広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-293:豪商:澤山邸跡
南山手町1-18【ホテルグラバーヒル】
ベル・ビューホテルは明治39年(1906)に廃業しますが、その後(昭和初年?)その跡地は、海運業で財を成した澤山精八郎またはその一族の所有となり、広大な敷地には立派な屋敷が建っていたといいます。昭和41年(1966)長崎国際観光センター:異人館となり、昭和49年(1974)長崎東急ホテル、そして平成13年(2001)からは長崎全日空ホテルグラバーヒルとなります。C-250:2006-05/28




C-292:長崎電信創業の地
南山手町1-18【ホテルグラバーヒル】
明治3年(1870)長崎に長崎伝信局(のちの長崎電信局)が設けら、電報局開局の準備が始まります。翌4年(1871)長崎-東京間の電信線工事(電線架設工事)が始まり、明治6年(1873)電信回線が開通。これを期に長崎電信局をベルビューホテル内の大北電信会社長崎支局に置き、電報の受付けを開始します。これは九州初の電信局の開局でした。明治8年(1875)大北電信会社の梅香崎町移転で長崎電信局も同所に移転します。




C-291:国際電信発祥の地
南山手町1-18【ホテルグラバーヒル】
明治2年(1869)デンマークの大北電信会社はアジアのロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底ケーブル敷設権を取得。翌3年(1870)ベルビューホテルの一室に大北電信会社長崎支局を設け、長崎における拠点とします。そして同年、明治政府から長崎-上海間、ウラジオストック-長崎間、長崎-横浜間の海底ケーブルの敷設の許可を得、明治4年(1871)長崎-上海間、長崎-ウラジオストック間の海底ケーブルが完成、直ちに海外との通信を始めます。そしてこれがわが国初の国際電信業務となります。C-204:2006-04/03参照




C-290:ベル・ビューホテル跡
南山手町1-18【ホテルグラバーヒル】
明治3年(1870)1月、大浦町に日本初のホテル:バンク・エクスチェーンジ・ホテルが開業。そして同年、少し遅れてベル・ビューホテルが開業します。ホテルの一室はデンマークの大北電信会社長崎支店が使用し、明治4年(1871)から明治8年(1875)まで、長崎-上海間、長崎-ウラジオストック間の国際通信業務が行われます。しかしホテル経営は明治中期をピークに衰退し、日露戦争後は外国の商社などが姿を消したため明治39年(1906)ホテルはついに廃業となります。C-218:2006-04/20参照




C-289:南山手居留地跡の碑(みなみやまて-きょりゅうちあと-のひ)
南山手町1-18【ホテルグラバーヒル内】
安政4年(1857)幕府は開国を予想して、当時、大村領(藩)だった戸町村を古賀村(現 古賀町,松原町など)と交換し公領とし、安政6年(1859)2月。南瀬崎から大浦、下がり松までの埋立造成を許可し、工事を始めます。そして同年5月。日本は開国し、翌年の万延元年(1860)第1次外国人居留地造成工事として南瀬崎から大浦地区、翌年、第2次として下り松の南山手地区が完成します。そして造成された居留地は完成前に設けられていた地所規制によって外国人に公売(永代貸与契約)され、以降、昭和初期まで南山手居留地は住宅から商店に至るまで外国人街として発展します。C-220:2006-04/22参照




長崎市須加五々道美術館(-すが-ごごどう-びじゅつかん)
須加五々道(大正2:1913- )は長崎市出身の日本画家で、早い時期からヨーロッパや中国を歴訪し独自の絵画芸術を確立。水墨画と西洋美術とを融合した新日本画の世界を切り開いた人物でもあります。現在は横浜を拠点に後進の育成に力を注ぎ、平成14年(2002)からは南山手乙9番館長崎市須加五々道美術館として作品の紹介がなされています。




C-288:南山手乙9番館(みなみやまて-おつ9ばんかん)
南山手町3-17(旧 戸町村大浦郷/南山手町乙9番)
南山手乙9番館は明治時代中期に建てられた洋風住宅(寄棟造桟瓦葺)で、当時、下り松町41番地(南山手町3-8付近)で長崎港に入港した艦船などに薪や水を提供したり、港湾労務者などの斡旋を行っていたロシア人のG・ナパルコフによって建てられたものです。平成4,5年(1992-3)老朽化のため半解体修理を実施。その後、版画家:田川憲版画展示室として利用され、平成14年(2002)からは須加五々道美術館として活用されています。




C-287:「ボウリング発祥の地」の碑
松が枝町4-5(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
安政6年(1859)幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。そして彼らの娯楽施設として文久元年(1861)大浦町インターナショナル・ボウリングサロンが開場し、これはわが国におけるボウリングの発祥といわれています。
この碑は平成2年(1990)社団法人日本ボウリング場協会によって建立されました。
○「ボーリング日本発祥地」の碑
「ボーリング日本発祥地」の碑は昭和57年(1982)に東栄南事務所によって建立されたもので、南山手町の大浦天主堂入口付近に設置されています。
※なお、あくまでも正確な発祥の地は大浦町です。




ちゃんぽん発祥:四海楼(しかいろう)
松が枝町4-5(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
福建省福州出身の陳平順(明治6:1873-昭和14:1939)は明治25年(1892)来崎。行商をして資金を貯め、明治32年(1899)中国人居留地であった広馬場町に中華料理店の四海楼を開業します。当時、陳は中国からの留学生の食生活の悪さに憂い、安価で栄養の取れるメニューの「ちゃんぽん」を考案。これが後に中華街全域に広まり、さらに長崎の代表的な食べ物になります。なお、店舗は昭和48年(1973)松が枝町に移転します。平成12年(2000)には店舗を新築し、ちゃんぽんミュージアムをオープンさせます。2006-02/21参照




英仏水兵乱闘事件(えい-ふつ-すいへいらんとう-じけん)
松が枝町(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
明治34年(1901)4月。イギリスの軍艦の「ボンフラー号」が長崎港に入港。このときすでにフランスの軍艦も入港していました。互いの船員ともに上陸を済ませ、おいおい下り松の外国人酒場に向かいます。発端はフランス人水兵で、鉢合わせとなった酒場の出口でイギリス人水兵のヘンリー・スネルを仕込み杖で殺害。一方、仲間を殺害されたイギリス人水兵は、けんかを始めフランス人水兵のリアンダ・ブルックスに切りつけ、数日後に死亡させるのです。このほかイギリス人1人、フランス人3人の重傷者を出し、ドイツ人ウィルヘルム・ゲイボールトも犠牲となっています。なお、3人は現在、坂本外国人墓地に埋葬されています。




C-286:英国領事館跡(えいこくりょうじかん-あと)
松が枝町(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。同5月、大浦郷の妙行寺(現 相生町9-8)内に英国仮領事館が設置され、英国軍艦サンプストン号で来崎したホッジスンが初代領事として就任します。その後、領事館は一時的でしたが、東山手9番地に移転。文久3年(1863)居留地造成が整った下り松に移り、さらに明治41年(1908)常盤町(現 大浦町:野口弥太郎記念館)へ移転し、昭和16年(1941)まで続きます。C-214:2006-04/14 C-244:2006-05/22参照




C-285:梅香崎警察署/大浦警察署跡
松が枝町4-27(旧 戸町村大浦郷/下り松町)【旧香港上海銀行】
江戸時代末期に長崎を警護する目的で結成された遊撃隊(のち振遠隊)は、明治5年(1872)兵制が整ったため解散され邏卒(ラソツ=巡査)制度となり、羅卒屯集所を外浦町、西濱町鐡橋際、下り松町に置きます。明治7年(1874)に本署として長崎警察局を本大工町(現 魚の町の一部)に設置し、分室を八百屋町と新地町に置きます。明治8年(1875)長崎警察局は外浦町に移転。八百屋町の屯所は第一警察出張所となり、新地屯所を第二警察出張所とします。明治11年(1878)新地分署、明治12年(1879)新地警察署となり、明治17年(1884)梅ヶ崎町(現 出島トンネル付近)に移転、梅香崎警察署となります。昭和15年(1940)旧香港上海銀行長崎支店社屋に移転、昭和29年(1954)大浦警察署と改称。昭和49年(1974)松が枝町に移転。昭和53〜63年(1978〜1988)まで長崎市歴史民族資料館となり、その後、改修され、平成8年(1996)から長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館として開館します。参照C-201:2006/03/31




C-284:香港上海銀行跡(ほんこんしゃんはいぎんこう-あと)
松が枝町4-27(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
香港上海銀行(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation 略称:HSBC)は、イギリスロンドンに拠点を構える世界最大級の銀行で、開設当時(1865年:慶応元)は香港に拠点があり、日本では慶応2年(1866)横浜に日本支店が開設されました。日本における香港上海銀行の位置付けは国際金融の模範銀行としての業務で、長崎では明治29年(1896)長崎支店が開設します。明治37年(1904)建築家の下田菊太郎(現 国会議事堂のデザインを変更させたことで有名)によって現存の建物が建てられ、これが長崎最大級の洋館となります。昭和6年(1931)長崎貿易が横浜や神戸に奪われ銀行業務も低迷し、ついに長崎支店は閉鎖となります。
国重要文化財。




C-283:長崎税関下り松派出所跡
松が枝町4-33(旧 戸町村大浦郷/下り松町)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、6月には外交や貿易に関する事務取扱いの役所として長崎会所の一機関の湊会所を、東築町の俵物役所内に設置します。湊会所はその後、大浦番所跡(現 東山手町2/切通し)に移転。翌万延元年(1860)大浦海岸の造成のため一旦、俵物役所に戻ります。文久3年(1863)運上所と改称し、慶応2年(1866)埋立てが完了した梅ヶ崎町に庁舎を設け、出先機関として、梅ヶ崎、下り松、出島の3ヶ所に荷改所と船番所6ヶ所を備えます。そのとき設置されたのが下り松派出所で、明治31年(1989)現存の煉瓦造平屋建の庁舎が造られました。現在は長崎市べっ甲工芸館として利用されています。国指定重要文化財。
C-208:2006/04/08参照




松ヶ枝橋(まつがえばし)
慶応3年(1867)第123代長崎奉行能勢大隅守頼之は出島から波之平にかけて、外国人のための遊歩道を計画。炉粕町の伊太郎に請負わせ工事を始めます。しかし明治維新によって工事は頓挫し、工事は明治政府に引き継がれることになります。そして明治2年(1869)に出島-築町間の出島新橋、新地-梅ヶ崎町間の梅香崎橋が完成(それぞれ木造)。翌3年(1870)に同じく木造の松ヶ枝橋が完成し、出島〜築町〜新地〜梅が崎〜大浦〜松ヶ枝のルートが誕生します。今でいう臨港道路です。松ヶ枝橋は当初、下り松橋と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となります。なお、鉄橋時代の橋脚が現在の橋の東側に一部残っています。C-200:2006-03/30参照




C-282:弁財天跡/弁天岬跡(べんざいてん/べんてんみさき-あと)
南山手町1-18(旧 戸町村大浦郷)【全日空グラバーヒルホテル】
元禄4年(1691)、当時、大浦は大村藩領で、時の藩主:大村純長は村の安全と武運長久を祈念し道栄ヶ浜に弁財天を勧請します。弁財天は漁業の神ということもあり大浦の漁民に厚い信仰を受け、道栄ヶ浜/道栄ヶ崎を弁天岬と呼び、大浦の弁天様と親しまれていました。安政6年(1859)大浦一帯は外国人居留地の造成工事によって住民は浪之平に移転させられ、あわせて弁財天も現在の東琴平に移されます。それが現在の金刀比羅神社です。なお、大浦川にかかる弁天橋は、道栄ヶ浜にあった弁財天に由来し命名されました。




○唐通事:林道栄(とうつうじ:りん-どうえい)
林道栄(寛永17:1640-宝永5:1708)は、名を市兵衛、諱を応ァ(オウサイ)、字を欵雲(カンウン)、号を墨癡(ボクチ)、蘿山(ラザン)、それに官梅といいます。父は中国福建省福清出身の林公琰(リン-コウエン)で、公琰を祖とした唐通事の名家:林家はこの家系ということになります。
道栄公琰のあとを継ぎ、唐通事として活躍するも書や詩文を得意とし、唐僧の隠元や即非にも近く、さらには詩文が大村藩主にも喜ばれ、大浦(雄浦)を賜ることになります。さらに延宝6年(1678)第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登(カツナリ)によって官梅の号を賜ります。墓所:晧台寺後山B−72:2004-9/19




C-281:道栄ヶ浜(どうえいがはま)
南山手町1-18(旧 戸町村大浦郷)【全日空グラバーヒルホテル】
江戸時代、大浦は大村藩の領地でしたが、元禄年間(1688-1704)長崎の唐大通事である林道栄は、時の大村藩領主:大村純長から詩文の素晴しさに大浦の一部を賜り別荘を作ります。別荘の場所は海岸に面し、当時は老松が崖より垂れ下がり小船が往来するという景勝地でした。後にこの海岸は林道栄にちなみ道栄ヶ浜と呼ぶようになり、松の姿から下り松とも呼ばれ、下り松海岸とも呼ばれます。A-227:2004-02/22参照




椎の木町/南町/南が丘町/高丘1〜2丁目/八景町/星取町の由来
椎の木町は中心に流れている椎の木川に由来したもの。
南町南が丘町はともに、長崎県立南高等学校(通称:南高)に隣接している地域で、南高のそばを南町、南高の上手を南が丘町と命名します。
高丘は、もともとの地名が小島郷字高僧都(アザ-コウソウズ)といい、僧都が丘とも呼ばれていたところから高丘の名前が出来ました。C-15:2005-5/24参照
八景町は唐八景のふもとの地域ということと、町域に唐八景の上り口があるところから八景町となります。
星取町は町域にある星取山に由来したものです。




元町/下町/東町/東山町/日の出町/相生町/上田町/川上町/出雲1〜3丁目の由来
昭和48-9年(1973-4)の町界町名変更で誕生した上記の町は、基本的に旧町名にあった「大浦○○町」の“大浦”がはずされ、元町/下町/東町/東山町/日の出町/相生町/上田町/川上町/出雲1〜3丁目の各町となりますが、大浦日之出町は日の出町となり、大浦出雲町は町域が広いため出雲1〜3丁目となります。




C-280:元町/下町/東町/東山町/日の出町/相生町/上田町/川上町
出雲1〜3丁目/椎の木町/南町/南が丘町/
高丘1〜2丁目/八景町/星取町

大正2年(1913)から使われていた大浦下町、大浦東町、大浦東山町、大浦日之出町、大浦相生町、大浦上田町、大浦川上町、大浦出雲町、大浦元町の各町は、住居表示との関係で昭和48-9年(1973-4)の町界町名変更で再編され、現在の、元町、下町、東町、東山町、日の出町、相生町、上田町、出雲1〜3丁目、川上町、椎の木町、南町、南が丘町、高丘1〜2丁目、八景町、星取町が誕生します。




○戸町村大浦郷の町名の由来A
下記の地域は、大正2年(1913)から昭和48-9年(1973-4)まで使われていた旧大浦地区(大浦郷)の町名ですが、由来が不明です。
大浦日之出町(現 日の出町)は、旧大浦郷の中心である石橋付近から日の昇る方角ということで命名した?
大浦相生町(現 相生町)は江戸時代、海岸沿いの地域で下り松など松林があったところから「相生の松」から縁起を担ぎ命名した?
大浦上田町(現 上田町)は、旧地名が大浦郷字田町で、田町の上手という意味?
大浦出雲町(現 出雲)は、町域に出雲神社があるところから命名した?
大浦元町は(現 元町)は、町域に「どんの山」があり、その昔、午砲により時間を知らせていたところから、時間の元となる地という意味から命名した?




旧大浦地区(大浦郷)の町名の由来@
大正2年(1913)から昭和48-9年(1973-4)まで使われていた旧大浦地区(大浦郷)の町名の由来は次の通りです。
大浦下町(現 下町)は、旧大浦郷の下の方の地域ということで命名されました。
大浦東町(現 東町)は、旧大浦郷の中心である石橋付近から東の方角の地域ということで命名されました。
大浦東山町(現 東山町)は、旧大浦郷の中心である石橋付近から東の方角の山手地域ということで命名されました。
大浦川上町(現 川上町)は、旧大浦郷の中央を流れる大浦川の上流部から命名されました。




C-279:大浦元町、大浦下町、大浦東町、大浦東山町、大浦日之出町、大浦相生町、大浦上田町、大浦出雲町、大浦川上町
江戸時代、大浦は戸町村に属し大村藩の支配下で戸町村大浦郷と呼び、安政4年(1857)に公領(天領)となった後は居留地造成が行われ、明治22年(1889)市制施行時、居留地部のみが長崎市に組み込まれ、遅れて明治31年(1898)戸町村の大浦郷浪之平郷が長崎市に編入します。その後、大正2年(1913)長崎市大浦郷は郷名が廃され、地区ごとに町名が付けられます。このとき付けられた町名が、大浦元町、大浦下町、大浦東町、大浦東山町、大浦日之出町、大浦相生町、大浦上田町、大浦出雲町、大浦川上町の9町で昭和48-9年(1973-4)まで使われていました。
※読み方は「おおうら○○○-まち」と読みます。




大浦町、常盤町、東山手町、梅香崎町、松が枝町、南山手町
文久3年(1863)に誕生した、旧 大浦町、旧 常盤町、旧 東山手町、旧 南山手町、松ヶ枝町、梅ヶ崎町の各町は昭和48年(1973)町界町名変更が実施され、あわせて松ヶ枝町は松が枝町、梅ヶ崎町は梅香崎町と文字が変えられ現在の町域町名となります。近年ではこの地域のことを居留地地域と呼び、長崎を代表する観光名所が多く立ち並んでいるため、連日、多くの観光客で賑わっています。




下り松町松ヶ枝町(さがりまつまち-まつがえまち) 現 松が枝町
文久3年(1863)居留地造成工事によって大浦川左岸平地部(現 石橋電停〜四海楼付近)が整備され下り松町と命名されますが、縁起が悪いとの理由で明治11年(1878)には松ヶ枝町と改称されます。江戸時代、もともとこの付近の海岸沿いに数本の松の木があって、老木の枝が水面に伸びている様子から付近を下り松と呼び、特に四海楼付近を下り松海岸と呼んでいました。そのため当時、松ヶ枝町にあった長崎税関の派出所を下り松出張所(現 べっ甲資料館)と呼んでいました。




C-278:旧 大浦町、旧 常盤町、旧 東山手町、
旧 南山手町、
下り松町、梅ヶ崎町
現 大浦町、常盤町、東山手町、梅香崎町、松が枝町、南山手町
万延元年(1860)の第1次外国人居留地工事の完成から第2次第3次と造成が進み、ようやく文久3年(1863)にすべての工事が完了します。そしてこの年に町名が整備され、大浦川の右岸(東側)平地部を大浦町、海岸部を常盤町、高台部を東山手町とし、常盤崎(梅ヶ崎)の北側:活水学院下側付近を梅ヶ崎町と名付け、大浦川の左岸(南側)平地部を下り松町、高台部を南山手町と命名します。このとき町名とあわせ地番もふられ建物の番号となり、現在「○○番館」と呼ばれる建物は、そのときの地番に由来するものです。




C-277:大浦(おおうら)
東山手町、南山手町、大浦町ほか(旧 大村領戸町村)
大浦は文字通り大きく拡がった湾をいい、江戸時代は大浦川河口から放射状に拡がった入り江で、範囲は現在の石橋電停から、北はホテルニュータンダ付近、南は全日空グラバーヒルホテル付近を結ぶエリアを指します。当時の大浦は「雄浦」とも書き、もともと80軒ほどの小さな漁村で、石橋電停付近を網場といい、海星学園付近の小高い丘を網場山、そこから孔子廟付近に拡がる丘陵を網場平と呼んでいました。しかしそれが安政4年(1857)幕府は開国を予想して、大村領(藩)戸町村と古賀村(現 古賀町,松原町など)を交換し公領とし外国人居留地へと姿を変えるのです。
C-228:2006-5/03参照




C-276:雄浦(おうら)
雄浦は現在の大浦の別名で、江戸時代など天草や五島からの船で賑わっていた頃は大浦舟津とも呼ばれていました。江戸時代後期に書かれた長崎名称図絵には「木々の生茂った崖が、入海を挟んでおり、漁家数十戸がある。雄浦欵乃と題し長崎十二景の一つである」とあります。欵乃(カンナイ)は船歌の意。C-228:2006-5/03参照




C-275:グラバースカイロード(斜行エレベーター)
上田町8-相生町17(旧 大浦相生町/戸町村大浦郷)
グラバースカイロードとは、斜面地の輸送手段として建設されたエレベーターのことで、正式には長崎市道相生町上田町2号線と呼ばれる道路と位置付けられています。この地域は長崎特有の斜面地で交通手段がないため過疎化が進み、そのため長崎市が総事業費3億2000万円をかけて平成15年(2003)に完成させました。完成後は地域の足として使用する以外に、グラバー園の第2ゲートとしての役割も担っています。




大浦展望公園
相生町16(旧 大浦相生町/戸町村大浦郷)
大浦展望公園は付近にある南山手レストハウスなどとの整備で設置された公園で、以前までは徒歩でしか向かうことができず、上り口の上田町石橋電停側には「体力作り坂223段(地獄坂)」とあって人のあまり訪れない公園でした。しかし現在ではグラバースカイロード(斜行エレベーター)のおかげで容易に行くことができるため観光客が増え、東山手やどんの山の風景に長崎の斜面地住宅のすごさを痛感することができます。




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