広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年はありません 次の年へ移動



長崎七不思議の中の一つに「しゃんと立ったる松を下り松(さがりまつ)」とあります。現在の松が枝町中華料理の四海樓付近です。明治期は今の国道沿い(野母崎に向うバス道)が海岸でした。その海岸に立派な松の木があったようです。そこでこの付近を下り松というようになりました。大浦川河口:松が枝橋の南側に国の重文旧長崎税関下り松派出所があります。明治31(1898)に建てられた洋館ですが、最近リニューアル工事を終え昔の美しい姿を取り戻しました。現在はべっ甲工芸館としても利用されています。




グラバー園内の旧スチイル記念館には、長崎の有名な版画家:田川憲(1906-1967)の作品を展示してあります。田川憲は、いち早く長崎の洋館の文化的価値を見い出し、戦後、破壊されつつある洋館群の保存を説きました。作品にも南山手東山手の洋館群を題材にしたものが多く、長崎人が見た長崎人の風景が描き出されています。写真ではない板画の世界にみなさんも訪れてみてはどうでしょうか。




長崎市桜馬場(3/17参照)に桜馬場中学校があります。学校の西側、ちょうど春徳寺に上る道がありますが、この道筋に煙草(たばこ)初植えの地と書いた碑が立っています。約400年前、ポルトガル人が長崎にやって来て教会を作ります。その時、教会の脇に薬草園を作りました。多くの薬草の中にはタバコも含まれていました。(当時タバコは薬草と考えられていたからです)実は初植えの地が複数存在します。平戸城内にも同じような碑があったり、鹿児島が最初だという説もあります。どれが正しいという事よりも、タバコが薬草と信じられていた時代が面白いですね。




小浜温泉は江戸時代初期に開湯したといわれています。その後、療養の地として広めた人が陳明徳という人で明国(中国)のお医者さんでした。日本に帰化したいと願い出て日本名を頴川入徳(えがわにっとく)と名乗ります。専門は小児科で多くの弟子を育てました。長崎市夫婦川町の春徳寺の山門を入り右の墓所の真ん中に「頴川入徳醫翁碑(いおうひ)」といって業績をたたえた碑が立っています(儒者:安東省庵による)。




思案橋から福砂屋の本店までを本石灰町といいますが、この通りの思案橋近くに海外貿易家の島谷市左衛門(見立:けんりゅう)という人がいました。江戸時代初期、天文学、航海学、造船術などを学び幕府の命令で無人島の探検を行ない小笠原諸島の領土確立を行なった人です。造船術を学んでいたせいか探査船は唐船(中国船)の模造船だったそうです。なお墓所は寺町の禅林寺にあります。




♪通うりゃんせー通うりゃんせーここは何処の細道じゃー天神さまの細道じゃ♪で始まる童謡は信号機でも耳にします。この歌、最後には“帰りは怖い”とあります。なぜ天神さま(天満宮)の帰りは怖いのでしょうか?この歌が歌われた地区(農家)では、税金(年貢)徴収方法が住人の数で決められ、また、子供も7歳から徴収されたと考えられます。一方で飢餓や干ばつで作物が取れない日々が続き、農民は税金が払えません。一般に子供は7歳になるとお礼参りに神社に参詣します。無事にお参りを終え帰る途中、そういう人々は当時から参詣者の多い天満宮の人込みの中に置いて帰るのです。いわゆる人身御供(ひとみごくう)をして税金を免れていたのです。けして天神さまは悪くありません。




今日24日はお地蔵さまの日です。青柳の前を上り正覚寺の墓所を左に見ながらさらに上ると中小島(なかこしま)公園があります。そして、公園の南側には小さなお堂の中小島地蔵堂が目に入るでしょう。ここのお地蔵さまは火事よけのお地蔵さまといわれお地蔵さまのおかげでこの付近、大きな火事が起こらないということです。お堂は旧大徳寺の廃材を利用して建てられ、お鈴や線香立なども旧大徳寺のものを再利用しているそうです。また、お地蔵さまに並んでここの地蔵堂には長崎では珍しいダルマさんもいらっしゃいます。




大徳寺の梅ヶ枝焼餅、そのお店の前は現在、大徳寺公園になっていますが、公園入口に旧梅ヶ崎招魂社の鳥居(後に大楠神社に変わる)が残っています。ポツンと鳥居だけが残り不思議な感じですが、この鳥居やはり不思議な鳥居なのです。鳥居の右には「明治元戊辰年・・・」とありこれは、明治元年は戊(つちのえ)辰(たつ)の年を意味します。戊辰は読みかたを変えるとぼしんとなり、この年、明治元年は戊辰戦争が起こった年です。鳥居左には「長崎府地役人中」とあり、長崎が1年余り長崎県ではなく長崎府だった時の役人さん達が奉納した事がわかります。




6/13のつづき。梅ヶ崎招魂社は戦後、管理の都合上整理統合され、この場所から南に200メートル程進んだ場所の佐古(さこ)招魂社に移されます。佐古招魂社にはもともと台湾の役(明治7-1874)と西南戦争(明治10-1877)それに東京の靖国神社(大正7-1918)からそれぞれ長崎に関係のある多くの戦没者をここに合祀(ごうし)してあります。この場所は普段施錠され立ち入る事は出来ませんが市立仁田小学校の上手にあります。この方々の犠牲の下に今の日本の繁栄があります。




楠稲荷神社の上手、そこには大徳寺の梅ヶ枝のお店があります。正式名称は菊に水流の紋の菊水です。太宰府天満宮の梅が枝餅と似ていますが、ここのは梅ヶ枝で、大きさ中身、製法とも菊水オリジナルです。材料の仕込みから出来上がりまですべて手作り、注文してから焼くので口に届くまで5分程かかりますが、焼き手の仕事を見るのもなかなか面白いものです。出来上がったらお店の隣りの藤棚へ。藤棚の下で焼き餅を頂く、これが長崎人いわゆる地下(じげ)もんの楽しみ方なのです。諏訪神社月見茶屋のぼた餅か大徳寺の梅が枝かというところでしょうか。




丸山公園から大徳寺方向へ勅使坂を上ります。50メートルほどで忍び坂と交わり、その上手に赤い鳥居が出て来ます。楠(くすのき)稲荷神社です。創建は古くもともと琢生(たくせい)院というお寺で明治になり神社となりました。ここの見所は神社の裏側に樹齢800年といわれるです。根回りが23メートル、幹回りが13メートルともいわれています。20年ほど前、このの根元近くに大きな穴があって子供の火遊びにより火災が発生、丸1日くすぶり続けました。それが原因でが枯れ、すべての葉が落ちてしまったのです。そこで当時まだ数人しかいなかった樹医さんの手により復活、今では落ち葉公害といわれるほど盛っています。




しょうべん英語のつづき。40銭(フォーティセン):小便をホーテセン(はいつくばってしないの意)。50銭(フィフティセン):小便をヘフッテセン(屁をふりながらしないの意)。60銭(シックスティセン):小便をシキッテセン(仕切ってしないの意)。70銭(セブンティセン):小便をシャブッテセン(なめてしないの意)。80銭(エイティセン):小便をエットセン(あまりしないの意)。90銭(ナインティセン):小便をナイテセン(泣いてしないの意)。今では単位が違うので使うことが出来ませんが、数字を覚えるのには便利です。




明治時代、人力車の車夫さんたちは外国人の案内も務めていたので、運賃や場所ぐらいは英語を話せるように準備していたそうです。しかし、今のようにガイドブックがあるわけではありません。親方が耳で聞いて考案したそうです。どの車夫にも解りやすく、すぐ思い出せるように工夫されています。名付けてしょうべん英語です。自分の一物(いちもつ)を眺めて数字を覚え、解らなくなったら小便をする行為を思い出すのです。それでは、それはどんなものか。当時単位は「銭」です。近場は10銭ですので「テンセン」これだけは普通に覚えます。20銭(ツゥエンティセン):小便をツネッテセン(つねってしないの意)。30銭(サーティセン):小便をスワッテセン(座ってしないの意)。このつづきは明日。




長崎市の南西に香焼(こうやぎ)町があります。三菱重工業長崎造船所香焼工場の100万トンドックのある町です。町名の香焼の話。平安時代、空海(弘法大師)が中国(唐)から戻ってくる際、この地に立ち寄って護摩(ごま)密法を行なったそうです。(護摩密法:火を焚いて仏さまに祈る儀式)この時の香りが洞窟に立ち込めたところから香焼となったといわれています。香焼町役場横から参道が始まる円福寺は、弘法大師ゆかりのお寺として有名です。




丸山町にある梅園身代り天満宮狛犬さまは、江戸天保時代、歯の痛みがある者が狛犬さまの口に水飴を塗ると痛みがたちまちなくなるといわれ、当時は狛犬見たさに市が立つほどだったそうです。このことは梅園天満宮の創建にも関係していることで、やはりここの狛犬さまも人々の身代りになって下さる霊験あらたかな狛犬さまなのです。ちなみに現在の社殿横のものは2代目で、初代は脇の方に引退しています。




私が歴史の先生から厳しく言われていることを一つ。街を歩くとお地蔵さまや神社そしてお寺と出会う機会が多いものです。その神社仏閣には必ずといっていいほどお供え物が上がっています。「頂きなさい!」先生から必ず言われます。どういう意味かといえば、昔あるところに、空腹で困っていた旅人がいました。人に物をもらうと物乞いと同じになるため、お地蔵さまに上がっていたお供え物を頂いたそうです。そのお供え物、土地の人はお地蔵さまが召し上がったと喜び、旅人はありがたいお供え物を頂くことができ喜びます。これはどういうことを意味するかといえば、お地蔵さまが二人の心の橋渡しをしたことになるのです。4/21のコラムと同じ、自分が用意したものを頂いてもらえることは喜びです。先生はこのことを教えているのです




昨日のつづき。江戸時代、丸山(花街)へは思案橋から丸山の二重門(丸山交番前)をくぐらないと入ることが出来ませんでした。明治に入りいくつか出入口が作られます。光永酒店から入る小道は寄合町の遊廓の裏手に抜けることができるため、人目が気になる方はこの道をこっそり通っていたそうです。今でも、こっそり飲みに行く方を見かけますが、この坂を通称忍び坂といいます。また、坂の途中に船大工町大師堂があって、ここのお大師さまは、やはり忍び坂に関連して、秘めた思いを叶えてくれるそうです。ちょっと遠回りしては・・・。




明治になって大徳寺が廃寺となり、戊辰(ぼしん)戦争(戊辰の役:明治元-1868)の戦死者をお祭する梅ヶ崎招魂社(しょうこんしゃ)が造られました。現在の大徳寺公園の場所です。(招魂社とは江戸から明治にかけて国事のために殉職した人をお祭りする施設)そして、その式典のために天皇のお使い(勅使:ちょくし)が来ることになり準備が始まります。当時、招魂社へは船大工町からの入口、今の光永酒店横から入る小さな道しかありませんでした。そこで、寄合町の有力者の家を開き丸山公園側から登る道が造られるます(説)。現在、丸山交番を正面に見て右、大徳寺公園へと向かう坂があります。これが勅使坂です。




松平長七郎は慶長19年(1614)から寛文元年(1661)まで活躍しました。丸山が開かれたのは寛永19年(1642)ですので、長七郎が田上にいた頃、丸山に遊びに来たといってもつじつまは合います。また、諏訪神社のくんちは寛永11年(1634)に始まっています。長七郎がいた時代、くんちはすでに開催されていたことになります。現在、丸山町は40年ほどくんちをお休みしていますが、この丸山町の出場と長七郎とは少なからず関係が残っています。関係といっても奉納踊りではありませんが、丸山町が庭先廻りを終えて思案橋を渡って帰路に着く頃、丸山に入る前に「ちょーさん」「ちょいさー」「ちょーさいやー」といって丸山に入るそうです。これは丸山で遊んでいた長七郎に“帰って来ました”との報告の意味があるそうで、伝統になっていたそうです。おそらく、気前のいい長七郎は踊り(庭先廻り)を終えた遊女(芸者さん)達に、ごほうびを与えたことでしょう。田上から丸山まで夜な夜な遊んでいた松平長七郎の物語でした。




その後、松平長七郎は西日本を転々と渡り歩き、島原の乱(寛永14:1637)にも参加。手柄も立てたともいわれています?島原の乱の後、島原藩に高力(こうりき)氏、その後すぐ、愛知県三河(福知山を経て)から松平忠房氏が入ります。同じ松平家ということもあり長七郎も島原に残っていたのでは?といわれています。そして今の長崎市茂木・田上は、当時、島原藩の飛び地でした。よって、長七郎も最後に移ってきたといわれています?なぜなら、十八銀行田上支店の裏手の田上(でんじょう)寺には、本堂前に大きな墓があって「松平長七郎の墓」と書いてあります。やはりここに来ていたことになりますね。しかし、長七郎は和歌山で死亡したともいわれています・・・?どちらが正しいではなく、明日は長七郎と丸山の関係を。




江戸時代初期、徳川幕府第3代将軍家光の弟は忠長(駿河大納言忠長)といいますが、この忠長は次期将軍の野望を抱いていました。しかし、望みは断たれ乱行の後に切腹させられます。その忠長の息子は松平長七郎家光のおい)ですが、松平長七郎といえば、里見浩太朗演じる時代劇「長七郎天下御免」などの長七郎シリーズが有名です。時代劇では正義の味方のようですが、実は、強盗の一味に加わるなど、乱れた生活を送っていたそうです。けれど、将軍家光のおいということもあり幕府や紀州家などから援助を受けていたそうです。そこが、時代劇にもってこいだったのでしょう。“長七郎と長崎”どういう風に関係があるのでしょう?つづきは明日・・・。




電車の終点 石橋電停から田上方向へ。上田町-川上町-日の出町-椎の木川とバス停は続きます。このバス通り、もともと大浦川の上に作られたもので現在は暗渠です。日の出町バス停と椎の木川バス停の中間、ドンの山側ですが小さなお社があります。大守水天宮、江越水天宮がお祭してあります。これは水神様ですが、ここの場所にはちょっとした話が残っています。昭和5年、まだ川に水が豊富に流れていた頃、この付近に大うなぎ(野母崎樺島の大うなぎを想像して下さい)が現れたそうです。付近の人々は大騒ぎし、それに当時の長崎市長も見に来たほど・・・。その時からここを水神様のほかにうなぎの神様というようになりました。今でも付近の皆さんに親しまれています。




昨日のつづき。新紺屋町の町域は割合小さい町域だったため、しばらくすると吸収されます。一部が麹屋町、そして残りのほとんどが今紺屋町になります。しかし、今度は今紺屋町が大きくなったため、今紺屋町の上手(長崎警察署〜麹屋町側)を今紺屋町。下手(長崎市公会堂〜市民会館〜中通り入口側)を中紺屋町に分割します。しかしまた、この2町は明治になって合併、紺屋町になります。その紺屋町ですが、明治時代までは文字通り紺屋さん、つまり染物屋さんが数件残っていたそうです。だから、本紺屋町(親和銀行長崎支店の通り)に対して、紺屋町を俗称で染紺屋(そめこうや)町と呼んでいたそうです。当時、中島川を挟んで同じ町名は紺屋町だけでしたが、現在、残念なことに紺屋町は1つも残っていません。くんち出場と同じように紺屋町の町名復活を望みたいものです。3/29参照。




昨日のつづき。さらに長崎の発展につれ紺屋さんも発展します。紺屋町だけではまかない切れず中島川の上流に新たに紺屋町が出来ます。最初の紺屋町本紺屋(もとこうや)町、開かれたばかりの今一番新しい町、それが今紺屋(いまこうや)町です。現在の長崎警察署前の通りですが、今の道幅は昭和に入って広げられたもので実際の幅は中島川の芒原(すすきはら)橋の幅でした。しかし、それでも町が狭くなり中島川を挟んで寺町側に紺屋町が新たに開かれます。新紺屋(しんこうやorあたらしこうや)町です。ここは現在の麹屋町郵便局付近にあたります。今紺屋町で水洗いや染付けを行ない、新紺屋町は内陸のため洗った布を干していたともいわれています。明日は中紺屋町へ・・・




親和銀行長崎支店のある通りを以前までは、紺屋町(こうやまち)と呼んでいました。長崎の町が発展するにつれ、紺屋つまり染物屋さんが集まって来ました。人の生活には衣料品は欠かせないもの、紺屋町も発展します。また、材料の紺(こん)藍(あい)という草から取れるそうですが長崎では収穫できず海路長崎に入って来ました。それに、染物には大量の水を必要としたため、この場所つまり中島川沿いとなったわけです。現在の中島川常盤橋辺りでは水洗いを、内陸(中央公園側)では洗った布を干していました。明日も紺屋町:本、今、新、中紺屋町とつづきます。




長崎が発祥の地となったスポーツ(娯楽)を紹介しましょう。江戸時代、出島オランダ商館には通常十数人のオランダ人が住んでいました。もちろんオランダから船が入ると忙しい毎日ですが、一旦、船が出港すれば自由な時間が生まれます。そして、その時の娯楽がバトミントン(跳球)であり、ビリヤード(撞球)だったのです。現在、出島オランダ商館跡にはバトミントン伝来の地の碑が建っています。次に、明治時代になり日本が開港、長崎では大浦一帯が居留地として開かれます。その頃、伝わったものにボウリング(転球)があります。大浦の四海樓横には日本ボウリング発祥の地の碑が建っています。実際の場所はここではなく、梅香崎または南山手といわれています。




宵(よい)の口に階段に座んな!お茶ひくやろー」 先程、うちのお店の中で聞こえた言葉です。はじめの宵の口に階段に座るなは、夕方に階段(玄関)に人が座ると入口をふさぎお客様が入れない、といって縁起が悪く、そのあとのお茶をひくとは、お店がヒマという意味で、その昔、花街では売れない(人気のない)遊女や芸者がお客様を待っている間、少しでも仕事をさせようとお茶を挽(ひ)かせていたことから、お茶を挽くことがヒマな意味になったそうです。だから、うちのお店では階段や玄関には特別に気を使っています。




鯖くさらかし岩は見る方角や太陽の当たる方角で様々な顔を表わすそうです。江戸時代、長崎奉行所の勘定方の大田南畝(おおたなんぽ:号を蜀山人:しょくさんじん)は長崎に在勤中、時津に訪れこの岩を見て「岩かどに 立ちぬる石を見つつをれば になへる魚も さはくちぬべし」と歌ったそうです。この岩は別名を継石坊主(つぎいしぼうず)といい、付近の地名やバス停も「継石」を使っています。最近では時津のシンボルとなり、時津町内のマンホールの蓋や歩道の策などにデザイン化されています。たまには下を向いて歩きましょう。




国道206号線と川平有料道路が交わる井手園交差点。そこから時津よりに大きな岩があります。その昔、1人の愚かな魚売りが、ぎっしり鯖(さば)の詰まった篭をエッサエッサと担ぎ、時津の港から長崎へと向っていました。そして、この大きな岩を見て岩が落ちてから通ろうと思い、しばらく立ち止まって見ていたそうです。すると売り物のがすべて腐ってしまい売り物にならなくなりました。ここからこの岩のことを鯖くさらかし岩と呼ぶようになったとか。別名を爛錆巖(らんせいがん)という。(爛:ただれるという意)つづく・・・




3/17の長崎甚左衛門のつづき。長崎甚左衛門は桜馬場に館を構える長崎の領主でしたが、当時ポルトガル人(=南蛮人)は日本にキリスト教を広めるため拠点の地を求めていました。そこで、甚左衛門の義父である大村純忠は県庁から市役所の長い岬をキリスト教に寄進し、キリスト教(イエズス会)は本部を県庁のところに建設します。しかし、この地を8年後秀吉が取り上げます、天領です。一方で位置的に甚左衛門がいる桜馬場付近は天領には入り込んでいたため、退去させられ時津に移されます。甚左衛門自身とてもつらいことだと思います。今では、ジャスコ時津店の交差点を山手に300メートル進むと、甚左衛門が静かにそれも寂しそうに眠っておられます。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年はありません 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16