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C-274:長崎報時観測所跡(ほうじかんそくじょ-あと) 南山手町7(旧 戸町村大浦郷)【鍋冠山中腹グラバー園付近】 長崎報時観測所は標準時を知らせる機関で、明治44年(1911)鍋冠山中腹に設置され、翌年から事業を開始。大正4年(1915)からは気象警報や天気予報も発表し、天体観測も行っていました。午後12時には赤い玉を落球させ長崎港内の船舶に正確な時刻を伝え、あわせて電鈴(ベル)によって長崎測候所に正時を伝え、午砲に利用していました。報時は夜間も行われ午後9時には発火信号による通知でした。C-161:2006-1/26参照 |
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○白石稲荷神社(しらいし-いなりじんじゃ) 出雲2-117(旧 戸町村大浦郷)【鍋冠山中腹】 白石稲荷神社の創建は分かりませんが、稲荷神を祭神とした神社です。 ○聖徳院跡(しょうとくいん-あと) 白石稲荷神社の北隣にある六角形の塔は聖徳院(六角塔)と呼ばれ、建立は大正12年(1923)と記してあります。ここはいわゆる新興宗教的な施設で、特徴として塔の六方向の面に「民」という文字が記されています。 |
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○鍋冠山不動尊(なべかんむりやま-ふどうそん) 鍋冠山山頂西側(長崎港側)には切り立った岩が続き、その岩の合間に多くの石像があって、その岩の中に不動明王像が立っています。これを鍋冠山不動尊といい建立年月日は分かりませんが、信仰の跡を見ることができます。現在は木々で覆われてふもとより山頂を望むことができませんが、以前までは「屹立(キツリツ)する石」と山頂を表現するぐらい、岩が高くそびえ立った山でした。 |
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○鍋冠山の別名 長崎市史によると、鍋冠山は別名、覆釜山、覆鍋嶺、蒙山(キヌカケヤマ)、鎮鼎山(チンテイザン)ともいい、江戸時代などは景勝地にもかかわらず山に登る者は少なかったといいます。さらに、明治12年(1879)当時の内務省地理局測量課が長崎における経緯度測量を実施した地点が鍋冠山で、長崎の基点ともなった山といわれ、山麓にはその基準点遺構が残っているといわれています(所在不明)。 |
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C-273:鍋冠山(なべかんむりやま) 出雲、戸町2、東琴平、小菅町(旧 戸町村大浦郷) 鍋冠山はグラバー園の後方にそびえる標高169.2メートルの山で、山頂には展望台と児童公園が設置され市民の憩いの場となっています。ちょうど港をはさんで稲佐山と向かい合う形で、眼下に拡がる長崎港の風景と女神大橋などの眺めの良さは有名です。 鍋冠山の由来は、東山手町にある冠鍋山誠孝院と関係が深く、江戸時代に山のふもとで日親上人(通称:鍋冠日親)の石像が発見したことによります。このほか山の形が鍋蓋を逆さにかぶせたように見えるところから、鍋冠山と呼ばれるようになったともいわれています。C-251:2006-5/29参照 |
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C-272:長崎西国三十三観音霊場 長崎西国三十三観音霊場とは、関西を中心とした西国三十三観音霊場に由来したもので、長崎市内にある観音堂33ヶ所をお巡りするものです。お巡りは春と秋の2回行われ3月と9月の17-18日の二日間でお巡りします。 ○第四番霊場:戸町2-177-2(旧 戸町村大浦郷) ○第五番霊場:出雲2-150-26 (旧 大浦出雲町/戸町村大浦郷)【二本松観音堂】 二本松には二つの霊場があって、ともに千手観音がお祀りされています。 |
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C-271:二本松神社(にほんまつ-じんじゃ) 戸町2(旧 戸町村大浦郷) 二本松神社のあるところは江戸時代の御崎道沿いに当り、神社付近を戸町峠といいます。また、以前までは付近に二本の松の木が立っていたところから二本松とも呼ばれ、神社の名称もそこからついたものと思われます。二本松神社の祭神は稲荷神と白旗大明神で、白旗は源氏の旗印を意味し、特に唐八景の準提観音や長崎港港外の伊王島などに、源氏方の俊寛僧都の伝説があることからなんらかの関係があるのではないでしょうか。 |
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C-270:長崎四国八十八ヶ所霊場 @第四十四番霊場:真言宗大師院弘仁寺(出雲1-16-10) A第八十四番霊場:橋本不動堂(出雲1-17-23) 出雲地区には現在、2ヶ所の長崎四国八十八ヶ所霊場があって、大師院弘仁寺と橋本不動堂(創建:明治期)が札所に定められています。 この長崎四国八十八ヶ所霊場は、当初、大正初期(1915頃)に開かれたものですが第2次大戦で途絶え、昭和28年(1953)延命寺第22世住職:堤祐演が、改めて長崎近郊に八十八の霊場(お堂)を開いたことに始まります。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。 |
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○出雲町天満宮由緒碑【出雲神社境内】 出雲町天満宮由緒碑は出雲神社の由緒が刻まれたもので大正12年(1923)に建立されました。以下にその概要を記します。 「祭神の天満宮は、300年前の寛永時代、徳川家光公を崇敬しキリスト教を撲滅するために建てられたもので、菅原道真公が書かれた“綱敷天神”の軸と、比叡山から足利尊氏に贈られた軸を下筑後町の有志が賜り、明治期以降は所在が定まらなかったが、明治29年(1896)ようやく出雲町に鎮座することになった。この碑の建立は由緒周知のためである」 |
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C-269:出雲神社(いずもじんじゃ) 出雲1-14(旧 大浦出雲町/戸町村大浦郷字真篠尾) 寛永3年(1626)長崎入りしていた高野山(現 和歌山県)の僧:宥道(ユウドウ)は、時の第5代長崎奉行水野河内守守信の命を受け、下筑後町(現 玉園町)に體性寺(タイセイジ=体性寺/躰性寺)を建立し、不動明王と菅原道真公を祭神とします。当初は島原の乱の祈祷所であったり、ポルトガル船や後には唐船の航海安全祈願などが行われていましたが、明治維新後に廃寺となり天満宮として神社となります。その後、維持が困難となり信者の伝(ツテ)で現在の出雲町に明治29年(1896)移転し、現在では出雲地区の鎮守神としてお祀りされています。 |
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○出雲町遊廓フランス水兵騒擾(-ふらんすすいへい-そうじょう) 出雲町遊廓は明治24年(1891)頃から次第に形づくられますが、明治28年(1895)出雲町で長崎を震かんさせる事件が起こります。それは長崎に入港していたフランス軍艦の乗組員2人が出雲町遊廓で乱暴を行い、梅香崎警察署員によって出雲町派出所に連行したことに始まります。連行されたことに不満を持った他のフランス水兵約400人が集結し暴動を始め、これにより警官6名と市民の多くが巻き添えで負傷を追いました。 |
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C-268:出雲町遊廓跡(いずもまち-ゆうかく-あと) 出雲1-1,2,8,9、2-1,10(旧 大浦出雲町/戸町村大浦郷) 文久年間(1861-1864)外国人居留地造成のため、大浦郷の漁民らは埋立てが行われた浪之平付近に移住させられ浪の平町を形成し、さらには浪之平付近はもともと和船の停泊地であったことから、自然発生的に遊廓が誕生します。俗に浪之平遊廓といいます。しかし明治24年(1891)頃には貸座敷が14軒、遊女も70名を数え、当局などは外国人居留地の近くということもあって風紀上治安上の懸念が起こり、さらには将来の工業地帯建設の計画などから遊廓の移転することになり、適地として出雲町が選ばれるのです。出雲町遊廓は大正13年(1924)貸座敷15軒、遊女158人、大正14年(1925)貸座敷15軒、遊女180人を数え、さらには検番も置かれ19人の芸妓が在籍。第二次大戦後も賑わいを残すも昭和33年(1958)売春禁止法の施行によって廃止されます。 |
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C-268:出雲町遊廓跡(いずもまち-ゆうかく-あと) 出雲1-1,2,8,9、2-1,10(旧 大浦出雲町/戸町村大浦郷) 文久年間(1861-1864)外国人居留地造成のため、大浦郷の漁民らは埋立てが行われた浪之平付近に移住させられ浪の平町を形成し、さらには浪之平付近はもともと和船の停泊地であったことから、自然発生的に遊廓が誕生します。俗に浪之平遊廓といいます。しかし明治24年(1891)頃には貸座敷が14軒、遊女も70名を数え、当局などは外国人居留地の近くということもあって風紀上治安上の懸念が起こり、さらには将来の工業地帯建設の計画などから遊廓の移転することになり、適地として出雲町が選ばれるのです。出雲町遊廓は大正13年(1924)貸座敷15軒、遊女158人、大正14年(1925)貸座敷15軒、遊女180人を数え、第二次大戦後も賑わいを残すも昭和33年(1958)売春禁止法の施行によって廃止されます。 |
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〇飲旅泉と轆轤坂(いんりょせん-ろくろざか) 江戸時代後期に書かれた長崎名称図絵によると、その昔、大浦中学校付近に日照りでもかれないという泉があって、この付近を治めていた豪族:戸屋氏と水本氏の兵が泉を堰き止め飲用としていたところから飲旅泉と呼ばれていました(旅とは軍隊の意)。 一方、同じ長崎名称図絵に「唐船石の後から摩嶁丘(マルオ)の東に出て、そこが轆轤坂である」とあって、摩嶁丘は丸尾神社付近を指すものと考えれば、轆轤坂は大浦中学校の南部(グランド)付近と考えられます。また、轆轤坂は別名を六部坂とも呼ぶので、巡礼の六部にも関係あるのではないでしょうか。 |
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C-267:丸尾神社(まるおじんじゃ) 椎の木町14(旧 大浦元町/戸町村大浦郷) この神社がある付近は起伏が激しく、ちょうど神社付近が尾っぽのように丸くせり出ている様子から丸尾という地名が誕生したものと考えられます。また、丸尾神社の創建は定かではありませんが、祭神は稲荷神で、鳥居に明治20年(1887)と刻されているところから、そのころに創建されたものと考えられます。また、創建後の大正9年(1920)に再建られ、境内に小さな祠が点在しているところから当時の厚い信仰の様子が伺えます。 〇御大典記念碑:昭和天皇即位記念に昭和3年(1928)に建立。 |
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C-266:うなぎの神様 日の出町15(旧 大浦日の出町/戸町村大浦郷) 明治の始め頃、この付近の川には大鰻が生息していて多くの見物客で賑わい、芸者衆などを引き連れ宴を催す者もいたといいます。明治26年(1893)川沿いに大守水神宮がお祀りされるようになり、あわせて付近の地蔵尊もお祀りされました。この地蔵尊ですが、石像で彫られ地蔵尊の周りを鰻が取り囲んでいる珍しい地蔵尊で、一旦は昭和6年(1931)頃の水害によって流失し破損しますが、その後引き上げられ、首なしの状態となっていますが、今でも鰻の尻尾を見ることができます。そしてこのお社を付近ではうなぎの神様と呼び厚い信仰で守られています。 〇江越水神宮 明治35年(1902)の勧請で当時は川沿いにあったのですが、道路拡張でうなぎの神様と同じ場所にお祀りされています。 |
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C-265:出雲浄水場跡(いずもじょうすいじょう-あと) 出雲1-4(旧 大浦出雲町/戸町村大浦郷) 大正15年(1926)第2回水道拡張事業として上戸町:鹿ノ尾川上流部に小ヶ倉水源地が完成。あわせて浄水施設である出雲浄水場も造られます。これは小ヶ倉水源地に溜められた水をトンネルによって出雲浄水場に送水し浄水され、旧長崎市南部地区に配水する仕組みで、当時としては長崎市最大で、給水人口約27万人、一日当り約3万トンを給水していました。昭和62年(1987)小ヶ倉水源地内に浄水場が完成すると出雲町浄水場は廃止。しかしトンネルは現在でも送水用として活躍しています。 |
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C-264:大浦外国人(国際)墓地(おおうら-がいこくじん/こくさい-ぼち) 川上町5(旧 大浦川上町/戸町村大浦郷字山仁田) 江戸鎖国時代、来日した外国人(唐人を除く)で長崎で死亡した外国人は、稲佐にある悟真寺後山に土地が割り当てられ埋葬されていましたが、幕末、居留地が大浦に開かれた後は大浦地区に墓地を開くようイギリス領事が幕府に要請。文久元年(1861)幕府はイギリス人に対し大浦郷の一区画を貸与します。その後、露、仏、蘭、米の各国にも許可が下り埋葬が始まり、明治17年(1884)には埋葬者の増加で墓域の拡大が行われ現在の範囲となります。しかし明治21年(1888)付近住民の衛生面の問題から閉鎖されることになり、新たに開かれたのが坂本外国人墓地ということになります。なお、大浦外国人墓地の埋葬者の多くは船員が多く、主な原因として航海中や長崎停泊中に病死や事故によるもので、伝染病死者は竹の久保特別墓地に葬られていました。 |
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C-263:交通安全像(こうつうあんぜんぞう) 川上町4(旧 大浦川上町/戸町村大浦郷) 碑文を読むと、昭和37年(1962)8月。この付近に住んでいた橋田佳代子さん(当時5才)が、この付近で交通事故に遭い一瞬にして命を落としたとあります。当時は高度成長期で都市交通としての自動車が激増、全国で交通死亡事故が問題になっていた時期でした。そして同年3月、長崎市は交通安全都市宣言をしたばかりで、像は大浦地区交通安全協会によって建立。あわせて観音菩薩もおかれました。 |
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C-262:水道記念碑(すいどうきねんひ) 上田町5-18(旧 大浦上田町/戸町村大浦郷)【嶋内邸内】 碑文を読むと、上田町は昔から水の便が悪く人口増加や火災に対してたいへん水に不安を抱いていました。そのため地区の有志が立ち上がり出雲町の上手に水源を発見し、明治21年(1888)県に許可を得て竹の樋(トイ)や土管を敷設して私設の水道を完成させます。これは本河内水源地を完成の2年前のことで、明治31年(1898)に水不足になった際、この私設の水道は十善寺から梅香崎地域の給水にこたえます。大正10年(1921)竹の樋ということもあって設備が老朽化、地区の有志は公共のためと多額の寄付を行い、当時としての最新の鋼管給水装置と生まれ変わりました。この碑はその有志の功績をたたえるもので大正10年(1921)に建立。碑文文字は星野蘭渓によります。 ※なお、この碑は以前まで大浦諏訪神社境内にありました。 |
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C-261:七楽座跡(しちらくざ-あと) 上田町8付近(旧 大浦上田町/戸町村大浦郷) 明治20年(1887)大浦郷の有力者:澤山熊右衛門など7人が娯楽場「娯楽園」を立ち上げ、翌21年(1888)「合資会社七楽座」とします。明治24年(1891)演芸場七楽座として芝居や寄席などが盛んに行われるようになり、第二次大戦時、大浦劇場と改称、しかし終戦によって荒廃します。その後は地区の集会場に利用され芝居や演劇が行われるようになりますが、昭和39年(1964)火災によって焼失。この火事は俗に「大浦の火事」と呼ばれます。 |
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C-260:長崎電軌石橋電停終点 大浦町9(旧 大浦町/戸町村大浦郷) 大正4年(1915)長崎電気軌道が開業。初路線は浦上(病院下)-築町間で、翌5年(1916)千馬町(出島付近)-大浦海岸通間が開通。そして大正6年(1917)大浦海岸通-石橋間が開通。当時は石橋という電停名ではなく出雲町といいました。それは明治24年(1891)に移転してきた出雲町遊郭の門前を意味し、後に石橋と改称されます。A-212:2004-02/04参照 |
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C-259:大浦橋(おおうらばし) 相生町-下町(旧 戸町村大浦郷) 大浦橋は江戸時代の御崎道沿いの橋で、もとは木橋だったものが往来の増加で天保年間(1830-44)に石橋となり、さらに明治19年(1886)架け替えが行われます。明治24年(1891)出雲町に遊廓が移転すると往来が増し、その後、現在のような暗渠となり大浦橋は姿を消します。一般に石橋と呼ばれる橋は大浦橋のことで、現在、大浦橋の親柱が石橋交番前南側横断歩道横に現存しています(寄進者名:大浦郷 林増五郎/村川勝太郎)。なお、現況を見ると道路面が大きく盛り上がっていて、これは暗渠の中に石橋本体が存在していることを表しています。 |
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C-258:長崎孔子廟中国歴代博物館 大浦町10-36(旧 大浦町32番地・甲乙) 昭和58年(1983)長崎の孔子廟創建90周年を記念して孔子廟内に中国歴代博物館が設けられ、中国北京にある中国歴史博物館の所蔵品の一部を借り受けて常設展示を始めます。さらに平成2年(1990)中国故宮博物院の明・清代宮廷文物も展示されることになり、中国の国宝級の美術品が中国国外で展示されるのは、長崎と中国との関係を裏付けるものとなっています。展示物は2年周期で入れ替えられ中国政府の管理となっています。 |
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C-257:孔子廟(こうしびょう) 大浦町10-36(旧 大浦町32番地・甲乙) 明治維新を受け、ほとんどの中国人が広馬場や新地などに移転するようになりますが、一部の中国人は居留地の外国人などと雇用関係を築き、使用人として大浦居留地に進出するようになり、大浦の南部に唐人町が形成されていきます。そして町のシンボル的施設が求められ明治26年(1893)在留の中国人の寄付によって孔子廟が誕生。一方、長崎奉行所などの保護を受けていた中島聖堂(祭神:孔子)が明治維新以降、荒廃し、在留の中国人の手で保護されていましたが、この明治26年(1893)からは孔子廟に備品等が移され、孔子廟がその中心的施設となります。当時、孔子廟はすべて日本人大工によって作られた中国様式の建物で、孔子廟の正殿となる大成殿に孔子像がお祀りされていました。その後、昭和40年(1965)華僑の人々による管理会社:株式会社唐人館によって運営され、昭和42年(1967)大改修が行われます。この工事では中国からの専門の職人を呼び再建され、現在のような日本で唯一の本格的孔子廟として生まれ変わるのです。A-167:2003-11/26参照 |
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C-256:長崎華僑時中小学校跡 (ながさきかきょう-じちゅうしょうがっこう-あと) 大浦町8-13(旧 大浦町22番地) 明治38年(1905)清国領事であった卞綍昌(ベン-フツショウ)の呼びかけによって孔子廟内に華僑の子供たちの教育の場として長崎華僑時中小学校が設立。横浜神戸に続き九州初の華僑の学校が誕生します。開校まもなく日本政府と中国清朝も許可を出し両国公認の学校がスタートします。この時中小学校はすべてが中国本国の人々や在日の華僑の人々による寄付で賄われ、当初は初等科5年、高等科4年の9年制で、広東、三江、福建の各省の3組編成でした。その後、多くの卒業生を出すも、しだいに日中戦争や第二次大戦の影響で、華僑の人々は脅かされる生活となり悲しい歴史も刻まれました。昭和27年(1952)日華平和条約が締結。時中小学校も台湾系で進められますが、昭和47年(1972)日中国交正常化によって中国系へと方針転換します。昭和42年(1967)孔子廟の改修工事のため新築移転となり、昭和63年(1988)ついに生徒の減少で閉校。現在は長崎時中語学院として中国語教室となっています。 |
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C-255:池上家住宅(いけがみけ-じゅうたく) 大浦町8-10(旧 大浦町23番地) 池上家住宅は明治20年代後半(1895頃)に建てられた標準的な洋風建築で、イギリス人貿易商の住宅として使用されていました。建物の特徴としては中央に廊下と階段を置き、外観は左右対称、2階にベランダがあります。現在は個人宅として使用されています。国登録有形文化財。 |
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C-254:ジャパンホテル跡 大浦町7-2〜7,22(旧 大浦町25番地) 安政6年(1859)幕府は長崎、神奈川、函館で、露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。当初は商社や個人宅を住まいとしていましたが、明治3年(1870)に日本初のホテル:バンク・エクスチェーンジ・ホテルが外国人経営者によってオープン。その後、明治28年(1895)大浦町25番地にセントラルホテルがオープンします。大浦居留地のホテルは明治20年代後半(1895頃)から日露戦争前の明治36年(1903)までがピークで、その後衰退。そしてセントラルホテルは明治32年(1899)日本人経営者に代わり、ジャパンホテルと改名します。このジャパンホテルは初の日本人経営者のホテルで大浦居留地に最後まで残っていたホテルでしたが、昭和12年(1937)火災によって姿を消します。C-218:2006-4/20参照 |
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○東山手地区町並み保存センター 現在、東山手洋風住宅群(7棟)に置かれている様々な施設は、洋館の有効活用の一環として昭和58〜63年(1983-1988)頃の改修工事以降に設けられた施設で、東山手地区のシンボル的施設となっています。施設は東山手地区町並み保存センター、古写真資料館、埋蔵資料館、ワールドフーズレストラン東山手「地球館」などからなり、特に「地球館」は国内外の人たちの交流の場となっています。 |
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C-253:東山手洋風住宅群(7棟) 東山手町6-24,25(旧 東山手町/戸町村大浦郷) 東山手洋風住宅群は明治20年代後半(1895頃)に建てられた木造洋館群で、一ヶ所に集中して建てられ、また、それが残されているところは類がないといわれています。ほとんど同じような建築形態で構造も同じところを見ると、会社の社宅や賃貸住宅として建てられたものと推定されています。なお、現在の建物は昭和58〜63年(1983-1988)頃に改修工事を施しています。市有形文化財。 |
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