢宮(いせのみや)があるところから、ともに同じ年(延宝8年:1680)に町名の変更が行なわれました。新高麗町伊勢町新紙屋町八幡町となります。八幡町の読み方は一時期「はちまんちょう」と呼ばれますが、後に「やはたまち」になります。ちなみに、八幡神社とは応神(おうじん)天皇と比売大神(ひめおおかみ)と神功(じんぐう)皇后の三神をいい、昔から弓矢の神(戦いの神)といわれ本山は大分県宇佐市の宇佐八幡宮です。一方、伊勢宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)のニ神を指し、天照大神は万物の頂点で天皇の祖先、豊受大神は人間の原点:食物の神様で、三重県伊勢市にある伊勢神宮伊勢宮の本山であり、日本のすべての神さま(やおよろずの神)の総本山です。




麹屋町の内陸側の町に対し中島川沿い(一覧橋から大井手橋の左岸:現在の中華料理慶華園の通りです)の地域、当初は川の上流つまり水のきれいな地域ということを生かし紙漉(す)き業者、つまり紙屋さんが集まっていました。紙屋町(別名:紙漉町:かみすきまち)といいます。やがて紙の需要が高まりさらに上流側(高麗橋-阿弥陀橋付近:伊勢宮対岸)に町が広がります。初めに出来た町を本紙屋町(もとかみやまち)と呼び、次に開かれた町を新紙屋町と呼ぶようになります。残念ながら両町は合併や町名変更で現存しません。




幽霊井戸がある麹屋町(こうじやまち)について。味噌や醤油それにお酒に必要なものといえば麹ですが、麹屋町はその名の通り麹屋さんが集まっていたところからその名が付きました。麹屋町は初め新紺屋町(6/8参照)があったところで、開かれた当時は長崎の町の外れでした。麹の製造には臭いがつきもの、町外れの方が適していたのでしょう。麹屋町は浜町方向から来て中通りを抜けた地域(内陸側)をいいます。




昨日のつづき。産女の幽霊の話の中で最後に井戸が出て来ますが、この井戸は現存しています。場所はもちろん麹屋町。興福寺の山門から思案橋方向へ進みすぐ右に折れます(一覧橋の通り)坂を下ると右角に泉屋ビルがあります。この角の手前10メートルのところに長さ50センチメートル高さ30センチメートルほどのコンクリートの塊(かたまり)がありこれが井戸の跡です。戦後しばらく間まで道路の半分近くまで囲いがあって付近の人々に利用されていたそうですが、現在はコンクリートの塊のみ(地下には井戸は残っています)、探す場合は盛塩がある50センチメートルのコンクリートの塊を探して下さい。




実は産女の幽霊の話にはもう少し奥があります。この女性は身ごもったまま亡くなっています。ということはお乳が出ません。だからを与えていたということになります。は当時では相当の栄養源、を与えるということはその栄養源のことを知っていたことになります。それに、を6日間1文ずつ買います。(7日目は恵んでもらいます)つまり初めは6文持っていたことになりますが、6文とは今でも棺(ひつぎ)の中に入れるお金のことで、6文が三途の川の渡し賃だそうです。三途の川の渡し賃まで使ってわが子のために尽くすという、母親の子を思う心に感動します。児童虐待が騒がれている世の中ですが、これこそ知ってもらいたいお話と思います。




昨日のつづき。翌朝、飴屋の主人は光源寺の住職(お坊さま)に一部始終を話します。すぐに住職は飴屋の主人に案内を受け、その女性が見えなくなったというお墓の前にやって来ます。そして住職がお経をあげた後、掘り起こすことになりました。すると、母親に抱かれた生まれて間もない赤ん坊を見つけます。すぐに拾い上げ、住職はお墓の持ち主から赤ん坊の父親を捜します。父親はすぐに見つかり、赤ん坊は父親の元で育てられます。数日後、またあの時の女性が飴屋に現れます。そして、赤ん坊を救って下さったことの恩返しをしたいと申し出ます。飴屋の主人はこの付近(麹屋町)は水が少なくて困っていると伝えると、明日、自分の櫛(くし)が落ちているところを掘って下さいと言って立ち去ります。翌日、飴屋の主人はその櫛のあった場所を探し穴を掘ってみました。すると水がこうこうと湧き出したそうです。つづく・・・




光源寺(寺町の一番奥:若宮神社となり)の産女(うぐめ)の幽霊について。その昔、麹屋町に一軒の飴屋(あめや)がありました。ある夜その飴屋に若い女性が飴を売ってもらえないかと訪ねて来ます。わずか1文分の飴を買って帰るのですが、次の日もまたその次の日も飴を買いにやって来ます。そして7日目にはとうとうお金がないので恵んで欲しいと女性はいいます。飴屋の主人は哀れに思い恵んであげるのですが、この日、連日の不思議な出来事に飴屋の主人は若い衆を連れ後をつけることにしました。すると、麹屋町から寺町通りそして光源寺の山門をくぐり本堂の裏に回ります。そして数日前に葬儀を終えたばかりのお墓の中に入ったのです。それを見た飴屋の主人と若い衆は一目散に逃げて行きました。つづく・・・




お盆明けの今日は地獄の釜の蓋があく日です。地獄の釜つまり地獄で罪人を煮る釜のことで、今日(旧)7月16日は地獄の鬼が刑罰を与える仕事のお休みの日だそうです。だから、地獄の罪人もちょっと一休みというところでしょうか。今日16日は毎年、寺町の光源寺では産女(うぐめ)の幽霊のご開帳や同じく三宝寺地獄絵のご開帳が行なわれます。三宝寺地獄絵はとても生々しく、針の山や火あぶり、舌を抜かれる絵など、とても見ごたえがあります。




今日は精霊流し。長崎市内及び近郊では盛大に精霊船が流されます。精霊船を流すとき何と叫んでいますか?“ちゃんこん ちゃんこん どーい どい”とよく聞きます。“ちゃんこんちゃんこん”は鉦(かね)の音の事です。そして、“どーいどい”これはそもそも地蔵祭りに由来しているそうです。初めは、鐘を打ちながら「南無阿弥陀仏」と唱えたところから始まり、「なむあみだぶつ」が「なんまいだー」→「なーまいだー」→「・・だー・・だー」→「だーいだーい」→「どぁーいどぁーい」「どーいどーい」。ちょっと無理がありますね。もちろん別の説もありますが、これが有力です。正式には鉦を2回たたいて「どーい どい」です。それと、もう一つ、提灯は裏と表が有ります。表の黒の紋様に対して、グレーの紋様の裏です。男性を流す場合は表、女性は裏です。お間違いのないように。




私が勝手に思っていること。6月は(くんち)小屋入り、7月は七夕、8月は精霊流し、9月は彼岸、10月はくんち。これは今、現在の流れです。これを旧暦つまり江戸時代で考えると、6月は小屋入り、すぐに祇園さん、7月7日七夕、1週間後の15日は精霊流し、8月は八朔(8/1参照)、9月にくんち、終わるとお彼岸、そして、10月衣替えです。考えて見ると七夕の後に精霊流し。9月9日にくんち行なわれていました(当たり前と言えば当たり前)。ちなみに今日(8/14)は、旧暦の7月6日です。明日は七夕、梅雨も気にせず天の川を眺められます。




昨日のつづき。青銅塔のような供養塔は、長崎に数多く存在します。数多く存在するということは、数多くの災害があり、数多くの犠牲者があったということを意味します。供養塔の多くは長崎街道茂木街道といった当時の交通の要(かなめ)つまり、メインストリートに存在します。これは、多くの方々にお参りして欲しいということを意味します。最近では、知らない供養塔にお参りすると取りつかれたりするということで敬遠しがちですが、それは失礼なこと。そういった犠牲の上で今の長崎があるのです。お盆のこの時期、今一度、考えて見る機会になればと思います。




昨日のつづき。紺屋町の人々は供養塔のそばに回国のために庵を建てます。そしてここで回国は余生を送ったといわれています。話はここで終わるのですが、実はこの話には最近になって新たな展開がありました。紺屋町の人々が建てた供養塔は現在、市の指定有形文化財になっている青銅塔(からかねとう)のことです。今でも紺屋町通り自治会によって管理されているのですが、数年前、自治会が青銅塔のそばに小屋を建てようと穴を掘ったところ突然穴が空き墓石が見つかりました。その後、作業に加わった人達が次々と病気になり、これはいけない!とお祓(はら)いをしたそうです。おそらく、この墓石は江戸時代の回国のものと思われ、大変貴重なものだということで、現在、市の博物館に保管されています。




長崎警察署や市民会館の通りは紺屋町です。(6/6の紺屋町参照)この紺屋町には古い言伝えが残っています。その昔、どこからともなく回国(かいこく:諸国を回って拝礼や民衆に教えを説く人)が紺屋町にやって来て、芋原橋のほとりに庵(いおり:小屋)を構えたそうです。この回国は八百屋お七の相手の吉三郎(キチサ)といわれ、お七の霊を慰めるため諸国を回っているとのこと。連日、庵で祈祷(法要)していました。ちょうどその頃、長崎では水害や疫病などの災いが多く、その回国はそれらに対しても供養を行ないました。すると、その甲斐あって災いは治まり紺屋町の人々はこの事を尊び蛍茶屋の上手に供養塔を建てました。つづく・・・




八百屋お七の話をご存じでしょうか。江戸時代初め、江戸本郷の八百屋の娘お七が元和2年(1682)の大火で家が焼け菩提寺の円乗寺に避難した際、一人の男(吉三郎?)と恋仲になります。やがて一家は再建された家に戻りますが、お七はその男の事が忘れられません。もう一度火事が起きたら会えるかもしれないと思い放火します。しかし、願い叶わずお七は放火の罪で捕らえられます。奉行は幼い娘ということで哀れみ「15歳以下は罪を減じる」という定めを使ってお七に15才と言わせようします。この時、お七は16才になったばかり、16才であることを曲げませんでした。よって、江戸市中引回しの上、品川の鈴ヶ森で火破りの刑に処せらます。   
※これを踏まえ、お七と長崎の関係につづきます。




今日は57回目の長崎原爆の日です。丸山界隈は爆心地から3キロメートル以上離れていたため特に被災したところはありませんが、爆風による被害に見まわれました。梅園天満宮では北側の玉垣(=石の囲いの事)が崩壊し、高島秋帆の別邸は全壊しました。当時の建物は木造だったため、この界隈のほとんどの屋根瓦が飛び散り、家屋全体が一瞬浮き上がったとも聞きました。料亭青柳は石垣の上に立っていたため被害も大きく、北側大広間の手摺りが吹き飛ぶなど影響がありましたが、幸にも倒壊をまぬがれました。斜めになった柱を見ると当時の爆風のすごさが伺えられます。




昨日の高野平の蛍茶屋寄りに御手水という地名があります。読み方は「おちょうず」です。実は付近では御手水or御手洗水の両方使われています。似たような字に御手洗がありますが、これは「みたらい」or「おてあらい」なので間違いです。この付近は旧長崎街道が走り、昔から水が豊富に湧き出しているところから御手水と呼ばれるようになったそうです。ここには宮本武蔵(1584-1645)が洗いに来たという言い伝えもあるそうですが定かではありません。しかし宮本武蔵から教えを受けた?藤原鉄玄の墓が近くの妙相寺にあります。




日見トンネルの西口、蛍茶屋の方向から来ると「文明堂のカステラ」の看板が目に付くでしょう。ここは文明堂園といって文明堂の管理のもと桜の植樹がなされています。なぜここにこのようなものがあるかといえば、大正15年(1912)に日見トンネルが作られた際、この場所が工事の土砂を集めた場所だったのです。その後そこを文明堂が管理するようになって今に至っています。この地区は別名高野平(こうやびら)といい、トンネルの上手には高野平千手観音がお祭されています。また、トンネル西口バス停の横には、旧長崎街道の古い石橋も見ることができます。




日見トンネルから長崎市街地よりには2つの水源地があります。本河内高部水源地と低部水源地です。2つのうち高部水源地の歴史は古く、横浜、函館に次いで3番目、明治24年(1891)に完成しました。総工費は当時のお金で282,300円56銭(米1升:3銭)。現在では、日本に現存する一番古い水道専用の水源地です。現在、嵩上げ工事が行われ当初の形状に改良が加えられています。




4/4に日見峠の4つの道を紹介しました。江戸時代の道は峠越えが険しく、明治に入り車社会(人力車)の到来?を前に新しい道路計画が立てられました。明治10年(1877)のことです。頂上付近を33メートルの切下げ、東側に37曲がりの道を作る当時としては壮大な計画でした。5年後の明治15年に完成します。日見新道(明治新道)といいます。現在の日見トンネルの真上、現在でも車1台がようやく通れる道ですが、実はこの道日本初の有料道路でした。料金表は3ヶ国語表記で住民には無料パスが与えられます。そして、料金所はどこかというと、現在、蛍茶屋の次に番所というバス停がありますが、番所が料金所のことだったのです。




日見峠の3つ目の説。有明海では不知火(しらぬい)がよく発生するそうですが、この不知火をこの峠から眺めるため多くの文化人などが訪れました。そこから、火を見る、火見という事で火見峠と名付けられたという事です。後に日見に変わるのですが、やはりこの説は裏付けが難しい。事実、日見峠からは有明海が見えません。もしかすると、橘湾(千々石湾)でも不知火が発生していたのかもしれませんね。これらは、きれいな海にきれいな空気の時代の話、今の感覚で考えることの方が夢がないのかもしれません。




昨日のつづき。この日見という地名の有力な説は、長崎が開港する前の天正6年(1578)頃、深堀(現長崎市深堀)を治めていた深堀氏と、当時の長崎(現桜馬場)の領主長崎甚左衛門との争いに始まります。甚左衛門勢は背後の守りのため日見峠付近を固めていました。夏のある夜、深堀勢は海路網場に上陸します。その時、多くの松明(たいまつ)をつけ多勢を装ったそうですが、時すでに遅く、甚左衛門勢にすべてお見通しでした。この状況、峠から多くの火を見たところをから火見火見峠となったそうです。最初は火見、後に日拝みと重なり日見になったそうです。




江戸時代、日本全国、八朔(8月1日)は、おめでたい日とされ、さらにその日の日の出を拝む事は有りがたいものでした。長崎では文字通り日見峠が名所となり、前の晩から集まっていたそうです。この拝み→を見る→日見となったともいわれています(他の説が有力)。普通に考えて、日見トンネルの上の旧道付近に行くと日の出が見えるものだと考えがちですが、実際、網場付近の山で見えません。現在、数本の旧道のうち、どれが本当の旧道かもめているそうですが、私はこの事から日の出が見える所が本当の旧道だったと思います。ちなみにそれは日見トンネルからやや北よりの山道です。




今日は8月1日、江戸時代までは祝日でした(旧暦)。八朔(はっさく)といいます。朔(さく)とは月の第1日目をいい、八朔で8月1日となります。八朔と聞くと果物を思い出しますが、あれはこの時期から食することが出来るという意味からつけられました→実際はまだ小さく食べられませんが・・・。天正18(1590)の8月1日に徳川家康が初めて江戸城に入城しました。そこから江戸幕府にとって特別な日となったのです。       




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