広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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長崎県下曹洞宗中教院・曹洞宗専門学校支校【晧台寺境内】
明治5年(1872)明治政府は新しい宗教政策(神道の強化)の整備のため教部省を設置。神社仏閣のあらゆる体系や制度を管理します。そして宗教者への指導機関:大教院を中央に置き、地方に中小教院を設置します。ここ晧台寺には明治12年(1879)長崎県下曹洞宗中教院・曹洞宗専門学校支校が置かれましたが、この政策自体、神道と仏教の対立で明治18年(1885)廃止される運びとなります。




西南の役傷病者臨時病院【晧台寺境内】
明治10年(1877年)2月国内最後の内戦といわれる西南戦争が勃発します。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ戦いが繰り広げられます。このとき長崎市内の病院に傷病者を収容するのですが病院が不足したため、晧台寺内のお堂のほとんどが西南の役傷病者臨時病院として使われました。




○大樟樹の供給【晧台寺境内】
寛政10年(1798)10月17日、暴風のためオランダ船(アメリカ船籍エライザ号)が高鉾島唐人ヶ瀬で座礁、翌日、積み荷の銅と樟脳の過積載のため木鉢浦で沈没します。翌年、周防国:村井喜右衛門によって引き上げられ修復。船は9月に出航するのですが、このときの修復材として使用されたのが晧台寺にあった樟で、アメリカ人はこれに感謝し来航の度に砂糖1俵を贈り続けました。




○席次論争・礼席事件【晧台寺】
開基:亀翁はキリシタンへの改宗と寺院建立などの事業を終えると一庭融頓を向え住持としますが、一庭もなお帰依者を増やし、寛永19年(1642)には将軍家光や第109代明正天皇に拝謁し、天皇からは山号と寺号を下賜されます。以降、晧台寺は江戸城内の席も第1席でしたが、正徳3年(1713)第10代住持:笑巖が謁見した際、席が大音寺と入れ替わっていました。早速、寺社奉行森川出羽守に陳情するも、大音寺が徳川家位牌所に指定されていたこともあってのことだということで認められませんでした。享保2年(1717)笑巖は朱印状を携え寺社奉行土井伊予守に晧台寺の立場(家康の命や明正天皇の勅書)を説明し礼席を戻すよう懇願。笑巖の主張を認め再び第1席になります。




B-100:曹洞宗海雲山普昭晧臺寺(かいうんざん-ふしょう-こうたいじ)
寺町2-1(長崎村伊良林郷字下之平)
慶長年間(1596-1614)長崎はキリシタンの全盛期で仏教の布教は大変厳しいときでしたが、肥前松浦の洪徳寺の住持:亀翁(英鶴)は長崎入りし改宗に尽力します。その亀翁の行動に時の第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広は同情し寺の建立を許可。慶長13年(1608)女風頭山麓(現在の筑後町付近)に笠頭山洪泰寺を開創します。慶長18年(1613)禁教令発布を受けると改宗が進み記録では48,600人もの人が帰依したといいます。亀翁は改宗が落ち着くと退き佐賀より一庭融頓を向え住持とします。元和5年(1619)長崎代官村山等安が処刑されると等安の建物が与えられ、境内に移築し本堂とします。寛永3年(1626)船本弥平次と梅野了安が自らの所有地を洪泰寺に寄進、現在地に移転となります。寛永19年(1642)一庭は江戸で将軍家光と謁見。さらに京都で明正天皇に拝謁するなど一庭は特別な位になり、海雲山普昭晧臺禅寺の号を賜り後に改称となります。その後も一庭は光雲寺や永昌寺、高林寺などの建立や天草などでの改宗活動に尽力。慶安元年(1648)晧臺寺は御朱印地に指定され、幕府の保護を受け租税などが免除され境内整備や各地に末庵を広げます。明治維新を受け幕府の保護がなくなると末庵などが整理されますが、天皇からの寺号の下賜など特別な地位もあり、明治30年(1897)曹洞宗の指定を受け禅堂を設けて修行道場として発展します。なお、延宝7年(1679)それまで磨屋町にあった入口が銀屋町筋に移転しています。




○長崎諏訪神社の勧請の地
勧請(カンジョウ)とは御神霊などを本社または本山より分け新たな場所でお祀りすることをいい、長崎の諏訪神社の創建つまり勧請ははっきりしていません。しかし、長崎図志の説によると、弘治年間(1555-1558)長崎甚左衛門の弟である織部亮為秀(オリベノスケ-タメヒデ)が京都(現 下京区下諏訪町)より勧請し風頭山の麓にあたる字山下(現 長照寺付近)に社を建てたと伝えられています。言い伝えでは、旧山門礎石は諏訪神社の礎石だったともいわれています。




B-99:長照寺墓域
長照寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】唐通事:李八官を祖とする李家、万屋町乙名:桐山家、桃渓橋架橋の卜意家、劉鳳岐を祖とする唐通事:彭城家、朱印貿易商:糸屋随右衛門、儒学者:向井元升、オランダ通詞:名村家、
【江戸時代後期】豪商:森安家、第76代長崎奉行松平石見守貴強、平戸藩役人で後に貿易商となった川添家、薬種目利:猪俣家、御用時計師:平石家、天文学者:西川如見
【明治時代以降】豪商:永見徳太郎、衆議院議員:永見寛二、貿易商:川崎家など。




○最上稲荷(さいじょうきょういなり)【長照寺境内】
最上稲荷とは岡山市高松にある日蓮宗最上稲荷山妙教寺にお祀りされている最上経王大菩薩のことを指し、日蓮宗では専ら信仰され、ここ長照寺でも勧請され、日車天王(ヒグルマテンノウ)、荒熊天王(アラクマテンノウ)などとともにお祀りされ毎月祈願祈祷がなされています。




一字一石塔(いちじいっせき-とう)【長照寺境内】
山門横に「南無妙法蓮華経」と彫られた供養塔がありますが、これを一字一石塔といいます。これは一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目です。
文政13年(1801)建立。
宗祖450年遠忌供養塔:享保11年(1726)建立。
宗祖600年遠忌供養塔:明治6年(1873)建立。
宗祖600回遠忌供養塔:明治11年(1878)建立。




B-98:鎮守堂(-ちんじゅどう)【長照寺境内】
鎮守とは境内をお守りする神のことで、寺の中に神社がある形態は江戸時代の神仏混交(神と仏を同時にお祀りすること)の名残といえます。堂内には七面大明神妙見菩薩三十番神、そして清正公(セイショウコウ)として祀られている加藤清正(淨池院殿日乗大居士)をお祀りし神仏混淆の形態を残しており、鎮守堂の前には鳥居(大正12:1923建立)が建てられています。正面額「正定聚」は中興日昇による自書自刻の横額です。




B-97:日蓮宗光栄山長照寺(こうえいざん-ちょうしょうじ)
寺町2-1(長崎村伊良林郷字下之平)
長照寺のあるこの地は江戸時代初め、柳屋正兵衛という者の屋敷があった場所で、その後、そこを茶屋深入が譲り受け、本蓮寺開山:日惠と話し合い、寛永8年(1631)長照寺が建てられます。長照寺には日惠の弟子:本通院日與を初代住職にあて本蓮寺の末寺とします。この時、市内日蓮宗の檀家は中島川を境にして西側を本蓮寺、東側を長照寺が受け持つように決められます(のち撤廃)。初代:日與は元和年間(1615-1623)本蓮寺開山の日惠を助けキリシタンの改宗に大変尽力した人物で、時の第6代長崎奉行竹中采女正重興は日與の功績をたたえ、長照寺の創建に際し特に許可を与えたのでした。その後、末庵や鎮守堂などが次々に建てられ、延宝4年(1676)には町年寄:高木彦右衛門から梵鐘が寄進されます。しかし、明治維新を受け寺勢は衰退そして荒廃し、明治19年(1886)本山の特命により僧:浅井日昇(第27代住持)によって復興が図られます。日昇は檀信徒より多くの寄付を集め明治33年(1900)ようやく復興が叶い日昇を中興の称号が与えられました。第二次大戦で梵鐘が供出されたり原爆の爆風などの被害がありましたが復興され梵鐘も昭和62年(1987)再建されました。




B-96:幣振坂(へいふりざか)
寺町-鍛冶屋町、寺町2〜3間、筑後町7〜6間
江戸時代、風頭山は良質な安山岩が豊富に切り出され長崎市内の階段や鳥居などに広く利用されていました。現在、石切り場は風頭公園になっていますが石材はそこから人力にて坂を下り市街地まで下ろしていました。寛永15年(1638)諏訪神社の一の鳥居(現在の二の鳥居)建立の際、郷民2000人が石材をひいたがうまくいかず、1人が幣を振って音頭をとったところようやく動いたといいます。このことからこの坂を幣振坂と呼ぶのです。幣振坂は晧台寺横の坂と延命寺-長照寺境の坂、さらには女風頭の旧躰性寺(筑後町東本願寺長崎教会)横の坂をいいます。




○一力2代目山本カネ女史【料亭一力】
明治時代のある日のこと、風頭の紙鳶揚げ帰りに一力に寄った井上聞多(後の井上馨:第1次伊藤内閣外相)は些細なことで別の客人といざこざを起こします。今にも斬り合いになろうとしたとき当時の女将カネが中に入り「うちの中での斬り合いは迷惑、外に出て行け」と言い放ちます。両者は表に出て行き、しばらくして井上聞多は血刀を下げて帰って来ます。そして先程のカネの度胸に大いに賞賛したといわれています。
さらに、一力によく出入していた長谷場純孝という学生がいて、カネは大変可愛がっていました。その後、長谷場は鹿児島に帰り数年後、郡長になったのでカネを鹿児島に招待します。しかしカネは不満で「大臣ぐらいになってから」追い返すのです。後年、長谷場は第2次西園寺内閣の文部大臣となり改めてカネを訪ねるが時遅く、代わりに3代目の親子を官邸に招待し丁重に扱ったという話が残っています。




辰巳誕生の処/伊藤深水小唄碑【料亭一力】
小唄辰巳は昭和3年(1928)当時、客として訪れた日本画家の伊藤深水(明治31:1898-昭和47:1972)と常磐津三蔵が一力の五右衛門風呂で作ったといわれています。作詞:伊藤深水、作曲:常磐津三蔵。碑は昭和53年(1978)建立。
辰巳やよいとこ 素足があるく 羽織りやお江戸の ほこりもの 八幡鐘がなるわいな




B-95:料亭一力(りょうてい-いちりき)
諏訪町8-20(旧新橋町)
料亭一力は文化10年(1813)創業の長崎最古の料亭で、今の旦那さん山本昭夫氏は6代目になります。一力2代目の山本カネの一子山本森之助(明治10:1877-昭和3:1928)は書画に長け東京美術学校の第1回卒業生で黒田清輝に師事、第1回文展を始め多くの賞を受け、長崎県で一番早い近代洋画家といわれました。
※料亭一力ホームページより
創業は1813年(文化10年)の江戸後期で、大村藩主の下級武士だった初代山本保助が長崎の新橋町(現在の諏訪町)で料亭を始めました。当時の屋号は「和楽亭一力」。二代目保吉は関西歌舞伎に熱中し、三代目キンは長崎の芝居興行権を全て取り仕切るなど、女傑としてその名をとどろかせました。『一力』の店名は忠臣蔵で大石内蔵助が敵を欺くために放とう生活をおくった場所にちなんだものです。




B-94:延命寺墓域
延命寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】各町の乙名を務めた賀古家、大覚寺僧侶墓地、
【江戸時代中期】旧大徳寺僧侶墓地、各町の乙名や長崎会所目付の黒川家、唐人屋敷乙名:田邊家、延命寺僧侶の墓(延命寺騒動の猛雄もある)、豪商:村上家、画家:楊利藤太、唐通事高尾家の分家、唐通事:劉鳳岐を祖とする彭城家、唐通事:劉焜台を祖とする彭城家、唐人:宋紫岩、
【江戸時代後期】唐絵目利:荒木如元、船番御役所役人:成田嘉平治など。




○九州八十八ヶ所第六十五番霊場
昭和59年(1984)は弘法大師御遠忌1150年の記念の年で全国で記念法要が行われましたが、九州では108の真言宗寺院が参加し九州を巡る巡礼霊場が創設されました。延命寺はその65番霊場にあたります。

○九州三十三観音霊場第二十四番札所
昭和59年(1984)は弘法大師御遠忌1150年の記念の年で全国で記念法要が行われましたが、関西から九州までの33の寺院が参加し観音霊場が創設されました。その後、再編され北部九州を中心とした33の観音菩薩をお祀りする寺院が参加し巡礼霊場が創設されました。延命寺はその24番札所になります。




B-93:長崎四国八十八ヶ所霊場【延命寺】
長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために長崎市内に開かれた霊場のことで、始まりは大正時代(1912〜)といわれています。一旦、第2次大戦で途絶えてしまいますが、その後、昭和28年(1953)延命寺第22代住持:堤祐演によって復活します。また、長崎四国八十八ヶ所霊場には、ほぼ四国と同じご本尊と弘法大師がお祀りされています。
なお、現在、長崎市内の数ヶ所の寺院に「弘法大師霊場:大正十五年 新橋町先達:百田熊吉」と書いた石碑がありますが、これは大正時代に建立されたもので現在の霊場のものではありません。

○延命寺金剛院(長崎四国33番霊場)
昭和28年(1953)旧片渕町の古賀一郎によって創建。




境内地蔵堂【延命寺境内】
@諏訪町地蔵堂:明治36年(1903)に新築した旧諏訪町の地蔵堂。境内南側楠横
A紺屋町地蔵堂:創建は不明。旧紺屋町の地蔵堂。本堂下段
B本大工町地蔵堂:創建は不明。旧本大工町の地蔵堂。本堂下段

稲妻稲荷社(いなづま-いなりしゃ)【延命寺境内】
稲妻稲荷社は明和2年(1765)延命寺守護としてに祀られたものでしたが、明治維新を受け明治4年(1871)金比羅神社に移されます。しかし明治21年(1888)有志によって再び延命寺内にお祀りされます。

○観音堂
観音堂本尊である観世音菩薩像は延宝8年(1680)建立によるものです。

○境内石仏群
境内には弘法大師像95体、地蔵菩薩像64体、弥勒菩薩像1体、観世音菩薩像6体、不動明王像1体、閻魔大王像1体などがあって、さらに弘法大師約50体と弥勒菩薩像の一群は慶応4年(1868)に金比羅山にあった無凡山にお祀りされていたもので廃仏毀釈後に延命寺に移されました。




○法華三昧塔(ほっけざんまいとう)【延命寺境内】
法華三昧とは天台宗の行の一つで、法華経によって21日間、読経や拝礼を行う行で法華懺法(センポウ)ともいいます。延宝5年(1677)第2代住持:尊覚によって建立。延宝2年(1674)ころから全国的に飢饉となり米不足となった頃です。

○法華寶篋全身塔(ほっけほうきょうぜんしんとう)【延命寺境内】
元禄3年(1690)建立。

○華厳塔(けごんとう)【延命寺境内】
正徳5年(1715)建立。正徳3年(1716)には天然痘、翌4年はコレラが流行したときです。




閼伽水洞(あかの-みずあな)【延命寺境内】
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、その昔、延命寺に第2代住持:尊覚が掘ったといわれている閼伽水洞という洞窟がありました。この洞窟の中には泉があって仏事の際、この泉の水を汲んでお供えしていたそうです。
閼伽とはお供えする水の意。

南蛮井(なんばんいど)【延命寺境内】
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、その昔、延命寺の山門付近(長崎市史には山門の内:長崎名称図会には山門の外)に深く清らかな井戸があって、言伝えによると南蛮人(ポルトガル人)が掘ったといわれています。(現在不明)




延命寺山門【延命寺境内】
明暦3年(1657)第2代住持:尊覚は山門を建立。このとき長崎奉行所立山役所の大門に使用していた建築材で建てられました。一旦、明治40年(1907)に建てかえられ、最近では平成15年(2003)に改修されています。現在、門扉のみ長崎奉行所使用のものです。

石門(いしもん)
山門を入り階段を上ると石造りの半円形の石門があります。これは明治33年(1900)第16代延命寺住持:良瑞によって建立。正面の文字「醫王山」は書家:小曽根星海によるものです。




B-92:延命寺騒動(えんめいじ-そうどう)
江戸後期:文化初年(1804〜)第9代延命寺住持:猛雄はもともと小林宇右衛門と称し大村藩士でした。その猛雄が藩士時代、同僚の内海善右衛門の妻と不倫しその夫に傷を負わせ脱藩するのです。本来なら重罪に処せられるところでしたが、同藩士の片山主膳と延光寺(四国39番霊場?)住持:知雲の助けにより命拾いをし、延光寺に入ることになり光雲と名乗ります。それからしばらくして光雲は延命寺の第9代住持となり猛雄と改名します。一方、猛雄を助けた片山主膳は200石を没収されその子:清七は生活に困り長崎に来て諏訪神社に雇われていました。しかし清七には江戸に上りたいという志があったため延命寺に出向き猛雄に旅費を援助してほしいと願い出ます。驚くことに猛雄片山主膳の恩を忘れたのか冷酷な態度で援助を拒み侮辱を与えるのです。清七は憤慨しついに猛雄を殺し金を奪い取って京都へ逃げたとのこと。文化8年(1811)1月16日夜のことでした。この事件は後に延命寺騒動といわれ、翌月の2月から延命寺は安全祈願寺の指定を外され大徳寺に譲ります。




○延命寺の薬師如来の伝説<その2>
寛永16年(1639)開基:龍宣はお堂の改修のため寄付金を募りに市中を廻っていました。そんなある日お隣の興福寺の僧:如定が訪ねて来て、以前見た夢の話をします。その夢は「如定のところに1人の僧が現れ、お堂を建てたいのだが力がないため援助出来ないかと願い出て来たとの事。如定がどちらから来られたのかと尋ねると西隣の医師と言い、夢の中で如定は薬師如来の化身と悟り銭2千枚を寄進すると約束したそうです。不思議なことに夢が覚めても辺りは光り輝いていて、如定は夢の話とはいえ約束果たそうと西隣の医師つまり西隣の延命寺(薬師如来)を訪ね、同額のお金を寄進をしたそうです。以来、ここの薬師如来は霊験新たかな仏さまと信じられ広く人々に信仰されるようになったといいます。




○延命寺の薬師如来の伝説<その1>
その昔、龍宣のいた備前岡山に薬師院というお堂があって、ある夜、堂主が薬師院で修行をしていたところ外から声が聞こえてきました。しかし何の音か判らないでいると突然、お堂の外にまぶしい光と共に一つの木箱が落ちてきした。堂主は大変驚き、その箱の中を見ると一尺(約30.3cm)程の薬師如来像があって、すぐに堂主はお堂の中にお祀りしたそうです。それからしばらくして龍宣はこの霊験新たかな薬師如来像を堂主に願い出、もらい受け、これが後の延命寺の本尊の薬師如来になるのです。




B-91:真言宗醫王山遍照院延命寺
(-いおうざん-れんしょういん-えんめいじ)
寺町3-1(長崎村伊良林郷字下之平)
慶長年間(1596-1614)キリシタンの全盛期の長崎に備前岡山の僧:龍宣は薬師如来の像を携え長崎入りし、中紺屋町(現市民会館付近)の倉吉氏宅を借りて真言宗(密教)の説教所を開設します。龍宣は多くの帰依者を得、これにより元和2年(1616)時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は堂宇建立を許可、現在地が与えられ薬師如来を本尊として創建となります。元和4年(1618)長崎に疫病が流行したため龍宣は疫病退散の祈祷を行ったところたちまち疫病は治まり、これにより多くの市民が本尊の薬師如来に参詣を始め、長谷川長崎奉行も大いに感激し、早速、長崎の安全祈願寺や航海安全などの祈祷所に指定します。そして祈祷札を市内各戸に配布することとし総町より祈祷料を収納することとなります。寛永3年(1626)京都仁和寺より遍照院の名称を得(承応3:1654年院号許可)、寛永7年(1630)第6代長崎奉行竹中采女正重興の援助によって本堂を建立します。寛永18年(1641)醫王山延命寺の寺号の許しを得、その後、真言宗の寺院(萬福寺、青光寺、能仁寺、圓福寺など)を次々に開き、宮家からの寄進や在留唐人らからの寄進で盛んになり堂宇も広くなります。文化11年(1814)の大風によって庫裏などが倒壊。嘉永4年(1851)火災に遭い本堂や聖天堂など焼失。寺勢は衰退しさらには明治維新を受け廃仏毀釈のため末寺はことごとく廃寺となります。明治25年(1892)ようやく本堂が再建され、石門や山門も順次再建されます。現在の建物は本堂、大師堂、不動堂を合築したもので平成15年(2003)に竣工しました。




B-90:長崎市立中央保育所
大正4年(1915)長崎県立長崎図書館が移転した後、県有地として使用されますが、日本赤十字社長崎支社が置かれます。昭和47年(1972)長崎市内では14番目となる長崎市立中央保育所が置かれます。木造平屋建、総工費は約2400万円。




B-89:長崎県立長崎図書館跡【長崎市立中央保育所】
明治11年(1878)長崎県は移転することになった太平寺の跡地を購入し、明治45年(1912)それまで長崎にあった長崎文庫、長崎県回覧文庫、荒川文庫などが統合され、この地に長崎県立長崎図書館が開かれます。大正4年(1915)立山にある交親館が大正天皇即位記念として増改築され、新たなスペースに長崎県立長崎図書館を移転します。昭和34年(1959)現在の建物になりました。




B-88:曹洞宗天長山太平寺跡(-てんちょうざん-たいへいじ)
諏訪町9-22(新橋町)【長崎市立中央保育所】
寛永17年(1640)武蔵国(現 東京都西部)青梅の鈴法寺の虚無僧:端翁門的が長崎入りし、時の第12代長崎奉行:馬場三郎左衛門利重に許しを得、八百屋町に鈴法寺の末庵を建立します。当時はまだ名前がなく、延宝7年(1667)古町橋そばに移転後、享保5年(1720)正式に長nR玖崎寺と称することができるようになります。その後、洪水や火災の難に遭い、維持が困難となるも晧臺寺や鈴法寺などの援助を受け、協議の結果、寛延3年(1750)天長山太平寺となり、宝暦7年(1757)新橋町に移転します(古町の地はそのまま虚無僧の止宿所となり松壽軒となります)。明治維新によって再び維持困難となり、明治10年(1877)檀徒だった小曽根乾堂の協力で浪の平町に移転し、墓域などの寄進を受け現在に至ります。




B-87:御大典奉祝寺町記念碑
寺町4-32(長崎村伊良林郷字中之平)【興福寺側道】
御大典奉祝寺町記念碑は、寺町が長崎市東部に位置し多くの寺院が立ち並び、さらに多くの霊が眠っていることや、大正2年(1913)長崎市に編入したことなど地形と歴史を紹介する内容が書かれていて昭和3年(1928)昭和天皇が天皇に即位されたことに合わせて建立されました。書は松田龍窟、寄進者は晧臺寺を始めとする92名の有志です。




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