広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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○彫刻家:北村西望(きたむら-せいぼう)
北村西望(明治17:1884-昭和62:1987)は長崎県南有馬町出身で、東京美術学校卒業後、彫刻家の道に進み、大正時代、文部省美術展覧会(文展)の常連出品者となり、その後は帝国美術展覧会(帝展)の審査委員、東京美術大学教授、さらには帝国美術院会員を歴任。そして昭和25年(1950)長崎市は北村西望に原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑作成を依頼。原爆落下10周年の前日、昭和30年(1955)8月8日、平和祈念像が除幕されます。当時、北村西望の長崎滞在の際、丸山の料亭青柳を拠点として利用していました。




丸山のの青柳
東浜町のの青柳の家主は引地町の泉屋でしたが、昭和20年(1945)8月9日に起こった火災は泉屋の建物を焼失。そのため泉屋は東浜町の建物を使用することになります。一方、青柳の山口家は昭和20年(1945)の終戦を受け疎開先より帰崎。しかし泉屋の移転で商売を再開することが出来なくなり、以前から購入していた伊良林光源寺前にあった家に入ります。そして資金を集めるため清水建設によって中川町にバラックを建てメッセンジャー(宅配業)を行い、合わせて商売をする場所も同時に探します。昭和23年(1948)春、ようやく丸山町の旧杉本家(三菱電機家族寮)を家賃2万円で借ることになり(後に購入)移転するのですが、旧杉本家は原爆の影響で破損がひどく修復を行い、翌24年(1949)青柳は「う奈ぎの青柳」として営業を再開します。当時、青柳長崎鋤焼組合からのスタートで、昭和36年(1961)頃、長崎市料理業組合(料亭組合)に加入し料亭青柳となります。




東浜町青柳
昭和9年(1934)5月2日、青柳専門店として東浜町にオープン。当初、の蒲焼(御飯と肝吸い付き)は1円20銭で、茶碗蒸し(蒸し寿司付)が80銭で出された時代、は大変な高級品でした。その後、お酒のつまみとして「三品盛(刺身、湯引、煮豆)」を出されるようになったり、特別の客人には配達も行っていました。当時、は静岡県(遠州)浜松から汽車に載せ、籠に氷を置いた状態で長崎まで運び、長崎駅から中島川のいけすに運んでいました。そして毎日、仕込みの際、自転車に篭を載せ、を店まで運んでいたといいます。しかし昭和10年代後半、第二次世界大戦の影響で食糧不足となりの時代は終わり、店では配給の南瓜やジャガイモ、短麺(平たく短いうどん)などを出す食堂に変わり、ついには昭和20年(1945)6月、強制疎開のため閉店を余儀なくされます。




C-92:料亭青柳(りょうてい-あおやぎ)
料亭青柳の初代:山口貞雄(明治36:1903-昭和33:1958)は佐賀県鹿島市(旧 能古見村筒口)出身で16歳のとき、長崎市引地町にあった叔父の鰻料理店:泉屋に弟子入りし、32歳のとき独立。東浜町にあった鰻店:青柳(創業:元治元:1864)を昭和9年(1934)5月2日に譲り受けます。昭和20年(1945)第二次大戦の影響で一時中断しますが、昭和23年(1948)に旧料亭杉本家を購入し、翌年から料亭として再開します。昭和30年(1955)からは彫刻家の北村西望が立ち寄るようになり、亡くなる1年前の昭和63年(1987)まで毎年、足を運んでいました。




C-91:料亭杉本家跡(りょうてい-すぎもとや-あと)
丸山町7-21(旧丸山町/旧小島村字尾崎)【料亭青柳】
江戸時代、丸山より一段高いこの場所は平時は草地でしたが、梅園天満宮の大祭などには芝居地などに使われていたため、付近には興行師や旅役者などが専門に滞在する宿屋が作られます。江戸時代中期に揚屋の山崎屋が開かれた後、江戸時代後期、寛政年間(1879-1801)に興行師の古澤長十郎によって杉本家が創業されます。幕末には当時、佐賀藩士だった大隈重信や長州藩士だった井上馨(聞多)などが訪れ、明治期には東洋日之出新聞の鈴木天眼西郷四郎などが訪れたといい、多くの旅役者なども利用したといいます。さらに土蔵(現存せず)の2階には芸妓:愛八も住した時期もありました。昭和20年(1945)第二次大戦の影響で廃業。その後は昭和23年(1948)まで三菱電機の家族寮に使用。以降、料亭青柳となります。現存の建物は明治12年(1879)建てられたもので原爆で大破したものの改修され今に至っています。




C-90:料亭春若屋跡(りょうてい-はるわかや-あと)
丸山町7-9,12(旧丸山町/旧小島村字尾崎)
江戸時代、丸山より一段高いこの場所は平時は荒地でしたが、梅園天満宮の大祭などには芝居地や相撲興行地として使われ、その時の入口は阿蘭陀坂につながっていました。当時、この地は相撲興行が頻繁に行われていたこともあり、付近には力士や相撲関係者などが専門に滞在する宿屋が作られ、明治期に建てられた料亭春若屋もその一つといえます。春若屋は昭和初年に廃業、第二次大戦後は中華料理店:天竜閣(後の東亜閣)となり、すぐに料亭勝若となります。昭和55年頃、料亭勝若は廃業します。現在でも当時の稲荷神の祠が残っています。




大関:雷電為右衛門(おおぜき-らいでんためえもん)
雷電為右衛門(明和4:1767-文政8:1825)は信濃国大石村(長野県東部町大字滋野)出身で、本名を関太郎吉といい、若い頃より怪力で、18歳のとき江戸に上り、23歳のとき雲州松江(島根県)藩主のお抱え力士となり雷電為右衛門の四股名を名乗ります。初土俵は寛政元年(1789)で小結を務め、翌年には関脇、寛政6年(1794)頃に大関となり文化8年(1811)までの17年間、大関を務めます。しかし驚異的な強さを見せますが、なぜ横綱にならなかったかは今だ謎といわれています。享和2年(1802)には長崎巡業(梅園芝居地)を行い、自身の日記「雷電日記(諸国相撲控帳)」には長崎で中国の学者:陳景山と酒合戦を行い、雷電は2斗(36リットル):陳景山は1斗(18リットル)を飲み干し、相手を酔いつぶして雷電は何事も無く帰って行ったといいます。身長197cm/体重170kg、享年58。墓所:長野県東部町




○第3代横綱丸山権太左衛門(まるやま-ごんたざえもん)
丸山権太左衛門(正徳3:1713-寛延2:1749)は宮城県登米市米山町中津山出身で、本名を芳賀銀太夫といい、言伝えでは、仙台の丸山で生まれたので四股名(シコナ)が丸山となったとか、頭に大きなこぶがあったところから丸山となったといいます。もともと体格が大きく(身長197p/体重170kg)、当時の領主伊達宗村に見込まれ家老の下僕(召使)となり、元文2年(1737)大坂に上り大関となり、寛延2年(1749)8月肥後熊本吉田司家の許しを得、横綱となり、10月に長崎丸山の興行地で上方の力士と地元の力士との取り組みが行われます。しかし当時、九州で赤痢が流行。おそらく丸山権太左衛門も感染したと見られ11月14日に36歳で死去、寺町の晧台寺で盛大に葬儀が行われました。墓所は本河内墓域。




相撲興行地(すもう-こうぎょうち)
丸山の芝居地は安永明和年間(1772-1789)以前に、長崎奉行所の許しを受け芝居などが行われるようになりますが相撲も合わせて行われ、寛延2年(1749)10月の梅園天満宮大祭には第3代横綱:丸山権太左衛門木村庄之助一行、享和2年(1802)には大関の雷電為右衛門が大相撲興行を行います。丸山権太左衛門の長崎巡業は当時、横綱になるには肥後熊本の吉田司家の許しが必要で、江戸や大坂などから必ず吉田司家に詣でていて、この興行は熊本からの帰路と考えられます。さらに、丸山の興行地は天明8年(1788)絵師:司馬江漢の江漢西遊日記の中にも相撲見物したと記録されています。




C-89:芝居地跡(しばいち-あと)
丸山町2,3,6,7、中小島1-1,3,5、東小島町2付近(旧小島村字尾崎、字梅園)
江戸時代中期ごろから明治の始めにかけて丸山の周り、主に小島郷尾崎から梅園の地にかけて、長崎奉行所の許しを受け芝居小屋(仮小屋)が置かれ、芝居や手踊り、見世物、軽業(カルワザ=曲芸)、物真似、音曲などが行われていました。ここは花街に接していることもあり大変賑やかで、期間は短いもので1週間、長くて1ヶ月続き、八幡町の芝居小屋と共に長崎で名をはせた演劇場でした。しかし芝居小屋といっても蓆(ムシロ)などでおおう程度の簡易的なものでしたので雨の日などは中止となっていました。また、小屋のそばには高い太鼓楼なども作られ丸山に登楼した客人などは遊女から勧められ遊女や禿、遣手などを引き連れて見物に出かけたといいます。なお、石崎融思の花街図を見ると梅園天満宮参道(現 検番横)に大提灯が描かれていて、幕末の歌舞伎役者「中村歌助」の名前を見ることができます。




C-88:山崎屋の坂(やまさきやのさか)
丸山本通りの突き当たりの階段を森崎権現者前の坂森崎坂、そしてもう一つは山崎屋の坂といいます。江戸時代中期、この坂の上に山崎屋という揚屋があって、その玄関に通じる坂ということで山崎屋の坂となりました。現在、山崎屋の坂は28段の階段ですが、江戸期には25段とあり、実際、下から数えて22段目辺りまで風頭石が使われ、残り6段は砂岩で風頭石ではないため、おそらく後に嵩(カサ)上げされたものと考えられます。
当時、丸山は花街の統制や火災の防止などのため周囲を石垣や塀で囲まれ、正面の二重門と寄合町の「あかずの門」そして「山崎屋の坂」の3ヶ所のみ出入口が設けられていました。しかし一般の客人などは二重門を使って登楼し、「あかずの門」や「山崎屋の坂」などは門番が置かれ、いつも閉ざされていました。しかし当時、「あかずの門」や「山崎屋の坂」の外側は家屋などはなく平時は草地で、特に「山崎屋の坂」の外は梅園天満宮の大祭の際に芝居小屋などに使われる程度でした。これら出入口は明治5年(1872)遊女屋の廃止を受け廃止となります。




C-87:森崎坂(もりさき-ざか)
長崎開港以前、尾崎には住吉明神がお祀りされていて、位置は現在の正覚寺墓域南側付近で、もちろん正覚寺などはありませんでした。そして尾崎の階段は住吉明神の参詣道として使われるのですが、住吉坂とはいわず森崎坂と呼ばれます。これは位置的に階段の上に森崎社、そしてそれから南に下り住吉社があったところから森崎の名称が使われたものと考えられます。なお、尾崎にあった両社は長崎開港後、キリシタンによる迫害で破却され姿を消しますが、住吉社は修験者の青木賢清によって再興され、寛永2年(1625)西山郷圓山(現在の松森天満宮)に諏訪神社と県庁付近にあった森崎社を合わせて再建とされます。




C-86:森崎権現社前の坂(もりさきごんげんしゃまえのさか)
丸山町6,7境界(旧小島村字尾崎/旧丸山町)
尾崎にある階段をその昔、森崎権現社前の坂と呼び、付近で不浄あるとき、つまり葬式などがあったときは、坂の上と下に注連縄(シメナワ)を張って通行を一時、止めていたといいます。もともと尾崎は江戸時代始めごろまで、木がおおい茂っていたため県庁付近と同じく森崎と呼ばれ、森崎権現がお祀りされていました。しかしキリシタンの影響からか森崎権現社は姿を消し、階段だけに以前の風習が残っていたと考えられます。おそらく階段の上に社または祠があったものと考えられます。




C-85:尾崎(おざき)
丸山町6,7、本石灰町6、東小島町2(旧小島村字尾崎/旧丸山町)
唐八景から雷公岡、小島から正覚寺、そして大崎神社にかけてと地形が長い岬のように伸びていて、これが尻尾(シッポ)に例えられたところから江戸時代始めごろから尾崎と呼ばれ、後の字名にも使われます。一方で大きく伸びた崎という意味で大崎とも呼ばれ、明治維新後に大崎神社の由来にもなり、あわせて大崎神社近くの遊廓に「みさき屋」という屋号がありました。当初、尾崎は長崎村小島郷に属していましたが、明治期以降から一部が丸山町となります。




C-84:旗亭釜屋跡(きてい-かまや-あと)
丸山町6,5境界(旧丸山町)
丸山の大辻から小島方面へ向かう道がありますが、このは明治12年(1879)3月16日の丸山の大火以降に設けられたもので、を登りつめたところは以前まで丸山の周囲を囲んでいた石垣の一部がありました。当初、石垣の下には人家が建っていましたが、江戸時代末期に旗亭釜屋という料理店となり、明治12年(1879)の大火の際、この石垣で火が止まったといわれています。なお、現在、の横にはビルが建っていますが、第二次大戦中、の横には丸山町の住民が使っていたという防空壕が掘られていました。




C-83:丸山の大辻(まるやまのおおつじ)
丸山本通りの東側突き当たり(青柳下)、十字路のところを丸山の大辻といいます。辻とは十字路のことで、ここは南は小島、北は思案橋、東は正覚寺下、西は丸山公園と丸山の要所でした。また、昔は場所を特定するのには番地などを使わず、通りや角などを目印にしていたため各所にこういった名称がありました。ちなみに丸山の裏通りには丸山の小辻があります。




高田泰雄先生(たかだやすお-せんせい)
高田泰雄先生(大正3:1914〜平成19:2007)は長崎市築町出身で、父親は当時、長崎を代表する豪商:肥塚酒造の社長で諏訪神社の総代も務めた肥塚慶之助でした。高田先生は当時としては珍しく旧制長崎瓊浦中学校から明治大学に進み、卒業後は第二次大戦中ということもあって東京の工場に勤務します。終戦後、帰崎し店に入り、しばらくして丸山町の料亭加寿美の養子となります。丸山ではくんち運営を第一線で務め、そしてその頃から長崎史談会に参加し郷土史を研究、長崎の史跡の素晴しさを多くの人々に説き、長崎街道の徒歩きや正月の七高山巡りなどを推進します。このほか版画家の田川憲や郷土史家の渡辺庫輔とも交友があって、越中哲也先生と共に長崎歴史文化協会の設立にも尽力します。




C-82:角の煙草屋跡/料亭加寿美跡
(かどのたばこや-あと/-かすみ-あと)
丸山町1-19(旧丸山町)
長崎開港前の永禄12年(1569)トードス・オス・サントス教会が現在の春徳寺のところに建てられ、教会のそばには薬草園が設けられます。薬草園の一部に慶長4年(1599)煙草が栽培され、いつしか長崎の名物となっていきます。江戸時代、丸山のこの地には角の煙草屋という遊廓があって、これは煙草を売っている店ではなく高級品とかモダンなイメージを持たせた屋号でした。角の煙草屋は明治初期の地図には記されていましたが、その後、※待合:加寿美となり、昭和33年(1958)から料亭加寿美となり昭和46年(1965)ごろまで続きます。なお、料亭加寿美は明治12年(1879)以降に建てられた2階建の木造建築で、しかも離れの地下室には高島秋帆の隠れ部屋と称する3畳ほどの石造りの部屋が残っていました。
※待合とは貸座敷と違って芸妓と飲食や宿泊も出来る店のこと。




C-81:渡辺庫輔仮寓の地(わたなべくらすけ-かぐうのち)
丸山町1-19隣(旧丸山町)
渡辺庫輔(明治34:1901-昭和38:1963)は長崎学の祖:古賀十二郎先生を師事し、古賀先生亡き後は長崎学の研究を第一線で推し進めます。渡辺庫輔は時計師、鋳物師、向井去来、オランダ通詞(本木、加福、志筑)などを中心に長崎の歴史および風俗を幅広く研究し著書にまとめ、さらには膨大な資料を揃えていました。しかし第二次大戦後の貧困な時代の中での研究は困難極まるものでした。なお、これら資料は長崎歴史文化博物館渡辺文庫として多くの資料が収納されています。




C-80:車立場跡(くるまたてば-あと)
岸の下は現在、道路になっていますが第二次大戦後しばらくは道路の半分近くまで家が建ち、木炭小屋や倉庫それに小店(稲荷寿司、海苔巻き、ぼた餅、串団子、薄雪饅頭などを販売)などがありました。それより前は車立場になっていて人力車が置かれていました。この人力車は長崎検番の芸者衆などがよく利用し、名妓といわれた愛八も利用していたといいます。人力車の車夫の話によると、愛八はいつも人力車の足置きに腰を掛けるため、愛八の足がいつも車夫の背中に当たり、一番乗せたくない客だったということです。これは愛八が大切な帯がつぶれないようにという配慮からでした。




C-79:岸の下(きしのした)
丸山町7-21下(旧丸山町)
江戸時代、丸山は花街の統制や火災の防止などのため周囲を石垣や塀で囲んでいましたが、丸山の東側に当たる青柳のところは当時のままの石垣が今も残っています。今はカズラ(オオイタビ)が壁を覆っているため石垣を見ることが難しいですが、ほとんど垂直の石垣は当時の土木技術のすごさを知ることが出来ます。一方、石垣は切り立っているため岸と呼ばれ、下の通りを岸の下と呼んでいました。このほか樺島町の長崎県警裏通りも切り立った石垣があって、その通りも岸の下といいます。




C-78:二宮病院跡/本石灰町互助会館跡
(にのみやびょういんあと/-ごじょかいかんあと)
本石灰町6(旧丸山町/小島村字尾崎)
明治17年(1884)大崎神社は社殿北側の境内地を分割し、医師である二宮氏に貸し付け、二宮氏はここに長崎でも最大級の擬洋風建築の建物を建て二宮病院を開きます。病院は昭和初年まで続き、その後、本石灰町互助会館として賃貸アパートとなります。昭和50年頃、建物は老朽化のため解体となりました。この二宮氏は一説にはシーボルトを師事した二宮敬作(文化元:1804-文久2:1862)の息子または親類ではないかといわれています。




大崎稲荷神社【大崎神社境内】
大崎稲荷神社は稲荷神を祭神とした神社で明治期以降お祀りされたものです。
御大典記念碑(ごたいてん-きねんひ)【大崎神社境内】
大正5年(1916)大正天皇の即位を記念して建立されました。
矢柄町の恵美須神【大崎神社境内】
昭和40年代(1965)まで、俗称で矢柄町と呼ばれる思案橋-正覚寺下間の道路は、現在のように暗渠ではなく川が姿を現していて、また、料亭松亭の前にあった大きな岩は子供たちの格好の遊び場となっていました。そして岩には海の近くということもあって恵美須神があって、暗渠工事にともない大崎神社に移設されました。




C-77:大崎神社(おおさきじんじゃ)
明治維新を受け寶正山金剛院如意輪寺大崎神社に改められ僧侶は神主へと変わり、本石灰町の鎮守神として祀られるようになり、祭神もそれまでの稲荷神と仁徳天皇を祀るようになります。大崎神社という名称は小島から思案橋付近にかけての地形は長い岬を形成していて、特にこの付近を尾崎または大崎と呼んでいたところから大崎神社となります。
明治12年(1879)には丸山の大火の影響で焼失し、明治24年(1891)社殿が再建され寺院様式から神社様式へと変わります。このとき鳥居が建立され、鳥居の額面「大崎神社」の文字は、明治の三筆と称される書の大家:中林梧竹によるものです。




C-76:金剛院の坂(こんごういんのさか)
大崎神社から電車通りまでの坂(階段)を金剛院の坂といいます。それは江戸時代、今の大崎神社の地に金剛院如意輪寺という寺院があって、この坂がその参道だったところからこう呼ばれています。江戸時代などは、丸山は塀で囲まれていたため丸山側から金剛院の坂の方へは通り抜けることが出来ず、明治時代になって現在のように通れるようになりました。なお、金剛院の坂に使われている敷石は当時のまま風頭石が使われています。




C-75:真言宗寶正山金剛院如意輪寺跡
(-ほうせいざん-こんごういん-にょいりんじ-あと)【大崎神社境内】
金剛院如意輪寺は寛永17年(1640)修験者(山伏)であった良圓が、小島川沿いに稲荷神をお祀りしたことに始まりますが、それは当時、小島川沿いには矢柄竹が多く茂り、稲荷神の遣いである狐が棲んでいたところから稲荷神をお祀りしたといわれています。寛文12年(1672)川沿いから現在地の丘の上に移転となります。江戸時代、長崎奉行所には有事を知らせる陣貝3個があって、1個を奉行所、1個を宝輪寺、もう一つをここで預かることになり金剛院如意輪寺はとても重要な役割を持っていました。しかし、明治維新を受け廃仏毀釈で廃寺となります。




C-74:小島備前守屋敷跡(こしまびぜんのかみ-やしき-あと)
本石灰町6-22(旧丸山町/小島村字尾崎)【大崎神社境内】
永禄元年(1558)中国・明の船が初めて長崎に入港。この船は大変大きな船でたくさんの貨物を積んでいたといいます。このことは遠く京の都の将軍:足利義輝公の耳にまで届き、早速、家臣の小島備前守を長崎に送り、小島郷の尾崎に屋敷を構えさせました。しかし長崎入りした小島備前守は大変威張り散らしたため、長崎の領主:長崎甚左衛門は腹を立て夜襲をかけ殺害。田上(唐船石)に葬られたといいます。この小島備前守が小島の地名の由来になったともいわれています。




C-73:妓楼:東屋跡/むさしや跡(ぎろう-あずまやあと/-)
丸山町1-13(旧丸山町)
明治期以降、この地に東屋という貸座敷がありました。明治12年(1879)の丸山の大火で建物は焼失し、その後、角海老楼と同じように擬洋風建築の洋館となります。この建物は丸山では珍しい洋館の建物で、その後、むさしやという貸座敷となり、昭和40年頃に廃業し建物は姿を消します。




C-72:富松稲荷神社跡(とみまついなりじんじゃ-あと)
本石灰町6-21,22(旧丸山町)
納受院は明治維新を受け、富松稲荷神社と改称され、その後、丸山町稲荷神社と呼ばれるようになります。明治40年(1907)頃、花街に囲まれるということと、維持管理のため、同町の梅園天満宮境内に移設され(正式な移設は大正2:1913)、現在に至ります。平成15年(2003)御遷宮90周年祭、平成23年(2011)創建400年祭が行われました。




C-71:真言宗神松崛納受院跡/明王院跡
(-しんしょうくつ-のうじゅいん/-みょうおういん-あと)
本石灰町6-21,22(旧丸山町)
長崎市史によると、慶長16年(1611)稲荷神を祭神とする神松崛納受院が小島村のこの地に開かれたとありますが、同年に修験者(山伏)の長寛院が八百屋町に明王院を開いたとあり、それが延宝4年(1676)に丸山町に移転していると考えられます。それから後、明王院は荒廃し、元禄時代(1688-1704)に丸山町の乙名:副島九郎左衛門が再興。その後しばらくして天明6年(1786)頃に納受院という僧が移り住み納受院に改称します。当時の大祭は丸山九日(マルヤマ-クンチ)と呼ばれ旧暦の10月7日から9日まで行われ、七日はお下りと称し神輿がお旅所(乙名屋敷:藤町氏邸:現長崎検番の地)に向かい、9日にはお上りとして渡御が行われていました。




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