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○長崎七不思議(ながさき-ななふしぎ) 長崎七不思議は節がついて三味線などで歌われたお座敷歌で、原曲は大津絵節といわれています。おそらく丸山芸妓が即興で作ったものではないでしょうか。歌詞に「下がり松」という松が登場するところから大浦下がり松海岸が埋立てされる幕末期に作られている考えられています。 「寺もないのに大徳寺 平地(ヒラチ)にあるのを丸山と 古いお宮を若宮と 桜もないのに桜馬場 北にあるのを西山と 大波止に玉あれど大砲なし しゃんと立ったる松を下がり松 これで七不思議」 |
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○丸山に残る古川柳 「丸山の 恋は一万三千里」 13,000里とは長崎とオランダの距離を意味し丸山遊女とオランダ人との恋愛を表しています。 「丸山へ女のよめぬ 文が来る」「丸山の太夫歩みも横文字」 よめぬ文や横文字はオランダ語を表し、引田屋には横文字の看板があったといわれています。 「丸山は唐と日本の廻し床」「丸山の虱(シラミ)和漢の人をくい」「丸山の女郎 和漢の味を知り」 唐人行きと日本行き遊女を意味しています。 「丸山の騒ぎチャルメロなどを吹き」「唐人はコップコップと酒をのみ」 当時、長崎にはすでにガラス細工(ビードロ)が入っていました。 「丸山に珊瑚珠生む 女あり」 唐人行き遊女は唐館を出る前に探番が厳しく検査をしていました。 「丸山に来て ぱあぱあにしてかえし」「丸山の傾城 船を傾ける」 丸山に登楼して散財する男もいたのではないでしょうか。 |
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○井原西鶴(いはら-さいかく) 井原西鶴(寛永19:1642-元禄6:1693)は本名を平山藤五といい、大坂の町人の子供で若い頃から俳諧を学び得意としていました。浮世草子といって花街を描いた小説はベストセラーとなり、西鶴の名を世に知らしめることになります。元禄元年(1688)発表の「日本永代蔵」は町人の経済を描いた作品で、この中に長崎丸山の有名な一説が記されています。 「長崎に丸山といふ所なくば、上方の金銀無事帰宅すべし。ここ通ひの商ひ、海上の気つかひの外、いつ時しらぬ恋風おそろし」 しかし、ここまで丸山のことに詳しい西鶴でしたが、一度も長崎に足を踏み入れたことがなかったそうです。 |
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○丸山遊女の揚代 丸山遊女は太夫、みせ、並と三つの階級に分かれ、江戸時代中期の例ですが、唐人行きの揚代は太夫が銀15匁、みせが10匁、並が5匁で、阿蘭陀行きは並しかなかったのですが銀30匁でした。このように唐人行きより阿蘭陀行きが高価なのは、それだけ遊女がオランダ人と接触したくなかったようです。反対に日本行きの並は銀2,3匁でした。江戸時代末期、日本行きの太夫は銀70匁と高騰、料理代などを足すとその3倍ほどになる計算で、当時の相場で銀70匁≒金1両≒米1石となり、庶民の生活費の約半月分といわれていて、主に商人などが中心でした。 |
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○ドクトル・フォン・シーボルト(Jhr.Dr.Philipp Franz Balthasar von SieBold) シーボルト(1796:寛政8-1866:慶応2)は、ババリア王国(現ドイツ南部)出身の医師で、後にオランダ海軍軍医となり日本へ派遣されます。文政6年(1823)来崎、出島オランダ商館の官医となり、文政7年(1824)鳴瀧塾を開設、多くの門人を輩出します。しかし文政11年(1828)帰国する際、国外持出禁止の品が見つかり(シーボルト事件)、翌年国外追放となります。一方でシーボルトは文政6年(1859)寄合町の遊女屋:引田屋の遊女:其扇(ソノギ本名:楠本滝)を出島に呼び入れ、文政9年(1826)には妊娠させていたようです(シーボルト32歳、其扇21歳)。そしてこの混血児が後に女医として活躍する楠本稲(イネ)ということになります。 |
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○出島商館長ヘンドリック・ドウフ(Hendrik Doeff) ヘンドリック・ドウフ(1777-1835)はオランダ人で寛政10年(1798)に来崎、享和3年(1803)出島阿蘭陀商館長となります。この時期、本国オランダはフランスによる占領でバタビア共和国となっていて、日本への貿易船が送られなくなり出島は危機に瀕し、さらにイギリス船が入港したフェートン号事件が起こるなど大変不安定な状態でした。また、ドウフは来崎時、蘭日辞典(長崎ハルマ)の編纂で長崎奉行からの絶大な信頼を得ています。 一方でドウフは来崎後に寄合町の遊女:園生と関係を持ちおモンという女の子を生ませ、さらに文化2年(1805)寄合町の遊女屋:京屋の遊女:瓜生野(ウリュウノ)と関係を持ち、男の子を出産、丈吉と命名(ドウフ33歳、瓜生野26歳)。一般に混血児の場合、母方の姓を用いるのが通例ですが、丈吉は新橋町に籍を置き「道富」姓を名乗ります。「道富」はドウフの発音から取ったものですが、日本読みは「ミチトミ」となります。ドウフの帰国の際は、当時の奉行:遠山左衛門尉に丈吉の将来のことを託す歎願書を作り、奉行もドウフの働きなどを加味し丈吉の保護を約束します。なお、道富丈吉(文化5:1808-文政7:1824)は14歳で唐物目利役となりますが17歳で没します(墓所:晧台寺後山)。 |
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○丸山遊女と混血児について 丸山遊女は唐人やオランダ人と接触する機会があったため妊娠することが稀にありました。当初、唐人との間に生まれた子供は、遊女に対しての手当が多いことから歓迎される面がありましたが、一方でオランダ人との子供は日本人離れした容姿となるため、中絶を行う者が多かったといわれています。このようなことから正徳5年(1715)妊娠、出産、養育などについての規定が作られ届出制となります。しかし鎖国政策の日本にとって混血児の取り扱いは大変難しく、半分は日本人であって半分は外国人ということで海外へ混血児を連れて行きたい場合、長崎奉行や老中などは頭を悩ませていたといいます。結局、両親の合意があれば許可が下りたとのことです。 |
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○名付け遊女と仕切り遊女 名付け遊女とは遊女屋に年季奉公して抱えられる(属する)遊女とは違い、「名前借」という形で名義のみの遊女となり、遊女屋に手数料を払うことで源氏名(遊女名)を取り遊女になることで、仕切り遊女は接触する相手を一人に限り、一人に買われ対応する遊女をいいます。これら二つの遊女は日本人相手ではなく唐人やオランダ人などと接触をするのが目的で、いつでも唐人屋敷や阿蘭陀屋敷に向かうことができ、やめることも容易でした。しかし当時の日本女性は人種差別感が強く、それらの遊女になることは主に家が貧困な場合が多く、長期間の遊女屋への年季奉公より早く終えることができ、また日本人より裕福な異国人に身を任せようという考えや、日本人を相手にして恥をさらすよりも、異人の方がすぐに帰国するため、いくらか気持ちが和らげる感があったようです。 |
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○「阿蘭陀行き」の遊女について 長崎の遊女がいつ頃から南蛮人(ポルトガル人)と接触していたか、オランダ人においてもいつから接触していたかは定かではなく、オランダ人はおそらく正保2年(1645)頃と考えられています。また、出島の阿蘭陀商館への女性の出入りは一切出来ませんでしたが、丸山の遊女、禿、遣手などは特別で、しかし出入りの際、厳しい取締りが行われていました。遊女らは江戸時代中期までは毎日夕方に入り翌朝に、中期以降は昼夜の制限はなくなりました。一方で出島に住むオランダ人にとって遊女は大切な存在で、日頃、家事を行わないオランダ人は昼間は市内の男の使用人を雇っていましたが、夜には帰ってしまうため、必然と遊女を招きいれなければならないのです。オランダ人からすれば丸山遊女は心の寄りどころ的存在で寵愛したのはシーボルトの例にもありますが、全体的に見て丸山遊女がオランダ人に対して恋を抱くことは人種差別の概念があってほとんどなかったいえます。それは「日本行き」「唐人行き」「阿蘭陀行き」とオランダ人は最も下の位置付けだったからです。また、最盛期の享保17年(1732)の数字を見ると出島に1年間に訪れた遊女の数は延べ339人、元文2年(1737)には延べ620人とあります。 |
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○「唐人行き」の遊女について 一般に「唐人行き」の遊女というと唐人に関係する遊女のことをいい、初めから唐人相手の遊女もいれば「日本行き」から「唐人行き」に昇格の者、「阿蘭陀行き」から「唐人行き」になる者をいいます。唐人は初め市内に雑居している関係上、長崎で妻子を持ち住居を構える者もいましたが、唐船で来る者たちなどは丸山遊女が便利で安全で、江戸中期の唐船の激増は丸山に景気をもたらします。元禄2年(1689)の唐人屋敷の設置で遊女が唐人屋敷に向かう仕来りが生まれ、さらに正徳3年(1713)長崎奉行所は遊女や禿、遣手などに探番(サグリバン)を置き、唐人屋敷入口での取締りを強化。唐人からの贈り物などを捜すのです。探番は着物袖から袂、髪飾りや履物まで調べ、時には股と股とを広げさせ局部まで調べるのでした。川柳の「丸山に珊瑚珠生む女あり」は有名です。なお、最盛期の享保17年(1732)の数字を見ると唐人屋敷に1年間に訪れた遊女の数は延べ24,644人、元文2年(1737)には唐人屋敷に延べ16,913人でした。 |
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○「日本行き」の遊女について 一般に「日本行き」の遊女というと日本人のみと関係する遊女のことをいい、容姿やしつけなどが大変優れている者や、唐人行きだったが水揚げがよく「日本行き」に昇進した者などがそう呼ばれます。しかし遊女の中で純粋に日本人にのみ肌を触れた者となると、延宝時代(1673-1681)の例では遊女766人中10人程度で、太夫ともなると127人中10人でした(これは遊女屋74軒中に太夫を抱えている店はわずかに5軒ほどで希少な存在を意味します)。さらに丸山遊女は、初め長崎近郊や他国(日本国内)の者で構成されていましたが、後は長崎市内とその近郊の者で構成するようになり、客が長崎人の場合、互いの素性をよく知ることから「日本行き」の遊女と恋仲となることが多く、心中騒ぎなど跡を絶たなかったようです。 |
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○丸山遊女の寺宮詣 江戸時代、丸山遊女は市内各所の寺社の祭事に毎日のように行列をなして向かい、この行列を俗に道中と呼び、法式と略式に分かれていました。法式は華やかに粧い美しく着飾って参詣することで、略式はわりあい簡単に済ましたものでした。遊女が参詣する際は多くの見物客で町中は大変賑やかになるのです。祭事は主に大徳寺の天満宮の五穀豊穣の祈祷、長照寺のご開帳、桜馬場八幡社大祭、延命寺詣でなどで、これは長崎がキリシタンの町であったことから奨励されていたのです。しかし江戸時代中期になるとその必要なくなり天保14年(1843)ついに遊女の外出は完全に禁止となります。 |
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○丸山遊女の高尾と音羽(たかお-おとわ) 諏訪神社の神事(くんち)が始まったのは寛永11年(1634)といわれていますが、当時、諏訪神社は現在の松森天満宮のところにあって、遊女屋は寄合町(現在の古町、今博多町付近)と小島村太夫町(現在の丸山町)などにありました。江戸時代に書かれた「寄合町諸事書上控帳」によると、寄合町には留女(トメオンナ=宿屋の客引き女)はいても遊女はおらず、寄合町に遊女がいるようになるのは現在の地に移転した後(寛永19:1642年以降)で、寄合町の小舞の奉納は留女を遊女に仕立てたものといわれています。つまり、寛永11年(1634)に諏訪神社で初めて小舞を奉納した遊女は、太夫町つまり丸山町の遊女:高尾と音羽ということになります。 |
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○丸山遊女とくんち 江戸時代初期、遊女とは本来、白拍子(シラビョウシ)つまり舞妓や芸妓のことで、能なども長けているところから各所に出かけ興行を行うこともありました。そのため社寺などの祭事にも盛んに迎えられ、実際、寛永11年(1634)9月の諏訪神社の祭事に丸山遊女の高尾と音羽が小舞を奉納し、これがくんちの始まりとなりました。遊女による小舞の奉納はいつしか16歳以下の禿(カムロ)の中から容姿や芸に優れたものを選び出すようになり、小屋入り(6月1日)に源氏名をつけ太夫とし祭事に踊りを奉納、大役を務めた後、遊女となるという形態になります。江戸時代中期、小舞の遊女の数は10人ほどになり、神輿行列などにも美しく着飾った丸山遊女がお供をし、くんちは大変華やかなものになっていきます。明治元年(1868)諏訪神社祭事の改革で奉納踊りが差し止めになる際(のち復活)も、丸山町と寄合町の踊りは続けられますが、明治5年(1872)遊女屋の廃止で遊女が廃され、ついに小舞が姿を消します。また、毎年奉納だった丸山町と寄合町は隔年となり1町づつの出場となって、遊女(太夫)の代わりに芸妓が奉納踊りを務めるようになります。しかしそれも昭和33年(1958)の売春防止法の施行により花街の灯が消えると、昭和37年(1962)寄合町、昭和40年(1965)丸山町の出場を最後に辞退します。なお、丸山町は平成18年(2006)復活します。 |
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○丸山遊女とキリシタン 江戸時代初期の寛永11年(1606)頃、当時の長崎市民はほとんどキリシタンでしたが、遊女屋を始めた人々は博多など各地から集まった商人が中心だったためキリシタンではなく、遊女においてもそうでした。慶長19年(1614)禁教令が下り、キリスト教施設は次々に破却され社寺の再興が始まります。そして当時、社寺への一番の保護者が遊女屋の主人たちで、特に大音寺や晧台寺(当時は洪泰寺)、諏訪神社などは、その支援なしでは事が進みませんでした。また、誰も参詣する者などいなかった諏訪神社でしたが、寛永11年(1634)の神事に今の丸山にあった太夫町の遊女:高尾と音羽が舞を奉納します。 |
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○丸山遊女についてA 江戸時代初期、遊女とは本来、白拍子(シラビョウシ)つまり舞妓や芸妓であって、読み書きや歌舞音曲、能楽、琴、三味線、胡弓、小唄、浄瑠璃など芸事のあらゆることに堪能でなければ勤まりませんでした。そのため丸山遊女は各所に出かけ興行を行うこともありましたが、江戸時代も中期になると能楽などより三味線や小唄などに力を入れるようになり、諏訪神社の大祭(くんち)で小舞(狂言の中の一つ)を舞う程度となります。そうして興行などが行われなくなると外出も禁止となるのです。江戸中後期、大坂などから芸妓が長崎に入るようになると遊女は色を売り、芸妓は芸を売るといった形態となり、遊女たちの歌舞音曲は自然と衰退していくのです。しかし衰退しますが全く行われなかったという訳ではありません。明治維新を受け、遊女屋は廃止され、遊女は娼妓となり完全に色を売る商売になっていきます。 |
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○丸山遊女と阿片(-あへん) 江戸時代後期、清(中国)で流行した阿片の吸引は中国国内に多くの被害者と、さらには治安悪化につながり、1840-42(天保11-13)年、清(中国)とイギリスの間で阿片戦争が勃発します。このことはすぐに長崎奉行の耳ににも届き、阿片の長崎上陸を防ぐ準備を進めます。安政4年(1857)第107・111代長崎奉行:水野筑後守忠徳らがオランダ領事官と日蘭追加条約の中に阿片禁止をうたい、輸入品の売買を厳しく取締ったため、市内に拡がることはありませんでした。しかし慶応4年(1868)春、横浜に阿片の密輸入の噂が立ち、長崎でも警戒を強めます。そうした中、在崎の唐人らが密輸を行い長崎市民に拡がります。その結果、丸山の遊女や芸妓が服用し、中毒で4名(芸妓:小ハマ23歳・遊女:アケボノ27歳・組頭:中村金左衛門・遊女:松崎15歳)の死者を出すのです。同年(明治元)8月長崎府外国管事務所は阿片の輸入禁止と所持者に罰金を科すことで被害を防ぐことができ、以降、長崎において阿片の被害はなくなりました。 |
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○丸山遊女の絵踏(-えふみ) 丸山遊女の絵踏は長崎名物の一つで、1月に行われる市内の絵踏の最終日にあたる1月8日は丸山には大勢の見物客で賑わいました。丸山遊女の衣装の華やかさは有名ですが、寺社詣でや絵踏の衣装は格別の意味があって、特に絵踏の日は華美を極め絵踏衣装と称される程でした。これら衣装は長崎の富豪や上方江戸の豪商、さらには唐人やオランダ人などが馴染みの遊女に対して競うように贈る品で、自らを誇っていたのです。1月8日美しく着飾った遊女たちは、各店々に行儀よく並び、町役人が一人一人源氏名(ゲンジナ)を読み上げ、呼ばれた遊女は右足で絵踏版を踏むのです。この時の足袋を履いていない白く足は大変艶(アデ)やかだったといいます。しかし、こういった絵踏の行事も明治維新を受け消え去っていきます。 |
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○遊女の衣装 鎖国時代、長崎は日本で唯一の海外貿易港として多くの舶来の織物などが港に入るという関係から、長崎人は他の地方に比べ衣装は贅沢を極め、特に長崎の婦人の衣装ほど華美なものはないと称される程でした。そして丸山遊女はさらにその最高級品を着る女性ということでまさに天下一といわれ、特に長崎衣装といわれていました。一旦、江戸中期、貿易船の低下で遊女の衣装にも変化が現われますがその後、再興し華美の状態が続きます。しかし幕末期などは長崎奉行の命などで華美が禁止されることが増えますが、それでも遊女には表向き制限されることはありませんでした。そして開国後、居留地が造られ遊女の外出が大浦や稲佐などに及ぶようになると軽快な服装が使われるようになり、一般の女性と変わらなくなって行くのです。 丸山遊女に対して次のような言葉が残っています。 「京の女郎に、江戸の張りを持たせ、長崎の衣装を着せて、大坂の揚屋で遊びなば十分なり」 |
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○遣手(やりて:長崎弁=ヤッテ) 遣手とは遊女と来遊する客人との間で料金その他の斡旋の仕事や、遊女の教育、切り盛りなどの世話をする女性で、過去に遊女をやっていた古手の者がついていました。そして遣手の斡旋は主に、よその土地から訪ねてくる客人に対して遊女の世話をするのですが、長崎では唐人屋敷や阿蘭陀商館の出入りの際の斡旋も仕事となっていました。また、唐人屋敷では唐人が騒ぐことが多く、唐人を上手になだめ次の仕事につなげることが遣手の手腕が問われるところだったのです。さらに遣手は遊女の監視役も兼ねていて、唐人屋敷や阿蘭陀商館の出入りの際は、途中で一般人と話をしたり他所に立ち寄ったりしないよう監視をし、指図を聞かない者は連れて帰ったりと苦労が多かったといわれています。なお、「仕事のよく出来る人」などのことを“やりて”といいますが、それはこの遣手から来ている言葉で、世話好きで仕事がはかどる女性などには遣手婆(ヤリテババア)となります。 |
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○禿(かむろ:長崎弁=カブロ) 禿とは遊女に付属する幼女のことで長崎弁でカブロといいます。だいたい15歳以下の幼女が親の理由で年期奉公させるもので、15歳になれば10年間、25歳まで遊女として勤めさせていたといいます。禿は遊女の食事の世話や雑用をする者で、特に唐人行きや阿蘭陀行きの遊女の世話は大変で賢くなければならず12,3歳の者が当てられていました。 |
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○丸山遊女について 江戸時代始めから中頃まで、遊女は傾城(ケイセイ:長崎弁ではケーシェー)と呼ばれ、中期以降、遊女と呼ばれていきます。また、女郎衆(ジョロシ)という言葉もあって、太夫だけは一人でも複数でも太夫衆(タユシ)といいます。遊女は太夫、みせ、並に分かれていて、太夫だけは特別で小舞や乱舞、茶道を極め、祝儀不祝儀にも呼ばれていました。さらに丸山遊女は日本行き、唐人行き、阿蘭陀行きに分類され、唐人行きつまり唐人屋敷に出向く遊女はこのほか、唐人屋敷行き、唐館行き、十善寺行き、館内行き、唐人女郎衆といわれていました。一方、阿蘭陀行きは出島オランダ商館に出向く遊女で阿蘭陀屋敷行き、蘭館行き、出島行き、阿蘭陀女郎衆といわれます。そして安政の開国以降、各所に外国人が住むようになると大浦行き(大浦居留地)や稲佐行き(ロシア休息所)、外館行き(外国商館)、製鉄所行き(製鉄所滞在の外国人)の言葉が生まれ、特に稲佐行きはロシア女郎衆(ジョロシ)と呼ばれていました。 |
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○明治期以降の丸山 明治5年(1872)の遊女解放令は新たな公娼(コウショウ)制度の始まりで、明治9年(1876)遊廓は貸座敷に、遊女を娼妓と改称し、さらに貸座敷は免許制となるも営業は続けられていました。また、一方で料亭の台頭で芸妓を中心とした花街文化が花開き始め、他港の開港で長崎は貿易額が一旦は減少するも上海航路などの開設で潤い出し丸山も賑やかさを取り戻します。しかし大正昭和と時代が進むと廃娼運動が起こり、さらには昭和8年(1933)長崎博覧会の開催に伴い当局の指導もあって市内各地の遊郭が整理統合され丸山に集められたため上客の登楼が激減します。昭和9年(1934)貸座敷は特殊料理屋、娼妓を酌婦と変更。第二次大戦が始まる頃からは次第に多くの店が廃業に追い込まれます。昭和21年(1946)GHQによって公娼制度が廃止となった後、翌年からは特殊料理屋は特殊飲食店へ改称となり、昭和33年(1958)3月31日、前年の売春禁止法の成立を受けて遊廓に類するものはすべて廃止となります。一方、料亭などは第二次大戦の前後を除けば賑やかで、昭和40年台(1965〜)高度成長期、炭鉱の好景気を受け潤いますが、その後はオイルショックなど不景気の波をかぶり廃業が相次ぎます。 |
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○茶屋と揚屋と遊女屋の関係 江戸時代、丸山には遊女屋のほか茶屋と揚屋が存在していましたが、一般に遊女屋は遊女を置いた宿屋で、茶屋と揚屋は現在でいう料亭を意味し客人を揚げ料理を提供していた場所でした。長崎において茶屋と揚屋の関係は、遊女屋に付属したものを茶屋といい、付属せず自立したものを揚屋と呼んでいました(上方や江戸は別の意味)。つまり、丸山には遊女屋「中の筑後屋」に付属した「中の茶屋」と、遊女屋「引田屋」に付属した「花月楼」の2軒だけが茶屋として存在していたことになります。また、長崎の遊女は太夫、見せ、並の3段階に別れていて、揚屋(茶屋)は一般的に太夫のみを扱っていました。さらに江戸時代中後期になると揚屋(茶屋)に芸妓や幇間(ホウカン=たいこもち)などを呼び入れるようになり座興が生まれ、遊女屋は次第に衰退するようになります。明治5年(1872)遊女屋解放令が出され遊女屋は貸座敷に変化。揚屋も料理屋(後の料亭)と呼ばれるようになり、以降、料理屋と芸妓の関係が強くなっていきます。 |
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○丸山の遊女屋と遊女 長崎の遊女屋の盛衰は中国貿易やオランダ貿易の影響を顕著に受け、江戸初期、唐船やオランダ船の入津数(入港数)が最大になった時代は同じように遊女屋や遊女の数も最大となります。 延宝7年(1679) 入津数37隻-遊女屋103軒-遊女 766人。 天和元年(1681)入津数13隻-遊女屋 74軒-遊女 766人 元禄5年(1692) 入津数77隻- -遊女1443人。 しかし江戸時代中期からは貿易の低迷で激減する形となります。
宝暦中(1751- ) -遊女屋 29軒-遊女 315人 宝暦6年(1756)入津数 9隻-遊女屋 33軒 天明6年(1786)入津数14隻-遊女屋 22軒- -揚屋15軒 寛政中(1789- ) -遊女屋 18軒-遊女 416人 幕末にかけて遊女屋の増減が激しく、一方で揚屋が出現し芸者が激増。特に丸山町は芸者屋町のようになったといいます。この頃から引田屋や筑後屋が頭角を現しだします。 天保13年(1842)入津数 8隻-遊女屋 20軒 -揚屋15軒+α 弘化4年(1847) 入津数10隻-遊女屋 15軒 嘉永3年(1850) 入津数 7隻-遊女屋 21軒-遊女 480人 慶応元年(1865) -遊女屋 29軒 -揚屋11軒+α 明治5年(1872) -遊女屋 27軒 明治維新を受け新政府は明治5年(1872)遊女屋廃止を打ち出し遊女屋は貸座敷と形態を変え遊女屋時代が終わります。 |
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○丸山の始まり(筆者説) 十六世紀中期、ポルトガル船は平戸を拠点とし貿易をし、平戸港での取引が終わると出航までは平戸港の南にある川内港に入ります。そして川内港は船員達が休息することから自然発生的に遊女屋が生まれ、引け目のある商売なのか港の入口の丸い小高い山のそばに広がっていきます。船員達はその丸い山を目印に集まり、ここで「丸山」という言葉が始めて使われたと考えられます。その後、ポルトガル船は様々な妨害で西海市横瀬浦に港を代え貿易を再開。ここでもやはり港から少し離れた山陰に遊女屋が始まります。船員達はそれまで使っていた「丸山」という言葉を使って遊びに行くのです。ポルトガル船はさらに追われ元亀元年(1570)長崎の港に入り、長崎でも多くの人が集まるようになると町外れに遊女屋が自然発生的に始まります。江戸幕府も安定しだした寛永19年(1642)幕府は町の統制を図る上でも遊女屋を一ヶ所に集めるよう命じ、遊女屋は長崎の市街地から一番離れていた太夫町に集め、遊女屋という意味で使われていた「丸山」をそのまま地名に置き換え幕府公認の「丸山」の誕生となるのです。なお、平戸市川内町や西海市横瀬浦には今でも「丸山」という地名が残っています。 |
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○長崎の遊女屋の始まりB 江戸時代の初め、小島村丸山付近にはすでに「山の三軒家」または太夫町(タユウマチ)といわれた太郎兵衛、妙助、藤十郎の3人が開いた遊女屋があって、しばらくして火災に遭いその後は空き地となっていました。それから徳川幕府も第3代将軍:家光の時代になると国内が安定しだし、幕府は市街地の整備に力を注ぐようになります。寛永19年(1642)【または寛永16年(1639)】幕命(官命)により市内各地に点在していた遊女屋は小島村の丸山付近に移され丸山が誕生。このうち今博多町(桶屋町も含む)と寄合町(現 古町)にあった遊女屋は現在の寄合町に、それ以外の地区の遊女屋は現在の丸山町に移され、いよいよ遊郭(遊廓)つまり花街が始まります。 |
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○長崎の遊女屋の始まりA 今博多町に遊女屋が開かれた時代と同じ頃、長崎の入口近くにやはり自然発生的に遊女屋が建ち始め、長崎街道近くには本紙屋町、新紙屋町(八幡町)、新高麗町(伊勢町)、大井手町などの地域。茂木街道近くには高麗町(榎津町)、今石灰町(八坂町)、それに小島村丸山付近など、街道から少し離れた場所に遊女屋は建ち始めます。これらは長崎の人口増加に比例したもので、やはり引け目のある商売なのか「類は友を呼ぶ」というようにまとまりを持って点在していました。慶長11,12年(1606-7)紙屋町や高麗町などの遊女屋は一旦、今博多町の近くに移転させられ寄合町となり、さらに今博多町と寄合町の遊女屋は寛永19年(1642)小島村丸山付近に移転させられます。なお、寄合町の移転後は古くなった町という意味で古町と変わります。 |
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○長崎の遊女屋の始まり@ 元亀2年(1571)の長崎開港後、六町が開かれ、その後すぐに博多商人が来崎し「一の堀」の外に町を開き博多町が生まれます。文禄年間(1592-96)さらに博多商人が来崎し当時の市街地のはずれに再び別の博多町を開き、二つの博多町は前者を本博多町、後者を今博多町と称し、今博多町には宿屋(ヤドヤ)が建つようになります。そしてその宿屋には博多柳町の夷屋?などから連れて来た遊女が置かれ、南蛮人(ポルトガル人)を相手にした遊宴の場つまり遊女屋が始まるのです。なお、ここでいう南蛮人は宣教師などではなく、南蛮船を漕ぐキリシタンではない船乗りと考えられます。 ※当時の今博多町の町域は現在の桶屋町も含みます。 |
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○丸山の地形 丸山は東に小島から尾崎(大崎神社付近)にかけて続くの丘と、西に稲荷嶽(旧 仁田小)から大徳寺にかけて続く丘に囲まれた一つの窪地を開いた場所で、真ん中に一つの流れ(木駄の原川)が銅座川に注いでいます。丸山町と寄合町の両町はL字型の町域で、一辺の丸山町は西から東に、一辺の寄合町は北から南に、それぞれ傾斜を持って形成しています。江戸時代などはこの傾斜に2,3ヶ所づつの階段が設けられ、寄合町には10数段の階段がありました。しかし明治時代となると人力車が利用されるようになり石段は除かれました。しかし今でも建物にはその名残が残り、敷地間に段落ちの形状を見ることができます。そして丸山の規模ですが、天明6年(1786)の資料では丸山町は4,538坪程(約15,000u)、寄合町は5,104坪8合1勺1程(約17,000u)とあり約1万坪の規模を誇っていました。これは当時としては、官命で造られた出島(約4000坪)や唐人屋敷(約8000坪)などをしのぐ広大な範囲だったことがわかります。 |
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○丸山の諸名称 丸山とは丸山町と寄合町を合わせた花街の総称をいいますが、江戸時代にはすでに「丸山」という言葉自体、普通名詞化し花街を意味するようになります。つまり花街と書かなくても「丸山」と書けば花街を意味し、「丸山花街」という言葉は存在しないのです。 また、丸山町と寄合町の両町を江戸時代以前は上搨ャ(ジョロウマチ)、江戸から明治にかけては女郎町とか傾城町(ケイセイマチ)、遊女町と呼んでいました。俗に、内町や二丁町と呼んでいた時期もあり、円山とか麿山などと表記するときもありました。古文書などには囲という文字が当てられることもあり、これは周囲が塀で囲まれていたことに由来します。さらに丸山町の一部を片平町(カタヘラマチ)と呼んだり、今では使いませんが寄合町を西田町と呼んでいたときもあります。 |
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