広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-210:浄土宗法壽山地福院跡(-ほうじゅざん-じふくいん-あと)
新大工町5-3(旧 伊勢町)
寛永8年(1631)僧の嶺光はキリシタンの排斥と仏教復活のため伊勢町に一寺を建立。始めは日天山廣照院雲光寺と称していました。一時衰退期もありましたが信徒を集め享保年間(1716-36)には堂宇を改築し、天霊山龍淵(リュウエン)寺と改称します。明治29年(1896)浄土宗鎮西派に転派し知恩院末寺の法壽山地福院に改称。老朽化と周辺の再開発により平成2年(1990)長与町高田郷1824-10に移転します。




A-209:天満市場(てんまん-いちば)
新大工町6(旧新大工町)
大正時代初期、長崎市は片淵にあった大塚市場を桜馬場天満宮境内にしばらく移転させ、そして天満市場と称し営業を行ないます。その後、現在の新大工町へ移りますが名称はそのままに天満市場と称して営業を続けます。

新大工町天満宮(しんだいくまち-てんまんぐう)
江戸時代、新大工町には新大工町天満宮の石祠がありましたが、明治2年(1869)に松の森天満宮境内に移転し、今博多町天満宮に合祀されています。




A-208:新大工町(しんだいく-まち) 現 新大工町
新大工町の歴史は、現在の魚の町:松翁軒前-東新橋間の通りから始まります。長崎開港後、大工職人が集まって開かれたこの町を大工町と呼び長崎の発展と共に賑いを見せます。長崎の町がさらに発展するにつれに大工の需要も増し、また、大工仕事は広大な敷地を必要とするため、当時の長崎の外れの中島川上流に新たに町が開かれます。新しく開かれた大工町いうことで新大工町となり、当初からあった大工町は本大工町となります。その後、寛文の改革(1672)によって町域の整理が行なわれ新大工町は中島川で分割、川の東側を新大工町、西側を出来大工町に改称されます。このほか船専門の大工(造船)の町も開かれ船大工町も作られます。




A-207:中島体操場跡(なかしま-たいしょうじょう-あと)
桜馬場1丁目1(長崎村馬場郷)
中島体操場とは長崎県師範学校の運動場のことで、明治22年(1889)に桜馬場(現 桜馬場中学校)に移転した後から、昭和の始めまで使われていました。昭和7年(1932)には中島体操場のところに長崎教育会館が建てられ、昭和22年(1947)今度は連合軍(米国)によって原子爆弾障害調査委員会(A.B.C.C)が置かれます。昭和50年(1975)放射線影響研究所(放影研)と変わりその後、道路拡張のため蛍茶屋へ移転します。




A-206:中島高木家屋敷跡(なかしま-たかぎけ-やしきあと)
桜馬場1丁目1(長崎村馬場郷字中島)
現在の桜馬場の電車通りから川端にかけての地域は、江戸時代、高木家の屋敷がありました。この高木家は長崎代官高木作右衛門忠興の三男、高木道之助忠大の家系にあたり、道之助忠大は文化5年(1818)砲術其外御備向御取扱を経て、文政2年(1819)鉄砲方となった人物です。また、この鉄砲方はその後も世襲され代々続きます。当時、ここの屋敷の庭園は大変有名で超然樓とも呼ばれ広大な敷地を有していましたが、明治に入り長崎県師範学校の中島体操場となります。




A-205:舞鶴座跡(まいづるざ-あと)
新大工町5-10及び伊勢町(旧新大工町)【現 玉屋デパート付近】
明治17年(1884)頃、当時の県令(知事)石田英吉が発起人となり劇場を作る動きが起ります。そして多くの有志を募り、明治23年(1890)舞鶴座を竣工します。当時、舞鶴座は西日本第一といわれた劇場で、総檜造りで廻り舞台などがある収容人数2,296人を誇る劇場でした。また、この舞鶴座には多くの名優が訪れたといわれ大変な賑いを見せていました。その後、大正4年(1915)長崎劇場と改称、大正6年(1917)三菱長崎造船所所有となり中島会館と変わり、三菱の娯楽施設となるのですが、第2時大戦中に解体されます。位置は現在の玉屋デパートから中島川にかけての広大なものでした。




A-204:上野彦馬宅跡/上野撮影局跡
(うえの-ひこま-たくあと/うえの-さつえいきょく-あと)
伊勢町4-19(長崎村馬場郷字中島)
上野彦馬(天保9:1838-明治37:1904)は御用時計師:幸野俊之丞(後の上野俊之丞)の四男として銀屋町に生まれます。20歳前にオランダ通詞:名村八右衛門についてオランダ語を学習、安政5年(1858)化学研究所である舎密(せいみ)試験所に入り、さらに海軍伝習所でポンペに化学を学びます。その後、フランス人ロッシュから写真術の指導を受けフランスから写真機を購入、江戸神田で萩藩主らを撮影します。そして文久2年(1862)帰崎し中島鋳銭所跡地に上野撮影局を開き写真文化の発展の基礎を築くのです。明治7年(1874)アメリカの金星観測隊の依頼で大平山で観測を行ない(後の星取山)、明治10年(1877)西南戦争に従軍、これは日本初の軍事報道カメラマンとなるのです。墓所は晧臺寺後山。




A-203:中島鋳銭所跡(なかしま-ちゅうせんしょ-あと)
伊勢町4-28(長崎村馬場郷字中島)
江戸時代(17世紀)初期、中国への輸出品は銅(棹銅)が中心で大坂堂島より海路長崎に入っていました。しかし相場の変動によるコストや輸送費がかさみ出したため、長崎に原料を持ち込んで鋳造することになります。寛文元年(1661)輸出用の和銭を鋳る銭座が長崎村馬場郷に置かれ、元豊通宝(1文銭)と呼ばれる銭が鋳られます。この中島鋳銭所は18世紀始めまで続き、その後、東浜町(現 銅座町)に移ります。現在、付近の広瀬宅には銭を磨くための石、銭磨き石が残っており、前の中島川に架かる橋は中島鋳銭所にちなみ銭屋橋と命名されています。




A-202:中島天満宮(なかしま-てんまんぐう)
伊勢町4(長崎村馬場郷字中島)
今から約1100年前の延喜元年(901)菅原道真公が無実の罪で京都から福岡の大宰府に左遷され、5番目の子である長寿麻呂も一緒に大宰府に入りします。延喜3年(903)の道真公没後から約20年して長寿麻呂は元服した際、道真公の木像を彫り自分の屋敷にお祀りします。以後代々佐賀県鳥栖市の轟木にて長寿麻呂の子孫や村の人々によって受け継がれますが、享保17年(1732)轟木の地の災害を機に轟木村の池田義英によって長崎に逃れ、崇福寺の謙光和尚を訪ねます。謙光和尚は町年寄の高島四郎兵衛らに指示をして臨川院というお堂を建て道真公の木像をお祀りします。これが創建の元文元年(1736)で、明治になり中島天満宮と呼ばれるようになり、今に至ります。しかし、これらの沿革にはいくつか疑問があり伝説的な要素が大きいようです。




A-201:中島聖堂跡(なかしま-せいどう-あと)
伊勢町4-28(長崎村馬場郷字中島)
正保4年(1647)儒学者の向井元升は、当時の長崎奉行:馬場三郎左衛門に願いを出し東上町(現 上町4-14)に官学として聖堂を立てます。聖堂とは孔子を祀った儒教のお堂で儒学の学問所でもあって聖堂が立山付近に立ったので立山書院と呼ばれます。万治元年(1658)向井元升が京都に移り、その上、寛文3年(1663)の大火の影響で聖堂は一時途絶えてしまいますが、延宝4年(1676)長崎奉行:牛込忠左衛門は南部竹寿を迎え聖堂を再興。その後、向井元升の三子:元成に継がせ、以降は明治維新まで向井家が世襲します。一方、正徳元年(1711)からは伊勢町の旧鋳銭所(中島銭座)に聖堂を移し規模を拡大しますが、明治維新後の明治4年(1871)諸制改革により官学の地位を失うと聖堂は向井家の管理となり衰退し、明治30年(1897)に大浦に孔子廟を開かれた際、備品等が移され、建物は解体され大成殿と大学門のみ昭和34年(1959)に興福寺に移転保存され、今に至ります。




A-200川端の洗濯場/いけす(かわばたの-せんたくば/いけす)
伊勢町4/中島川沿い(旧伊勢町)
阿弥陀橋上流側の伊勢町寄りに昭和57年(1982)長崎水害以前まで数ヶ所のいけすの跡がありました。昭和40年(1965)頃まで使用されていて、いけすや洗濯などに広く利用されていたのですが、付近のビル建設や地下水の汲み上げなどで地下水は枯渇し、いけすだけが57年水害までそのままの形で存在していましたがその後の河川改修により姿を消してしまいました。そのいけすは上段中断下段と分かれていて、上段は割烹泉屋(旧東濱町)、中段は料亭青柳(丸山町)が共に鰻の一時置きに使用し、下段は付近の洗濯場に使用されていました。一方、この湧水ですが、一説には、夫婦川の由来ともなった織部神社(桜馬場天満宮裏)横の湧水より源を発しているといわれていました。




A-199:阿弥陀橋/第一橋(あみだ-ばし/だいいっきょう)
伊勢町-八幡町間/中島川(銭屋川)
阿弥陀橋は江戸時代、第一橋と呼ばれ、俗称では極楽橋といわれていました。明治になって西道仙により阿弥陀橋と命名されます。この阿弥陀橋ですが、元禄3年(1690)大阪の和泉出身の貿易商人:園山善爾(そのやま-ぜんじ)の私費で架けられました。中島川に架橋した最初の日本人です。当時、園山善爾は唐貿易で莫大な利益を得たため地域貢献のためと阿弥陀橋を架橋しました。現在、阿弥陀橋下流の光永寺境内に彼の功績を称えた園山善爾石像や石碑が立っています。このほか、阿弥陀橋のそばには昔から阿弥陀堂があり阿弥陀像が安置されています。これが極楽橋阿弥陀橋となったゆえんといわれています(罪人が必ず通る橋で阿弥陀橋と解釈する説もあります)。しかし阿弥陀像などは明治維新を受け取り払われ寺町の深祟寺に置かれます。さらに昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。




A-198:伊勢宮神社(いせのみや-じんじゃ)
いつの頃からか新高麗町に天照皇大神を祀った祠がありました。しかし、長崎開港直後の天正時代、キリシタンの勢力により破却状態にありました。その後、寛永年間(1625頃)キリシタンを排除するようになって来ると、新高麗町の町民らが寛永5年(1628)にこの天照大神を再興する機運となります。そこで町民は天台宗修験者:南岳院存祐を推して奉行所に申し出をし創建となります。さらに、延宝8年(1680)新高麗町伊勢宮があるところから伊勢町に改称しています。この伊勢宮は三重県伊勢市の伊勢神宮と同じように川端にあり、川が常世の国につながるという伊勢神宮の造りに模したものといわれています。また、拝殿の三方には元禄9年(1696)に代物替貿易取締伏見屋四郎兵衛が奉納した三十六歌仙の額があります。




A-197:サン・ロレンソ教会跡(さんろれんそきょうかい-あと)(San Lorenzo)
伊勢町2-14(旧伊勢町)【伊勢宮神社】
長崎の町建がまだ始まる前(16世紀末期)、榎津町(現 万屋町賑橋の通り)の東側には、秀吉の朝鮮出兵後、日本に渡って来た朝鮮高麗の人たちが住んでいました。当初はそこを高麗町と呼んでいましたが、町の拡大に伴い高麗町の人を中島川上流に移転させます(高麗町は鍛冶屋町に改名)。そして、移転した場所は新しく開かれたということで新高麗町と呼ばれるようになります。そして朝鮮高麗の人々のほとんどがキリシタンで、その中心にサン・ロレンソ教会が建てられたものと考えられています。創立はキリシタン全盛期の慶長15年(1610)で、慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。




A-196:高麗橋/第二橋(こうらい-ばし/だいにきょう)
伊勢町-八幡町間/中島川(銭屋川)
高麗橋は江戸時代、第二橋と呼ばれ、俗称では伊勢宮橋といわれていました。明治になって西道仙により高麗橋と命名されます。高麗とは橋の架かる伊勢町の旧名:新高麗町からとったもので、承応元年(1652)に架けられました。しかし誰が架けたかが正確にはわからず、長崎図志などには「明人平江府等建」とあり地名なのか人名なのか、おそらく当時の興福寺の檀徒の中国江蘇省蘇洲出身者ではないかと考えられています。このほか伊勢宮の宮司が寄付を集めて架橋したとか、江戸時代の旧町の28町が寄進して架橋したなど説も様々。しかし昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、その後の河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。現在、橋全体を西山ダム下の公園に復元されていて、光雲寺山門に旧高麗橋の親柱を見ることができます。




A-195:中島川(なかしま-がわ)の橋名について
江戸時代、中島川の橋には特に決まった名称はなく単に番号だけが打たれていました。これは便宜上のもので長崎奉行所によって付けられ、阿弥陀橋を第一橋、下流に向って高麗橋を第二橋、大井手橋を第三橋…当時の一番下流の橋:万橋が第十四橋と付けられていました。しかし、全く名前がなかった訳ではなく俗称でいろいろな名前がありました。例えば現在の賑橋は右岸の旧材木町側からは材木町橋、左岸の榎津町側からは榎津町橋と呼び、桃渓橋のことを架橋した卜意から卜意橋、眼鏡のような形からめがね橋などと呼ばれていました。やはり不便ということで明治15年(1882)頃、橋名をつける機運となり漢学者で初の長崎区議会議長となった西道仙(にし-どうせん)に一任されることになります。それが現在の橋名です。また、現存する桃渓橋、眼鏡橋、袋町橋(袋橋)の親柱に刻まれた橋名もこの頃に彫られたものです。




A-194:伊勢町(いせ-まち)
長崎の町建がまだ始まる前(16世紀末期)、榎津町(現 万屋町賑橋の通り)の東側には、秀吉の朝鮮出兵後、日本に渡って来た朝鮮高麗の人たちが住んでいました。そこで当初はそこを高麗町と呼んでいましたが、町の拡大に伴い高麗町の人を中島川上流に移転させます(高麗町は鍛冶屋町に改名)。そして、移転した場所は新しく開かれたということで新高麗町と呼ばれるようになります。その後、延宝8年(1680)町内に伊勢宮がお祀りしているところから伊勢町に改称されるのです。昭和56年(1981)町界町名変更で現在の町域となリます。




A-193:真言宗宝林山青光寺跡/出来大工町不動堂
(-ほうりんざん-しょうこうじ-あと/できだいくまち-ふどうどう)
出来大工町15〜20 (旧出来大工町)
正保元年(1644)延命寺開基の僧:龍宣は弟子の慶順に出来大工町に一寺を建てさせました。そして青面金剛尊を祀り青光寺と命名します。一方、元禄9年(1696)僧卜意は青光寺の前にお堂(不動堂)を建て石像の不動明王をお祀りします。しかし天保7年(1836)の火災で損傷し木造の不動明王像になります(台座は当時のもの)。明治維新後、維持が困難となり青光寺および不動堂を廃されることになるのですが、町内の有志の尽力によって不動堂だけが残ることになり現在に至ります。




中島川(なかしま-がわ)のこと
中島川が現在のような形態になったのは長崎開港後のことで、開港以前は蛍茶屋付近まで※海岸線が迫っていました。当初、中島川大川と呼ばれ、徐々に川に土砂が溜まったり中洲を埋立ながら町が造られていくのです。この中洲があったため中島川になったのではないでしょうか。江戸時代初期には現在の形態が確立し多くの石橋が架けられます。また中島川は多くの別名を持ち、下流は中島川ですが大井出橋付近の合流部を二股川、西山からの流れを西山川、立山から西山への流れを五郎川、大手橋(堂門橋)付近を堂門川といい、本流の阿弥陀橋付近を洗濯川、銭屋橋付近を銭屋川、鳴滝との合流部をニの瀬川、蛍茶屋一の瀬橋付近を一の瀬川傾城川といいます。さらに矢の平からの流れを矢の平川といいます。江戸末期は中央橋付近が河口でしたが、明治の港湾改良工事によって大波止付近に移り現在に至ります。※約500年前の地球は現在より温度が高く、海岸線も高かったと考えられています。




A-192:桃の木大工町(もものき-だいくまち) 現 出来大工町
出来大工町は当初、新大工町の一部で、寛文12年(1672)の寛文の改革により西山川を挟んで分割された町でした。その出来大工町の東側、桃渓橋付近を以前まで俗に桃の木大工町と呼んでいました。付近に桃の木が多かったところから桃渓橋と命名されたように、出来大工町の一部であるこの地域はあえて桃の木大工町と呼んでいました。一方、出来大工町の西側は新大工町-出来大工町の一番下にあたり、やはり区別する意味で下大工町(現出来大工町電車通り側)と呼ばれました。




A-191:桃渓橋(ももたに-ばし)
出来大工町-伊勢町間/西山川(堂門川)
桃渓橋は延宝7年(1679)僧:卜意(ボクイ)が在留の唐人から広く寄付を集めて架けられた橋で、架橋当時、付近にたくさんの桃の木があったところから桃渓橋と呼ばれています。架橋後、流失の記録が全くなく、昭和57年(1982)の長崎水害でも全壊を免れ今に至っています。この架橋した卜意は信仰が厚く架橋の翌年、延宝8年(1680)桃渓橋のそばにお堂を作り石地蔵を祀り、さらに元禄9年(1696)には不動明王の石像をお祀りします。そのため石地蔵を卜意地蔵桃渓橋卜意橋ともいいます。なお、その石地蔵は現在、光雲寺山門そばに置かれています。




火事除け地蔵(かじよけ-じぞう)【光雲寺境内】
明治16年(1883)光雲寺の南側、大井手町で火災があり光雲寺の隣りまで延焼したことがありました。その火災の鎮火後、町内の者が光雲寺の僧のおかげとお礼に行きます。聞くところに寄れば、延焼の際、黒衣の僧が冷静沈着に消火に努め、鎮火後に光雲寺の中に戻って行ったとのこと。しかし、光雲寺の僧は消防の指示で外出しなかったとあって、町内の者は不思議に思いながら帰っていたところ、地蔵堂の地蔵尊が黒ずんでいるのを見つけます。つまり、火災の時の僧とは地蔵尊だったと判かり、そこからこの地蔵尊火事除け地蔵と呼ばれるようになります。現在この地蔵尊光雲寺山門下に安置してあります。




A-190:曹洞宗月桂山光雲寺(げっけいざん-こううんじ)
出来大工町4 (旧出来大工町)
光雲寺は正保3年(1646)曹洞宗の僧:松雲宗融と晧臺寺の一庭が長崎奉行馬場三郎左衛門に願いを出して開かれました。開基を一庭、2代住職を宗融として始まります。一方、言い伝えでは光雲寺はもともと長崎村本河内郷字昌源(現本河内町蛍茶屋付近)のところにあって、キリシタンによる弾圧で衰退してしまい、そこで宗融が出来大工町に移し一庭に協力を仰ぎ開かれたともいわれています。現在、蛍茶屋電停横に光雲寺の墓地があるのは、こういった経緯があったからです。また、光雲寺本尊は慶安年間(1650頃)唐通事の頴川官兵衛、陸一官らによって中国普陀山にお祀りしてあった釈迦如来像、普賢菩薩像、文殊菩薩像の各像を光雲寺に移したものです。昭和50年(1975)ごろ道路拡張のためセットバックし鉄筋コンクリート建3階の建物に変わります。




A-189:23メートル道路
江戸時代から明治大正にかけ新大工町の通りは交通の要所として栄えますが、明治初めの日見峠の開削(かいさく)や大正の日見トンネルの開通で時代が車社会に移り、新大工町の通りは混雑し始めます。一方、昭和の初め、長崎市は九州最大の都市ということもあって九州に誇れる道路計画を打ち出します。それが幅23メートルの九州最大の道路で昭和9年(1934)に完成しました。この道路には3つの橋(一ノ橋、中ノ橋、鎮西橋)があり、欄干には御影石が使われ、さらに灯ろうまで設けるなど当時の最高の装飾が施されます。平成元年(1989)日見バイパスとして道路がさらに拡幅され幅35メートル道路になりましたが、今でも3つの橋の欄干は当時のまま使用されています。




A-188:馬町(うま-まち)
馬町は諏訪神社の門前に広がる町で、今も昔も長崎と郊外とを結ぶ重要な交通の要所になっています。特に江戸時代、長崎奉行所などから長崎街道につながる重要な拠点で、常時、公用の荷物を運ぶ馬がいつも待機していて輸送基地になっていました。この馬町で荷物を載せた馬は次の宿である日見宿などへ向かい、荷物を下ろすと独りでに馬町に戻って来たといわれています。当初、馬町の町域は広範囲に及んでいたので寛文12年(1672)に馬町の通りをはさんで分割され、諏訪神社側を北馬町、中島川寄りを南馬町に分けられました。その後、明治になり現在のように再び統合され馬町となります。




A-187:堂門橋/大手橋(どうもん-ばし/おおて-ばし)
馬町-新大工町間/西山川(堂門川)
馬町と新大工町とを結ぶ堂門橋は、堂門川をまたいでいるところからこう呼ばれます。この堂門橋ですが長崎の中心地が桜馬場地区だった頃、つまり長崎氏が領主時代だった頃にはすでに橋は存在していました。しかしそれは木廊橋(屋根付きの木製橋)で、当時、長崎氏城下の門にあたり金蘭豪華な美しい木廊橋だったと伝えられています。のち一時竹橋となり、慶安3年(1650)中国福建省の貿易商:高一覧によって石造アーチ橋に架け替えられます。そのときは新しい橋ということで新橋と呼ばれます。その後、堂門橋は流失の記録はなく昭和9年(1934)現在の国道の開通の際、擬宝珠親柱1本を(欄干の親柱)を眼鏡橋に補充、その後、欄干ほか橋上部を鉄筋コンクリ−ト橋に改造、現在は下部アーチ部のみ現存しています。現存では眼鏡橋(寛永11年:1634)に次ぐ2番目に古い石橋です。




A-186:堂門川(どうもん-がわ)
中島川の支流、西山川の桃渓橋から大手橋までの間を堂門川といいます。堂門とはその昔、川上に毘沙門堂があって、その門前にあるところから堂門川と呼ばれるようになりました。その毘沙門堂ですが、おそらく諏訪神社の参道(流鏑馬馬場付近)にあって、諏訪神社が寛永年間(1624〜43)に神社と寺院を分離した際、隣りの神宮寺に移されたものと考えられます。現存せず。




旧西山高部水源地(きゅう-にしやま-こうぶ-すいげんち)
西山4丁目、片淵5丁目、木場町(旧長崎村西山郷、片淵郷、木場郷)
幕末から明治にかけて長崎ではコレラが流行し、居留地の多くの外国人から近代上水道建設を求められるようになります。そして明治24年(1891)日本初の近代水道用ダム:本河内高部水源地が造られます。しかし当時の長崎市の人口は5.5万人でしたが、人口増加に伴い水道の需要が増し明治37年(1904)本河内低部水源地西山高部水源地が相次いで造られ、西山低部水源地として浄水場、配水池が完成します。このときすでに長崎市の人口は11万人を越えていました。昭和57年(1982)の長崎水害以降、防災工事が進められ平成13年(2001)多目的ダム:西山ダムとして生まれ変わり、現在、見学施設や復元された高麗橋などの市民の憩いの場となっています。




A-185:長崎高等商業学校跡/長崎経済専門学校跡
片淵4丁目1〜2 (旧長崎村片淵郷)【長崎大学経済学部】
明治38年(1905)勅令第96号により長崎高等商業学校(通称:高商)を設立。東京の第一高商、神戸の第二高商に次ぐ第3番目の高商で長崎医学専門学校(通称:医専)と共に長崎の最高教育機関でした。当時、この長崎高等商業学校には中国や旧満州から多くの留学生を向え、また多くの実業家を生み出しました。昭和19年(1944)勅令第165号により長崎経済専門学校と改称。長崎工業経営専門学校(昭和21年廃止)を併設します。昭和26年(1951)国立大学設置法により長崎経済専門学校長崎大学経済学部に変わり平成16年(2004)国立大学法人化します。




A-184:片淵(かたふち)
片淵はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村片淵郷とします。明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村片淵郷、明治31年(1898)長崎市片淵郷、大正2年(1913)片淵郷は片渕町1〜3丁目に分けられ、のちに1〜4丁目に再編します(一部が先に長崎市に編入)。地名は古くは偏潭とも書き、そばを流れる西山川はその昔、多くの淵があって烏亀淵、準提淵、楠淵、瓢箪淵などがありました。また、その名の通り西山川の片側に淵があったところから地名となります。




A-183:西山御薬園跡(にしやま-おやくえん-あと)
下西山町3〜10、上西山町6〜11 (旧長崎村西山郷)
御薬園はオランダ船や唐船から持ち込まれた薬草を栽培するところで、当時、江戸、駿府、京都、長崎の4ヶ所に置かれていました。長崎の薬園は江戸時代初期、長崎代官の末次家十善寺郷(現 館内町付近)に開いたのが始まりといわれ、末次家が不祥事により滅亡したあとは、延宝8年(1680)幕府経営の本格的薬園と変わります(8,700坪)。元禄元年(1688)十善寺郷の地に唐人屋敷建設が始まると薬園立山奉行所内に移転となり、享保5年(1720)一旦、十善寺郷(現十人町付近)に移転しますが、最終的には文化7年(1810)西山郷に置かれ明治初年まで続くのです。西山御薬園は1,228坪(または1169坪)で、現在、番人の家屋があったといわれる瀬戸口宅庭園には薬の神「神農様」が、松森神社には少彦名神がお祀りされています。




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