広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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○興福寺末庵
興福寺には下禄庵として下記の堂宇がありましが、明治維新を受け維持困難となり廃寺。
永興庵:延宝2年(1674)第4代住持澄一創建(所在麹屋町)
聽松庵:沿革不明(所在八幡町)
福源案:沿革不明(所在浦上村船津郷:現 立山付近?)
希運庵:沿革不明(所在長崎村中川郷:現 中川2-6付近)




○桃林庵跡(とうりんあん-あと)
桃林庵は興福寺の下、麹屋町6-13にあって慶安3年(1650)第3代住持:逸然によって創建された堂宇で明治11年(1878)までありました。その後は浄土真宗大谷派の楠龍渓に譲られ大谷派説教所となります。そして高田派聞名山善縁寺となり昭和の初めごろまで続きます。




○興福寺末庵:資福庵跡(しふくあん-あと)
資福庵は興福寺大雄宝殿後方の旧永福庵の北隣にあったお堂で、第5代住持:悦峯が隠居所として元禄7年(1694)創建しました。唐船主らから寄進を受け維持されていましたが明治維新後に衰退し明治20年(1887)ごろ廃庵となります。




○鶴鳴学園跡(かくめいがくえん-あと)【興福寺境内】
鶴鳴学園は明治29年(1896)笠原田鶴子によって出来大工町(現電車通付近)に長崎女学院として設立。鶴鳴は中国の最古の詩集:詩経の中の句「鶴九皐(クキョウ)に鳴いて声天に聞こゆ」にちなみ、鶴のように清らかで節操高い女性となり名声を上げて欲しいとの願いが込められています。明治34年(1901)興福寺の永福庵跡地に移り鶴鳴女学校と改称。明治45年(1912)鶴鳴実科高等学校と改称します。そして大正10年(1921)現在の上小島に移転し、昭和23年(1948)学制改革により鶴鳴女子高等学校となり、昭和41年(1966)弥生町に鶴鳴女子短期大学(のちの長崎女子短期大学)を開学します。平成9年(1997)には鶴鳴女子高等学校を長崎女子高等学校と改称します。鶴鳴学園は長崎の女子の学校として歴史と独自の風格を持つ学園です。




○興福寺末庵:東蘆庵跡(とうろあん)【興福寺境内】
東蘆庵は興福寺大雄宝殿の後方、旧長崎女子商寮のところにあって幻寄山房と称された庵で寛永18年(1641)第2代住持黙子如定の隠居所として創建されました。庭園には如定手植えの海棠(カイドウ)や梅竹があり東明八景と称される美しい庭園があり、以降、歴代住持の隠居所として使用されます。明和2年(1765)の火災で焼失し同じ末庵の永福庵に合併します。

○興福寺末庵:永福庵跡(えいふくあん)【興福寺境内】
貞享3年(1686)第4代住持:澄一(チョウイツ)は永福庵を創建し、のちに在留唐人の平安を祈祷する庵となります。明和2年(1765)からは火災で焼失した東蘆庵の場所に併合移転し、明治20年(1887)からは興福寺の併合されます。




B-86:興福寺唐僧墓地【興福寺後山】
興福寺の後山(風頭山中腹)には興福寺歴代住職の墓所があって、ここは周りを中国風の馬蹄形をした石壁で囲まれた長崎有数の墓所です。全部で6基の墓石があって興福寺開基の真圓、第2代黙子如定、第3代逸然性融、第4代澄一道亮、第5代悦峰道章、第6代雷音搏の墓石があります。また、6基の前には宝暦5年(1755)建てられた黄檗宗を開いた隠元隆gの塔があります(没後82年の建立)。市指定史跡




B-85:興福寺墓域
興福寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】中国風の石欄のみ残る旧汪滄溟、唐通事:劉焜台を祖とする彭城家、興福寺の大壇越:頴川官兵衛
【江戸時代中期】号を君山と称し清の画家:費漢源に師事を受けた楊利藤太、唐通事:劉鳳岐を祖とする彭城家、馮六を祖とする唐通事:平野家、唐通事:王家、旧大覚寺歴代住持の墓所、
【明治期以降】高木銀行の創立者で明治期長崎一の富豪といわれた高木與作ほか




逸然性融(いつねん-せいゆう)
逸然性融(1601:慶長6-1668:寛文8)は中国浙江省出身で正保元年(1644)渡来。正保2年(1645)興福寺第3代住職となります。その頃、当時の日本の禅宗(臨済宗)が正法からとても離れていたため逸然は遺憾に感じ禅宗復興を考えます。そして中国から隠元の招致(渡来)を要請。しかし思うようには行かず4回目の招致でようやく実現するのです。このほか逸然は絵画に優れ渡辺秀石などを輩出。漢画の祖といわれ長崎派絵画(南画)を開きます。墓所:興福寺後山




黙子如定(もくす-にょじょう)
黙子如定(1597:慶長2-1657:明暦3)の出身地は大小2千もの河川がある中国江西省建昌で、当時、土木技術が大変進んでいました。そして如定もここで石橋などの土木技術を見につけていたと考えられています。寛永9年(1632)如定36才の時、渡来。興福寺に入ります。興福寺では唐船船主や乗組員などから寄進を受け大雄宝殿や媽姐堂などの整備を進め、寛永11年(1634)には眼鏡橋建設に従事。寛永12年(1633)興福寺第2代住職となります。寛永20年(1643)興福寺の上方に隠居所として東盧庵を建て、正保2年(1645)逸然に譲ります。このほか如定は書や象眼(木片を掘り材料を埋め込んだ物)にも優れていました。墓所:興福寺後山




隠元隆g(いんげん-りゅうき)
隠元隆g(1592:天正20-1673:寛文13)は中国福建省福清県出身で10代の頃は農作業中心の生活を送り、29才の時ようやく黄檗山萬福寺の鑑源禅師の弟子入りします。当時の萬福寺は荒廃し隠元は復興に尽力。46才の時(1637:寛永14)多くの人の要請で萬福寺の住職となると隠元の禅風にしたって多くの僧が集まり出します。しかしその後の中国では内乱が始まり隠元は心を痛め始めます。
一方、その頃の日本では禅宗(臨済宗)が大変乱れていて興福寺第3代住持:逸然は慶安3年(1650)唐から高僧を呼び復興を図ることを決意。そこで隠元の渡東(渡来)を要請。しかしすぐには願いはかなわず4回目の要請でついに東渡します。承応3年(1654)来崎。長崎では興福寺に滞在し多くの僧が興福寺に教えを受けに集まります。しばらくして大坂摂津普門寺から招かれ大坂向かい、さらには江戸にも上り4代将軍家綱へ謁見します。そして京都宇治に広大な土地を賜り寛文8年(1668)黄檗山萬福寺を完成させます。そこで臨済宗の再興を図るのですが、それまで日本で臨済宗として長年伝えてきた臨済宗の僧たちからの反発があって、萬福寺は臨済宗黄檗派(明治から黄檗宗)とし臨済宗と一線を画すのです。
※なお、日本の萬福寺に対し中国の萬福寺古黄檗と呼びます。




B-84:黄檗宗祖唐渡三百五十年記念碑【興福寺境内】
慶安3年(1650)興福寺第3代住職:逸然は日本の禅宗「臨済曹洞宗」の二宗が正しい教えからはずれ堕落した僧が増えていることを遺憾に思い、これには唐から高僧を呼び復興を図らなければならないと考えます。そして当時、内外に知られていた黄檗山万福寺の住職の隠元隆gの来日を要請。しかしすぐには受け入れられず。ようやく4回目の要請で来日する運びとなります。承応3年(1654)5月10日中国黄檗山を出発、6月21日厦門(アモイ)から海路長崎に向い、7月5日の夜長崎港に入ります。翌6日に上陸し興福寺に入りました。隠元禅師の一年間の滞在の間、興福寺には全国から多くの僧が参集し指導を受けます。その後、隠元禅師は京都宇治に黄檗山萬福寺を開き黄檗宗(当初、臨済宗黄檗派)を開くのです。
この記念碑は渡東350年となる平成16年(2004)7月5日黄檗宗西日本地区協議会によって建立されました。碑文「鳥唱千林暁 慧日正東明 花開萬国春 隠元




B-83:有馬朗人句碑(ありま-あきと)【興福寺境内】
有馬朗人(昭和5:1930−)は福岡県久留米出身で江戸時代の久留米藩主:有馬氏の子孫に当たります。東京大学物理学科卒の理学博士で法政大学の教授や東京大学総長などを務め、さらには平成10年(1998)参議院議員に当選。小渕内閣の文部大臣、科学技術庁長官を務めます。また、若い頃から俳句を好くし俳誌「天為」主宰を務め、さらには俳人協会賞を受賞するなど多数の句を発表しています。この句碑は平成11年(1999)「天為」有志によって建てられたもので、石材は有馬氏ゆかりの天山御影を使用しています。
碑文「長崎の 坂動き出す 三日かな




B-82:重修碑(じゅうしゅう-ひ)【興福寺境内】
興福寺は昭和20年(1945)原爆による爆風によりすべての建物が大破。当時の法律で国宝指定(現 国指定重文)を受けていた大雄宝殿のみが国の援助によって改修されます。しかし他のお堂は数年間、放置状態にあったため、昭和27年(1952)長崎市の簗瀬義一氏が発起し長崎商工会議所の援助のもと脇山勘助氏(同会頭)が先頭となって文化財興福寺復興奉賛会(後に文化財興福寺保存会と改称)を立ち上げ興福寺の復興が始まります。そして多くの募金によって工事が進められ、昭和36年(1961)までに山門鐘鼓楼が完成。昭和46年(1971)媽姐堂三江会所門が完成する運びとなります。なお、重修碑は文化財興福寺保存会によっ昭和46年(1969)建立されました。




B-81:高濱虚子句碑(たかはま-きょし)【興福寺境内】
高濱虚子(明治7:1874-昭和34:1959)は愛媛県松山市出身で、若い頃から正岡子規の指導を受け明治30年(1897)俳誌「ほとほぎす」に参加、後に主宰となります。季題と定形をもつ伝統芸術を大切にした俳句を作り続け生涯に数万もの句を残します。高濱虚子と長崎の関係では昭和28年(1953)長崎を代表する俳人:向井去来の250年忌を期に高濱虚子を招致(2年後に実現)。そして昭和34年(1959)鍬先清太郎(号:藺花:明治18:1885-昭和31:1956)らによってこの句碑の建立となります。
碑文「(正面)俳諧の月の奉行や今も尚 虚子」「(裏面)去来二百五十年忌に値遇の縁 藺花




B-80:蘇道生先生記念の碑(そどうせい-)【興福寺境内】
蘇道生は中国上海出身で、明治から大正にかけて長崎で貿易商として活躍。中華商務会会長、時中学校校長などを歴任。このほか多くの慈善事業を行います。ここ興福寺においても維持管理などに尽力した人物で、大正7年(1918)この地に蘇道生の銅像が建立されます。しかし昭和18年(1943)第二次大戦の影響で徴用。昭和43年(1968)遺族によって記念碑という形で復元されます。




御即位記念樹碑(ごそくい-きねんじゅひ)【興福寺境内】
この御即位記念樹は大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)月桂樹1株を植樹(現存せず)。合わせて記念碑が建てられました。

皇紀二千六百年記念樹/碑(こうき-2600ねんきねんじゅ)
【興福寺境内】
皇紀とは日本書紀に記された日本独自の紀元のことで、第1代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を元年とします。皇紀二千六百年は昭和15年(1940)に当り、当時の日本は日中戦争から太平洋戦争へと戦況が激化する頃で、全国で皇紀二千六百年記念行事が行われました。これは国威高揚の政治的意味合いが大変強い行事だったのです。この年、黄楊(ツゲ)10本、ヒマラヤ杉5本植樹されていますが黄楊が数本残っています。




B-79:大津山龍岳の句碑(おおつやま-りゅうがく)【興福寺境内】
大津山龍岳(明和3:1677-嘉永3:1850)は、通称を半外、号は驢童。肥後(熊本県)山鹿出身で、長崎で医者となり眼科を専門としていた。また、俳諧にも長けていた。興福寺山門の前にあるがいつここに建立されたのかは不明。
碑文「散る花の月にぬれたる山路かな




B-78:斎藤茂吉歌碑(さいとうもきち-かひ)【興福寺境内】
斉藤茂吉(明治15:1882-昭和28:1953)は精神科医で大正6年(1917)長崎の長崎医学専門学校の教授として赴任します(大正10:1921まで)。また、茂吉は短歌に長け、この茂吉の来崎は長崎の短歌界の基礎となりました。興福寺にあるこの歌碑は、夏の午後の唐寺の様子を歌ったものですが、この唐寺が興福寺なのかそれ以外なのかは分かっていません。また、一般に唐寺と書くと「とうでら」と読まなければなりませんが、この歌の場合のみ唐寺「からでら」と読みます。
碑文「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花 茂吉




B-77:興福寺魚板(ぎょばん)【興福寺境内】
興福寺庫裏の入口に一対の魚板があります。名称を飯梆(はんほう)といい、これは修行僧などに食事の時間を告げるときに叩かれるもので江戸時代から使われていました。この叩いて伝えるという方法は、逆に言えば修行僧たちには一切声による指示は無くすべて音による告知で進められるということです。修行僧へは魚版のほか鐘などでも行われていました。なお、この魚版のモデルは揚子江に棲んでいるといわれていた幻の魚:鱖魚(けつぎょ)といわれています。




B-76:旧中島聖堂の大学門(きゅう-なかしませいどう-だいがくもん)【興福寺境内】
中島聖堂は正保4年(1647)儒学者の向井元升が孔子を祀る聖堂を東上町に立てたことにはじまり、一時衰退しますが延宝4年(1676)長崎奉行:牛込忠左衛門が再興、その後を向井元升の三子:元成に継がせます。正徳元年(1711)からは伊勢町の旧鋳銭所に移転し規模を拡大していましたが、明治4年(1871)官学の地位を失うと衰退。明治30年(1897)大浦に孔子廟を開いた際、ほとんどの備品が移され、建物等は解体され大成殿と大学門のみ昭和34年(1959)に興福寺に移転保存されています。なお、大学門とは門扉に大学の章句(儒教の政治思想の根幹をまとめたもの)が書かれているのでこう呼ばれています。

○長崎聖堂移築碑(昭和41:1966建立)書は小曽根星堂による。




B-75:旧唐人屋敷門(きゅう-とうじんやしき-もん)【興福寺境内】
元禄元年(1688)幕府は密貿易の増加に伴い長崎市中に散在(民宿)する中国人(在留唐人)約1万人を1箇所に収容するよう命じます。そして元禄2年(1689)十善寺郷の御薬園に約3万平方メートル(9千坪)の唐人屋敷を完成させ唐人と日本人との接触を管理するのです。屋敷内には4つのお堂をはじめ住宅や店舗などが作られ、唐人は幕末までここで生活させられるのです。唐人屋敷は明治維新を受け廃され敷地は細分化され私有地化します。さらに第二次大戦後、多くの建物は老朽化のため壊され昔の面影ほとんどなくなりました。
興福寺内の残されている門は唐人屋敷の正門ではなく、屋敷内にあった屋敷の門で昭和35年(1960)保存のため移設されたものです。材料はすべて中国産で天明4年(1784)大火の後に建てられたものといわれています。国重要文化財。




B-74:山門(さんもん)【興福寺境内】
山門は明暦元年(1655)に建立されましたが寛文3年(1663)筑後町からの大火によって焼失。元禄3年(1690)に第4代住持:澄一、5代:悦峯によって再建。その後も数回の修復が行われ明治16年(1883)と大正5年(1916)大雄宝殿に合わせて大修復されます。昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。昭和36年(1961)復旧します。山門正面には「東明山」と書かれた額があって元禄3年(1690)第4代住持:澄一が、柱に掲げられた聯(れん)は5代:悦峯によって書かれ、さらに山門の裏の額「初登寶地」は中国黄檗山萬福寺(古黄檗)から来日し、後に京都宇治に黄檗山萬福寺を建て黄檗宗を開いた隠元隆gによるものです。県指定文化財。




B-73:鐘鼓楼(しょうこ-ろう)【興福寺境内】
鐘鼓楼は二層式の建物で上層には鐘と太鼓が置かれ、下層は以前まで禅堂として使われていました。創建は寛永9年(1632)でしたが寛文3年(1663)筑後町からの大火によって焼失。元禄4年(1691)に第5代住持:悦峯によって再建。享保15年(1730)慶応元年(1865)大正5年(1916)に修復されますが昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。昭和36年(1961)復旧します。ここの特徴として四方の棟瓦(隅鬼瓦)が珍しく南向きには大黒天が、北向きには鬼瓦「文昌帝君(道教の神)」が付けられています。県指定文化財。




B-72:開山堂・祠堂跡(かいざんどう/しどう-あと)【興福寺境内】
開山堂は鐘鼓楼のような重層入母屋造りで、当初は観音堂として寛永9年(1632)黙子如定によって建てられ、寛文3年(1663)の大火で焼失後、享保7年(1722)に再建。文政8年(1825)には開山堂が荒廃したため観音堂に併合し、その後も数回の修復が行われますが昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。再建されませんでした。開山堂には大雄宝殿にある隠元などの木像が安置され、装飾に猿が四方に施されていました。言い伝えによれば、その猿にあやかれば痘瘡(天然痘)にかかっても重くならず快復が早くなるといわれていました。この開山堂の横には祠堂もあって、中国人先亡者などの位牌が置かれていました。




B-71:長崎上等裁判所跡(-じょうとうさいばんしょ-あと)【興福寺境内】
明治8年(1875)長崎上等裁判所が新設されることになり場所の選定まで興福寺の方丈と書院が一時あてられ、明治10年(1877)旧後藤邸に移転します。明治14年(1881)治罪法の改正によって長崎控訴裁判所に改正します。昭和20年(1945)8月、裁判所構成法、戦時民事特別法によって福岡市に移転します。跡地には昭和23年(1948)木造新庁舎として長崎地方検察庁と長崎地方裁判所が開庁。昭和35年(1960)長崎地裁は合同庁舎完成と当時に移転。昭和42年(1967)現在の庁舎が完成します。




B-70:三江会所跡(さんこうかいしょ-あと)【興福寺境内】
明治元年(1868)三江人(中国の江西、江蘇、浙江省の出身者)らは興福寺境内にお堂を建て、荒廃する興福寺を憂い、明治6年(1873)からは大雄宝殿などの復旧に取り掛かり、明治11年(1878)三江会を発足。事務所を堂内に置き貿易額の5%を積立て興福寺の復興に当てます。さらに明治13年(1880)興福寺書院が老朽化したため解体し、跡地に末庵:資福庵の旧材を用い三江会所とその門を建設します。明治16年(1883)積立金と会員らの寄付で大雄宝殿の竣工となります(総工費7416両≒万円)。このときは一週間にわたって法会が執り行われています。昭和20年(1945)の原爆の爆風によって三江会所は大破し現在ではその門のみ現存しています。なお、門には「重修崎陽東明山興福寺碑記」と「三江會所碑記」の石碑が埋め込まれており、中国の農村部で見られる構造「豚返し」が特徴です。県有形文化財。




媽姐揚げ(菩薩揚げ)or媽姐行列
江戸時代、唐船には船ごとに媽姐棚といって媽姐像が祀るところがあって日々航海安全を祈願し、無事に長崎港に入港し碇を下ろすと唐人は唐人屋敷に移りますが、媽姐像は興福寺(南京寺)、祟福寺(福州寺)、福済寺(漳州寺)の三寺に納めます(当初は出発地によって決まっていましたが後に輪番制になる)。この時、提灯を先頭に銅鑼(どら)などを鳴らし魔よけの儀式を行いながら行列をなして進み、各唐寺の媽姐堂(福済寺のみ観音堂)に向います。そして各媽姐堂には媽姐像を納める専用の仏壇(媽姐棚)があって船ごとに納めていました。また、この媽姐揚げは出航の際も同じように行列をなし唐船に向い唐船の媽姐棚に納め出航となるのです。




媽姐(まそorぼさ)
媽姐は別名を天后(てんこ)または天妃(てんぴ)、菩薩(ぼさ)といい女性で、海の神さまです。
その昔、中国福建省の甫田という漁村の林氏の家に娘がいて霊験を持っていました。10才を過ぎた頃「私は海神の化身である。海に入り往来の船を守ろう」と告げ海に身投げし亡くなります。村人は祠を建て船の神としてお祀りするようになります。このことを知った明の天子:成祖皇帝(在位:1403-1424)が天妃老姻(てんぴ-のうま)の名を授け、人々は天子の母、さらにはすべての人の上に立ち母のように人々を救済する菩薩、そして海の守り神として崇め、唐船には必ず媽姐像を祀るようになるのです。
なお、身投げした娘の遺体は日本に流れ着き地元の者から山頂に葬られます。これが現在の鹿児島県笠沙町野間神社の祭神:野間権現の起源となっています。野間は天妃老姻から来ています。
媽姐伝説は諸説あり




媽姐(まそorぼさ)
媽姐は別名を天后(てんこ)または天妃(てんぴ)、菩薩(ぼさ)といい女性で、海の神さまです。
その昔、中国福建省の甫田という漁村の林氏の家に娘がいて霊験を持っていました。10才を過ぎた頃「私は海神の化身である。海に入り往来の船を守ろう」と告げ海に身投げし亡くなります。村人は祠を建て船の神としてお祀りするようになります。このことを知った明の天子:成祖皇帝(在位:1403-1424)が天妃老姻(てんぴ-のうま)の名を授け、人々は天子の母、さらにはすべての人の上に立ち母のように人々を救済する菩薩、そして海の守り神として崇め、唐船には必ず媽姐像を祀るようになるのです。
なお、身投げした娘の遺体は日本に流れ着き地元の者から山頂に葬られます。これが現在の鹿児島県笠沙町野間神社の祭神:野間権現の起源となっています。野間は天妃老姻から来ています。
媽姐伝説は諸説あり




B-69:媽姐堂(まそ-どう)
媽姐堂は別名:海天司命堂といい、大雄宝殿の北側にあって寛永9年(1632)第2代住持:黙子如定によって建立されました。しかし寛文3年(1663)筑後町からの大火によって焼失。貞享3年(1686)から元禄2年(1669)頃、再建。その後も数回の修復が行われ明治16年(1883)と大正5年(1916)にも大雄宝殿に合わせて修復されます。昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。昭和46年(1971)復旧します。堂内には正面に天后聖母像(媽姐像)、両脇に関帝像などが並び、前方に順風眼像と順風耳像があります。さらに正面壇上に「海天司福主」と書かれた額があってこれがお堂別名の由来です。なお、媽姐をお祀りするお堂があるのは長崎の唐寺の特徴です。県指定文化財。




B-68:大雄宝殿(だいゆう-ほうでん)
大雄宝殿とは仏殿つまり本堂のことでお寺の中心となるお堂をいいます。大雄宝殿は寛永9年(1632)第2代住持:黙子如定によって建立。しかし寛文3年(1663)筑後町からの大火によって焼失。元禄2年(1669)に再建するも慶応元年(1865)の暴風により大破。明治6年(1873)から三江人によって再建され明治16年(1883)積立金と会員らの寄付で再度竣工します。大正5年(1916)の改修の後、昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。しかし当時の法律で国宝指定を受けていたため数年後には復旧されます。最近では平成11年(1999)に改修されました。
堂内には天井からは瑠璃灯(市有形文化財)を掛け、正面に釈迦如来、観音菩薩、地蔵菩薩が安置され、両脇には開基の真圓、黙子如定、逸然、隠元などの像があり、さらには韋駄天、玄天上帝(玄武)、達磨などの像もあります。このほか正面手前に大角灯篭といって羊の角を溶かして作った珍しい灯篭などがあります。国指定重文(旧国宝指定)




B-67:黄檗宗東明山興福寺(-とうめいざん-こうふくじ)
寺町4-32(長崎村伊良林郷字中之平)
この地は江戸時代初め、皆吉という者が宅地として使った後、欧陽という者が別荘として使っていました。元和6年(1620)頃、中国江西省浮梁(フリョウ)県から劉覚(リュウカク)という者が長崎に渡来、長崎で僧となり眞圓(シンエン)と称しそこに小庵を設けます。当時、長崎はキリシタン全盛期で、中国人もその疑いがもたれていたため長崎在住の南京出身者はキリシタンの疑いを晴らすため、そして航海安全や先祖供養のため一寺の建立を希望していました。そこで資金を出し合って堂宇を建立。あわせて航海安全の神:天后聖母(媽姐)を祀り、眞圓を開基とし興福寺とするのです。以降、南京出身者が中心に維持にあたったことから南京寺の異名を持ちます。承応3年(1654)僧:隠元が来崎、翌明暦元年(1655)山門が建てられ隠元によって東明山と名付けられます。興福寺は唐船の入港の度に船主などから多くの寄進を受け発展、数度の火事や天災によって焼失するもすぐに再建していました、しかし明治期以降、唐船の入港がなくなり衰退。明治6年(1873)からは三江会所によって再建されるも昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。しかし当時の法律で国宝指定を受けていたため数年後には復旧されます。最近では平成11年(1999)に改修されました。




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