広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
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花街の言葉にお茶挽き芸者の重ね座敷というものがあります。以前(6/4)お茶を挽くについて書きましたが、お茶を挽くとは暇という意味です。お茶挽き芸者とは人気がない芸者つまり売れない芸者ということになります。重ね座敷は重なった座敷、つまり一度に多くの注文(予約)が入るという意味です。まとめてみるとお茶挽き芸者の重ね座敷とは、芸者さん(orお店)へのお客さんがない時は全くなく、お客さんがある時は同じ日に集中し、結局は全部のお客さんの相手が出来ないという意味になります。これはうちの店では、今でもよく使っています。皆さんも応用してみましょう。




江戸時代、寄合町には筑後屋という遊廓がありました。筑後屋は、さらに店を広げ新筑後屋を立てます。その後、再び新しい店舗を出し中の筑後屋と名付けます。この中の筑後屋は敷地が広範囲で、一部にお茶屋を設けてありました。これが中の茶屋という訳です。茶屋といっても今の料亭の事で、まず茶屋で腹を満たした後、遊郭に遊びに行くというコースが出来あがります。当時、寄合町の遊廓は20軒ほど、それもほとんどが西田と名のり、俗称で西田町と呼ばれる程でした。やはり筑後屋も西田という名前でした。




狭い丸山の中の多くの地名。2/22には富永町、5/9には片平町を紹介しました。人力車の車立場のあった青柳の下は岸の下といっていました。石垣の上が岸ということでしょう。青柳の下の交差点(十字路)は丸山の大辻(おおつじ)、検番の裏にある小道の十字路は丸山の小辻(こつじ)です。丸山の花街をただ単にやまと呼ぶところから、やまの入口を山の口、山の上手:寄合町の上の方を山頭(やまがしら)といいます。カステラ福砂屋の黄色い包みには山の口と書いてありますし、寄合町には山頭温泉という銭湯があります。




26日のつづき。丸山の本通りには長崎検番があります。検番とは芸者さん(長崎弁:げいこし)の連絡事務所のようなもので、検番からげいこしさんが各料亭に向う時、戦後しばらくまでは人力車が主流でした。その人力車が青柳の下に待機していてお声がかかると出発するのです。ここで名妓といわれた愛八さんの話、昭和の初期の頃です。人力車は腰掛ける所と足を載せる所とあり、足載せの下には車夫さんがいます。しかし、愛八さんは足載せのところに新聞紙を引き、そこに座っていたため愛八さんの足は車夫さんの背中に当たってばかり。車夫さんいわく:愛八さんが一番乗せにくいお客さんと言われていました。実は愛八さん、帯がつぶれないように背中をあてなかったとか・・・。小説に登場しない愛八さんの話でした。




明日(7/28)まで長崎市鍛冶屋町にある八坂神社では祇園祭(ぎおんさん)が行なわれています。八坂神社の本殿右と、八坂神社のお隣りにある清水寺の本堂の右には、ともに桜姫(さくらひめ)美人稲荷神社があります。その昔、出産で苦しんでいるキツネをここに参詣に来た夫婦が見つけ、高平町にある自分の家に連れて帰り介抱します。その後、介抱のかいあって無事出産、キツネは元の場所に放されます。その夜、夫婦の夢枕に美しいお姫さまが現れ、キツネの介抱のことを深く感謝したとのこと。それからここのお稲荷さんを桜姫美人稲荷というようになったとか。おキツネさんはお稲荷さまのお使いです(5/8参照)




丸山町の青柳の階段の下。石垣の下は今は道路になっていますが、昭和30年頃までは車立場(くるまたてば)がありました。車立場とは人力車置場のことで、今でいうタクシー会社の車庫というところでしょうか。昭和33年、遊廓が廃止になって人力車屋も廃業、その後、そこの車夫さん夫婦は階段のそばに小店を開いて稲荷寿しとか巻寿しそれに饅頭などを売っていました。買いに来る人たちは、芸者さんに飲み屋の女性など、丸山もまだ賑っていた頃です。人が少なくなるにつれ小店もなくなり、ごみ置き場へ、それではいけないと植え込みになり、今では華街跡の碑が立っています。




毎月25日は天神さまの縁日です。天神さまと聞いて思い浮かぶのは学問の神様:菅原道真公と連想する方がほとんどでしょう。本当は天神とは天の神さまのことで、天の神さまとは天候の神つまり雷さまのことなのです。そして、雷さまはそのまま農耕の神様でした。一方、当時(平安時代)京で実権を握っていた藤原時平らが、大出世した菅原道真公を落し入れるため無実の罪で大宰府へ左遷します。道真公はまもなくお亡くなりになり、その後、京では天変地異が起き雷が京の都を襲います。京では道真公おん霊が雷となって襲ったものと信じられ、雷さま菅原道真公となっていきます。時代が下ると道真公は無実を晴らしてくれる正直の神といわれるようになり、江戸時代になってようやく学問の神として寺子屋に祭られるようになります。雷さまが正直の神、そして学問の神へと変化する不思議な人物菅原道真公なのです。




毎月24日はお地蔵さまの縁日です。寄合町にある玉泉(ぎょくせん)稲荷神社の境内には数体のお地蔵さまがいらっしゃいます。ここのお地蔵さまは江戸時代からの歴史があり、付近の子供達をお守りするお地蔵さまと、親しまれています。そして、その中の一体には次のような逸話があります。戦後、神社上手の中小島で火事があり、その時の消防車が事故を起こしたためお祭をするようになったとか・・・。それから、子供達をお守るすることと交通安全のお地蔵さまといわれるようになりました。




今日で長崎大水害から20年。丸山町では被害はほとんどありませんでしたが、やはり雨の勢いは強かったこと記憶しております。思案橋付近では1.7メートル超の高さまで水没したそうですが、地形的に水没の範囲は丸山交番前までで、そこがちょうど波打ち際のようになっていたそうです。思案橋の上手の正覚寺下電停、ここから川が暗渠になるところですが、ここでは電車通りの方へ川の水があふれていました。不思議なことがあります。20年経った現在、ほとんどの地域で改修が終わりましたが、思案橋界隈は当時のまま。同じ様なことが起こると同じ様なことが・・・。




史跡料亭花月の前には長崎県教育委員会と長崎市教育委員会が設置した解説板が立っています。その中の英文の解説には遊郭(街)の事をbrothel(s)と訳してあり、家に帰ってbrothelとはどのような意味か和英辞典で調べてみると、やはり売春宿と訳されていました。この英文を書いた方は「遊廓売春宿」と認識しているのでしょう。いつも言っていますが、これは間違いですね。正しい訳はentertainment-area:エンターテーメントエリアまたはentertainment-quarter:エンターテーメントクオーターとなります。つまり、娯楽の街とでも訳しましょうか。




辞書で遊廓と調べると「周囲を囲われ多くの遊女が集まっている一定の地域」とあります。それでは遊女とは「歌舞により人を楽しませ、また枕席にも待った女の称」とあります。ここで勘違いしてはならないことは「遊女≠売春婦」ということです。歌舞によってお客さんを楽しませる、つまり、おもてなしの文化なのです。容姿はもとより、歌舞音曲、茶道、華道、香道、読み書きなど、教養がなければ務まる職業ではなかったのです。もちろん、枕席も遊女として恥ずかしくない女性でなければなりません。しかし、これらは江戸時代から戦前までの話。その後、昭和33年(1958)の売春防止法の施行までは意味合いが変わりますが・・・。花街丸山は約300年の間、すばらしい華街(かがい)だったのです。




今日は土用丑の日、江戸時代の本草学者(植物薬草学者)平賀源内のキャッチコビー「土用丑の日、うなぎの日。うなぎは腎水(じんすい)を増し精気を強くし食すれば夏負けすることなし」この言葉からこの日に鰻を食べる風習が生まれたとか・・?。平賀源内は江戸時代中期の宝暦2年(1752)に来崎、蘭学を学びました。西洋的知識のもとオランダ通詞から壊れた起電器をもらい独力で修理したそうです。これが世にいうエレキテル(摩擦発電機)です。しかし、平賀源内エレキテルで何の成果も得られず狂人といわれてしまいます。長崎滞在中は現在の県立鳴滝高校(旧県立短大)のところが仮寓居跡といわれています。




鉄川与八郎先生著「長崎の歴史を辿る」から。『丸山に行く客は必ずしも悦楽だけを目的とするものばかりではなかった。(中略)料亭もレストランもホテルも会館も、またクラブもキャバレーも、それらに類するものがほとんどなかった当時のことである。商談にも接待にも会議にも会合にもそのほとんどが丸山に行かざるを得なかった』これは私が案内したり講演したりする時、まず始めに紹介する一節です。どうしても今の人たちに丸山を説明しても「遊廓=売春宿」と思っている人がほとんどです。「遊廓≠売春宿」を理解してもらうためにがんばっているのですが・・・。




いわゆる丸山とはどこを指すのか?大きく分けると江戸時代の丸山明治期以後の丸山、そして現在の丸山と分ける事が出来ます。江戸時代の丸山とは石垣や塀などで囲まれた初期の頃の範囲で、丸山町の本通り、片平町通り(丸山交番横の通り)そして、寄合町通りに面した地域をいいます。広さは約4万平方メートル(12,000坪)です。ちなみに出島和蘭屋敷は約1.3万平方メートル(4,000坪)、唐人屋敷は約3万平方メートル(9,000坪)、だいたい丸山は今の浜市アーケード街と浜市電車通り商店街を合わせたくらいの範囲です。




丸山のことを圓山(円山)とか麿山と表現する文献もあります。一方で花街(遊廓街)は石垣や塀で囲まれている所からと書いて花街(遊廓街)を指す場合もあります。丸山も家やビルで隠れていますが石垣がいたる所に残っています。料亭青柳の石垣もその一部です。




丸山のことを傾城町(けいせいまち)とかニ丁町(にちょうまち)などと表現するときがあります。傾城:城を傾けると書きますが、これは男性が色(女性)におぼれて城や国を滅ぼすという意味で遊女を表わします。傾城町で遊女がいる町いうことになります。次にニ丁町ですが、丁とは偶数の意味。ニ丁町で二つの町を意味し、丸山丸山町寄合町の総称ということなので、ニ丁町とは丸山ということになります。




ひとえに丸山といっても以外にどういう所か説明できる方は少ないと思います。もちろん丸山といえば長崎の丸山のことなのですが、一般に丸山とは花街(遊廓街)を指す代名詞に使われ歓楽街という意味が強く、日本各地に丸山という地名がありますが、たいてい花街だったり花街に関係のある所が多いようです。現在、日本各地の商店街に○○銀座という所がたくさんあります。これも東京の銀座の通りが賑やかな所からつけられたと思いますが、丸山という地名も同じ様な使い方だったのでしょうか。当時文化を発信した丸山は長崎の丸山をいい、その丸山丸山町寄合町の総称のことです。




丸山町にある園天満宮には塚があります。ここには干の種がいっぱい集められていて、これはが天神さま(菅原道真公)のシンボルということに関係します。天神さま(天満宮)のの木は御神木つまり神様同然。さらにその実となると貴重な果実ということになり、種ともなるとなおさらです。昔からの種の中には天神さまが入っていらっしゃるといって、けして割ってはならないという風習もあります。はすべて神聖な物だったのです。園天満宮は身代り天神ともいわれているところから“干の種を自分の身代りに”という発想も生まれて来ます。また、園天満宮の身代(みがわり)は、遊女や芸者衆の料金という意味の身代(みだい)とも同じ文字なため、彼女らにとって園天満宮は特別な存在だったのでしょう。現在もの実が絶えず納められています。




長崎の路面電車の最初の区間は築町−大学病院前間で、始まったのは大正4年(1915)のことでした。出発地の築町電停付近は当時の長崎の中心地で、電停の前には今と同じ様に十八銀行本店、お隣りには長崎貯蓄銀行(現十八銀行駐車場)、その反対側(九州電力イリスの並び)には公設野菜卸市場があって大変な賑わいだったそうです。築町電停付近の道幅は今の半分くらいで、電停ももう少し十八銀行側にあり、また、電車の出発点(停止位置)には1本の大きな青桐(アオギリ)の木があって、停車の際それを目印にしていたそうです。




長崎市の北部。市電大橋電停から西の方角へ行くと長崎県立総合体育館があります。この付近を油木町といいます。江戸時代末期、幕府は貿易不振により財政難に陥ります。福岡県筑後地方ではロウソクの原料となるハゼの木を増産し資源の確保を行なっていました。これを見て幕府は長崎奉行に長崎の空地にハゼの木を植えるように命じます。しかし、時すでに遅く、ハゼの木が大きくなる前に日本は開国となり、江戸幕府もなくなってしまいました。そのハゼの木が多く植えられていた所が油木と呼ばれるようになります。




新地の方から銅座橋(なかしまうなぎ前)を渡りすぐ右に曲がって下さい。幅2メートル程のこの道は大きく左カーブして続きます。そのまま進むと電車通の宝石の和光の所に出てきますが、このカーブした所を俗称で銅座釜屋といいます。この辺りから観光通り電停付近にかけて、江戸時代中頃に座つまり吹所(鋳所)がありました(座:幕府が認めた公設の機関)ここでは大坂から粗を持ち込み、棹(さおどう:を棒状にした物)にして海外へ輸出していました。その後、鋳所に代わって鉄銭鋳造所(貨幣を造る所)となります。ここで造られて貨幣を銅座銭といいます。ここにはを溶かす溶鉱炉の釜があったところから銅座釜屋と呼ばれるようになります。鋳銅所や鋳造所などは約20年程の出来事でした。




湊公園交番前の交差点から浜の町方向へ行く時、中華門(東門)の前を通り銅座橋(鰻のなかしま前)へ出ると思います。実はもう一つ平行して裏通りがあるのをご存じでしょうか。同じ交差点から一つ館内寄りに路地があって、路地を進むと銅座橋のところに出てくる道です。実はこれが江戸時代の海岸(岸壁)、日浦海岸です。少し曲線がかった道ですが昔の地形どおりに造られたものといえます。そして、この道の銅座橋寄りには日浦地蔵もあります。この海岸はこのあと銅座川に沿って思案橋方向へ進みます。




湊(みなと)公園は2月のランタンフェスティバルの時は大変な賑いですが、この公園にはもう一つ忘れてはならないものがあります。近代塗装伝来の碑です。近代塗装とはペイント塗装のことでいわゆるペンキのことです。長崎では幕末から明治にかけて居留地の洋館などに広く使われますが、それより前の江戸時代中期(18世紀中頃)には、すでに出島オランダ商館内の建物に使われていたそうです。近年出島オランダ商館の復元が進んでいますが、その中に緑色の塗装が施されている建物があります。今見ても鮮やかな感じがしますが、江戸時代の長崎人の目にはどの様に映っていた事でしょう。




昨日のつづき。銅座川が市民病院の方へ流れていた頃、千馬町(7/6参照)から大浦海岸通に行くには川を渡ることになります。そこが出師(すいし)橋です。ちょうど市民病院前の交差点の所になりますが、日露戦争の際、兵隊さんがこの橋を渡って大陸に向う船に乗り込んだところからこう名付けられました(師とは軍隊の意)。船が発着する埠頭、つまり出島岸壁は今の出島ワーフのところで、大正昭和初期の頃、ここは中国の玄関口として大変賑っていました。そして今の長崎税関の所に長崎港駅(みなとえき)があって、汽車を降りるとすぐに上海航路の長崎丸や上海丸に乗り継ぎ出来るようになっていました。今では想像もつきません。




銅座川は銅座市場の下から新地中華街の前を流れ、十八銀行横を通り出島橋の所で中島川と合流しています。しかし、昭和30年頃までは十八銀行の前で直角に折れ、今の電車通りを市民病院の方へ流れていました。ベスト電気もダイエーも川の中でした。それに湊公園は文字通り湊(新波止「しんばと」と呼んでいた)で小さな船溜まりだったそうです。銅座川も川というより入江の雰囲気で、今のラッキーパチンコからNTTビルの並びを入江町と呼んでいました。最近まで(平成2年)ダイエーの前に入江町の電停がありましたが、ここから来ています。羽衣、末広、要、千馬、入江の各町は昭和39年に出島町に統合され、残念ながら今は存在していません。




昨日のつづき。市民病院前交差点から長崎トヨペットの前を経て出島橋に抜ける通りを千馬(せんば)町といっていました。明治後期、埋立て当初は何もない平地で、明治37年(1904)の日露戦争の際、戦場に送られる軍馬の待機場所となりました。数千頭もの馬がいたところから千馬町となったそうです。現在、ダイエーの前を電車が走っていますが、以前まではこの通りが電車通りで一直線に大浦海岸通へ向っていました。そして、出島−築町間との交差点に千馬町の電停があって、電車が反転する際は、今と違って電鉄の職員が電車の屋根についている電線の付け替え作業を手動で行なっていたそうです。




市電出島電停から市民病院までの地域は明治後期に埋立てられた地域で、当初、出島電停前の農協会館から長崎税関側は羽衣(はごろも)町といい、道路挟んで反対側の地域を末広(すえひろ)町、現在のNIB長崎国際テレビ付近を要(かなめ)町といわれていました。4/8の欄で長崎駅北側の町名を紹介しましたが、ここも同じようにおめでたい言葉からこの町名が付けられました。羽衣町の三菱会館(現トレディアホテル出島)は今の公会堂のようなもので演劇や歌謡ショーなどが行なわれ、要町の永久座(現NIB)は芝居小屋でした。今も付近の電柱番号には「羽衣」「末広」「永久座」などがついています。




大波止は読んで字の如く大きな波止場の意味ですが埋立てによってその場所も変化しています。江戸時代、長崎県庁前の交差点から大波止寄りに進むとすぐ階段がありました。階段を下れば当時の大波止です。今は面影はありません。今、県庁から大波止の方に下ると郵便局あり、次に県庁第3別館があります。ここは昭和43年まで長崎警察署だった建物で、当時は地下が留置場だったそうで、今も金網があって雰囲気は残っています。そうしてこの第3別館の角が最初の大波止の場所という訳です。角には南蛮船来航の波止場跡という碑がひっそりと立っています。また、明治から昭和にかけてこの付近は広場でサーカスが行なわれたり、くんちの御旅所になったりしたそうです。今も昔も埋立地はイベント会場に最適なのでしょうか。




大波止の電停を中心に西日本銀行から文明堂本店を通り中島川までの県庁寄りの地域を玉江(たまえ)町と呼んでいました。元船町と同じように明治後期に埋立てられ出来た町で、昭和48年(1973)には五島町樺島町江戸町元船町に分割されてしまいます。この玉江とは瓊江(たまえ)書き、瓊江とは美しい入り江という意味で長崎の港を指します。瓊浦(たまのうら:けいほ)と書いても長崎の意味で瓊浦中学(旧制)高校(新制)もそこから来ています。唯一、大波止−出島間の橋だけは今も玉江橋といいます。欄干には瓊:たま)にちなみ大きな銀のがのっています。




大波止(おおはと)といえば大波止の鉄砲の玉鉄砲の玉といっても本当は大砲のです。この島原の乱(寛永14:1637)の時、長崎の唐通事:頴川(えがわ)官兵衛によって計画され作ったものです。計画は幕府軍が原城の地下に穴を掘り爆破しようという壮大なものでした。の大きさ(周囲185センチメートル:重さ620キログラム)に対して砲台も極めて大きく、また、地下に掘る穴も大きなものとなりました。しかし、大きいがゆえに原城側(一揆軍)に気付かれます。そして反対に原城側も地下の方に穴を掘り下げ、上から城内の糞尿を流し込みます。幕府軍は糞尿まみれになり計画は中止、失敗に終わります。その後、は長崎に持ち帰られ大波止に置かれることになるのですが、大波止に置くことはある意味、外国船に対しての威嚇(いかく)ともいえます。現在、設置場所が転々とし今では(H14現在)夢彩都の北側に寂しく立っています。計画を失敗させるほどの糞尿とはどれくらいのものだったのでしょうか。ちなみに原城のろう城者は2万数千人だったそうです。




大波止から長崎駅までの海沿いの町を元船町といいます。明治後期に造られた比較的新しい町です。江戸時代までは元船町全域は海の中、今の電車通りの所まで海でした。元船町とは不思議なネーミングですが、この町域が開港当時からオランダ船唐船の碇泊(ていはく)地にあたる所から、元々船があった所で元船町です。




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