広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



C-70:片平町(かたひら-まち/かたへら-まち)
丸山町の北側、丸山町交番から大崎神社までの通り沿いを俗に片平町といいます。正式名称ではなく丸山町に属していますが(現在では本石灰町にも属す)、現在でも地区の人々は丸山本通りと区別する意味で使用しています。江戸時代初期、この通りの片側だけ(丸山町側)に遊女屋が建てられ、反対側(本石灰町側)には人家がなく空き地だったためこのように呼ばれたもので、江戸時代中期以降、その空き地にも揚屋や芸者屋が建てられるようになっても、その名称は使われ現在に至ります。なお、この通りのNTT電柱番号には「片平」の文字が使用されています。




C-69:角の油屋跡/角海老跡(かどのあぶらや/かどえび-あと)
丸山町1-1(旧丸山町/片平町)【角海老ビル】
江戸時代、この地には角の油屋という遊廓があって、この油屋とは油を売っているのではなく高級という意味で使われていました。さらに明治12年(1879)丸山の大火以降に建てられた建物は、丸山における擬洋風建築の走りといわれています。当時、角の油屋には遊女:正木がいてフランス人貿易商:ヴィクトール・ピナテールが身請けした話は有名で、来崎中の斎藤茂吉がピナテールのところを訪ね、次の歌を詠んでいます。
「寝所には括枕のかたはら 朱のはこ枕おきつつあはれ」
角の油屋は昭和初年に廃業、天草から渡って来た松浦信太郎によって角海老として遊廓が続けられます。昭和32年(1957)からは旅館となり老朽化のため昭和45年(1970)擬洋風建築は姿を消します。また、長崎の幕末の泥絵師:城義隣による大徳寺の閣天井が廃寺以降、角海老に置かれていましたが、昭和45年(1970)の解体の際、県教育委員会に寄贈されています(現在行方不明)。




C-68:二重門跡(にじゅうもん-あと)
船大工町3番-4番(旧船大工町)【丸山町交番前】
江戸時代、丸山の入口には二重門という大門があって、瓦葺の門が屋根を接しながら二つ建っていました。この二つの門というのは思案橋側に船大工町の門、丸山側に花街の門が建っていて、門は雨傘をさして通れば傘の先が仕えるほど低く、狭い門でした。そのため諏訪神社のくんちの際、丸山町、寄合町の傘鉾は横に斜めに倒しながら通らなければならず、他町の傘鉾よりいくらか小型に作ることになっていました。反対に他町の傘鉾二重門があるため丸山の中に入ることが出来ませんでした。明治5年(1872)遊女屋が廃止された後、二重門は取り除かれることになります。なお、現在の傘鉾は大正期に作られたもので大きさは他町とほぼ同型です。




C-67:寄合町(よりあいまち)
現在の寄合町の町域は昭和41年(1966)の町界町名変更でも変更がなく、江戸時代からの町域が引き継がれています。町域は約25,000平方メートル(7,580坪)です。
世帯数は294世帯、人口484人(男202女282:平成17年6月末日現在)
世帯数は372世帯、人口621人(男286女335:平成25年11月末日現在)




C-66:丸山町(まるやままち)
現在の丸山町は昭和41年(1966)の町界町名変更によって区画された町域で、旧丸山町と旧東小島町、旧中小島町、旧本石灰町の各一部が合併したものです。町域は約32,000平方メートル(9,700坪)です。
世帯数は340世帯、人口559人(男227女332:平成17年6月末日現在)
世帯数は399世帯、人口581人(男246女335:平成25年11月末日現在)
※昭和40年(1965)丸山町はくんちの踊り町としての最後の出場でしたが、最後の出場になった原因の一つはこの町界町名変更が原因でした。平成18年(2006)41年ぶりとなるくんち踊り町復活を果たします。




C-65:丸山(まるやま)
現 丸山町、寄合町、本石灰町一部、中小島1-4
丸山は寛永19年(1642)江戸幕府の命を受け長崎奉行所が長崎市内に散在していた遊女屋を1ヶ所に集め官許の遊郭を作ったことに始まります。これは政府(幕府)が男女の情事を公然と認めたことにほかなりません。そしてその丸山遊女がお相手したのが日本人のほかに唐人(中国人)やオランダ人などで、これは他の遊郭には例のない国際的な遊郭といえます。丸山の役割は長崎の役人や博多や上方などの商人、さらには多くの文人墨客などの社交の場でありサロンとして内外に知られていました。しかし昭和32年(1957)4月1日売春防止法の施行を機に翌33年(1958)3月31日その灯は消えてしまうのです。しかし、長崎において丸山遊女の果たした役割は非常に大きいといわれ、近年ではその丸山を題材にしたテレビや雑誌などで大きく取り上げられるようになり、今では散策の地として賑わいを見せるようになりました。




C-64:山ノ口山ノ口足袋(やまのくち-と-やまのくちたび)
船大工町4(旧船大工町)
江戸時代、丸山というところは、今日の丸山町を指すのではなく丸山町と寄合町の総称を丸山というのであって、長崎人は単に「」と呼んでいました。これが丸山の入口を山ノ口という所以でもあり、丸山の上手を山頭というのです。山ノ口には丸山の女性たちの御用達の足袋屋があって、これがいわゆるブランド品の山ノ口足袋でした。よく古写真などにも残っていますが、当時は芸妓衆遊郭の女性(明治期以降)など相当の量の足袋が販売されていたものと思われます。この付近、昭和14年(1939)道路拡張で河川を暗渠化し、川沿いの商店と共に撤去され現在の形となりました。




C-63:福砂屋(ふくさや)
船大工町3-1(旧船大工町)
福砂屋は寛永元年(1624)初代寿助がポルトガル人からカステラの製法を学び長崎で菓子商を始めたものと伝えられていますが、一方で中国とも深い関係を持っています。天和2年(1682)長崎に大飢饉が起こり祟福寺の僧:千呆が大釜を作らせ施粥を行いますが、福砂屋はそこに米32俵を寄進、長崎市民の救済に尽力します。唐人らは福砂屋のこの功績に対し中国で重宝がられている蝙蝠(コウモリ)の使用を許し、以降、福砂屋はこの蝙蝠を商標にするのです。福砂屋は当初は引地町に店を構えていましたが、宝暦2年(1752)頃、現在の船大工町に移ります。これは現在、本店入口に掲げてある看板の開業年号です。以前までは金平糖や有平糖、千代川、おとし焼などを販売し、カステラも4種類(普通品、五三焼、白菊焼、黄菊焼)の味が楽しめました。墓所は正覚寺後山。




C-62:見返り柳(みかえり-やなぎ)
船大工町2-12(旧船大工町)
見返り柳花街からの帰り道、花街への未練を断ち切れず振り返る姿から名付けられたものといわれ、もともとこの見返り柳京都嶋原花街入口にある柳が始まりといわれています。それが江戸の吉原やこの長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなっていきます。柳の風にたなびく様子が女性のしぐさに例えられ、花街には切っても切られぬ存在となっています。現在、長崎の見返り柳は思切橋の欄干の側に植えられていますが、この柳は4代目(昭和50年3月8日植樹)の木といわれています。




C-61:木駄の原川(こだのはらがわ)
思切橋の架かっていた川(溝)は旧仁田小学校のグランド付近を源流とした通称:木駄の原川という川(溝)で、寄合町の裏手から料亭花月の庭園内を走り中小島梅園付近の流れと合流。丸山交番横から柳小路へと抜け、銅座市場内で銅座川と合流する短い川(溝)で、現在ではすべてが暗渠となっています。しかしこの木駄の原川の構造は長崎特有のいわゆる「えご/江胡(エゴ)」で全面石張りとなっていて鹿解川のような構造となっています。実際、この川の目的は雨水の排水ほか遊郭の排水も兼ねていました。




C-60:思切橋跡(おもいきり-ばし-あと)
船大工町2-12(旧船大工町-本石灰町間)
思切橋は山ノ口を流れていた小さな溝(通称:木駄の原川)に架かる橋で、当初は名前などなく、思案橋で行こうか戻ろうか思案し、ここで思い切って花街へと繰り出す。あるいは花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどといわれるようになり、いつしか思切橋となったといわれています。江戸時代は木橋(板橋)で、明治初年頃、長崎県が木橋を再架橋し長崎区が改修した記録があり、明治20年(1887)石橋へ。そして明治41年(1908)鉄筋コンクリート橋となります。しかし昭和14年(1939)道路拡張で河川を暗渠化し、川沿いの商店と共に撤去され現在の形となりました。欄干の親柱のみ現存しています。




C-59:南座跡(みなみざ-あと)
本石灰町6-38(旧本石灰町)【リッチモンドホテル】
明治43年(1910)東M町(現 浜町)の町田元吉はこの地に町田観商場(百貨店のようなもの?)という店を開き新しい商法で商売を始め、その観商場の一部に満知多座(マチダザ)という寄席を開きます。大正4年(1915)今度は八百屋町の御厨勝一が満知多座を買収、三七三座(ミナミザ)と改称し営業を続け、大正9年(1920)株式会社南座とし大改修を行います。南座は190坪(約630平方メートル)、収容人数1931人の巨大劇場となり、長崎の正月は南座からといわれたほど次々に千両役者を揃えていました。しかし第二次大戦に入り廃業。その後は長崎寶塚(宝塚)劇場となり映画館として営業を始めます。平成17年(2005)映画館は廃業します。




思案橋市会のアーチ(しあんばしいちかい-のあーち)
思案橋市会は思案橋交差点から福砂屋前までの本石灰町通りの商店街のことで、昭和40年(1965)頃から通りの両側にアーチ(横断看板)を設置し賑わいを演出しています。現在のものは平成11年(1999)設置のもので、思案橋を渡り丸山に足を運んだであろう文人墨客や外国人などをイメージしたデザインになっています。また、道沿いに立つ17本の街路灯にも当時の文化人の形が施されていて、解説板では彼らの足跡を知ることができます。なお、街路灯の文化人は思案橋側から上野彦馬坂本龍馬高嶋秋帆岩崎弥太郎、松本良順、勝海舟、福澤諭吉大隈重信、ヘンドリック・ドーフ、シーボルトブロンホフ、グラバー、オルト、大浦慶タキ・イネ、江芸閣となっています。




C-58:料亭大鶴跡(りょうてい-おおづる-あと)
本石灰町6(旧本石灰町/矢柄町)【思案橋駐車場】
料亭大鶴の名物は、玄関に赤銅(シャクドウ)の鶴が2羽置かれ、1羽は空を眺め、もう1羽は地面の餌をつついていたといいます。また、非常に美しい庭園があったと伝えられていますが、第二次大戦中に廃業します。昭和22年(1947)カルルス荘(現 料亭橋本)を経営していた橋本ノブ氏によって「とらや旅館」に生まれ変わり、彫刻家の北村西望や漫画家の清水崑、松竹の創業者の大谷竹次郎らがたびたび宿泊していました。昭和30年代に廃業し現在は駐車場になっています。




C-57:嶋谷見立宅跡(しまや-けんりゅう-たくあと)
本石灰町(旧本石灰町)
嶋谷見立(慶長12:1607-元禄3:1690)は、名を市左衛門といい江戸時代始めの探検家で、幕府御用船の船頭や按針を勤めた長崎の船乗りでした。御朱印船での渡航経験があり、さらに南蛮天文航法も精通、延宝3年(1675)幕命によって無人島を探査し小笠原諸島の地図を作成。そして小笠原の動植物を採取し幕府に献上します。そしてその動植物などを幕府絵師である:狩野常信が写生し、現在「メグロ図(鳥)」「カチャン図(植物)」などが東京国立博物館に保管されています。また、嶋谷見立は思案橋の近くに住したと伝えられ、見立が御朱印船の渡航経験からシャム(現タイ)との関わりが考えられ唐船を購入、長崎に持ち込んだといわれています。その後、唐船は解体され解体材で橋となりこれをシャム橋と呼ぶようになります。いつしかこの言葉は訛り思案橋になったともいわれています。墓所:禅林寺後山。




C-56:思案橋のガス灯
本石灰町、丸山町、油屋町(旧本石灰町、油屋町)
昭和58年(1983)思案橋電停から正覚寺下電停までの約250メートルの間に28基(当初)のガス灯が設置されました。これは前年の長崎水害で犠牲となった方々への慰霊と世界平和を祈念したもので、長崎県と長崎市および地元商店街の手によって設置されました。そしてこのガス灯は第二次大戦後の日本では最初のガス灯といわれています。また、各灯の足元にはそれぞれガス灯にちなんだ歴史やガス灯を描いた小説の一説が敷石に刻まれていて、ガス灯を支える柱にはが施され、これは水害犠牲者の慰霊と世界祈念の珠をが守っているところを表現しています。




C-55:思案橋跡の碑(しあんばしあとの-ひ)
本石灰町、油屋町、浜町(旧本石灰町、鍛冶屋町)【思案橋交差点】
昭和42年(1968)キャバレー十二番館の専属バンドだった高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」を発表。すぐにミリオンセラーとなり、追って青江三奈の「長崎ブルース」などが次々とヒット、代は空前の長崎の歌ブームが起こり、歌詞に登場する思案橋の知名度は一躍全国区となります。しかし思案橋目当てに多くの観光客が訪れるもすでに暗渠化された後で姿かたちはなく、このためこれに応えようと昭和48年(1973)ライオンズ長崎中央クラブと長崎市が大正3年(1914)に架けられた鉄筋コンクリート橋の欄干と親柱をデザインして思案橋跡の碑を建立します。碑は全部で4基で交差点の角々に建ち、それぞれに「思案橋跡の碑」と書かれています。ちなみに親和銀行前の文字は当時の長崎市長:諸谷義武、その反対の丸山寄りには長崎県知事:佐藤勝也によって書かれています。
思案橋ブルース(作詞作曲:川原弘:長崎出身)
泣いているような長崎の街 雨に打たれてながれた ふたつの心は かえらないかえらない無情の雨よ ああ長崎思案橋ブルース




思案橋事件(しあんばし-じけん)
昭和24年(1949)長崎市都市整備緊急対策協議会が発足。第二次大戦後、各所に建つ不法建物を市街整備のために撤去し始めます。長崎駅前や湊公園などで大掛かりな強制撤去が行われるも、春雨通り(中央橋-思案橋間)では法廷闘争となり、撤去が行われたのは昭和34年(1959)でした。しかし、裁判は最高裁まで進み、最後は昭和45年(1970)国や市が和解金3000万円を支払うことで決着しました。俗に思案橋事件と呼ばれています。




C-54:浜崎/浜崎橋(はまさき/はまさきばし)
本石灰町(旧本石灰町)
江戸時代初め、現在の思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で、その先に長崎港に向かって砂洲が広がり、その砂洲を浜崎と呼んでいました。その後、浜崎は次第に埋め立てられ本石灰町の一部に属すようになり、現在の思案橋横丁の通りが生まれるのです。ちなみにこの浜崎という地名は今では使われなくなりましたが、浜崎の先端にあたる今の銅座市場入口と桃太呂ぶたまん店の間の橋を浜崎橋といいます。

ハモニカ横丁
思案橋横丁通りと電車通りの間に細い路地があります。この下は暗渠で銅座川が流れていて、この通りと電車通り側の商店は川の上に建っていることになります。細い路地とたくさんの間口のある店々がハーモニカのように見えるので俗にハモニカ横丁と呼ばれています。




C-53:思案橋/黒川橋跡(しあんばし/くろかわばし-あと)
寛永時代(1624〜)に入ると長崎の町も中島川東岸から玉帯川河口へと市街化が進み、鍛冶屋町や油屋町、本石灰町に本籠町といった街が開かれます。さらに寛永19年(1642)遊郭が集められ丸山が開かれると川口橋の意味合いが変わっていきます。一方、元和4年(1618)江戸に吉原が開かれ、吉原の遊郭入口に橋が架けられます。遊郭に向かう男の心情を表してか思案橋と命名。さらに新吉原遊郭の周りの溝を「お歯黒どぶ」と呼ぶところから川を黒川と称していました。そしてこれが転じてか、長崎丸山の遊郭入口の川口橋もいつしか思案橋または黒川橋と呼ぶようになったといわれ、橋は丸山の門前橋となり多くの登楼の人で賑わいを見せます。一方、長崎ならではの説として、当時、川口付近に屋敷を構えていた探検家の嶋谷市左衛門がシャム(現タイ)で購入した唐船を長崎に持ち込み、その解体材で橋を架けたのでシャム橋となり、後に訛って思案橋となったともいわれていますが定かではありません。
橋は土橋から木橋(板橋)、木橋に屋根のある木廊橋となり再び木橋へ、明治初年の火災で焼失。明治8年(1875)石橋となるも大正3年(1914)鉄筋コンクリート製となります。昭和30年代(1960)路面電車の延伸工事、道路拡張で暗渠化され思案橋は姿を消します。




C-52:川口橋跡(かわぐちばし-あと)
本石灰町、油屋町(旧本石灰町、鍛冶屋町)【思案橋】
文禄元年(1592)玉帯川の河口にあたる川口に橋が架けられ川口橋と名付けられます。当時、長崎は内町(県庁から市役所付近の初期の長崎市街)しかなかったためこの橋の利用は、蛍茶屋付近から伊良林を通り風頭山のふもとを抜け川口に入り、十善寺(現 館内地区)から大浦に向かうためのルートと考えられます。もちろん浜町や丸山などの賑わいがなかった時代です。当時、川口橋の構造は土橋(丸太などを渡して土をおおいかぶせたもの)でした。




C-51:川口(かわぐち)
本石灰町、油屋町(旧本石灰町、鍛冶屋町)
現在の思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で、川の入口ということで川口と呼ばれていました。江戸時代の中期になると市街地の拡大で次第に埋め立てられ深い入り江となり、明治初期には入り江は銅座川に変わります。第二次大戦後、バラックが立ち並ぶ西浜町-思案橋間の道路と路面電車を開通させるため銅座川の銅座(大正橋)-思案橋間を暗渠化しバラック住人らを移転させ(銅座市場の誕生)、この時から川の姿が無くなるのです。思案橋付近は今でも満潮のときは潮があがってきます。




C-50:本石灰町/今石灰町/新石灰町(もとしっくいまち/いま-/しん-)
現 本石灰町、油屋町、鍛冶屋町
江戸時代初め、中島川を中心に町が開かれていた頃、現在の思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で川口と呼ばれ貿易船の船着場になっていました。船着場には油屋町の近くということで石灰(シックイ)が荷揚げされ、石灰は主に油を綿実から精製する媒介に利用されていました。この荷揚げが行われていた海岸沿いが石灰町と呼ばれるようになり、さらに人口の増加に伴い油の需要が増え、同じように石灰も多く輸入されるようになると、新たに油屋町の隣りに石灰町が開かれます。当初の石灰町本石灰町とし、新たに開かれた町を今石灰町と命名。しかし寛文12年(1672)大改革より今石灰町は分割、通りの山側を今石灰町、川側が新石灰町と区別します。明治維新を受け、現應寺が八坂神社に変わりますが、これを期に明治4年(1871)今石灰町新石灰町は合併し八坂町とします。昭和41年(1966)八坂町は油屋町と鍛冶屋町などに吸収され消滅。石灰町本石灰町を残すのみとなりました。




C-49:矢柄町/矢柄の里(やから-まち/やからのさと)
本石灰町6の一部、丸山町8の一部(旧本石灰町)
矢柄とは川の中洲や河口に広がる背の高い雑草で、昔は弓矢の材料として使われていました。江戸時代、思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で正覚寺下の玉帯橋付近までその矢柄が生い茂り、川沿いの地域はいつの頃か矢柄町または矢柄の里と呼ばれるようになりました。昭和30年代(1960頃)の路面電車の延伸工事が行われるまでは川の流れを見ることができ、その時代までは矢柄町という呼称が使われていました。当時を知る人は旧料亭松亭の前に大きな岩があって、子供たちの滑り台として賑わっていたそうです。




C-48:阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)
丸山町8-1横(旧本石灰町/矢柄町)
祟福寺前から電車通りに突き当たったところに丸山に抜ける28段の階段があります。古賀十二郎先生著「丸山遊女と唐紅毛人(前編)」の中にも記述があるようにこの階段を阿蘭陀坂といいます。江戸時代、丸山遊女は出島阿蘭陀商館に出入を許されていた唯一の女性で、「阿蘭陀行き」と呼ばれていました。言伝えでは、その阿蘭陀商館行きの遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だり、当時、川(玉帯川)だった電車通りのところから小舟に乗って出島に向かっていたといわれています。この阿蘭陀商館に向かう「阿蘭陀行き」の遊女が通った坂というところから阿蘭陀坂と呼ばれるようになります。
一方、幕末の開国後、丸山の上手の小島(中小島公園付近)に西洋料理店の福屋ができ、居留地に住む多くのオランダ人(当時、外国人はすべてオランダ人と呼んでいた)が頻繁に福屋に通ったといわれています。このオランダ人が丸山の花街の中を通らず、この坂を通り福屋に向かったところからオランダ坂となったともいわれています。




C-47:一文字地蔵(いちもんじ-じぞう)
東小島町2-1(旧長崎村小島郷字下南/字尾崎)
明治から昭和初期にかけて一文字地蔵がある場所には一文字鉄工所という鍛冶屋があって、路地を挟んで正覚寺寄りには永田薪炭商があり、薪や炭を一文字鉄工所に納めてました。当時、正覚寺から先、小島方面は畑地しかなく鉄工所の規模や場所から見て農工具を作っていたものと考えられます。さらに昭和初期から昭和30年代(〜1960)までこの界隈は芸妓置屋が多く、お地蔵さまは芸妓たちの心の支えになっていました。言伝えによると、お地蔵さまを粗末にあしらった者は首が横に向いたまま戻らなくなるといわれています。




C-46:料亭菊本:杉本家墓所
(りょうていきくもと-すぎもとけ-ぼしょ)【正覚寺墓域】
料亭菊本は昭和11年(1936)丸山で芸妓置屋:菊の屋を経営していた杉本ワカが「菊」の字と「本」の字をとって開業した料亭で、当時は芥川龍之介の河童の屏風で有名でした。それは大正11年(1922)芥川龍之介の2度目の来崎のとき、まだ芸妓だった杉本ワカ(照菊)に描き与えたもので、屏風は永見徳太郎邸「銀の間」にあったものでした。屏風には河童の絵と「橋の上ゆ 胡瓜なぐれば水ひびき すなはち見ゆる河童の頭」と一首が書き添えてあります。料亭菊本は昭和42年(1967)廃業。屏風はそのとき市博物館に寄贈されます。




C-45:磯部橘郎墓所(いそべ-きつろう-ぼしょ)【正覚寺墓域】
磯辺橘郎(万延元:1860-昭和9:1934)は専修大学を卒業後、官界に進み、その後、実業界に転身します。そして幼い頃から相撲に興味を示していたこともあって東京大角力協会を指導。明治43年(1910)常陸山や梅ヶ谷など自ら力士を率いて満韓地方(旧満州〜朝鮮半島)へ巡業を行なったり、協会の紛争を解決させたりと多くの貢献を果たした人物です。なお、清水寺には彼を称えた磯辺橘郎頌徳碑が建っています。




C-44:福砂屋:殿村家墓所(ふくさや-とのむらけ-ぼしょ)【正覚寺墓域】
福砂屋は船大工町(通称:山ノ口)にあるカステラ専門店で「カステラの本家」といえば福砂屋といわれるほど有名な菓子商で、殿村家が代々店を受け継いでいます。創業は寛永元年(1624)とも宝暦2年(1752)とも記されていて当初は引地町(現 興善町付近)に店を構えていました。江戸時代中期、第6代目の頃、現在の船大工町に移ります。殿村家はこの正覚寺が菩提寺で、毎年行われている供養は正覚寺で行うことが常になっています。




C-43:中嶋名左衛門墓所(なかしま-なざえもん-ぼしょ)【正覚寺墓域】
中嶋名左衛門(文化14:1817-文久3:1863)は守山村(現 森山)庄屋:中村正令の三男として生まれ、名を喜勝、号を松堂といい、幼い頃から勉学に励み特に数学を得意としていて16才で長崎入りします。当時の長崎では町年寄の高嶋秋帆西洋砲術に着眼し、我が国の兵制(軍事)の改革を唱え、自費で西洋砲を購入した上、オランダ人の講師を招き砲術の研究を進めていた頃でした。名左衛門砲術に興味を抱き高嶋家の家来となり、高嶋秋帆と共に入り出島に入り砲術の講義を受けるのです。その後、名左衛門は町年寄:久松家の養子となり(これが秋帆事件の連座制を免れるきっかけとなる)、、高嶋秋帆の幽閉が解かれた後は幕府に登用され、砲術師範となり長崎の地役人をはじめ大村、小倉など各藩の藩士に砲術を教授します。文久3年(1863)長州藩主:毛利氏に招かれ萩に移り藩士に砲術を伝授、さらに山口に移り下関海岸の海防砲台などの建設に従事し馬関(バカン)砲台の設計などを行います。当時、長州藩は攘夷論に傾き米英仏蘭軍に抵抗しようとしていましたが、名左衛門は藩主に従い抵抗を避けるよう唱えます。しかしこれが反感を買い暗殺されました。翌元治元年(1864)下関は米英仏蘭軍の総攻撃を受け(下関戦争)、長州藩は多大な被害を受けるのです。名左衛門の墓所は正覚寺のほか、萩市光福寺と下関市妙蓮寺に分骨されています。




C-42:明治屋(浦川家)墓所【正覚寺墓域】
嘉永5年(1852)小島郷に住む明治屋九右衛門の妻(セキ)は100歳という長寿となり、当時の第105代長崎奉行牧志摩守義制から米10俵の褒賞を貰います。セキの出生は宝暦3年(1753)で、褒賞をもらった嘉永5年(1852)で亡くなりますが当時としては大変珍しいことで、墓碑には没年のほか出生年まで刻まれ、さらに墓碑の前には褒賞を頂いたことなどが刻まれた長寿の塔が立っています。なお、夫である明治屋九右衛門は73歳で亡くなっています。
墓碑「宝暦三年出生 嘉永五年 満壽正百歳卒
長寿の塔「右者長寿ニ付御手当米十俵被・・大和守殿被仰渡・・牧志摩守殿被




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16