広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



A-118:町年寄久松家跡(まちどしより-ひさまつ-ていあと)
興善町4 (旧本興善町)
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その町年寄の中の一人、久松家の屋敷がこの地にありました。久松家は西浜町にも屋敷を持っていましたが、ここはその久松家の本邸にあたります。なお、久松家は元禄12年(1699)以降に任命されました。町年寄は明治維新を迎え制度が解体されます。




A-117:長崎医科大学特設救護病院跡
(ながさきいかだいがく-とくせつきゅうごびょういん-あと)【長崎市立図書館】
新興善国民学校は、昭和20年(1945)8月9日の原子爆弾投下後から原爆被災者の収容所となり10月まで使用されます。昭和23年(1948)より長崎医科大学が移転。昭和24年(1949)新制大学発足と同時に長崎大学本部が設置され、昭和29年(1954)大学は坂本町に移転します。




A-116:興善尋常小学校跡(こうぜん-じんじょう-しょうがっこう-あと)
【長崎市立図書館】
尋常小学校とは初等普通教育、今の小学校のことで、興善尋常小学校は明治7年(1874)この地に設けられます。昭和9年(1934)近くの興善尋常小学校とともに廃止され、興善小学校の地に新たに新興善尋常小学校が開校します。昭和16年(1941)国民学校令によって新興善国民学校と改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立新興善小学校となります。平成9年(1997)の新興善、勝山、磨屋三校統廃合によって幕を閉じます。現在、長崎市立図書館には新興善小学校の門柱が残されています。




A-115:活版伝習所跡(かっぱん-でんしゅうしょ-あと)【長崎市立図書館】
嘉永元年(1848)にオランダから印刷機を輸入し、オランダ通詞の品川藤兵衛などが長崎会所で研究を進めますが失敗します。一方、オランダ通詞本木昌造は自らの研究で嘉永4年(1851)流し込み活字製作に成功。安政2年(1854)長崎奉行所西役所内に海軍伝習所が開設されたことに伴い、教科書印刷が必要となり本木昌造を取扱掛として同奉行所内に活字判摺立所が設けられます。文久元年(1861)に廃止され機材はすべて江戸に送られます。安政5年(1858)出島内に活版印刷所が設けられ本木昌造はここに入ります。明治元年(1868)本木昌造は長崎新聞局を作り「崎陽雑報」を発刊。我が国初の地方紙となります。明治2年(1869)長崎製鉄所の頭取となった本木昌造は印刷技師ウイリアム・ガンブルを迎え、製鉄所の付属施設として活版伝習所を唐通事会所跡に設立します。翌3年、本木昌造は頭取職を辞して新町活版所を設立。我が国初の民間活版所となり近代印刷の先駆けとなります。




A-114:唐通事会所跡(とうつうじ-かいしょ-あと)【長崎市立図書館】
唐通事とは唐人(中国人)との通訳および事務などの業務を行なう役職のことで、慶長9年(1603)の馮六(ヒョウロク=墓所光源寺)が最初といわれています。唐通事は複雑な階級があって大通事(オオツウジ)、小通事(コツウジ)、稽古通事など17の役が設けられ、ほとんどが世襲によって受け継がれて行きます。この唐通事の事務所が宝暦元年(1751)今町(現金屋町付近)の人参座の跡地に置かれ、宝暦12年(1762)本興善町糸荷蔵跡に移されました。




A-113:長崎奉行所糸荷蔵・武具蔵跡(ながさきぶぎょうしょ-いとにぐら/ぶぐくら-あと)【長崎市立図書館】
元禄2年(1689)長崎奉行所は唐蘭商人から買い求めた生糸のうち、売れ残りや幕府調度品を納めるための糸荷蔵が造られ、合わせて長崎奉行所が非常時に使用する武具(弓、弓矢、鉄砲、旗など)が収められていました。享保6年(1721)武具は東上町の長崎会所の土蔵に一時移されますが、天明6年(1786)立山役所近くに長崎奉行所武具蔵が造られました。※糸荷蔵は宝暦12年(1762)ごろには廃止されています。




A-112:向井去来生誕の地(むかいきょらい-せいたんのち)
【長崎市立図書館】
向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)は幼少は慶千代で通称を喜平次(平次郎)といい、字を元淵、号を去来とし、向井元升の次男としてこの地で生まれ、8才のとき父と共に京都に移住。一時福岡で武芸と儒学を学び、20才代になり再び京都に移り、父元升の後を継いで開業していた長男:元成を支えます。しかし俳諧の道に進むようになり35才頃、松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(ショウモンジッテツ:松尾芭蕉の10人の優れた門下)の一人となります。元禄2年(1689)帰郷し長崎に蕉風俳諧を伝え、「君が手もまじる成るべし花薄:芒塚」「稲妻やどの傾城と仮枕:丸山」「故さとも今は仮寝や渡り鳥:本河内」は有名。
蕉門十哲は榎本其角:服部嵐雪:向井去来:内藤丈草:杉山杉風:志太野坡:越智越人:立花北枝:森川許六:各務支考をいう。




A-111:向井元升邸跡(むかいげんしょう-ていあと)
興善町1-17北側(旧後興善町)【長崎市立図書館】
向井元升(慶長14:1609-延宝5:1677)は儒学者で、名を玄松、字を以順、観水と号し、子供の頃、佐賀神埼より長崎入りします。そして天文学や本草学、儒学を学び、またポルトガル人神父クリストファー・フェレイラ(沢野忠庵)よりヨーロッパ医学を学びます。元和3年(1617)には霊蘭堂と号し儒医となりこの地で開業。続いてオランダ商館医のアンス・ヨアン・スティーペルからはオランダ医学を学ぶなど幅広く文化を受け入れた人物でした。
※クリストファー・フェレイラはポルトガル人神父でしたが、拷問を受けた末に神を憎むようになり、キリシタンを辞めた人物で(転び切支丹伴天連)、日本名:沢野忠庵に改称します。




A-110:興善町末次平蔵(こうぜんまち-と-すえつぐへいぞう)
第2代長崎代官であった村山等安が元和5年(1619)に江戸で斬罪に処せられた後、末次平蔵政直が第3代長崎代官となります。末次家はもともとは周防(現在の大分県)大内義隆の旗下で、末次左馬頭という者が博多の守護代として下向し、その子が末次孝善興善で長崎で台湾貿易を行ない財を蓄えます。この末次孝善興善が開いた町が興善町ということになります。末次孝善興善の子が第3代代官の末次平蔵政直です。政直の後は世襲され第4代は末次平蔵茂貞、第5代は末次平蔵茂房、第6代は末次平蔵茂朝と続き、50万石以上の石高で大名を越えていました。延宝4年(1676)第6代末次平蔵茂朝のとき密貿易が発覚。一族は死罪や流罪となり末次家は滅亡します。墓所は春徳寺。




A-109:三浦梧門宅跡(みうらごもん-たくあと)
興善町3-5(旧 本興善町)
三浦悟門(文化5:1808-万延元年:1860)は名を惟純、通称を惣助、号を悟門といいます。三浦家は宝永6年(1709)より代々興善町の乙名職で、悟門は三浦惣之丞の長男として生まれ、その後、乙名職や長崎会所目付役に進みます。悟門は同時に唐絵目利きであった渡辺鶴州や石崎融思などから南画を学び、後に長崎南画三筆と呼ばれるようになるのです(三筆は三浦悟門、木下逸雲、日高鉄翁)。悟門は屋敷を秋声館や香雨樓と称し、庭園に青桐(異名:碧梧)が植わっていたところから梧門と号したといわれています。墓所は本蓮寺後山。




A-108:報時所跡/鐘の辻(ほうじしょ-あと/かねのつじ)
桜町3-34付近(旧豊後町)
報時所とは鐘を叩いて市民に時報を知らせる場所のことで、松尾伊右衛門の家が世襲にて務めます。初めは寛文5年(1665)に嶋原町の一の堀(現明治生命ビル付近)に設置され、延宝元年(1673)今籠町(現在の崇福寺通り)に移転。明和3年(1766)豊後町(現今福皮膚科)に移ります。この報時所の鐘は崇福寺の即非禅師の銘があり、費用は長崎の各町がお金を出し合って造られました。寛文6年(1666)と安永3年(1774)には破鐘したため改鋳が行なわれています。市民は普通、報時所とは言わず鐘の辻と呼んでいました。これは報時所の前が十字路(辻)にあたり、ここから鐘の辻というようになります。報時所は、明治36年(1903)小田の原(コダノハラ)に長崎測候所が作られ、正午の観測の合図として空砲(午砲=通称ドン)を撃つようになったため廃止されます。午砲は昭和16年(1941)3月まで続き、小田の原ドンの山と呼ばれるようになります。




A-107:長崎開港の碑(ながさき-かいこうの-ひ)桜町2-22(旧桜町)
【長崎市役所本館横】
長崎開港の碑は、長崎開港400年周年を記念して昭和48年(1973)に長崎日本ポルトガル協会と在長崎ポルトガル国名誉領事館から寄贈されました。設計は元長崎市建築課技丁であり郷土史家の丹羽漢吉、撰文は当時の日本二十六聖人記念館館長の結城了悟、ポルトガル船を描いた銅版は彫刻家の富永直樹によるものです。

長崎市職員原爆犠牲者慰霊碑
昭和56年(1981)長崎市職員の原爆犠牲者のために建立されました。原爆で亡くなった市職員の数は、37人にも上ります。




A-106:長崎市議会(ながさき-しぎかい)
明治11年(1878)区政が実施され江戸時代の長崎の町および大浦地区が長崎区になり、議政機関として区会が設けられます。明治15年(1882)初となる区議会が開設され、初代議長に西道仙が選任されます。初回は議員定数40人、任期4年(2年ごとに半数改正)でした。明治22年(1889)市制が施行され長崎市が誕生し、すぐに第1回市会議員選挙が行われ第1回市会が開催されます。




A-105:長崎市役所(ながさき-しやくしょ)
明治維新後、町年寄の制度が解体され代わりとなる長崎町会所が明治元年(1868)に設置されます。明治3年(1870)長崎市郷会所に改称。さらに明治11年(1878)区政が実施され長崎区になります。そして区を6つに分け「戸」が置かれ、その区戸長役場が磨屋町の旧町年寄薬師寺邸に置かれていました。明治17年(1884)現在の桜町に長崎区役所、戸長事務取扱所、議事堂が竣工し移転します。明治22年(1889)市制が施行され長崎市が誕生。大正4年(1915)長崎県庁と同じ山田七五郎設計による鉄筋コンクリート2階建の市庁舎が完成します。しかし昭和33年(1958)3月に火災で焼失、現在の庁舎に建て替えられます。




A-104:町年寄高島家跡(まちどしより-たかしま-ていあと)
桜町2-22(旧桜町)【長崎市役所南側駐輪場】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その町年寄の中の一人、高島家の屋敷がこの地にありました。高島家は大村町にも屋敷を持っていましたが、ここはその高島家の分家にあたります。町年寄は明治維新を迎え制度が解体されます。




A-103:長崎商業会議所跡
(ながさき-しょうぎょうかいぎしょ-あと)【長崎市役所別館北側】
長崎商工会議所の起源は江戸時代初期の糸割符会所であり、その後の長崎会所とつながります。長崎会所は明治維新後に解体。その後、長崎の実業家の松田源五郎らが明治12年(1879)築町に長崎商法会議所として立上げ、明治16年(1883)桜町に長崎商工会として移転。明治26年(1893)に大村町の長崎商人集会所にて長崎商業会議所と改称し、大正8年(1919)長崎税務監督局を買収して赤煉瓦造り2階建の建物に入ります。昭和21年(1946)長崎商工会議所として再出発します。昭和25年(1950)火災で社屋焼失。昭和39年(1964)大黒町に移転。昭和56年(1981)現在の長崎商工会館が完成します。




A-102:長崎奉行所牢屋敷跡(ながさきぶぎょうしょ-ろうやしき-あと)【長崎市役所別館】
慶長5年(1600)南馬町に牢屋敷が建てられますが(他説あり)、慶長6年(1601)桜町のキリシタン墓地が立山に移った後、牢屋敷が移設されます。慶長19年(1614)禁教令によってサン・フランシスコ教会が破却された後の元和6年(1620)現在の市役所別館の敷地が牢屋敷に変わり規模が拡大します。
この牢屋敷にはオランダ通詞の楢林鎭山や吉雄耕牛なども役務上入牢したことがあるといわれていて、江戸初期から2名ないし3名の牢屋医師(漢方医)が置かれていました。また、この一派は法医学的研究も行なっていたといわれています。さらに、文政11年(1828)シーボルト事件に加担した38名や、明治10年(1877)西南戦争のとき、当時の鹿児島県令(知事)の大山綱吉が幕府軍の西郷隆盛を援助した罪で捕われ、長崎の上等裁判所で判決を受け、複数の同罪の者と共に斬首された歴史を持ちます。明治維新後は桜町監獄と改称。明治15年(1882)片淵に移転。長崎監獄となります。




A-101:桜町(さくら-まち)・東町(ひがし-まち)・喜蔵町(きぞう-まち)
現 桜町一帯 
慶長19年(1614)サン・フランシスコ教会が破却後、町の拡大とともにこの付近にも多くの家が建ち並ぶようになり、元和から寛永に変わる頃(1625頃)にはすでに桜町が誕生していました。さらに桜町の隣りには東町という通りも存在していて、桜町は現在の市役所前の通りで、東町桜町東側の裏通り(市役所別館〜商工会館)になります。ちなみに東町桜町の東側にあるところから東町とついたといわれています。また、この東町には別名があって喜蔵町とも呼ばれていました。江戸時代初期、この東町にオランダ大通詞の加福喜蔵の所有地があり、加福喜蔵は多くの建物を建て一般市民に賃貸していたそうです。そこから喜蔵町になったといわれています。




A-100:サン・フランシスコ教会(修道院)跡(San Francisco)
桜町6-3(旧桜町)【長崎市役所別館】
長崎開港当初、桜町は町外れということもあってキリシタンの墓地が立ち並んでいました。その後、多くの墓地は立山の山のサンタマリア教会へ移転し、あと地にサン・フランシスコ教会(修道院)が建てられます。このサン・フランシスコ教会(修道院)はキリスト教の一派であるフランシスコ会の教会で、慶長13年(1608)創立します。その後、慶長16年(1611)長崎におけるフランシスコ会の本部となります。しかし慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。




A-99:桜尾の小町(さくらおの-こまち)
開港当初の桜町付近は長崎(六町)の町はずれでキリシタンの墓地が立ち並び、が植えられていました。また、桜町から勝山町にかけては丘陵でが植えられていたところから桜尾の小町と呼ばれていました(尾は小高いの意。小町は美しい桜の意)。また、墓地にはクルスが建てられ、墓地の前の家をクルス町と称していました。クルスとは、つまりCROSS十字架の意味からきています。




A-98:川崎町(かわさき-まち)
桜町6-10付近(旧桜町)
長崎市役所別館角から長崎市公会堂へ下る坂道のことを以前まで俗称で川崎町と呼んでいました。昭和の初めまで木造の長屋が2棟あって、明治5年(1872)6月14日に長崎区第1大区3小区戸長に任命された川崎時五郎の持家でした。建築材は長崎奉行所牢屋敷が廃止された廃材を使って建てたもので、豚を飼うのが目的であったともいわれています。




A-97:特攻薬効クリーム黒龍発祥の地の碑
(とっこうやっこう-くりーむ-こくりゅう-はっしょう-のち)
桜町9-6(旧引地町)【地区労会館】
この地は現在の轄風エ堂(本社東京都港区)の「特殊薬効クリーム黒龍」発祥の地で昭和27年(1952)に創製45周年を記念して建立されました。この黒龍クリームは長崎市出身で蘭学の流れを組む医師:宮崎雅幹が、日露戦争後にシベリアに渡り診療所を開業。ロシア人の診療にあたっていましたが、合わせて薬効クリームを研究、開発します。宮崎は大正10年(1921)にシベリアで没しますが妻の敬子が継承。昭和5年(1930)に日本に引き上げた後、この地で黒龍クリームの販売を始めます。発売当時は長崎の女性がうらやむ化粧品といわれました。現在、地区労会館横に碑の由緒と吉井勇の詩が刻まれた碑が建っています。
碑文「黒龍といふ名を石に刻ませて 父をこそをもへ 母をこそをもへ」




A-96:西彼杵郡役所跡(にしそのぎ-ぐんやくしょ-あと)
桜町6-3(旧桜町)【長崎市役所別館】
西彼杵郡とは明治11年(1878)に施行された郡区町村編成法によって定められた行政区域の一つで、範囲は西彼杵半島および長崎市、長崎半島が管轄でした。施行当初、岩原御目付屋敷跡群役所が置かれ、その後、桜町に移転します。大正12年(1923)郡制が廃止、続いて郡役所も大正15年(1926)廃止され西彼杵郡はただ単に地理的名称になり現在に至ります。なお、郡役所は売却され長崎市役所別館建設のための財源に使われます。




因幡の白兎(稲羽の素兎)
大国主命には多くの兄弟神(八十神)がいて、いつも荷物などを持たされ兄たちにいじめられていました。そしてある日、兄弟達が因幡の海岸でワニ(鰐)に皮をむかれた丸裸のウサギ(兎)に出会います。話を聞くと、ウサギは遊びに夢中になっていたため満潮になったことを忘れ、岸に帰られなくなったとのこと。そこにワニ(鰐:鮫のこと)が現れたため、ウサギは「ウサギワニはどちらの方が仲間が多いか」と質問をし、ウサギワニに数えたいので並ぶように指示をしたそうです。ワニは素直に従い並んで見ると、ウサギが一目散にワニの上を数えながら岸に向って走りだします。しかし、岸近くなったところで騙したことを口に出してしまい、ワニは怒り出しウサギの皮を食いちぎり丸裸にしたということです。 泣いているウサギを見た兄の八十神は、手当を教えるのですがうまくいかず、大国主命が改めて手当を教えると直ぐに治ったそうです。ここから大国主命ワニウサギの関係が生まれます。




A-95:出雲大社長崎分院(いずもたいしゃ-ながさきぶんいん)
桜町8-5(旧引地町)
出雲大社とは島根県大社町にある神社のことで大国主命(オオクニヌシノミコト)が祭神です。ここの長崎分院は明治26年(1893)に桜馬場に創立。一時、小曽根町に移転しますが大正13年(1924)にこの地に移ります。ここには狛犬の代わりに鰐(ワニ)の像が左右に安置してあり、兎(ウサギ)がその上に載っています。これは大国主命の伝説「因幡の白兎(イナバノシロウサギ)」を生かしたものです。なお、昭和の初めまでこの出雲大社の並びに植田劒道場という道場がありました。




A-94:休石(やすみ-いし)
興善町7-1(旧桜町)
商工会館北側路地を東に下ると道路沿いに「休石」と彫られた四角い石(約50×20×30)があります。昔は市内に多く点在していたそうですが、昔のまま残っているのはこの場所のみです。大正の頃までは高さが1メートル程あったのですが、道路が埋立てられていつしか高さが低くなっています。この石の使い方は荷物を背負った人などが休憩して立ち上がるとき、一旦、荷物をこの上に載せて人が立ち上がり、それから荷物を背中に担ぎます。つまりこの石は荷物載せなのです。今ではあちこちに新しい休石がありますが、これは設置した長崎市が腰掛けと勘違いしているようで、本当は荷物を載せる石です。




A-93:吉雄圭斎宅跡(よしおけいさい-たくあと)
興善町6-10(旧豊後町)【松尾建設】
吉雄圭斎(文政6:1859-明治27:1894)は、江戸中期に活躍したオランダ通詞吉雄耕牛の二代目幸載の次男にあたります。軍医ポンペや小島養生所教官ボートウィンなどに教えを受け新しい医学を学び、特に一般人に種痘がなかなか理解されなかった当時、身内を実験台として人々の誤解を説き普及に努めます。明治維新後は陸軍軍医として活躍します。墓所は春徳寺後山。




A-92:安豊稲荷神社(やすとよ-いなりじんじゃ)
興善町3-13(旧豊後町)
安豊稲荷神社はもともと現在の長崎商工会館の北角のところにあり、豊後町稲荷神社と称していました。この神社は旧豊後町の鎮守神で創建などは不明。安豊とは、豊後町が安泰でありますようにとの意味が込められています。また、昔は商工会館の北側の交差点を鐘の辻と呼び、そこのお稲荷さまということで以前まで「鐘の辻のお稲荷さま」と呼ばれていました。




A-91:豊後町(ぶんご-まち) 桜町-興善町境界部
豊後町は桜町電停付近から国道34号線を横切り長崎女子商業までの通りのことをいいます。長崎開港後に豊後地方(大分県)に住んでいたキリシタンによって開かれた町で、豊後地方キリシタン弾圧が激しくなったため長崎に移住したものと考えられています。この町は南北に坂があり、この坂を豊後坂といいます。昭和38年(1963)町界町名変更で桜町・金屋町・興善町に分割されます。




A-90:引地町(ひきじ-まち)
興善町の自治会館付近から桜町の勤労福祉会館前の通りを以前まで引地町といい、二の堀の建設の際に発生した残土を埋立て拓かれた(地面を引いた)町なので引地町と名付けられます。昭和の初め頃までは表通りとは対照的にお稽古ごとの町として「琴三味線の引地町」呼ばれ、静かな町屋が立ち並ぶ街並みでした。昭和20年(1945)の原爆の影響で焼失。昭和38年(1963)町界町名変更で桜町、興善町、魚の町の各町に分断されます。




A-89:ニの堀跡(にのほり-あと) 現桜町(旧豊後町)
(長崎市議会南側―長崎商工会館北側)
文禄元年(1592)の一の堀に続いて長崎の防備のために慶長元年(1696)ニの堀が造られます。ここは一の堀と違って大堀のみの構造で、当時の桜町と豊後町の間に造られます。しかし江戸時代、文献によれば「曽根川検校が延宝8年(1680)に涸水のため埋立てを行ない自邸を築立てた」とあり、おそらくこの時期にニの堀は消失しました。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16