広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成14年 〜2002年〜
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長崎人の元日の習慣について。元旦は朝、家内の神仏にお灯明をあげ、雑煮や屠蘇(とそ)で新年を祝ます。そして、お墓参り初詣でに出かけるのです。このお墓参りに行くというのは長崎人ならではの正月の過し方なのです。そして初詣では、諏訪神社、松の森天満宮、そして伊勢宮を巡ると縁起がいいといわれ、三社詣でといわれます。最近はこういった習慣が薄れてきていますが、後世に伝えて行きたいものです。




今月は来年4月に予定している第2回天神さまウォーク(平成二十五社巡り)でお巡りする長崎市内の天満宮などを紹介して来ましたが、いかがでしたか?お巡りは来年4月27日(日)を予定しています。わたくし山口広助が1日ご案内します。多くの方の参加をお待ちします。
日時:平成15年4月27日(日)
集合場所:松の森天満宮
時間:朝7時45分集合、お払いのあと8時に出発します。




昨日のつづき。もう一つ福岡の話題を。博多座のある博多リバレインの横にも天満宮がお祭されています。近代的なビルの横にお祭されている小さな天満宮は鏡天満宮です。博多リバレインがあるこの場所は菅原道真公が最初に上陸された場所で、ここでも道真公は長旅で疲れた自分の姿を鏡に映したといわれています。そしてその鏡がご神体となり今に伝えられているそうです。




天神と聞いてまず思い浮かぶのは何ですか?九州人は特に天神に関心がありますよね。福岡の繁華街は天神です。知らず知らずのうちに天神と口に出していませんか。この福岡の天神の由来は、繁華街の北東側(天神1丁目)、アクロス福岡の向かい側の水鏡(すいきょう)天満宮にちなんだものです。それは昌泰4年(901)、菅原道真公が無実の罪で大宰府に左遷されたことに始まります。道真公は海路博多に上陸します。上陸後、近くに流れる四十川(しじゅっかわ)に長旅で疲れた自分の姿を映されたます。これが水鏡天満宮の始まりです。今度福岡天神に行かれた際、参詣してはどうですか?




長崎の天満宮を紹介していますが、長崎市内には天神のつく地名が1ヶ所あります。皆さんご存じでしょうか。それは宝町電停から山側に入り銭座小学校の南側の地域、天神町といいます。もともとは銭座町でしたが、戦後の町界変更の際、町内に天満宮があるところからその名がつきました。この天満宮の創建は定かではありませんが、寛永年間(1624〜1643)にキリシタン弾圧のため建立されたと伝えられています。そして江戸時代中期(寛保3年:1743〜)2年間ですが、この付近にお金の鋳銭所、いわゆる銭座が作られこの付近を銭座と呼ぶようになります。また、この付近は長崎のはずれで、正式には浦上山里村馬込(まごめ)郷といい、以上のことから天満宮のことを銭座天満宮とか馬込天満宮というようになります。




天満宮にお祭されている菅原道真公は、歴史上の人物、つまり実在する人物です。そしてその道真公の子孫もいらっしゃいます。一般に「菅原」「菅(すが)」「菅(かん)」「菅野」など“菅”のつく字の苗字は菅原道真公の子孫と考えられていますが、ほとんど関係がないようです。一番の直系は太宰府天満宮の宮司さんで苗字を「西高辻(にしたかつじ)」といいます。大宰府などはその昔、道真公の子孫が多くほとんどが「高辻」でした。そしてその地域の西側に住む「高辻」さんということで「西高辻」となったそうです(説)。長崎ではその高辻家の流れで松の森天満宮の「伊奈」さんが、道真公の末裔(まつえい)つまり子孫といわれています。




毎月25日は天神さまの縁日ですが、特に12月25日を終い天神(しまい-てんじん)といいます。京都北野天満宮では最後の縁日ということで賑っていることと思います。さて、今月は長崎市内の天満宮を紹介して来ましたが、もう一度原点に戻って天満宮についてご紹介します。まず、天満宮天神さま、そして、菅原道真公と必ず出てくる言葉ですが、天満宮にお祭されているのは天神さまで、天満宮にお祭されているのも菅原道真公です。それでは、天神さま菅原道真公かといえば必ずしもそうではありません(参照H14.7/25)。また、天神さまのことを正確には「天満自在天神(てんま-じざい-てんじん)」といい、ここから天満宮と呼ばれます。最後に私の好きな菅原道真公の歌を紹介します。
心だに誠の道をかないなば いのらずとても 神やまもらむ




出雲神社について。いよいよ二十五社目の出雲神社となりました。出雲(いずも)神社は大浦石橋電停から山手に入った出雲町にあります。創建は寛永3年(1626)、初めは体性寺(たいせいじ:躰性寺or體性寺)というお寺で、下筑後町(現玉園町)福済寺付近にありました。この体性寺は寛永時代初め(1624〜)高野山から宥道(ゆうどう)という僧が長崎に入り不動明王と天満宮をお祭したことに始まります。当初はキリシタン弾圧やポルトガル船に唐船といった航海安全を祈念する目的で建てられ、貿易が盛んな時代などは体性寺が最も発展した頃で、逆に江戸末期の貿易不振の頃には財政難となり、明治維新後には天満宮を残すのみとなりました。さらに下筑後町では維持が難しくなり、明治29年(1896)に現在の出雲町に移転します。




楳香崎天満宮について。楳香崎(うめがさき)天満宮梅香崎天満宮(梅ヶ崎天満宮)と書いたり、十人町天満宮ともいいます。現在、海星学園から活水学園にかけて小高い丘になっていますが、当時はこの丘を境に大村藩(大浦側)と公領とに分かれ、江戸時代初期には遠見(とおみ)番所が置かれていました。この遠見番所は異国船監視の重要拠点で長崎奉行所管轄でしたが、その役人の中に1人の筑前(福岡県)出身者がいたそうです。彼は赴任前から天神さまを信仰、遠見番所に採用された時(万治年間:1658〜)にも遠見番所の上手に天神さまをお祭していました。やがて、遠見番や唐人番(唐人屋敷警備)、長崎奉行所の役人など多くの参詣者が訪れるようになります。その後、大徳寺の移転などで梅香崎天満宮も移転しますが、やはりここは霊験あらたかな場所ということで天満宮が続きます。現在では十人町の氏神さまとしてお祭されています。




梅香崎天満宮について。梅香崎天満宮は現在の大徳寺公園にある神社のことで篭町(旧本篭町)の氏神さまです。梅香崎天満宮の歴史はそのまま大徳寺の歴史ということになります。大徳寺は初め伊勢町にお堂を構えていましたが、しばらくして月珍という僧がこの大徳寺を譲り受けます(元禄16年:1703)。翌、宝永元年(1704)に梅ヶ崎(現十人町付近)に移転。また当時、梅ヶ崎の上手には長崎奉行がお祭する天満宮がありここを天神山と呼んでいました。大徳寺はこの天満宮も合わせてお祭するようになります。その後、大徳寺が現在の大徳寺公園に移転、天満宮も移転します。天満宮が梅ヶ崎にあったので梅ヶ崎天満宮と呼ばれます。その後、大徳寺はますます格が上がり境内が整備されていきますが、明治維新を迎え幕府の支援がなくなり、大徳寺は廃寺となり解体。天満宮だけ残す形となります。今では灯ろうや社殿の一部に大徳寺の面影を見る事が出来ます。




肇劫山(ちょうこうざん)本行寺について。本行寺(ほんぎょうじ)は日蓮宗のお寺で西小島の仁田小学校と佐古小学校の中間に位置します。創建は明治44年(1911)で当初は日蓮宗の教会所として開かれましたが、後に本行寺と改められます。今回の天神さま巡りでは唯一のお寺ということになりますが、本行寺本堂に天神さまがお祭されているのではなく、1幅の天神さまの掛け軸を所有されているからです。また、その掛け軸はお巡りの当日にしか開帳されません。




梅園天満宮について。梅園天満宮は私の住んでいる丸山町の氏神さまで元禄13年(1700)創建です。その昔、丸山に天神さまを熱心に信仰する安田治右衛門という丸山の乙名(おとな:町役人)が住んでおりました。治右衛門が町年寄宅から帰る時、丸山の二重門(現丸山交番前)を通り抜けたとたん、治右衛門に恨みを持った梅野五郎左衛門から左脇腹を槍で突きえぐられます。五郎左衛門は仕留めたと思い自害します。そして治右衛門は屋敷に担ぎ込まれ介抱されるのですが、服は裂け血は流れているのに少しの傷もなく、しばらくすると息を吹き返します。これは日頃から信仰していた天神さまのおかげと思い天神さまの祠に近付くと、扉が開き天神さまが出て来られました。よく見ると天神さまの像から血が流れていたそうです。このことからこの天神さまを身代り天神と呼ぶ様になり、長崎奉行によって梅園天満宮と命名されます。それから約300年、今でもいろいろと身代りになって下さいます。




八劒神社について。八劒(やつるぎ)神社は正覚寺電停から旧茂木街道を上った所で、国史跡「高島秋帆別邸跡」の隣りに位置します。創建が延宝年間(1673〜)で日本武尊(やまと-たけるの-みこと)をお祭しています。この八劒神社にはいくつかの伝説があって、八劒神社のお使いの白蛇が現れたとか、八つの劒が土の中から掘り出されたなど不思議な話が残っています。さて、天満宮ですが、社殿の裏手に大きな石の祠(ほこら)があって、ここに天神さまがお祭されています。この祠は坂の上天満宮(H14,9/25)の初期の頃の祠で、なぜこの場所にあるのかは分かっていませんが、恐らく長崎でも最大級の大きさを誇ります。




愛宕神社について。愛宕神社愛宕山を指し頂上に上社、ふもとに下社をお祭します。ちょうど玉木高校の裏手が下社になります。愛宕神社の創建は、その昔、山伏の宥慶(ゆうけい)という僧が立山に庵を建てたことに始まり、寛永20年(1643)愛宕山に愛宕大権現をお祭してここが開かれます。初めはお寺としてお祭され、祭神が火の神様ということもあって江戸時代などは多くの市民の参詣したそうです。そして明治維新以降、お寺から神社に変わり現在に至っています。そして天満宮ですが、下社の境内にお祭されていて愛宕天満宮と呼ばれています。




八坂神社について。八坂神社は寛永3年(1626)に佐賀の盛宥(せいゆう)という山伏(やまぶし)が須佐之男命(すさのおのみこと)をお祭したことに始まります。初め今篭町に創建され、寛永15年(1638)に現在地に移ります。初めは宝樹山延寿院現応寺といいお寺としてお祭されますが、明治維新を経て八坂神社に変わります。そして天満宮ですが、お隣りにある清水寺境内に清水寺の鎮守さま(一説には高野平天満宮という)としてお祭されたものが、明治になって八坂神社に移されます。それと以前、後山にあった笠頭山天満宮も合わせてお祭され末社として鎮座します。これが八坂神社の天満宮ということになるのです。ちなみに現在では今篭町天満宮もいらっしゃいます(12/15参照)。




水口天満宮について。水口(みのくち)天満宮は昭和30年代までお社が残っていたそうですが、現在、水口天満宮の敷地は転売、切売りされて現存しません。場所は崇福寺の石垣の下、ちょうど料亭春海の隣りに位置し八坂マンションが建っている場所になります。創建は寛永3〜6年(1626〜9)頃で本石灰町町人の明石兵左衛門がこの地に天満宮をお祭したことに始まります。当時はこの付近は高野平郷に属し水田が続いていたそうで、天満宮の辺りが水源であった所から水口というようになったそうです。その後、鳥居や参道の整備が続いていくのですが、昭和30年代をもって歴史を閉じます。(他説あり)




今篭町天満宮について。今篭町は現在、鍛冶屋町の一部で崇福寺前からレストラン銀嶺前までの通りをいいます。この通りは今では道路拡張で広い通りになっていますが、以前までは崇福寺前から発心寺前-大音寺前-銀嶺前とカギ型に曲がった通りでした。そして今篭町天満宮というのは今では道路の真ん中、つまり崇福寺から下がって突き当たりの場所(Tシャツナカノ前)にありました。
 今篭町天満宮は寛永18年(1641)に快元という僧が観音さまをお祭したことに始まります。初めは南光寺といっていました。このお寺は市街地に近く数度の火災や台風などの被害にあうことが多く、なかなか発展する事が出来ませんでした。そして明治維新を迎えます。明治維新ではお寺と神社を分離しなければならなかったため、以前までのお寺を廃し、付近の大音寺境内にあった天満宮をこの場所に移し変え、名称も今篭町天満宮と改めました。ちなみに大音寺境内の天満宮は貞享2年(1685)の創建のものです。現在、御神体は八坂神社にお祭されていて、鳥居は松の森天満宮境内に存在します。




笠頭稲荷神社について。笠頭(かざがしらorかさかしら)は風頭のことですが、ここでは笠頭稲荷神社と書きます。笠頭稲荷神社は風頭公園の下、ちょうど坂本竜馬像の下付近に当りますが、笠頭稲荷神社は管理する人や参詣者がなく、今では石仏などを残すのみでお社は残っていません。目印は隣りの松姫稲荷神社です。笠頭稲荷神社は江戸時代の享保12年(1727)に寺町にある皓台寺の鎮守さまとして創建します。しかし明治維新のときお寺と神社が分離され皓台寺境内の一番山頂となる現在地に移される訳です。そして天満宮ですが、今残っている石仏の中に菅原道真公の石像を見る事が出来ます。これが当時から残る御神体で、江戸時代の二十五社巡りには必ずお参りされていました。




松嶋稲荷神社について。松嶋稲荷神社は国道34号線を蛍茶屋から日見峠に向い、水源池の手前左側にあるお稲荷さまです。創建ははっきりしませんが、天保2年(1831)に鳥居の建立の記録があるところから170年以上の歴史を持つことは間違いありません。また、当時から付近の人々には大変親しまれたお稲荷さまでした。安政元年(1854)には出来大工町の光雲寺境内にあった松嶋稲荷がこの地に移転、当初のお稲荷さまと合わせてお祭されます。ここから松嶋稲荷と呼ばれるようになりました。最近では国道拡幅のため谷側に移転していますが、実はこの松嶋稲荷は大正11年(1922)にも同じ国道の拡幅のため移転させられています。江戸大正平成と移転に関わりの深い松嶋稲荷神社でした。ところで天満宮ですが、本殿横に松嶋天満宮としてお祭されています。創建は明治大正期と考えられますが、いつの間にかこの場所にお祭されるようになりました。今でも付近の人々には大変親しまれています。




水神神社について。水神神社は蛍茶屋電停の先、本河内低部水源地のすぐ下にあります。その昔、渋江公師という水神さまを信仰する者が長崎に入り出来大工町に屋敷を構えます。そして承応元年(1652)その屋敷内に水神さまをお祭します。これが水神神社の創建となります。その後、明暦(1655頃)時代に社殿を炉粕町(諏訪の森文学館下付近)に移転。当時、長崎では河童(かっぱ)の被害に悩まされる者が多く、渋江氏がその被害を食い止めたそうです。これにより市民から絶大なる信頼を得、その上、水神さまという事で航海安全の神ともいわれ、遠くは北海道松前や島根の出雲、九州各地に五島、松浦、野母など多くの漁業に携わる者が参詣したそうです。元文4年(1739)には長崎の水源であった当時の中島川の上流の八幡町(銭屋橋付近)に移転、さらに、大正9年(1920)市街地の拡大とともに現在地に移転します。ここには河童石の伝説がありますが、また別の機会に。




桜馬場天満宮について。桜馬場天満宮は新大工町商店街を抜け桜馬場中学校の方へ向う左側にあります。ここは長崎で最も古い天満宮です。今から約400年前、佐賀県唐津から天神さま(菅原道真公)を信仰する高順という僧が長崎にやって来ます。当時の長崎はキリシタンの全盛期で神社仏閣などすべて破壊されていました。高順はキリシタンを恐れつつも東中町の橋のそば(現在の田中旭栄堂付近)に小屋を建て天神さまをお祭します。慶長12年(1607)のことです。しかし、ここにもキリシタンの投石などの妨害が入るため、一時、八幡町付近に移ります。しかし、妨害が止むことはありませんでした。数年後の慶長18年(1613)キリシタン禁教令や慶長19年(1614)のキリシタン(伴天連)の国外退去令などが行なわれ被害も少なくなります。そして元和9年(1623)に長崎奉行長谷川権六郎によって現在の桜馬場の地を寄進され、翌年の寛永元年(1624)に社殿が造られます。これまでキリシタンによって市内の寺院が破壊されてきましたが、ここの社殿(お堂)完成によって長崎の神社復興の足がかりとなるのです。当時は、お寺として作られましたので威福寺(いふくじ)と呼ばれ、明治になって桜馬場天満宮に変わります。




中島天満宮について。中島天満宮は中島川中流の阿弥陀橋-銭屋橋間の川沿いにあります。創建は元文元年(1736)なのですが、その経緯がちょっと複雑です。今から約1100年前の延喜元年(901)菅原道真公が無実の罪で京都から福岡の大宰府に左遷されます。その時には5番目の子である長寿麻呂も一緒に大宰府に入ります。延喜3年(903)道真公がお亡くなりになり、それから約20年後、長寿麻呂は元服します。そして父である道真公を思い木像を彫り自分の屋敷にお祭したそうです。以後代々佐賀県鳥栖市の轟木にて長寿麻呂の子孫や村の人々によって受け継がれるのですが、享保17年(1732)轟木の地に災害が起きます。轟木村の池田義英は災難を避け長崎の崇福寺の謙光和尚を訪ねます。謙光和尚は町年寄の高島四郎兵衛らに指示をして臨川院というお堂を建て道真公の木像をお祭するのです。これが創建の元文元年(1736)という訳です。後に臨川院天満宮または中島天満宮と呼ばれるようになります。




桶屋町天満宮について。桶屋町は長崎警察署がある地域をいい、旧勝山小学校付近から中島川の一覧橋までの細長い町域です。その昔、桶職人が集まり、この町が誕生したといわれています。桶屋町天満宮は文字通り桶屋町の氏神さまという訳ですが、実をいうとこの神社の創建や歴史ははっきりしておらず、これからの研究調査の対象なのです。自治会長さん、いわく「古文書の解読が難しい」とのこと。しかし、神社の境内には嘉永2年(1849)の鳥居があり、少なくとも150年以上の歴史を持つ天満宮なのです。




伊勢宮について。8/23参照で、その昔、伊勢宮があった場所を新高麗町と呼んでいました。それは高麗人つまり秀吉の朝鮮出兵の際、連れて来られた人々が住んでいたからです(元亀天正時代1570〜1590)。当時この付近に伊勢神宮の天照大神がお祭してある小さな祠があったそうですが、キリシタンの全盛期、すぐに破壊されます。時代は流れ江戸寛永時代(1624〜1643)禁教令でその勢力もなくなり、市内各所に寺院が建ち並びます。同じ様にこの新高麗町の住人(ほとんど日本人と考えられます)も神社復興を奉行所に要請し、寛永5年(1628)伊勢宮が出来るのです。
ところで、天神さまですが、伊勢宮の境内(社殿背後)に数カ所の末社があってその1ヶ所にお祭されているそうです。もともと伊勢町(延宝8年新高麗町から変わる)にあった八坂神社の末社で明治19年(1886)に荒廃のため伊勢宮に移されました。




樺島町天満宮について。樺島町に築城(ついき)クリニックという病院がありますが、ここの庭園に樺島町天満宮があります。ここでは樺島町のくんちの出し物にちなみ太鼓山天満宮とも呼ばれています(太鼓山:たいこやま=コッコデショ)。創建は神社の鳥居に「天保2年(1831)100年祭記念」とあるところから、天保2年の100年前である享保16年(1731)が創建と考えられますが、ここを示す文献がほとんど残っていません。もともと樺島町天満宮は築城クリニックのおとなりの、現在、マンションが建っている所にあって、マンション建設のため追い出された形です。昔は樺島町天満宮の境内は相当な広さを持ち、裏手は長崎港に面していました。江戸時代からの埋立てにより今では内陸の町になりましたが、当時の面影を残す玉垣の一部が今も残されています。




諏訪天満宮とは諏訪神社境内にある天満宮のことで、いわゆる末社(まつしゃ)といわれます。末社とは本社が管理する神社のことで、諏訪天満宮諏訪神社の管理となります。諏訪神社境内には多くの末社がありますが、この諏訪天満宮は春日大社、八坂神社とならんで最も古い末社で、諏訪神社が寛永元年(1624)に創建した後の寛永11年(1634)に春日大社、八坂神社と共に建立されます。その他、元文5年(1740)には山中(やまのなか)天満宮といわれる天満宮ができますが、現在、参詣できるのは諏訪天満宮の1ヶ所になっています。




新大工町天満宮について。この天満宮は現在、松の森天満宮境内の今博多町天満宮社殿の中に合わせてお祭してあります。もともとは名前の通り新大工町内にお祭してありましたが、明治2年(1869)に松の森天満宮境内に移転したそうです。江戸から明治にかけて桜馬場天満宮の前は長崎街道ということもあり相当な賑いでした。片渕や鳴滝、本河内などで取れた野菜などが集まり、市が立っていた訳です。その後この市が新大工町の方へ移り、天満宮の文字をいただき天満市場(てんま-いちば)となるのです。そして、当時の市場の皆さんが感謝の意味を込め小さな祠を立て天神さまをお祭したのが新大工町天満宮になるのです。




今博多町天満宮について。昨日の松の森天満宮はもともと今博多町の編笠橋の際(下流側)にありましたが、明暦2年(1656)に現在地に移転します。移転後の今博多町の場所は、しばらく空地となっていました。そして2年後の万治元年(1658)に大行院常学という僧が庵を建て、仏教の説教場となります。享保8年(1723)川向こうの八幡町の映澄という僧が天満宮を建てます。これが今博多町天満宮の創建です。当時はお寺として祭られ廣徳山大行院といっていましたが、明治維新を経て神社に変わり今博多町天満宮となるのです。しかし、中島川沿いの道路建設が始まり、昭和44年(1969)松の森天満宮境内に移転します。現在、松の森天満宮境内の今博多町天満宮は移転前の社殿や鳥居、社の基礎石などがそのまま使われています。




松の森天満宮は今から380年ほど前の元和年間(1620頃)、松浦の川上久右衛門光房という者が長崎に来たときに始まります。久右衛門は今博多町に住み、天神様が書かれた掛け軸を大切にしていました。ある日、久右衛門は掛け軸を竹筒に入れ庭の柿の木に掛けていると一晩中その筒が光ったそうです。当時はまだキリシタンの勢力が強く、この掛け軸も奪われかねないため家の中に掛けていたそうですが、家の中でも光り輝き、これでは粗末になると考え家の側に小さな社を建てお祭したそうです。これが寛永3年(1626)松の森天満宮の創建になります。明暦2年(1656)この地も市街地に囲まれるようになり現在の西山の地に移ることになるのですが、現在の場所はもともと諏訪神社があった場所で当時は元諏訪または圓山と呼ばれていました。延宝8年(1680)長崎奉行牛込忠左衛門の寄付により社殿が整備されます。牛込奉行は境内東側の枝が三本の松の木を見てこう言いました。「三つの枝を合わせれば森の字になる」このことから松の森と名付けられたそうです。




昨日の話に付け加えです。天満宮二十五社巡りは企画立案を松の森天満宮の総代 宮川雅一氏によって始めたもので、コースの選定及び構成等は山口広助が計画しました。
コースをご紹介します。1松の森天満宮:2今博多町天満宮:3新大工町天満宮:4諏訪天満宮(諏訪神社内):5樺島町天満宮:6坂の上天満宮:7長崎大神宮:8桶屋町天満宮:9伊勢宮:10中島天満宮:11桜馬場天満宮:12水神神社:13松島神社:14笠頭神社:15古川町天満宮:16今篭町天満宮:17水口天満宮:18八坂神社:19愛宕天満宮:20八劒神社:21梅園天満宮:22本行寺:23梅香崎天満宮:24楳香崎天満宮:25出雲神社 以上二十五社です。いくつの神社をご存じですか。長崎市内にある天神さま、つまり菅原道真公がお祭してある寺院から、1日で廻ることができる寺院を選定しました。




来年の平成15年4月末に「第2回天神さまウォーク〜平成二十五社巡り」を予定しています。今月はその天神さまを紹介します。
まず、初めにこの天神さまウォークについて。この天神さまウォークは今年4月に第1回目としてスタート、来年は2回目ということになります。内容を簡単にいうと市内にある天満宮25ヶ所を巡るもので、もともと、長崎では江戸時代に盛んに行なわれていた行事でした。当時は「天満宮二十五社巡り」といわれ、多くの市民が参加した行事でした。しかし、明治維新となりこの行事もなくなります。時代は流れ、平成14年の今年、菅原道真公御神忌千百年祭を記念しその行事を復活したのです。しかし、何一つ資料がなく、寺院やルートの選定など全く新しい形のもので二十五社巡りという名称も天神さまウォークに変え誰でも参加しやすいようにした訳です。今年のルートはかなりの健脚者向けで、来年はもう少し優しいルートに務めるつもりです。第2回目は多くの皆さんの参加お待ちします。




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