広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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昨日のつづき。毎日のコラムの記事は「長崎市史」を参考にして書いていますが、節分の記事を求めて2月のページを開くと全く記事がなく、年末の欄の12月に記載されています。つまり、節分とは年越しのことでとても重要な行事だった訳です。節分とは12月の末日を指し、翌1月1日は年明けということになります。これは年賀状にあるように1月1日は初春です。つまり、冬から春へとまさに立春というわけです。この時期、草花も芽を出し春を迎えます。明治5年までの話です。




もうすぐ節分ですが、実は節分は年に4回もあるのです。節分とは季節の分かれ目の意味で、特に冬から春にかけての節分は重要な意味があります。暦(こよみ)では12月31日から1月1日で年が変わりますが、季節の上では立春で変わります。また、旧暦を使っていた明治5年以前までは、新暦でいうところの1月下旬辺りが1月1日(旧暦の正月)になります。当時、1月1日(旧暦の正月)と節分までの数日のずれを、「年が明けたような明けてないような、どちらともいえない時期」という場合がありました。




いろは歌は47文字すべてを使って作られた歌です。一般に弘法大師(空海)の作といわれていますが、本当は“こんなすごいことをする方は弘法大師さましかいない”ということで後に弘法大師作になりました。読み人知らずです。覚え方というか、意味を知って覚えると判りやすいでしょう。
色は匂(にほ)へど散ぬるを、わが世たれぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず
意味は仏教でいうところの諸行無常、つまり、世の中の物は常に変化し生滅して永久不変の物はないということ。




今月は年の初めの行事を紹介しましたが、同じ初めでも言葉の初めを紹介します。
いろは”です。全部言えますか?
いろはにほへと ちりぬるを 
わかよたれそつ ねならむう 
ゐのおくやまけ ふこえてあ
さきゆめみしゑ ひもせす
これを以呂波歌(いろは-うた)といいます。47文字で同じ文字を使っていません。
明日はこれの覚え方を。




A若竹町について。若竹町は市電赤迫電停の北に位置し、国道206号線から見てJR長崎線の反対側の住宅地です。古くは西浦上村西北郷の一部だった所で、西北郷が西北町になり昭和40年から若竹町になりました。地名の由来は町内の若竹橋から付けられたそうです。




「松」の次は「竹」です。長崎市内の竹の付く地名は@竹の久保町とA若竹町です。
@竹の久保町は現在、長崎県立西高校のある地域を指しますが、その昔、竹ノ久保というと稲佐から城山までの広範囲の地域を指します。江戸時代には竹久保村、その後、浦上渕村竹ノ久保郷、大正2年(1913)から長崎市になり竹ノ久保町となり、昭和41年(1966)現在の町域となります。戦後、竹ノ久保町に火葬場(現もみじ谷葬斎場:渕町)が作られ、竹ノ久保が“人の終わり”の代名詞に使われていた時代がありました。




正月25日は初天神です。25日は天神さま(天満宮)の縁日。今年最初の天神さまの日ということで初天神です。江戸時代から昭和にかけて子供達などは習字の神様として競って参詣していたそうですが、今ではこの時期、合格祈願のため大学や高校など受験生の参詣者が増えています。(なぜ25日なのかH14.2/25参照)そして、今日1月25日は天神さまにとってとても重要な日です。それは今から1102年前の延喜元年(901)1月25日、菅原道真公は京都から大宰府に左遷を命ぜられた日なのです。




昨日のつづき。C松崎町について。松崎町は長崎市北部三重地区にあります。判りやすくいうと長崎市の一番北に位置し東は西彼杵郡琴海町、西は西彼杵郡外海町に接しています。もともとは西彼杵郡三重村松崎郷といい、昭和50年(1975)長崎市松崎町になりました。山登りが好きな方には神の浦ダムの上流域といえば判るでしょう。また、最近では産業廃棄物の処理場建設問題で一躍有名になった場所です。




昨日のつづき。B松原町について。松原町は長崎市東部地区で国道34号線を矢上から諫早方面に向い、古賀町の手前にあり、JR肥前古賀駅がある町です。もともと北高来郡古賀村の一部で、昭和33年(1955)に西彼杵郡東長崎町、昭和38年(1963)に長崎市東長崎町、昭和46年(1971)に長崎市松原町と目まぐるしく変わりました。松原はこの付近の地名で、この付近から諫早にかけて昔から松林が多く、それで松原という地名が付いたものと考えられます。




昨日のつづき。A松が枝町はグラバー園の入口付近で中華料理の四海樓のある町です。もともとこの付近は海岸で戸町村大浦郷道栄ヶ浜(どうえいがはま)と呼ばれ、江戸末期の文久3年(1863)外国人居留地として埋立てられます。そして当時この付近に松林があって下り松(さがり-まつ:14-6-30参照)と呼ばれていたので、初めは下り松町と命名されます。しかしすぐに縁起が悪いという事で松ヶ枝町(昭和49年から松が枝町に変更)に変わります。松ヶ枝町は明治時代、外国人の商社や銀行、ホテルなどが建ち並び大変な賑いだったのですが、相次いで横浜神戸などが開港、その座が奪われ衰退して行きます。現在、旧香港上海銀行長崎支店の建物が残っていますが、その当時、海岸線のすべての建物がモダンな建物でした。




昨日は梅の付く地名、今回は長崎の松の付く地名をいくつか紹介します。町名でいうと中心部の@松山町A松が枝町、東長崎地区にはB松原町、北部三重地区にC松崎町があります。
@松山町について。松山という名称は比較的新しく大正12年(1923)、それまで浦上山里村中野郷の一部だった場所が松山町になります。当時、この付近(大橋)まで入江で、その海岸沿いに松並木があった所から松山町と命名されました。その後、現在のサッカー場の所に競馬場が作られ、付近が駒場町となりますが、昭和39年(1964)に統合され現在の松山町になります。




毎年1/20日前後は二十四節気の一つの大寒です。一年で一番寒い日といわれますが、長崎ではこの頃からが咲き出します。このに関連して長崎での付く地名をご紹介します。@梅香崎(2002.2/21参照)A梅園(2002.12/20参照)B梅屋敷です。
Bの梅屋敷について。現在の西山2丁目の中島川沿いではなく山側辺りをいいます。江戸時代、この付近は数件のお役人の屋敷があっての木が多く植えられていたところからこう呼ばれるようになったともいわれています。現在では、ほとんど梅屋敷という地名は忘れ去られ、付近のマンションの名前に残されている程度です。残念です。




明日。正月20日を廿日正月(はつか-しょうがつ)といいます。江戸時代のこの日は赤飯を作って神棚や仏壇に供える習慣がありました。また、その他に煮込みという料理を作ります。この煮込みは正月の残り物である鰤などの魚の骨や頭を19日夜から煮こんで作ります。これは“食べ物を大切に”という意味があって、骨を使うため廿日正月を別名骨正月(ほね-しょうがつ)ともいいます。そして、煮込みを食べるときは7ヵ所に渡って食しなければならず、親類や親しい間柄の家などを食べ歩いていたそうです。




正月は元旦からいろいろな行事が続きますが、一連の行事以外に初杯(はつ−さかずき)というものがあります。これは特に決まった日はありませんが、長崎の各家庭で正月中に行われます。親戚や特に親しい間柄の人達を呼んで行なわれるで、今年初めて杯を交わすところから初杯と呼ばれます。




2003.1/12のつづき。江戸参府のため出発した出島オランダ商館長(カピタン)一行は長崎の町を出ると、長崎街道を通り小倉に向います。そして海路大阪へ、大阪からは再び東海道を使って江戸に入ります。
しかし、当時の事です。もしかすると再び戻る事が出来なくなるかもしれません。当時、長崎の町を出てすぐの所に威福寺(いふくじ)というお寺がありました(現 桜馬場天満宮)。一行は、まずお別れの(惜別の宴:せきべつの-えん)を受け旅立つのです。また、小倉から海路に入る際(出発から約1週間後)、今度は航海安全を祈って留守を預かる者がこの威福寺に再び集まります。そして、灘渡し(なだ-わたし)といってを行ないました。これらのですが、初めは道中安全を祈念するのが主でしたが、いつの間にかが主になっていきます。




正月16日は藪入り(やぶ-いり)です。藪入りとは正月(1月)とお盆(8月)の16日に、奉公人(ほうこうにん:今でいうところの従業員)が主人から暇をもらって実家に帰ることで、草深い田舎に帰るところから藪入りとなりました。今では考えられない雇用制度です。




正月15日は上元(じょうげん)の日で小豆粥(あずき-がゆ)を食べる習慣があります。この時の小豆は竈(かまど)の神さま、つまり台所の神さまに供えてある小豆を使います。この日、小豆を食べると1年中災難にあうことがないそうです。このほか長崎の唐寺では上元祭が行なわれ、蝋燭替え(ろうそく-がえ)というものがあり、この日、参詣者は灯(とも)されている唐蝋燭(とう-とうそく)を持参した和蝋燭(わ-ろうそく)と取り替えます。そして、唐蝋燭を病人の枕もとに灯すと病が回復するという言い伝えがあるそうです。




正月14日は土龍打(もぐら-うち)の日です。これは江戸時代から続き昭和の始めまで行なわれた子供達の風習でした。子供達は正月に使った松飾りをとって置いて、角松の竹の先に藁(わら)や注連縄(しめなわ)を巻き、土龍打の準備をします。14日の夕方になると近所の仲間を集め、準備した棒を持って各家を廻ります。そして各家の玄関の踏み石を棒で叩き「もぐら打ちゃ-とがなし-とがなし-ぼうの目-ぼうの目-祝うて三度-しゃんしゃん-のしゃん」と言ってその家からおこずかいをもらいます。昔は本当に土龍を追っていたのでしょうが、いつしか子供の正月行事になっていったのでしょう。はやし言葉の中で「とがなし」とは「科無し」と書き、災いなしという意味です。




正月13日は長崎奉行所御用始めです。ずいぶん長い正月休みのように思えますが、お役人さんなどは3日から8日までは絵踏みがあったり、年末大晦日などは諏訪神社の参詣の行事があったりと忙しい年末年始です。しかし、商家などの休みなどは、ほとんどありません。現在のように日曜日が休みという考え方もなかった時代です。日本人は本当に働き者だったのです。




正月の一連の行事が終わろうとする頃、出島オランダ商館では江戸参府(えど-さんぷ)の準備が始まります。この江戸参府とは、出島オランダ商館長(カピタン)が将軍に拝謁(はいえつ:身分の上の人に会うこと)して、献上品を差し出し、貿易に対しての感謝をするもので、江戸時代の寛永10年(1633)から嘉永3年(1850)までの217年間に116回も行なわれました。長崎から江戸までの行程は約3ヶ月、50人程の行列だったそうです。初期は秋に出発して正月の拝謁、その後は正月に出発して3月の拝謁となりました。




正月11日を江戸時代、帳祝い(ちょう-いわい)と呼んでいました。帳祝いとは新しい年に変わり、帳面などを新しくそろえ直す日のことで、おめでたい行事でした。市内の商家やすべてのお役所で行なわれ、いわゆる鏡開きの日なのです。この日、お祝に雑煮を食べさせるのが通例で、正月以来雑煮が続いている人などは逃げ出していたそうですが、縁起ものという事で追いかけてまで食べさせていたそうです。現在のようにぜんざいにする習慣は明治大正になってから始まりました。




正月10日の話題をもう一つ。長崎市史風俗編に面白い記事を見つけました。それには丸山の遊女町での風習で“正月10日の客には必ずお酒を勧め、酔わせなければ帰らせない”というもの。なかなか粋な風習ですが、十日恵美須にからめ“十日のお客さまは恵美須さま”という訳でしょうか。恵美須さまを酔わせ自分の店に少しでも長く居てもらい幸運を頂く、なかなかしゃれの効いた風習です。




明日10日は十日恵美須(とおか-え“べ”す)です。(恵美須さまについてはH14.10/1参照)大阪の今宮(えびす)神社、兵庫西宮の西宮神社のお祭は有名ですが、長崎においても以前までは盛大に行なわれていました。「えびす」はその昔「」や「」の字を使い、海のかなたから幸福をもたらす漁業の神さまとして信仰されていました。その後、漁業から商工業の神になり「恵美須」「恵比寿」と変わっていきます。それでは長崎の恵美須さんを紹介します。ご近所の方、参詣下さい。
○飽ノ浦町(菱重興産裏):恵美須神社>2002.5/10参照 ○賑橋電車橋横:恵美須神社>2002.5/2参照 ○諏訪神社内:蛭子(えびす)神社 ○古河町バス停前:恵美須神社 など




1月8日は丸山絵踏みの日です。1/4に絵踏みの事を紹介しましたが、今日1月8日がその絵踏みの最終日ということになります。絵踏みは各町の乙名(おとな)宅で行なわれることになっているので、丸山においては遊廓の主人や遊女達が丸山町及び寄合町の乙名宅に集まります。それでは、その乙名宅は今どうなっているでしょう?江戸時代、丸山町の乙名宅は現在の長崎検番の所で、寄合町の乙名宅は丸山公園から大徳寺公園へ向かう坂の所にありました。当時の建物は残っていませんが、現在の長崎検番の建物のように大きな屋敷だったと思います。そこに大勢の遊女達などが訪れ絵踏みをしていたのです。




1月7日を七日正月(なのか-しょうがつ)といい、この日は長崎でも七草雑炊(ななくさ-ぞうすい:長崎以外では七草粥といいます)を食べる習慣があります。この七草雑炊は、まず前日の6日に七草をそろえ、まな板の上に載せ、包丁の背で夜通したたきます。その時「七草ナズナ、唐土(とんど)の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、七草ナズナ」と口ずさみます。というのは、この唐土の鳥が中国の伝説上の鳥で鬼車鳥(きしゃちょう)とも呼ばれ疫病を運ぶ鳥と考えられていたからです。つまり6日に魔よけの松飾りをはずしたところに鬼車鳥が中国から日本に飛来し、災いをもたらすと信じられていました。そこで七草をたたいて災いを防ぐのです。




正月6日を長崎では注連おろし(しめ-おろし)といって、松飾りや注連縄(しめなわ)などを取りはずす日になっていました。また、松飾りの中の橙(だいだい)には名前から“代々栄える”という意味があるのですが、この松飾りをはずした後、そのを玄関戸の上に置いたり床の下に投げ込んだり、ぬか味噌に漬け込んだりすると泥棒除けになるといわれていたそうです。今では松飾りや注連縄といった正月飾りは、神社のお守りお札などと一緒に節分(2/3)の鬼火で焚き上げるのが一般的になっています。




長崎では正月5日までを正月五か日(ごかにち)といい、この日まで鱠(なます)俵子(とうらご)を食べる習慣がありました。長崎のは人参や大根を細かく切って酢で和えたもので、人参と大根が紅白となり縁起ものといわれています。また、俵子はナマコのことでナマコの形が俵(たわら)に似ているところから俵の子となり「たわらのこ」→「とうらご」となりました。やはり俵もお米を意味しているところから縁起ものということになります。




今日1月4日は初弾(はつびき)です。この初弾とは検番の芸子衆(げいこし:長崎弁)の仕事始めのことをいい、検番で“ごひいき筋”などを呼び、踊りを披露するというもの。毎年この日だけは長崎検番が多いに賑う日なのです。初弾で踊りを披露した芸子衆はそれそれの料亭などに出向き、改めて今年のご挨拶をします。この初弾ですが、弾くという字を使います。やはり今年初めて三味線を弾くというところからついているのでしょう。初弾は昭和40年頃までは2日に行なわれていましたが、現在では4日が恒例となっています。




江戸時代、正月三が日が過ぎると長崎で最も大切な行事である絵踏みが行なわれます。この絵踏みとはキリスト教信者を探すため、または辞めさせるために行なわれる行事で全市民が対象でした。従って病人であろうと病床にまで役人が押しかけ絵踏みをさせていたのです。
絵踏みは3日、町年寄(今でいう所の長崎市長)が自宅で行なった後、翌4日から町年寄から指示を受けた乙名(今でいう所の町内会長)などによって各町内(出島を除く79ヵ町)で行なわれていました。この絵踏みは長崎ならではの正月の恒例行事だった訳です。しかし江戸時代も後期になるとこの絵踏みもイベント的要素が高くなり、最終日(8日)の丸山町寄合町の花街の順番になると多くの市民が絵踏み見物に出かけるようになります。というのは、丸山の太夫(たゆう)などは多くの遊女を引き連れ、乙名宅に出向き絵踏みを行なっていたからです。つまり見物人は絵踏みよりもその太夫道中(花魁道中)がお目当てでした。




昨日のつづき。七高山は文字通り七つの山を指しますが、実際には五つの山で構成されています。それは2七面山と4秋葉山という山は実際には存在しないからです。七面山は3烽火山の南側にある日蓮宗七面山妙光寺のことをいい、秋葉山は同じく烽火山の東側にある秋葉大権現(通称:秋葉山)のことを指します。しかし、残る五つの山は比較的標高が高く愛宕山を除けは350メートル以上(最高は烽火山の426メートル)の山になります。




恭賀新禧 
今年もよろしくお願いします。

江戸時代、長崎では正月2日以降の行事に七高山巡り(しちこうざん-めぐり)がありました。これは市内にある7つの山を登ると縁起がいいといわれ、多くの人々が参加していました。それでは七高山を紹介します。1金比羅山2七面山(しちめんさん)3烽火山(ほうかさん)4秋葉山5豊前坊(ぶぜんぼう)6彦山7愛宕山の7つの山です。当時この中で愛宕山を入れず岩屋山に登る場合もありました。現在、1日かけてこの七高山巡りが1月15日に行なわれています。※現在は祝日が変更になっていますので日程の変更あり。




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