広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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B-66:浄土真宗高田派聞名山善縁寺跡
(もんみょうざん-ぜんえんじ)
麹屋町6-13(旧 麹屋町)
善縁寺はもともと三重県松阪市にあって大正6年(1917)に長崎に移転した寺院でした。善縁寺の開基である浄信は伊勢国(現三重県)出身の伊豆藏氏の二男として生まれ、慶長3年(1598)専修寺第12代住持:堯慧(ギョウケイ)に帰依し仏門に入ります。のちに元大手町に一庵を構え梅香庵と号し、慶安元年(1648)松坂本町に移転して梅香山善縁寺と改称します。しかし明治9年(1876)三重県で勃発した伊勢暴動で堂宇は焼失。再建されるも衰退してしまいます。大正3年(1914)光永寺末庵であった聞名寺が独立して麹屋町に堂宇を構えるも、のちに末庵を辞することになったため、大正6年(1917)善縁寺の寺号を長崎に移し、山号を聞名山とし善縁寺が創立する運びとなります。

○聞名寺(もんみょうじ)
慶長19年(1614)中島川沿いに向陽山光永寺が創建。天和3年(1617)には聞名寺が開創し光永寺第3代住持:教順の二男:提学が聞名寺の初代住持となり、本山より寺号の許可を得ます。明治30年(1897)役僧の重松賢淳が公家のとの関わりがある院家となり寺勢が盛んになります。大正元年(1912)には麹屋町に寺町説教所を設け重松賢淳は退隠し、のちに独立移転します。ちょうど三重の善縁寺の衰退したこともあって大正6年(1917)善縁寺の寺号を長崎に移し、山号を聞名山とし善縁寺が創立する運びとなります。




B-65:浄安寺墓域
浄安寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】オランダ通詞を代々勤めた小川家
【江戸時代後期】麹屋町の傘鉾町人で私費で高麗橋の架け替えなどを行った池島家
本石灰町の組頭を代々受け持ち8代:騰四郎はリンガー商会に勤務した吉田家
【明治時代以降】郷土史家の長島正一、画家の玉木鶴亭を生み玉木学園を創設した玉木リツを出した玉木家など。




B-64:朱人の句碑【浄安寺境内】
中西種信(明治13:1880-昭和14:1939)は佐賀県尼寺村(現佐賀市大和町)出身で朱人と号します。佐賀県立佐賀中学校卒業後、長崎医科専門学校に入学。その後、軍医として高島炭鉱病院や県立長崎病院に進み、明治43年(1910)本古川町に病院を開業します。また、学友であった田中彦影と俳句をはじめ、のちに浄安寺の句会に参加して、大正11年(1922)与浅浅茅が始めた薊会に加わり太白を創刊します。
碑文「灌沸の晨鐘つける童子あり/母一人桑つみてあり帰省かな/朱人」




B-63:西南の役傷病者臨時病院【浄安寺境内】
明治10年(1877年)2月国内最後の内戦といわれる西南戦争が勃発します。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ戦いが繰り広げられます。このとき、西南の役傷病者臨時病院が同年4月16日から10月4日まで浄安寺内に置かれました。多くの傷病者がこの浄安寺内で施術されたといいます。




B-62:浄安寺薬師堂【浄安寺境内】
浄安寺薬師堂には開基の誓譽が携えて来た薬師如来と脇侍2体の薬師如来があります。言い伝えによると誓譽が携えて来た薬師如来聖徳太子(敏達3:574-推古30:622)8才の時(敏達10:581)の作といわれていて、当初(寛和2:986-寛弘7:1010頃)、平安時代の歌人:和泉式部がこれを守り本尊とし崇敬していました。さらに夫の藤原保昌はこの薬師如来に霊験を感じいつも兜(かぶと)の中に入れ身を守ってもらいます。このほか、大江山(京都丹後)に伝わる鬼の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治のときにもこの薬師如来のご加護があったりとすべてに対しお守り下さいました。やがて肥前佐賀藩の大名:龍造寺隆信の手に渡り、その後、開基の誓譽のものとなります。
なお、他の1体は奈良時代の僧:行基菩薩(天智7:668-天平勝宝元:749)の作、1体は平安時代の僧:恵心僧都(天慶5:942-寛仁元:1017)の作と伝えられています。




B-61:浄土宗東雲山理薬院淨安寺
寺町5-14(長崎村伊良林郷字中之平)
元和年間(1615-1623)肥前唐津出身の僧:誓譽了山は薬師如来を携えて来崎。当時の長崎はキリシタンの全盛期でしたが誓譽は浄土宗の布教に尽力します。そして寛永元年(1624)誓譽は現在の地に一寺を建立、開蒼庵(常安軒)とします。さらにこの誓譽の活動に時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は賞賛し寛永元年(1624)に寺の建立を許可、東雲山利益院浄安寺と称します。この東雲山とは誓譽が布教に尽力していたとき不思議な雲が現れ夕刻に東の空へ紫色の雲がたなびいたことから東雲山と命名されました。当時、本尊の薬師如来はあらゆる病気や安産にご利益があると参詣者が絶えなかったといいます。この後、宝暦10年(1760)には大音寺より現在の本尊:阿弥陀如来をもらい受けこれを本尊とし薬師如来は薬師堂に置かれます。享和元年(1801)には京都知恩院末寺となり、嘉永3年(1850)には格天井に第18代住持:映譽徳風によって花の絵が施されています。現在の本堂は大正10年(1921)の大改修と昭和20年(1945)の原爆の影響の改修が行われたものです。




B-60:長崎逓信講習所跡(ながさき-ていしん-こうしゅうじょ-あと)
麹屋町5(旧麹屋町)【麹屋町公園】
長崎逓信講習所は通信技術者の養成のため大正10年(1921)当時の逓信省によって建てられ昭和23年(1948)まで続けられました。ここでは約3000名もの技術者を輩出しています。この記念碑は平成15年(2003)元技術者らを中心に結成された九州逓友同窓会長崎支部(建立後解散)と西日本電信電話長崎支店が共同で記念碑を建立しました。




B-59:三寶寺墓域
三寶寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】唐通事:頴川家(後の柳屋家)、オランダ通詞の北村家、本石灰町乙名:本山家、松江松平藩御用達の商家で新橋町乙名:岩清谷家(荒廃?)、村山等安の遠縁の村山家
【江戸時代後期】佐賀鍋島藩御用達の商家:平石家、蜀山人に鶴の枕記を書いてもらった藤田平兵衛、日向飫肥(おび)藩御用達の城・京屋家、本石灰町の河内屋という商家で寛政7年(1795)の水害では仮橋11橋を架けた竹谷家など。




○第19番法然寺宗祖大師二十五霊場【三寳寺】
宗祖大師二十五霊場とは法然上人二十五霊場ともいい、浄土宗の宗祖:法然のゆかりの寺25ヶ寺を巡る霊場で、その霊場を巡ると法然の誕生から入滅までの足跡を訪ねることができるというものです。
この三寳寺にある第19番霊場とは京都左京区にある法然寺をいい、ここは武将:熊谷直実が源平合戦で功績をあげた後、法然を師事して出家し、その後、両親を弔うために建立した寺院といわれています。




○三寶寺中興:專譽受山(せんよ-じゅざん)
第6代住職の専誉受山三寶寺の住職となった元禄3年(1690)当時、三寶寺は大変荒廃していて專譽はすぐに再建を計画、檀徒をつれて肥後(熊本)の山間に入り建築資材の調達に歩き回ります。ある日、山間で大変美しいを見つけ、さらにそのの下では宴が開かれていたので專譽はそのの方へ近付いて行きました。そしての枝を見ると短冊が結ばれていて、專譽は主客(主人)の風流さにひかれ一首の和歌を詠みました。すると主客(主人)はその歌に大いに感動し專譽を宴席に招き入れ、ここに来た経緯を尋ねます。專譽が寺の再建のことを告げると主客は專譽の才能に惚れ込み、材料の調達はすべて引き受けすべてを寄進するとの事。これにより三寶寺は再建は順調に進み無事竣工を迎えます。なお、主客の氏名などは残っていません。專譽は37年間三寶寺の住職を務め、後に三寶寺中興と呼ばれます。




○三寶寺の地獄変相図(じごくへんそうず)
三寶寺には江戸時代に描かれた地獄変相図という大変恐ろしい絵が残っています。これは地獄の様子を描いた内容で、死者が三途の川を渡り閻魔さまのところに進み裁判を受け、ある者は地獄へ、ある者は天国へと進むという内容です。このような地獄変相図は主に浄土教の布教のために作られたもので、三寶寺では毎年8月16日にご開帳が行われます。




○三寶寺の奪衣婆(だつえば)【三寶寺境内】
閻魔堂の閻魔さまの横には奪衣婆という鬼婆がお祀りされています。人が死ぬと7日目に三途(地獄、餓鬼、畜生)の川に到着。ここには奪衣婆という老婆が死者の衣服をはぎ取り、衣領樹(えりょうじゅ)という木の上にいる懸衣翁(けんえおう)という老父に衣服を渡し、衣服を木の枝にかけて枝のしなり具合(罪の重さ)で生前の悪行の判断をし、その後の行き先が決まるのです。さらに奪衣婆懸衣翁閻魔さまの裁判のときにも臨席するため嘘をつくことができません。つまり奪衣婆にお参りすることで少しでも裁判の軽減を祈るのです。なお、三寶寺の奪衣婆は子供の歯痛や腰痛などに霊験ありと伝えられ、さらに咳(せき)に悩む者は紙に歳の数えの数「こん」と書いて祈願すると痛みが和らぐとか、飴を奉納すると痛みが和らぐといわれています。




B-58:三寶寺の閻魔さん(えんま-さん)【三寶寺境内】
閻魔堂には閻魔さまなど十王さまがお祀りされていて大変賑やかなお堂になっています。十王さまとは冥途の世界の王さまのことで、王さまたちは決まった日に死者の生前の善行や悪行を裁判し天国に行くか地獄に行くかを定めます。十王さまは次の通りです。秦広王(初七日)、初江王(二七)、宋帝王(三七)、五官王(四七)、閻魔王(五七日35日目)、変成王(六七)、太山王(七七)、平等王(百)、都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)。なお、十王さまは大変恐ろしい王さまといわれていますが仏さまの化身ともいわれ、閻魔さまは地蔵菩醍の化身といわれています。このことから地蔵信仰などと合わさって閻魔さまも信仰を厚く人々に大変親しまれています。




B-57:矢負の弥陀(やおいのみだ)【三寶寺の伝説】
その昔、相州(神奈川県)鎌倉のお寺で、この寺の所有する田地が知らない男に乗っ取られてしまい、寺の維持が困難になります。しかしその田地には毎年秋になるとどこからともなく1人の修行僧が現れその田地の稲を踏みつけ荒らし回り、さらには踏まれた稲はことごとく腐っていくのです。田地が荒らされたことに男は怒り、ある時、弓矢を持ってを待ち受け、ついにはに矢を放ち肩に命中させてしまいます。そしてがそのお寺の中に逃げ込んだため、男は寺の中を捜すのですが見つからず、ふと壇上を見ると阿弥陀如来像の肩に矢が刺さっていたのです。つまり修行僧阿弥陀さまだったのです。男は今までのことを阿弥陀さまに謝り、すぐに奪い取った田地を返したとの事。このことよりこの阿弥陀さま矢負の弥陀と呼ぶようになったそうです。現在の本尊の光背が損傷しているのはそのためといわれています。




B-56:浄土宗萬年山比経院三寶寺
寺町5-22(長崎村伊良林郷字中之平)
元和初年(1615〜)長州萩藩出身の僧:轉譽は、第3世天台座主の慈覚大師(794-864)作と伝えられた矢負の弥陀という阿弥陀如来の木像を背負って長崎入りし、阿弥陀橋の南側に住み浄土宗の布教を始めます。当時、この轉譽の活動に時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は大変賞賛し、この地に寺の建立を許可、元和9年(1623)轉譽は寺を建立し矢負の弥陀を本尊とします。これが三寶寺の創建となります。そして第13代猶譽は公家のとの関わりがある院家職であったため文政8年(1825)には菊花葵紋章を賜ることとなり本堂は唐破風造の院家格式の構造となっています。天明8年(1788)には格天井180区画に花の天井絵が施されました。本堂は元禄年間に再建されたものですが昭和20年(1945)原爆で大破。のちに改修が行われて今に至っています。




B-55:深祟寺墓域
深祟寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】代々御用絵師兼唐絵目利職を勤める家柄で初代渡辺秀石は唐僧:逸然にも師事したといわれる渡辺家
【江戸時代後期】稲佐で鵬ヶ崎焼を始めた蒲池子明
中世以降は肥後の三郡を治め江戸期からは長崎で砲術師範役を代々務めた草野家、林輔十郎を祖とする唐通事:林家、オランダ医栗崎流の栗崎家、北瀬崎(現 西坂町)御蔵預役を勤め後に石崎融思に師事した画家の打橋半雨、播磨出身で長崎で木綿屋として商いをし出島町人の1人であった品川家
【明治時代以降】幼稚園や女塾など社会事業を進めた山内家、郷土史家の林源吉など。




山内善三郎墓所(やまのうちぜんざぶろう)
山内善三郎(弘化2:1845-大正4:1915)は長崎市浦五島町(現在の五島町)の橋本定七の五男として生まれ、のちに山内家を継ぎます。15才で事業を始め、幾多の苦難を乗り越え明治20年(1887)機械油の必要性を知り東京に鉱油製造工場を建設し製造を開始します。その後、日清戦争が勃発、軍用機械油を一手に引き受けることになり巨利を得るのです。明治35年(1902)長崎市小曽根町に長崎瓦斯会社を設立。居留地を中心とした地域の電灯や燃料の供給を始め、長崎の工業発展に寄与します。没後、遺族によって5万円(今のお金で約4500万円)を市の教育基金として寄付。大正12年(1923)には自身の金屋町の屋敷に山内慶華財団を設立し慶華会館、幼稚園を経営し学生の教育資金援助などに貢献します。残念ながら慶華会館は第二次大戦時建物強制疎開などで解体され、その後、道路や公共施設などが立ち、現在は南社会保険事務所が建っています。墓所は深崇寺後山




深浦重光先生頌徳碑(ふかうらしげみつ-せんせいしょうとくひ)【深祟寺内】
深浦龍江(弘化5:1848-大正13:1924)は島原出身で幼くして島原藩士の大竹横山を師事し、のち広瀬淡窓の塾に入り漢学を学びます。明治12年(1879)長崎中学に入学。その後、佐賀県小城中学、長崎師範学校、長崎商業、長崎東山学院を経て、明治29年(1896)長崎県の師範となり、40数年間、教職としての任務を務めます。この記念碑は長崎の門下生ら610名によって昭和2年(1927)建立されたものです。




B-54:浄土真宗本願寺派東林山深崇寺(とうりんざん-じんそうじ)
寺町6-82(長崎村伊良林郷)
慶長初年(1596〜)閑祖という僧が長崎入りしこの地に東禅寺という寺を建て布教活動を始めます。しかしすぐにキリシタンによって破却。跡地を町年寄:高島四郎兵衛が別荘地として利用します。次に了信という僧が長崎入りし高島四郎兵衛の許しを得、一寺を建て布教活動を始めます。しかしまたキリシタンによって破却されます。同じ慶長年間(1596-1614)肥前唐津出身の僧:浄慶が長崎に入り今博多町や磨屋町で布教活動をしていて、了信が寺院を手放したことを聞き許しを得、元和元年(1615)現在のところに一寺を建て深祟寺の創建となりました。当時、この浄慶の働きを時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は大変賞賛したと伝えられています。

○深崇寺末庵:青雲寺
青雲寺は文化10年(1813)佐野秀道が深崇寺の一間を借りて創建。




B-53:禅林寺墓域
禅林寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】小笠原など無人島探検をした島谷市左衛門、中島聖堂を継承した向井家、オランダ大通詞の吉雄耕牛
【江戸時代後期】唐人屋敷出入の薬種商で莫大な利を上げた中村家、長崎会所筆者や長崎製鉄所勘定役や海軍伝習所係を勤めた香月薫平、医学や国学を修め本木昌造の活版印刷の文字を書いた池原日南、英語伝習所教師から外務省権大書記官となった柴田昌吉、張三峯を祖とする唐通事清河家、明清画人の費漢源の系統の画家:城玄同、南画家:木下逸雲、陳清官を祖とする唐通事の頴川家など。




○多喜昇太郎夫妻寄進の仏像群【禅林寺境内】
明治39年(1906)、大正4年(1915)、大正6年(1917)に多喜昇太郎、久枝夫妻によって建立された仏像群があって、特に鳩に乗った釈迦如来像、鹿に乗った文殊菩薩像は大変珍しいものです。

※尸毘王(しびおう)の伝説
その昔、鷲に追われた鳩を尸毘王が助けます。鷲は鳩を渡さないと飢えてしまうといい、代わりに王自らの身を施したそうです。その後、王はお釈迦さまになったといわれています。

※鹿教湯(カケユ)温泉(長野県)の伝説
その昔、漁師が自らが射た鹿を追って山の中に入り込むと、温泉で鹿が傷を癒していたといいます。すると文殊菩薩が現れこの温泉を人々に知らせ広めなさいと告げられたといいそれが発祥といわれています。




○血盆経塔(けつぼんきょうとう)
世界大百科事典によると「血の穢(けが)れゆえに地獄へ堕ちた女人を救済せんがための経典である。抜粋」
安永7年(1778)梅郷堂一得によって建立。

○一字一石塔(いちじいっせきとう)
安永8年(1779)竹内太左衛門によって建立。

○宝塔(ほうとう)
文政12年(1829)建立。前年、文政の台風が猛威を振るったことからその供養塔と考えられます。所在不明




○境内地蔵尊群【禅林寺境内】
禅林寺境内にはたくさんの石像があってこれらは明治維新の廃仏毀釈によって集められたものが多く、その中には廃寺となった大行寺(今博多町)の弘法大師、地蔵尊、不動尊、毘沙門天の石像4体も安置されています。

○法華塔(ほっけとう)
宝暦6年(1756)無三宝乗によって建立。




B-52:宝篋印塔(ほうきょういんとう)【禅林寺境内】
宝筐印塔は文化4年(1807)伊勢町の住民が造塔施主となり伊勢町内に建立されたもので、明治維新を受け禅林寺境内に移設されます。碑文は肥後(熊本県)の僧:豪潮で、豪潮はその後、文化8年(1811)に本河内、文化10年(1813)に春徳寺と相次いで宝篋印塔を建立していますが、時代背景として文化元年(1804)大雨洪水、文化5年(1808)フェートン号事件、文化7年(1810)文化の大洪水、文化9年(1812)大雨と大火と不安定な時期で、この供養塔はまさにそれらの犠牲者の追悼と安全祈願によるものと考えられます。

○盆踊創始記念碑【禅林寺境内】
碑文によると、山口林三郎は信仰心が篤く諸精霊の追善菩提のため、そして市民の親睦のために禅林寺の檀家や八幡町の住民の協賛の下、盆踊の普及に努めます。この記念碑は昭和5年(1930)山口林三郎の功績を称え建立されました。




B-51:酸漿地蔵(さんしょう/かがち/ほおずき-じぞう)【禅林寺内】
酸漿地蔵の歴史は古く旧地蔵堂の創建が宝永2年(1705)とあり創建当時(正保元:1644)のものと伝えられています。この酸漿ですがこれはホオズキの古い呼び方で漢字ではこの字を使い、また、ホオズキが大変多くの実をつけることから子宝の象徴といわれています。つまり、酸漿地蔵子宝や子供を守るお地蔵さまなのです。




B-50:臨済宗河東山禅林寺(かとうざん-ぜんりんじ)
寺町7-14(長崎村伊良林郷)
キリシタン全盛期の寛永年間(1624-1643)、久留米の徳雲寺(元和9:1623開山:現 久留米市寺町)の開基:回厳の弟子にあたる石峯祖芳が長崎入りし仏教の普及を始めます。さらに石峯は知識が豊富だったため、時の第12代長崎奉行馬場三郎左衛門は唐からの書物の検査を行う書物改役を命じ、正保元年(1644)その書物改の功績をたたえ奉行は寺の建立を許可します。一方、唐通事:頴川官兵衛は寺の建立の話を聞き自らの別荘地を石峯に寄進します。そしてその別荘地に禅林寺が建てられるのです。正応3年(1654)唐僧隠元禅師が来崎の際、同じ臨済宗ということもあって石峯は興福寺にたびたび足を運び、明暦元年(1655)には隠元禅師が禅林寺を訪ね山門の額を書いたといわれています(現存せず)。文化5年(1808)より長崎に事変があった場合、島原松平氏の陣屋に指定されます。現在、本堂は老朽化のため撤去され座禅堂、納骨堂などが置かれた錬成道場が建てられています。




B-49:伊良林観音堂(いらばやしかんのんどう)
伊良林1-4-11(長崎村伊良林郷字大窪)
伊良林観音堂の創建は不明ですが、その昔、伊勢町の小田久三郎によって観音菩薩像と弘法大師像を建立され、観音菩薩像は小田久三郎が祈願のために像を背負い諸国を巡歴したといわれています。このお堂は長崎四国八十八か所霊場第四十一番霊場となっています。

○鳥居建設碑(とりいけんせつひ)
伊良林1-2-28(長崎村伊良林郷)
この鳥居建設碑は明治33年(1900)伊良林稲荷神社(若宮神社)一の鳥居建立を記念して建立されたものです。




B-48:灣月石(わんげついし/みかづきいし)【光源寺境内】
灣月石は光源寺の裏手にある巨大な石のことで、真ん中に三日月の形をした傷があります。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会にも紹介され、現在もそのままの形で残っています。一方、光源寺山門前のから若宮稲荷神社の方に進むと伊良林観音堂がありますが、そのお堂の脇にも大きな石があって、一説には、空の上からお月様が落ちて来てお月様は途中で半分に割れ、一つは光源寺の横に、もう一つは伊良林観音堂のところに落ちたといわれています。




B-47:長崎西国三十三観音霊場【光源寺境内】
長崎西国三十三観音霊場とは、関西を中心とした西国三十三観音霊場に由来したもので、長崎市内にある観音堂33ヶ所をお巡りするものです。お巡りは春と秋の2回行われ3月と9月の17-18日の二日間でお巡りします。光源寺境内にあるお堂は第二十一番霊場にあたり、聖観世音菩薩がお祀りされています。




B-46:光源寺墓域
光源寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】報時所を設置した第20代長崎奉行稲生七郎右衛門正倫(-まさとも)、唐通事:平野家の祖である馮六(ほうろくorひょうろく)、出島町人の1人:海老屋四郎左衛門の子孫という足立家、横山又兵衛を祖とするオランダ通詞:横山家、【江戸時代後期】精霊船に使う双盤の鋳物師:村田伝吉、亀山社中の一員で宇和島藩士:二宮又兵衛、幕末長崎の警備を行った振遠隊の隊長:中村六之助、【明治期以降】長崎商工会議所の前身である長崎商法会議所を立ち上げた松田源五郎、漢学者で長崎市史の編纂を行った足立敬亭など。




B-45:浄土真宗本願寺派寶林山玄成寺(-ほうりんざん-げんじょうじ)
伊良林1-4-4(長崎村伊良林郷字大窪)
江戸時代初めに長崎入りした光源寺開基の松吟は、同郷である柳川瀬高字下之庄にあった玄成寺住持:道倪(ドウゲイ)を従えていて、寛永14年(1637)光源寺創建と同じく寺中に玄成寺を置きます。その後、光源寺は境内地に霊華院(のちに東洞庵)を創建していましたが、享保5年(1720)玄成寺に改称し光源寺末寺となり、万延元年(1860)本山の許しを得、正式に寺号を持ちます。明治13年(1880)本山などの許しを得、独立寺院となります。




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