広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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○「日本の道100選」碑
東山手町2(旧 東山手町)
日本の道100選は昭和61年(1986)8月1日の「道の日」に、建設省(現 国土交通省)の「道の日」実行委員会が選定したもので、東山手のオランダ坂が異国情緒を伝える道として100選の一つに選ばれました。
100選の主なものは、札幌大通り(北海道)、いろは坂(栃木県)、山下公園通り(神奈川県)、富士山スカイライン(静岡県)、虹の松原(佐賀県)、天草パールライン(熊本県)など




○「新長崎観光百選の地」碑
東山手町1-50【活水学園】
新長崎観光百選は昭和54年(1979)長崎新聞が創刊90周年を記念し、長崎県と長崎県観光連盟の共催で行われたもので、長崎県民の葉書投票(33万158通)によって選ばれました。
1位が九十九島(佐世保市)、2位がグラバー園、3位が住吉神社(旧 西彼町)、4位が西望公園(旧 南有馬町)、5位が龍頭泉(東彼杵町)、6位が原城跡(旧 南有馬町)、7位が国見山(旧 世知原町)、8位が弦掛観音(旧 世知原町)、9位が弓張展望台(佐世保市)、10位が米山展望(旧 奈良尾町)
※オランダ坂が何位かは不明




C-225:大岳水一路句碑(おおたけ-すいいちろ-くひ)
東山手町2(旧 東山手町)
大岳水一路(昭和元:1926-)は鹿児島県出身の俳人で、俳誌「湾」の主宰を務める人物です。この「湾」は昭和45年(1970)に創刊されたもので、「湾」の創刊35周年を記念して有志によってこの句碑が平成17年(2005)に建立されました。碑文は昭和38年(1963)に大岳水一路が長崎に訪れた際、この東山手で詠んだものです。
碑文「冬鵙(フユモズ)や 風が磨ける 石畳  水路




C-224:長崎物語の碑(ながさきものがたりのひ)
東山手町2(旧 東山手町)
長崎物語」は昭和14年(1939)に全国で大ヒット曲で、いわゆる長崎ご当地ソングが全国で1位となった初めての曲でした。曲は江戸時代初期のキリシタン禁制で国外追放された日本人の手紙:ジャガタラ文にちなんだもので、ジャガタラお春を主人公にしたものです。碑は昭和61年(1986)長崎県や市、長崎商工会議所は主体となって建立されました。
長崎物語(作詞梅木三郎・作曲:佐々木俊一)
赤い花なら曼珠沙華(マンジュシャゲ) 阿蘭陀屋敷に雨が降る 濡れて泣いてるじゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る




C-223:湊会所跡の碑(みなとかいしょ-あとのひ)
東山手町2(旧 東山手町)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、6月には外交や貿易に関する事務取扱いの役所として長崎会所の一機関の湊会所を、東築町(現 十八銀行本店)の俵物役所内に設置します。その後、空き家となった大浦番所跡に移転しますが、万延元年(1860)大浦海岸の造成のため再び俵物役所内に戻り、東山手での開設は数ヶ月のみとなります。
文久3年(1863)運上所と改称し、慶応2年(1866)梅ヶ崎町(現 市民病院)に移転、明治元年(1868)外国管事役所、翌明治2年(1869)外務局と改称し、昭和3年(1929)出島町に移ります。さらに昭和18年(1943)九州海運局長崎支局に併合。昭和21年(1946)門司税関長崎支署、昭和28年(1953)長崎税関と改称し現在に至ります。C-208:2006-4/8参照




C-222:大浦番所跡(おおうらばんしょ-あと)
東山手町2(旧 戸町村)
江戸時代、長崎の町から梅香崎、十人町を越え大浦に入ると大村藩の領地で、街道として御崎道が走っていました。ちょうど東山手付近が領地境で、境には警備のための番所が置かれていました。しかし幕末の安政4年(1857)幕府は開国を予想して、大村領(藩)戸町村と古賀村(現 古賀町,松原町など)を交換し公領とし東山手居留地の造成を始めます。そのため番所は不要となり建物を残し廃止されます。




スウェーデン領事館跡
常盤町2-24(旧 常盤町)【ホテルニュータンダ】
明治38年(1905)大浦4番館にスウェーデン副領事館が開設され、閉鎖時期は分かりませんが大正末期から昭和初期頃まで置かれていたものと考えられます。
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ベルギー領事館跡
ホーム・リンガー商会跡
ノルウェー領事館跡
大浦町1-33(旧 大浦町)【野口弥太郎記念館南隣】
明治15年(1882)大浦7番館にベルギー領事館が開設され、しばらくしてホーム・リンガー商会のフレデリック・リンガー(英国人)が代理領事を務めるようになります。その後、ホーム・リンガー商会もこの地に移転し、明治38年(1905)にはホーム・リンガー商会内にノルウェー領事館も開設されるようになります。これら閉鎖時期は分かりませんが大正末期から昭和初期頃まで置かれていたものと考えられます。




C-221:ロチ坂/ロティ坂
東山手町1,2(旧 東山手町/大浦町)
現在、ホテルニュータンダ横から活水学園へ向かう坂道をオランダ坂と呼んでいますが、第二次世界大戦後しばらくは、ロチ坂と呼ばれていました。江戸末期の居留地造成の際に切り開かれた道で、当初は切通しとも呼ばれ、道幅は現在の三分の一ほどしかありませんでした。明治18年(1885)フランスの小説家:ピエール・ロチが来崎。居留地からこの道を通り十人町の仮寓の家へ往来しているところからこの名が付いたもので、現在は観光目的のためオランダ坂へと変化しているようです。
(参照:B-251:2005/03/30、C-178:2006/03/03)




C-220:大浦東山手居留地跡の碑(おおうら-ひがしやまて-きょりょうち-あと)
大浦町5-50(旧 大浦町)
安政4年(1857)幕府は開国を予想して、当時、大村領(藩)だった戸町村を古賀村(現 古賀町,松原町など)と交換し公領とし、安政6年(1859)2月。南瀬崎から大浦、下がり松までの埋立造成を許可し、工事を始めます。そして同年5月。日本は開国し、翌年の万延元年(1860)第1次外国人居留地造成工事が完成します。そして造成された居留地は完成前に設けられていた地所規制によって外国人に公売(永代貸与契約)され、以降、昭和初期まで大浦東山手居留地は住宅から商店に至るまで外国人街として発展します。




C-219:長崎聖三一教会(ながさき-せいさんいちきょうかい)
大浦町1-6(旧 常盤町)
日本が開国してまもなくアメリカ・プロテスタント監督教会(聖公会)は、直ちに日本に向けて宣教師を送り込み、明治6年(1873)禁教令の撤廃を受け、明治8年(1875)居留地となった出島に日本監督教会が開設されます。これは日本人専用のキリスト教の教会で出島教会と呼ばれ、日本聖公会による教会でした。発足時の信徒数は7名で、明治20年(1887)には339名に上りました。明治23年(1890)大村町(現 万才町国道付近)に移転。明治28年(1895)に長崎聖三一教会と改称し、その後、現在の大浦町に移転します。
この聖三一教会の「三一」とは天地創造の神とイエス・キリスト、そして聖霊はおのおのが一体で、三位一体という意味で、そこから「三一」という言葉が生まれています。




C-218:西洋式旅館(ホテル)の発祥の地
大浦町、常盤町(旧 大浦町、常盤町)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。当初は商社や個人宅を住まいとしていましたが、明治3年(1870)には貿易商のロス商会によって日本初の西洋式旅館(ホテル)が誕生します。ロス商会が開いたホテルはバンク・エクスチェーンジ・ホテルといい大浦16番館(現 大浦町3)付近で、経営や管理はすべて外国人によって行われました。また、同年、大浦海岸通にコマーシャル・ホテルと、南山手(現 グラバーヒル付近)にベル・ビューホテルが開業。各ホテルとも娯楽施設としてビリヤード場ボーリング場、理容店などが設置され、これらのサービスは後に“日本初”と呼ばれるものとなります。




C-217:大浦四号波止遺構(おおうらよんごうはと-いこう)
常盤町地先(旧 常盤町)【水辺の森公園内】
平成17年(2005)に完成した水辺の森公園内の運河には、運河工事中に偶然見つかった大浦四号波止(通称:長崎税関四番波止)が保存されています。場所はホテルニュータンダ前交差点横で、ちょうど活水横のオランダ坂を下った延長線に波止場は位置しています。この波止場長崎税関の管理で文久3年(1863)の第3次居留地造成工事によって造られたもので、外国から来た客船はまず沖合いに停泊、その後ランチまたはサンパンという艀(ハシケ:人を運ぶ船)で荷物検疫所を兼ねたこの波止場に上陸していました。このほか外国からの上陸は下り松にあった六号波止も使用されていました。




C-216:ドイツ/独逸領事館跡
大浦町2-30(旧 常盤町)【ビューホテル南側〜】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。さらに5カ国以外の欧米人も訪れるようになり、ドイツ政府は明治4年(1871)梅ヶ崎町4番地(現 籠町5-15)にあったドイツの貿易商アーレン商会内に領事館を設置します。ドイツ領事館はその後、常盤町11番に官舎を立て移転。ここではイタリアの代理領事も兼務していました。大正3年(1914)第1次世界大戦の勃発するとドイツ領事館は閉鎖となり、以降再開することはありませんでした。




C-215:野口弥太郎記念館【旧英国領事館】
野口弥太郎(明治32:1899-昭和51:1976)は諫早市出身で関西学院中学部卒業後、東京の小石川にある当時の芸術家の名門:川端画学校に入学、そして卒業します。大正11年(1922)二科展に入選、その後、昭和4年(1929)から4年間、ヨーロッパに留学し、帰国後は国内外、特にフランス政府から高い評価を得ます。その後も様々な賞を受賞し、後年は個性的な画風が野口一刀流と呼ばれるようになり近代洋画界をリードします。没後、昭和55年(1980)長崎県展に野口弥太郎賞が新設され、平成5年(1993)長崎市は旧英国領事館を利用し野口弥太郎記念館を完成させます。




英国領事館での出来事A
グラバー園で有名なトーマス・ブレーク・グラバーは、幕末の日本国内の情勢を見越し長期の内乱を想定していました。そのためグラバーは多くの火器を輸入し備蓄を進めていましたが、予想以上に内乱が短期に終わり火器の使用が想定に及びませんでした。その結果、グラバーはイギリス本国に数十万ドルという借金を背負うことになり、明治3年(1870)イギリス本国からの申請で下り松にあった英国領事館で債権者会議が行われます。調べてみるとグラバーの負債の半額が無担保だったため、グラバーは当時所有していた高島炭鉱をオランダ領事館のボードウィンに譲渡し、負債の整理を行いました。




英国領事館での出来事@
元治2年(1865)3月。長州藩士で討幕派の高杉晋作(天保10:1839-慶応3:1867)は、伊藤博文と共に下り松にあった英国領事館を訪れ、トーマス・B・グラバーと領事ラウダと会談し、海外渡航(イギリス留学)の相談をします。しかしグラバーとラウダは海外渡航に反対し、第2次長州征伐のために軍備を整えるよう忠告します。そして下関を開港してイギリスから火器の輸入を勧めると、高杉晋作はこの提案を受け入れ下関に戻ります。慶応2年(1866)高杉晋作は第2次長州征伐の際、海軍総督として小倉での戦いを指揮するも、翌年病死します。




C-214:英国領事館跡(えいこくりょうじかん-あと)
大浦町1-37(旧 常盤町)【野口弥太郎記念館】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。同じ月の5月には大浦郷の妙行寺(現 相生町9-8)内に英国領事館が設置され、英国軍艦サンプストン号で来崎したホッジスンが初代領事として就任します。その後、領事館東山手9番地(現 海星グランド)、文久3年(1863)には下り松に移転。そして明治41年(1908)英国技師ウィリアム・コーエンの設計、後藤亀太郎の施工で洋風建築の建物が完成します(現存)。領事館は第二次大戦が激化した昭和16年(1941)に閉鎖されます。国指定文化財。




C-213:三井物産会社長崎支店跡
常盤町2(旧 常盤町)【十八銀行記念体育館南側】
明治9年(1876)三井物産会社長崎支店が開業。主に石炭の売買業務を行います。その後、浦五島町(現 五島町)に移転し、昭和初期まで続きます。
 明治18年(1885)頃の長崎市内で、商工業を営む資本金1000円以上の会社は30社あまりで、大正12年(1923)頃には本支店を置く会社数は150社に上っていました。このときの会社は資本金が500万円〜1500万円が普通で、資本金1万円以下の会社はほとんど存在せず、この数字はそれだけ長崎が商工業が発達していたということを表しています。




C-212:清国領事館/中華民国領事館跡
(しんこく/ちゅうかみんこく-りょうじかん-あと)
常盤町2(旧 常盤町)【十八銀行記念体育館北側】
明治維新後の日本と中国(清国)の関係は明治4年(1871)の日清修好条規の締結で国交を持つようになるのですが、長崎においては明治維新で唐人屋敷が処分されると、中国人は居留地指定を受けた広馬場や新地蔵所(現 新地町)にすでに移転し在住していました。そして遅れること7年。明治11年(1878)清国領事館が開設されます。明治27年(1894)日清戦争の勃発で一時、清国領事館の国旗が降ろされたこともありましたが、その後回復。しかしこのとき在留中国人の登録が行われ、これは初の外国人登録といわれています。明治45年(1912)中華民国の成立で清国領事館は閉鎖。中華民国領事館となるも国交の悪化で昭和初期、閉鎖となります。




C-211:鉄道発祥の地
新地町6〜常盤町2〜大浦町2【大浦海岸通(大浦バンド)】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、多くの外国人が来日。8月上海からイギリス(スコットランド)人のトーマス・ブレーク・グラバーが来日します。貿易商社のグラバー商会を立ち上げ営業を始め、慶応元年(1865)5月には当時、開催中だった上海博覧会に出品していた英国製蒸気機関車「アイアン・デューク号」を輸入し、大浦海岸通(大浦バンド)約500メートルに線路を設け2両の車両を走らせます。これが日本の鉄道の発祥で、この7年後の明治5年(1872)新橋-横浜間の開業となります。




C-210:大浦バンド
新地町6〜常盤町2〜大浦町2【大浦海岸通】
バンドとは英語で「bund」と書き“海岸通り”の意味で、大浦バンド大浦海岸通りということになります。幕末、多くの外国人が長崎へ貿易を求め来日するようになると、安政元年(1854)日英和親条約、安政2年(1855)日蘭和親条約が結ばれ、安政5年(1858)長崎奉行は今後の長崎の情勢を考え長崎港内の埋立てを申請。翌6年(1859)南瀬崎から大浦下り松までの埋立てを行い、万延元年(1860)外国人居留地を完成させます。しかし、当時来日していた外国人をすべて収容するには規模が狭く、第2次第3次と居留地の造成が進められます。文久3年(1863)第3次造成工事の完成は海岸通りの拡幅が行われ、これが大浦バンドの形成となります。大正5年(1916)には路面電車が走るようになり、中国領事館や英国領事館、ホテルや商社の立ち並ぶ大浦のメインストリートとして発展します。




C-209:移民収容所跡(いみんしゅうようじょ-あと)
新地町6-39(旧 梅ヶ崎町)【長崎市民病院】
大正15年(1926)日本政府は北アメリカへの移住促進のため神戸に移民収容所を置きますが、アフリカへも移住を促すため長崎にも移民収容所を昭和8年(1933)長崎税関の跡地に設置します。ここは長崎から船便で出国するまでの一時滞在所で、約6割が沖縄県民でした。移民収容所はその後、移住者教養所と改称し多くの移住者を迎えます。昭和16年(1941)次第に戦時色が強くなり移住者教養所は小倉陸軍病院分院へと変わり、終戦を受けアメリカ軍第2海兵師団が接収。その後、日本医師団の長崎県中央病院「長崎慈恵病院」として一般の診療を始めます。昭和23年(1948)長崎市が買収して現在の長崎市立市民病院が誕生します。




C-208:長崎税関跡(ながさきぜいかん-あと)
新地町6-39(旧 梅ヶ崎町)【長崎市民病院】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、6月には外交や貿易に関する事務取扱いの役所として長崎会所の一機関の湊会所を、東築町の俵物役所内に設置します。湊会所はその後、大浦番所跡(現 東山手町2/切通し)に移転。翌万延元年(1860)大浦海岸の造成のため一旦、俵物役所に戻ります。文久3年(1863)運上所と改称し、慶応2年(1866)埋立てが完了した梅ヶ崎町に庁舎を設けます。当時、梅ヶ崎、下り松、出島の3ヶ所に出先機関として荷改所と船番所6ヶ所を備えていました。そして明治元年(1868)新政府となり運上所は外国管事役所、翌明治2年(1869)外務局と改称し、昭和3年(1929)出島町(現在地)に新庁舎を完成させ移転します。このころ日華航路の重要な税関でした。昭和18年(1943)九州海運局長崎支局に併合。昭和21年(1946)門司税関長崎支署となり、法律改正で昭和28年(1953)長崎税関が開庁します。現在の建物は昭和44年(1969)のものです。




C-207:出師橋跡(すいしばし-あと)
出島町3,13-新地町5【市民病院前交差点】
明治37年(1904)第2期港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し、そのため銅座川は思案橋方向から新地と銅座の間を流れ、築町電停付近で直角に折れ、市民病院前で長崎港に流れ出していました。また、大浦海岸通は一直線に出島橋の方向に北進していて、ちょうど市民病院前付近で銅座川を渡り、その橋がトラス鉄橋の出師橋でした。出師とは軍隊が出発するという意味があり、橋が架けられた当時、この地から第六師団が日露戦争のため朝鮮半島の仁川に出征したことから出師橋と名付けられます。大正6年(1917)には路面電車も通るようになり中心市街地と大浦地区を結ぶ主要な橋でしたが、昭和30年(1955)の銅座川付替工事で出師橋の架かる銅座川は埋立てられ道路(築町電停〜市民病院前間)となり、電車もルートが変わり現在の形態となります。




ながさき出島道路(自動車専用道路)
ながさき出島道路は長崎市新地町と早坂町を結ぶ全長3.4キロメートルの地域高規格道路で、長崎市江戸町から茂木町を通る国道324号のバイパス道路として造られています。平成16年3月27日に長崎自動車道路長崎多良見インター〜長崎インターの開通にあわせ供用が開始され、総事業費460億円を要しています。全体の約85%がオランダ坂トンネルで、東行き西行きの2本のトンネルからなっています。そしてこの2本のトンネルは県内最長といわれ、東行きが2920メートル、西行きが2970メートルの長さを誇ります。




C-206:長崎郵便局跡
新地町6-53(旧 梅ヶ崎町1番地)【市医師会館跡】
明治4年(1871)8月、郵便業務を行う初めての役所である長崎郵便役所が本大工町(のちに今博多町に移転)に置かれ、12月に東京-長崎間の郵便路線を開通させます。明治7年(1874)には外国との郵便を扱う長崎郵便役所外国郵便分室を西浜町に設置。翌明治8年(1875)梅香崎に新庁舎(梅ヶ崎町7番地:現 トンネル開口部)を建て、長崎郵便役所外国郵便分室を併せ、長崎郵便局を誕生させます。明治17年(1884)梅ヶ崎町1番地にさらに庁舎を建て、再度、国内と国外に業務を分け、梅香崎町1番地を長崎郵便局、7番地を外国郵便局とします。明治19年(1886)長崎郵便局に長崎電信分局を合併させ長崎郵便電信局となり、これは日本初の郵便電信局でした。さらに明治36年(1903)長崎郵便局と改称。この年、電話交換部門や外国電信の業務も加わります。昭和45年(1970)長崎郵便局は現在の恵美須町に移転し、長崎中央郵便局に昇格します。(参照A-92:2003/08/15)




C-205:長崎国際電報局跡
新地町6-55(旧 梅ヶ崎町)【新地雨水ポンプ場】
昭和15年(1940)大北電信会社は改定条約期限により長崎による営業権を日本側に無償返還し、運営は当時の逓信省に移管されることになります。そして昭和28年(1953)国際電信電話梶A長崎国際電信電話梶A長崎国際電報局が発足し、この地が拠点となります。当時、長崎国際電報局は日本とヨーロッパとを結ぶ唯一の通信の窓口でしたが、昭和44年(1969)新潟県直江津とロシアナホトカ間の日本海ケーブルが完成したことや、人工衛星による通信手段の発展によりその役割を終えます。




C-204:大北電信会社跡(だいほく-でんしんがいしゃ-あと)
新地町6-55(旧 梅ヶ崎町)【新地雨水ポンプ場】
明治2年(1869)デンマークの大北電信会社(Great Northern Telecom)はアジアのロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底ケーブル敷設権を取得。翌3年(1870)松ヶ枝町にあったベルビューホテルの一室に大北電信会社長崎支局を設け、長崎における拠点とします。そして同年、明治政府から長崎-上海間、ウラジオストック-長崎間、長崎-横浜間の海底ケーブルの敷設の許可を得、明治4年(1871)長崎-上海間、長崎-ウラジオストック間の海底ケーブルが完成、直ちに海外との通信を始めます。明治8年(1875)梅ヶ崎町に移転。この地に支局が誕生します。昭和15年(1940)改定条約期限により長崎による営業権を日本側に無償返還し、昭和18年(1943)陸揚げ権なども消滅したため大北電信会社のケーブルは長崎沖で切断され、大北電信会社の営業が終わります。なお、昭和23年(1948)海底ケーブルが復旧再開し長崎国際電報局に受け継がれ、昭和39年(1964)長崎外港整備事業のため長崎-ウラジオストック間の海底電信線の撤去開始します。




C-203:日本郵船会社長崎支店跡
新地町6-58(旧 梅ヶ崎町)【トーカン-マンション】
明治18年(1885)郵便汽船三菱と共同運輸が合併し日本郵船会社が誕生。梅ヶ崎町に長崎支店が置かれます。日本郵船は長崎より北米線(〜シアトル)、豪州線(〜豪州)、上海横浜線(横浜〜長崎〜上海)、日華連絡船(〜上海)の航路を有していました。当初、日華連絡船は利用が少なく赤字続きでしたが、昭和に入ると長崎上海間の交流が盛んになり、昭和15年(1940)頃には年間10万人以上の人を運びます。しかし昭和17年(1942)伊王島沖で機雷に接触して長崎丸沈没。翌18年(1943)中国揚子江沖で上海丸が事故によって沈没し日華連絡船は廃止され姿を消します。なお、昭和3年(1928)日本郵船は三菱造船所で豪華客船:浅間丸(16,947t)を建造しています。




C-202:横浜正金銀行跡(よこはま-しょうきん-ぎんこう-あと)
新地町6-1(旧 梅ヶ崎町)
明治32年(1899)横浜正金銀行が大浦海岸通に長崎出張所として開設(本店横浜)。外国為替を扱う銀行として営業します。明治33年(1900)長崎支店となり、明治36年(1903)梅ヶ崎町に移転します。昭和22年(1947)普通銀行となり東京銀行と改称。その後、銅座町に移転し昭和55年(1980)三菱信託銀行に譲渡され、東京銀行は閉鎖されます。




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