広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-252:誠孝院の坂(じょうこいん-さか)
東山手町7〜6間
誠孝院前の坂を俗に「誠孝院の坂(ジョウコイン-サカ)」といいますが、これは昭和8年(1933)誠孝院が移転してから呼ばれたもので、もともと江戸時代などは御崎道として使われていた街道でした。その後、居留地造成の際に整備され、文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が東山手に完成すると、東山手や南山手に住む多くの外国人(オランダ人)信者が日曜毎にこの坂道を通るようになり、オランダさんが通る道ということでオランダ坂と呼ばれるようになります。C-240:2006-5/18参照




○「冠鍋山」山号額【誠孝院】
本殿正面にある山号が書かれた額には、明治期から昭和にかけて活躍した南画家:阿南竹陀(アナン-チクダ)によるものです。2005-10/23参照
○阿南貞夫氏記念碑
昭和4年(1929)建立




C-251:日蓮宗冠鍋山誠孝院(-かんかざん-じょうこういん)
東山手町7-23(旧 東山手町/戸町村大浦郷)
備中(現 岡山県西部)国蓮寺から大村の本経寺に渡って来た僧:日建は、寛保3年(1743)本経寺の住持:日道の命で長崎入りし、大村領戸町村の鍋冠山のふもとに向かった際、日親上人(通称:鍋冠日親)の石像と、日蓮宗のお題目である南無妙法蓮華経と刻された碑石を発見し、当時の領主:大村純保の許しを得、石像と石碑を移し一寺を建立します。これは現在の南山手町6-3付近で、文化14年(1881)には本殿の造営が行われ、以降も境内の整備が進みます。明治に入り、大浦地区の信徒増のため手狭となり、当時の檀家総代だった澤山精八郎が東山手の土地を寄進。昭和8年(1933)現在地に移転します。




C-250:澤山精八郎翁旧邸宅跡
(さわやませいはちろう-おう-きゅうていたく-あと)
東山手町7-23(旧 東山手町/戸町村大浦郷)
澤山精八郎(安政3:1856-昭和9:1934)は大村藩の出身で、明治18年(1885)父:熊右衛門が明治初期に居留地で手がけていた海運業を引き継ぎ澤山商店として会社を始め、長崎の離島と本土を結ぶ輸送や石炭輸送。さらには海外の路線も作り、第一次大戦や日清、日露戦争では多大な貢献と財を成します。明治41年(1908)には長崎商工会議所副会頭、大正に入ると長崎県議会議員、貴族院議員と政界にも進み、澤山商店(後に澤山商会)は当時の長崎を代表する企業となります。そして当時、澤山精八郎が住居としていた場所が現在の誠孝院のある場所で、大正末期(1925頃)誠孝院の檀家総代だった澤山精八郎が寄進しました。墓所:誠孝院境内




C-249:長崎南山高等学校跡
(ながさきなんざん-こうとうがっこう-あと)
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星グランド】
昭和27年(1952)1月、長崎東陵中学校は神言修道会に経営が移管され名古屋南山大学の姉妹校として出発することになり名称も長崎南山高等学校と変わります。そして同年9月、上野町(現在地)に新校舎を建設して移転。跡地は海星学園が使用することになります。




C-248:長崎東稜中学校跡の碑
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星中入口】
昭和7年(1932)に廃校した東山学院は昭和8年(1933)カトリック長崎教区宣教師社団が買収し長崎公教神学校となり、昭和15年(1940)長崎東陵中学校と改称します。そして第二次大戦後の昭和27年(1952)神言修道会に経営が移管され東陵中学校は閉校します。この碑は卒業生有志によって平成元年(1989)に建立されたものです。




C-247:長崎公教神学校跡(ながさき-こうきょう-しんがっこう-あと)
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星グランド】
昭和7年(1932)経営不振で廃校となった東山学院は一時、海星学園の寄宿舎となりましたが、昭和8年(1933)カトリック長崎教区宣教師社団が買収し、長崎公教神学校へと変わります。その後、昭和15年(1940)長崎東陵中学校と改称し、第二次大戦を迎え、昭和27年(1952)神言修道会に経営が移管され、長崎公教神学校は幕を閉じます。




C-246:スチイル記念学校跡
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星グランド】
明治19年(1886)それまで英国領事館の敷地だった東山手9番地に、ダッチ・リフォームド教会の伝道局長だったアメリカ人宣教師:スチイル博士の寄付によって新教系の学校:スチイル記念学校が設立します。この寄付金は18才で命を落とした我が子を記念するためのもので、明治24年(1891)には東山(トウザン)学院と改称、しかし経営不振により昭和7年(1932)廃校となります。その後は海星学園の寄宿舎に使用。現在、グラバー園内に移設されています。C-229:2006-5/4参照




C-245:アンデレ神学校跡
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星グランド】
明治10年(1877)それまで英国領事館の敷地だった東山手9番地に、英国聖公会の神学校であるアンデレ神学校が開校。しかし、すぐに廃校となり、日本聖公会出島教会神学校の学生寄宿舎として利用されます。




C-244:英国領事館跡(えいこくりょうじかん-あと)
東山手町5(旧 東山手町9番地/戸町村大浦郷)【海星グランド】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。同5月、大浦郷の妙行寺(現 相生町9-8)内に英国仮領事館が設置され、英国軍艦サンプストン号で来崎したホッジスンが初代領事として就任します。その後、領事館は一時的でしたが、東山手9番地に移転。文久3年(1863)居留地造成が整った下り松に移り、さらに明治41年(1908)常盤町(現 大浦町:野口弥太郎記念館)へ移転し、昭和16年(1941)まで続きます。C-214:2006-4/14参照




C-243:海星学園(かいせい-がくえん)
東山手町5-3(旧 東山手町1,2番地/戸町村大浦郷)
明治25年(1892)日本マリア会はフランス人会員:ジャック・バルツを校長に迎え、南山手町34-35番地(現 南山手町15-39付近)に海星学校を設立。当初は日本人と居留地に住む外国人との共学で、小学部と中学部がありました。新校舎建設のため一時、外浦町(現 江戸町)に移り、明治28年(1895)現在の東山手に移転します。明治31年(1898)ロマネスク様式の3階建洋館が完成。その後、明治36年(1903)海星商業学校と改称。昭和23年(1948)学制改革により海星中学・高等学校となり、以降、体育館などの設備の充実が図られ現在に至ります。なお、明治31年(1898)に建設された洋館は一旦、解体され、平成2年(1990)に再現する形で鉄筋コンクリート建に変わり、現在は修道院として使用されています。しかしこの建物は存在感のある造りで、東山手の象徴的建物といえるでしょう。




C-242:長崎測候所跡(ながさきそっこうじょ-あと)
東山手町5-中新町9付近
(旧 東山手町/十善寺郷字中ノ平)【海星学園】
明治4年(1871)オランダ人ゲーツ(ケールフ)が小島郷稲荷嶽で長崎で始めての気象観測を行い、それから7年後の明治11年(1878)本格的施設の観測所となる長崎測候所が十善寺郷中ノ平(現 海星学園付近)に開設され、3名の職員が置かれていました。当時から日本の気象は西から変化するということが知られていて、長崎の気象は各地の天気予報を左右する重要な位置付けだったのです。そのため東京気象台の開設(明治8:1875-6/1)から遅れることわずか3年で長崎測候所の開設となります。まさに長崎測候所は日本の気象学の草分けに近い貴重な存在だったのです。明治31年(1898)海星学園建設の影響で、観測に支障を来たす恐れがあるところから大浦元町(ドンの山)に移転(昭和24年廃止)。昭和22年(1947)から現在の南山手町に移り、長崎海洋気象台として観測を行います。
C-162:2006-01/27参照




C-241:女子塾十人女学校跡
(じょしじゅく-じゅうにんじょがっこう-あと)
東山手町5-3(旧 東山手町3番地/戸町村大浦郷)【海星学園管理棟】
文久3年(1863)東山手11番地に日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が設立されますが、その後、聖公会会堂の上手の東山手3番地に女子塾十人女学校が作られます。これも同じく新教系の学校でした。




C-240:オランダ坂
東山手町(旧 東山手町/戸町村大浦郷)
活水学院や海星学園がある高台から石橋電停に向かうなだらかな坂道はもともと、御崎道として使われていた街道で、今のように広く開けたのは江戸末期、居留地造成の際に整備されてからです。また、文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が東山手に完成すると、東山手や南山手に住む多くの外国人信者が日曜毎にこの坂道を通るようになり、当時、長崎人はオランダ人でもイギリス人でも欧米人のことを“オランダさん”と呼んでいたため、オランダさんが通る道ということでオランダ坂と呼ばれるようになりました。




C-239:英国聖公会会堂跡
(えいこくせいこうかい-かいどう-あと)
東山手町5(旧 東山手町11番地/戸町村大浦郷)【海星学園】
安政6年(1859)中国に派遣されていた2人の宣教師、チャーニング・モア・ウィリアムズとジョン・リギンスが長崎に上陸。祟福寺内に仮寓した後、文久2年(1862)東山手に移り住み、翌文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)を設立します。当時はまだ切支丹禁制がしかれていたので、この会堂は居留地に住む外国人のためのものでした。そしてこの会堂は日本初の新教の教会として歴史を刻み、C・Mウィリアムズは初代牧師として名を残します。C-219:2006-4/21、C-238:2006-5/16参照




C-238:C・Mウィリアムズ宣教師館跡
東山手町4(旧 東山手町6番地/戸町村大浦郷)【活水学院3,4号館】
安政6年(1859)中国に派遣されていた2人の宣教師、チャー二ング・モア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)とジョン・リギンス(John Liggins)が長崎に上陸。しばらく祟福寺内の末寺:広徳院に仮寓。万延元年(1860)外国人居留地として開放された東山手のこの地に宣教師館を建設。文久2年(1862)から慶応2年(1866)までの4年間、居住していました。また、C・Mウィリアムズは、文久2年(1862)に隣接するイギリス聖公会会堂の初代牧師となり、後に立教大学を創立します。C-219:2006-4/21参照




○小説「蝶々夫人
蝶々夫人」は明治31年(1898)に書かれた小説で、当時の鎮西学院第5代院長であるコレル氏夫人の弟であるアメリカ人作家:ジョン・ルーサー・ロングによって書かれたものです。始めはアメリカ人演出家:ベラスコによって舞台化され、それを見ていたイタリア人作曲家:プッチーニがオペラに作り変え大ヒットとなります。
小説は1890年代(明治23〜32年)の長崎が舞台で、アメリカ海軍士官のピンカートンが長崎入りし、武家の出であるが若い芸妓である蝶々さんと結婚します。しかしピンカートンは帰国することになり、蝶々さんは一人長崎で彼の帰りを待つことになります。3年後、ピンカートンが再び来日。蝶々さんとの再会となるのですが、待っていたのはピンカートンと新しいアメリカ人妻そしてその子供で、蝶々さんはすぐに悟り、最後は蝶々さんの自決で幕を閉じます。




○小説「蝶々夫人」の舞台
「鎮西学院発祥の地」の碑には、鎮西学園の発祥の経緯のほか、小説「蝶々夫人」の記載を見ることができます。
碑文「(前文省略)この真下の急な坂道は、小説「蝶々夫人」(原作者ジョン.ルーサー.ロング、鎮西学院第5代院長コレル氏夫人の弟)の中でも蝶々夫人やピンカートン中尉が往来した坂として描かれ、この碑のすぐ南側には蝶々夫人の館の位置となった東山手6番館があった。




C-237:「鎮西学院発祥の地」の碑
東山手町4(旧 東山手町6番地/戸町村大浦郷)【海星学園3,4号館】
明治14年(1881)カロル・S・ロング博士は東山手にミッションスクールを設立。校名を最初に資金を提供したアメリカ人のカビー(Cobieigh)夫人にちなみ加伯利英和学校(カブリュー学校)とします。明治39年(1906)私立鎮西学院と改称。徐々に生徒数が増えたため明治44年(1911)新校舎を建設。大正8年(1919)鎮西学院に改称します。そして大正14年(1925)竹の久保町の払下げを受けていた旧要塞砲兵練兵場跡地に新校舎を建設し、昭和5年(1930)竹の久保町(現 活水高校)に移転。しかし昭和20年(1945)原爆により壊滅します。昭和21年(1946)諫早市永昌町の旧海軍病院に移転し教育を再開。その後、幼稚園、高校、短大を開学し、平成14年(2002)短大を長崎ウエスレヤン大学と発展させ現在に至ります。




C-236:加伯利英和学校跡(かぶり-えいわがっこう-あと)
東山手町4(旧 東山手町6番地/戸町村大浦郷)【海星学園体育館】
明治初年、アメリカ・メソジスト監督教会はアメリカテネシー州のカロル・S・ロング博士(Dr. C. S. Long)を長崎に派遣し、宣教師デビソンと共に全国で6番目となるキリスト系学校の加伯利英和学校(カブリュー学校)を明治14年(1881)に創立します。設立当初の生徒は12名でしたが、その中にトーマス・B・グラバーの子供である倉場富三郎も入っていました。明治39年(1906)新校舎を建て、私立鎮西学院と改称します。




C-235:東山手居留地境石(ひがしやまて-きょうりゅうち-さかいいし)
東山手町1-41付近(旧 東山手町/戸町村大浦郷)
東山手居留地境石があるところは江戸時代、公領である長崎と大村領(藩)だった戸町村との境にあたり、安政4年(1857)ここから南側の戸町村大浦郷が公領となった後は造成され、万延元年(1860)から外国人居留地となります。そしてこの境石ですが万延元年(1860)に居留地の指定が行われた際、設置されたものと考えられます。C-220:2006-4/22参照




○オランダ坂の敷石
活水学院と東山手十二番館横の通りはオランダ坂と呼ばれ、現在では長崎を代表する観光名所となっていますが、実はこの坂の上手付近の石畳の敷石は、よく見ると斜め張り横張りの変則的な敷き方になっています。
 昭和50年代、明治時代に敷かれたこの坂の石畳が老朽化したため改修工事が行われますが、工事の効率上、当初上手から石畳の石を横張りとして施工していました。そこにたまたま通りかかった長崎史談会の数人のメンバーが横張りを見て「長崎の石畳は斜め張りが本来の敷き方。横張りは誤り」と指摘。そのため指摘した部分から急きょ斜め張りとなり、しかし、急に敷き方が変わることもおかしいということから、最後の方に再び横張りとなったといわれています。
 長崎の石畳の道は基本的に張り方を斜め方向とし、その斜め方向には側溝を設ける設計となっています。これは雨水などが上手から流れる際、水は必ず張り目に沿って流れ、側溝に流れ込むよう計算されているもので、極力歩行者に水がかかるのを防ぐ意味があります。そのため坂が多い長崎ではこの張り方が多いのですが、施工上、材料にたくさんのロスを発生させるため、現在の施工では敬遠されているのが実情です。




C-234:ラッセル記念館
東山手町3(旧 東山手12番地)【東山手12番館】
エリザベス・ラッセル(Elizabeth Russell)は、1836(天保7)年、アメリカオハイオ州ケイジスに生まれ、4才から家庭教師や短期学校などで教育を受け育てられます。1857(安政4)年、ペンシルバニア州ワシントン女学校に入学。卒業後も家庭教師によって語学勉強を行い、社会人となった後は学校の教師や家庭教師、さらには学校の経営などにも携わるようになります。そして、このころアメリカ・メソジスト監督教会の婦人外国伝道教会と関係を持つようになり、1873(明治6)年、同協会の書記となり、1879(明治12)年、海外派遣員を志願、43才で長崎行きを決意します。そして協力者のギール女史と共に来日し、すぐに活水学院の開学の準備をし開校を迎えるのです。学校が発展し多くの卒業生を世に送るようになったラッセル80才の年、アメリカに帰国。そして1928(昭和3)年、92才で永眠します。墓所:アメリカオハイオ州デラウエア。
このラッセル記念館は創立100周年事業の一環として建設されたもので活水学院の同窓会の施設として利用されています。




C-233:東山手十二番館
東山手町3(旧 東山手12番地)【東山手12番館】
東山手十二番館は明治元年(1868)に建設され、当初はデンマーク領事館として使用されていました。大正年間(1912-26)アメリカ領事館が南山手乙5番地(現 南山手町11-41)から移転。デンマーク領事はアメリカ領事が兼務します。その後、活水学院のラッセル女史を派遣したアメリカ・メソジスト監督教会の婦人外国伝道教会の宣教師住宅にも利用され、昭和16年(1941)第二次大戦の影響で活水学院の所有となります。昭和51年(1976)長崎市の所有となり、現在では「東山手十二番館長崎市旧居留地私学歴史資料館」として開放されています。
なお、幕末から明治にかけて長崎にはたくさんの洋館が作られましたが、東山手十二番館は「西南太平洋植民地風建物」とも呼ばれ、インドネシア地方などを植民地化してきた欧米人が、強い日差しを避けるために広くベランダを作らせているのが特徴です。




C-232:フランス領事館跡(ふらんすりょうじかん-あと)
東山手町3-1(旧 東山手13番地)【東山手13番館】
安政6年(1859)長崎のほか神奈川と箱館(函館)が開港し、それまでの中国、オランダ以外にイギリス、アメリカ、ロシア、フランスの各国との貿易が始まります。そのため各国は相次いで長崎に領事館を設置。文久3年(1863)フランスは長崎に領事館開設のためレオン・ジュリーを領事として来日させ、長崎奉行の斡旋で大徳寺の一室をフランス仮領事館として開設します。その後、南山手15番地(現 杠葉病院付近/南山手町13-38)、そして当時、英国領事館用地であった東山手13番地に移転し、本格的な業務を始めます。明治3年(1870)には普仏戦争(プロイセン王国VSフランス)のため閉鎖。その後、閉館開館を繰り返し、第二次大戦後は「在長崎フランス名誉領事館」として出島町の澤山商会内に置かれ、現在では澤山商会の澤山精一郎氏が名誉領事となっています。C-138:2005/12/22参照




C-231:梅香崎女学校跡(うめがさき-じょがっこう-あと)
東山手町1-50(旧 東山手14番地)【活水学園1号館】
明治2年(1869)アメリカのレフォームト教会(改革派)の宣教師:ヘンリー・スタウト(Henry Stant)とその夫人が長崎に渡来し、一時的ですが大徳寺の一室を借りて滞在します。このヘンリー・スタウトの来崎はフルベッキの後継的役割のためで、広運館(A-33:2003-6/13)で3年間、英語教師を務めた後、明治5年(1872)梅香崎の自邸(東山手13番地:現 活水学院)に英語塾「スタージス・セミナリー」を活水学院と並んで創立し、英語教育と聖書などを教えていました。この英語塾は明治20年(1887)梅香崎女学院となり、大正3年(1914)下関にあった光城女学院と合併。一文字づつとって梅光女学院となります。これは現在の梅光学院大学の前身です。C-137:2005-12/21参照




C-230:活水学院(かっすいがくいん)
東山手町1-50(旧 東山手13〜16番地)【活水学院】
日本が開国してまもなくアメリカ・プロテスタント監督教会(聖公会)は、直ちに日本に向けて宣教師を送り込み、明治6年(1873)禁教令の撤廃を受け、明治8年(1875)居留地となった出島に日本監督教会を開設します。その後、教育活動のため専門の宣教師派遣がなされ、明治12年(1879)アメリカ・メソジスト監督教会の婦人外国伝道教会はエリザベス・ラッセル(Elizabeth Russell)とジーン・M・ギールを長崎に派遣。そして東山手16番地【5号館】に活水学院を創立し、唯一の志願者であった官梅 能(カンバイ-ノウ:唐通事林道栄を祖とする)を向かえ長崎初の女子教育を始めます。翌13年(1880)南山手のオルト邸に移転、明治15年(1882)東山手13番地に新校舎を設け移転。その後、順調に生徒数を伸ばし、明治20年(1887)明治44年(1911)と小学部から大学部および専門部の教育課程を整え、大正15年(1926)新校舎を建て施設の充実を図ります。昭和25年(1950)からは学制改革により短期大学を設置し、以降、活水学院は東山手地区を代表する施設として発展。長崎におけるプロテスタント系の学校として多くの人材を世に送り出しています。
なお、「活水」とは聖書の中の「さらば汝に活ける水を与えし」からとったもので、これはイエス・キリストが与えた水は“永遠に渇くことのない希望に満ちた水”という意味があります。




C-229:ダッチ・リホームド教会宣教師館跡
東山手町1-50(旧 東山手16番地)【活水学園】
明治初年、ドイツのダッチ・リホームド教会が長崎に開かれ、後に東山手16番地に宣教師館を建てます。明治12年(1879)11月30日、活水学院の創立者であるエリザベス・ラッセルはこのダッチ・リホームド教会宣教師館に移り、活水学院設立の準備を始め、翌12月1日から授業を開始します。開始直後は生徒一人教師二人体制で、明治13年(1880)3月まで使用します。




C-228:大浦(おおうら)
東山手町、南山手町、大浦町ほか(旧 大村領戸町村)
大浦は文字通り大きく拡がった湾をいい、江戸時代は大浦川河口から放射状に拡がった入り江で、範囲は現在の石橋電停から、北はホテルニュータンダ付近、南は全日空グラバーヒルホテル付近を結ぶエリアを指します。当時の大浦は「雄浦」とも書き、もともと80軒ほどの小さな漁村で、石橋電停付近を網場といい、海星学園付近の小高い丘を網場山、そこから孔子廟付近に拡がる丘陵を網場平と呼んでいました。しかしそれが安政4年(1857)幕府は開国を予想して、大村領(藩)戸町村と古賀村(現 古賀町,松原町など)を交換し公領とし外国人居留地へと姿を変えるのです。C-277:2006-7/4参照




C-227:岩永養庵宅跡(いわながようあん-あくあと)
東山手町1-50(旧 東山手16番地)【活水学園】
江戸時代、東山手、大浦地区は大村藩の領地で藩境に大浦番所が置かれていて、天保年間(1830-1844)その警備のため大村藩医岩永養庵がこの番所に駐留していました。その後、任務を終えた岩永養庵はそのままこの地に滞在し、番所などの医療業務に従事することになり、この地に屋敷を構えます。安政2年(1855)英国船の仮停泊が許されると屋敷を英国人に貸し渡し、岩永養庵は浦上に移って行きます。




C-226:梅ヶ崎台場跡(うめがさき-だいば-あと)
東山手町1-50(旧 東山手16番地)【活水学園1号館・5号館】
文化元年(1804)ロシア皇帝の特使レザノフが貿易交渉のため長崎港に来航。長崎奉行所は直ちに幕府に遣いを出し、近隣諸国に警備を要請、大村藩、黒田藩、鍋島藩の兵が警備に当たります。そして一時的に梅ヶ崎の御米蔵内にロシア人の滞在を認めると、大村藩は御米蔵の崖の上の畑地に陣を張り警護に当たります。そうして約1年後の文化2年(1805)まで陣がありました。




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