広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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明日からは3月弥生(やよい)です。長崎でも3月は盛大に雛(ひな)祭りが行なわれていました。まず、朔日(ついたち)から雛段を飾り、前年の3月以降に女の子が生まれた家などは初雛といって新しい紫宸殿(ししんでん:ミニチュアの宮中の建物のような物)のみを準備し、親戚や知人などから雛人形飾り道具が贈られ飾りがそろいます。そして4日までに贈り物を頂いた方々を呼び祝宴を開くのです。昔の方などは「雛段を早く出したり遅く直したりすると、それなりの子供に育つのできちんと準備しなさい」とおっしゃっていました。




昨日のつづき。新大工町の通りは今は商店街となり多くの人で賑い、電車通りの国道34号線では多くの車が行きかっていますが、どちらがメインストリートと考えますか?車社会になった今。電車通りをメインストリートと感じていることでしょう。江戸時代から明治大正にかけ新大工町の通りは交通の要所として栄えます。その後、明治初めの日見峠の開削(かいさく)や大正の日見トンネルの開通で時代が車社会に移り、新大工町の通りは混雑し始めます。昭和に入った頃、長崎市は九州最大の都市でした。そこで長崎市は九州に誇れる道路計画を打ち出します。それが幅23メートルの九州最大の道路でした(馬町交差点〜蛍茶屋間)。この道路には3つの橋があり、欄干には御影石が使われさらに灯ろうまで設ける当時の最高の装飾が施されます(一ノ橋、中ノ橋、鎮西橋)。現在、日見バイパスとして道路がさらに拡幅され幅35メートル道路になりましたが、今でも3つの橋の欄干は当時のまま現役で働いています。




24日のつづき。諏訪神社下、中島川の堂門橋(大手橋)から東側の地域、国道34号線沿いに広がる町を新大工(しん−だいく)町といいます。新大工町の歴史は大工町(現 松翁軒〜東新橋の通り)から始まります。町に大工さんは欠かせない職業ですが、発展間もない長崎にとって大工さんは特に重要な仕事でした。町が発展するにつれに大工さんの需要も増し、大工町だけでは対応出来なくなっていくのです。また、大工仕事は広大な敷地を必要とするため、当時の長崎の外れの中島川上流に新たに町が作られます。これが新大工町です。(大工町本大工町へ)その後、寛文の改革(1672)であまりに広大ということで中島川で分割、一部が出来大工町となります。この新大工町ですが江戸時代は特に長崎街道の入口に位置し交通の要所として栄え、出島オランダ商館長(カピタン)一行の江戸参府などもこの新大工町を通って江戸に向いました。




毎月25日は天神さまの縁日です。天神さまとして天満宮にお祭されている菅原道真公は、今からちょうど1,100年前の延喜3年(西暦903年)2月25日にお亡くなりになりました。ここで疑問が発生します。昨年全国各地で盛大に菅原道真公1,100年祭が行なわれましたが、今年は行なわれません。なんでだろー?これは昔の年齢の計算の方法が“かぞえ”だったからです。かぞえとは、まさに年齢を「かぞえる」ことで、生まれたら1歳、正月を迎えると2歳と、かぞえていくからです。数学でもその昔“0(ゼロ)”の考え方がなかったように0歳は存在しなかったのです。そこで、今年が1,100年目だとしても昨年が1,100年祭という訳です。今から101年前の明治35年(1902)菅原道真公御神忌1000年祭が行なわれています。




大井手町のお隣り、馬町交差点の南側にあたる地域を出来大工(でき-だいく)町といいます。本大工町(現 魚の町:松翁軒の通り)に対し新大工町なのですが(H14.3/29参照)、新大工町の一部が出来大工町に分けられます。もちろん江戸時代は大工さんの町として開かれた町ですが、今ではビルが建ち並ぶ町になってしまいました。出来大工町の東側には桃渓(ももたに)橋が架かっています。その昔この付近には桃の木がたくさん植えられ、桃渓峡(ももたに-きょう)とも呼ばれ大変風情のある町だったそうです。当時、出来大工町は俗称が2つあり、川沿いを桃の木大工町、内陸側を下大工町といっていたそうです。3月初め桃の節句の頃、桃渓橋の辺りでは梅と桜の時期の間に咲く桃の木を数本ですが楽しむことができます。ここは私のお勧めスポットです。




今博多町のお隣り、大井手橋のある通りを文字通り大井手(おおいで)町といいます。大井手の井手とは川を堰(せ)き止める堰(せき)のことで、中島川のこの付近に大きな井手(堰)がありました。それが町名となり橋名となったのです。大井手町大井手橋は「ぶらぶら節」にも登場するくらい有名な橋ですが、何回も水害で流され架け替えられた歴史を持ちます。本河内の方(中島川:銭屋川)と西山の方(西山川:堂門川)とが合流するこの場所(二股川ともいう)は、大雨の時には水量水圧が増し渦を巻いて橋を流してしまうともいわれています。このほか大井手の名称は日銀側の坂を「大井手町の坂または大井手坂」というそうです。




古町のお隣り、編笠橋(あみがさ-ばし)のある通りを今博多(いま-はかた)町といいます。本博多町に対して今博多町です。本博多町は現在の興善町付近(住友生命ビル付近)のことで、現在は消滅してしまいました。この今博多町ですがお隣りの古町と共に遊廓街として賑いました。花街の女性があまりにも積極的だったせいか、ここを通る男性、特に立山の奉行所の役人などは編笠をかぶって女性を避けて通っていたそうです。そのためか中島川に架かる橋の名がいつしか編笠(あめがさ→あみがさ)橋と呼ばれるようになりました。




古町と聞いてすぐに路面電車を連想する人がどの位いらっしゃるでしょうか?昭和20年代まで古町路面電車の小川町線が通っていた町で、長崎駅前から桜町公園(小川町)を廻って古町に下るコースで、現在のように国道34号線をくぐらず山越えしていたコースでした。古町の裏手にある勝山市場などは当時の路面電車の線路のだった所で、今でも市場全体が坂道の上に建つ不思議な建物になっています。また、古町の通りは路面電車の線路があった関係で前後の町と比べ極端に道幅が広く当時のことを物語っています。




桶屋町のお隣り、古町橋のある通りを文字通り古町(ふる-まち)といいます。長崎開港直後、県庁から市役所にかけて町が形成されていた時代、娯楽の町、遊廓街として開かれました。それまでは市内各地に遊廓が点在していたため、奉行が町の統制を引き遊廓をこの地に寄り集めます。寄り集めたので、当初、古町ではなく寄合町と呼はれていました。その後、さらに長崎の町が発展しこの寄合町も市街地に埋もれた形となり、また、遊廓もさらに点在するようになったところから、当時の長崎の外れである太夫(たゆう)町の遊廓付近に改めて町を開くのです。これが寛永19年(1642)丸山町寄合町の誕生となります。移転した後の旧寄合町は古くなったということで古町と命名されました。つづく。




長崎市公会堂の向い側には長崎警察署がありますが、その長崎警察署の裏通り、一覧橋のある通りが桶屋町といいます。中島川以東は町界町名変更で古い町名がなくなっていますが、桶屋町から諏訪神社にかけての地域はほとんど変更されることなく、江戸時代の背割(せわり)の町建てになっています。これは通りを境界にしてブロック毎に町を決めるのではなく、通りの向かい合った同士が同じ町という考え方で、江戸時代から続く長崎の典型的な町建ての考え方なのです。
 長崎が開港して現在の県庁から市役所付近に町が発展していた頃は、桶屋町のあるこの付近には田畑が続いていました。やがて人口の増加と共に町が広がり、同じように日常生活に欠かせない桶の需要も増してくるのです。そして出来たのが桶屋町という訳です。大工とは一線を画す桶職人の町でした。




長崎市公会堂裏から築町の方に流れるえご端のことをもう一つ。江戸時代、長崎市役所別館(水道局)のところには牢屋があったと紹介しましたが(H14-4-15参照)、もちろん牢屋にはいろいろな罪の者が収容されていました。どこまで本当か分かりませんが、この場所で首を切られた者もいたようです。現在、市役所別館を下れば公会堂の裏に出ます。ということは、首が切られた後に血を洗い流した水は、おのずとえご端に流れ出したということになります。このえご端、一説には地獄川の別名もあるとか。でも、えご端と言いましょう。




昨日のつづき。長崎で川より小さく溝より大きな流れをえご端(えご-ばた)といいます。最近ではあまり耳にしない言葉ですが、代表的な長崎弁といえるでしょう。公会堂裏から築町にかけて流れる川や古川町を流れる鹿解川、上町からNBCの横を流れる川などすべてえご端です。えご端は漢字で江胡端とも書くそうですが定かではありません。長崎は石畳で有名な町ですが、鹿解川に代表されるように路地裏の溝に至るまで石畳が敷かれています。これは長崎が貿易で栄えた象徴ともいえるでしょう。大切にしたいものです。




以前(H15.2/5)鹿解川のことを紹介しましたが、鹿解川と同じように市内中心部を流れている小さな川があります。この川は出来大工町付近(または諏訪の森?)が源流となり長崎市公会堂の裏〜長崎女子商業高校の裏〜中央公園の横を通り暗渠となります。次にメルカつきまちの下〜肥後銀行の前で県庁坂を横切り、出島橋の横で中島川に流れ出しています。この川を単にえご端(えご-ばた)または堀割(ほりわり)といういい方をしますが、特に名前はありません。しかし、このえご端鹿解川と同じように当時の最先端の土木技術である石張りで造られています。このえご端が整備された理由として長崎の海外貿易の影響が考えられます。海外の貿易船は伝染病などを運んで来る場合があったため、長崎では衛生面の向上が急務でした。そこでこういった流れを造って清潔を保っていたものと考えられます。現在では蓋(ふた)で覆(おお)われ、清潔どころかドブ川になってしまいました。これでは当時の人々に申し訳ありません。




昨日のつづき。明治になって西築町東築町は合併し築町に戻ります。しかし、明治以降の築町は原形を留めることのないくらい区画を改造されます。まず初めに、明治の中島川変流工事があります。これは中島川からの土砂が長崎港にたまり、船舶の接岸が困難になったことと、長崎港を埋立てて土地を増やすために行なわれました。当初中島川は現在の築町電停付近に河口があり、賑橋→中央橋→築町電停付近へ流れていました。それが工事によって現在のように大波止の方へ曲げられたのです。これにより築町は分断、十八銀行の所が飛び地となります(参照H14.4/30)。さらに、第二次大戦時の強制疎開によって中島川沿い(賑橋→中央橋バス停付近)に道路が造られたり、都市計画で中央橋-大波止間の県庁坂が造られるなど築町のほとんどが道路になるのです。また、昭和38年以降の住居表示の号令では築町の一部が賑町や江戸町、十八銀行本店のところが銅座町に変えられていきます(築町電停の名称は変わりませんでした)。このように築町は市内中心部としての犠牲を払った訳ですが、この時、築町が道路を提供したことで今の長崎の車社会が支えられていると考えるべきでしょう。




材木町のお隣りは築町です。築町(つきまち)は長崎開港後(元亀元年:1570)の文禄時代(1592〜)には既に存在していました。築町は長崎で最初に埋立てによって造られた町といわれ、現在の長崎グランドホテルから裁判所にかけての丘を切り崩して造られました。埋立てで築出した町ということで築町です。範囲は中島川の万橋(よろず-ばし:賑橋下流)付近から十八銀行本店までの広大な敷地となります。当時町内には俵物会所(現十八銀行本店付近)や対馬藩屋敷(ミスタードーナッツ裏)、海沿いということで貿易に関係の深い商家が建ち並んでいました。しかし、あまりに広大な町域なため寛文の改革(寛文12年:1635)によって東西に分けられます。それが西築町東築町です。現在のメルカつきまち前の通りの公設市場-小野原からすみ店側を西築町、中島川寄り(中野蒲鉾店-なかしま側)を東築町と分けられてしまいます。つづく。




眼鏡橋町について。眼鏡橋町は数年間だけ存在した幻(まぼろし)の町です。市内中心部(中島川以西)は第2次大戦で強制疎開や火災のため壊滅的打撃を受けました。その後の復興も難しく自立が出来ないため、いくつかの町が共同で自治会を運営するようになります。そうやって作られたのが眼鏡橋町です。眼鏡橋町は材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町によって組織され町の復興を目指しました。しかし、それまでの町名は復活することなく昭和38年(1963)に、住居表示の号令によって賑町と栄町に変わります。材木町と本紺屋町の半分は賑町に、本紺屋町の半分と袋町、酒屋町の半分が栄町となり今に至ります。郵便局の都合だけで古い文化(町名)が壊される住居表示制度、便利さを追求するあまり古い文化が壊されています。本当にそれでいいのでしょうか?中島川から長崎駅にかけて多くの文化(旧町名)が眠っています。




袋町のお隣り中央公園の通りを以前まで本紺屋町といい(2002.6/6参照)、もう一つお隣りの賑橋の通りを材木町といいました。材木町は中島川沿いに貯木場があって、付近に材木問屋があったことに由来します(江戸時代)。その後、魚市橋付近にあった魚市場がこの地に移り大正3年(1914)まで賑っていたそうです。そしてその魚市場に関係して賑橋横(電車鉄橋横)に恵美須さま(漁業の神様)がお祭してあるのです。今では魚市場は三重の新漁港の方へ移りましたが、今でも一部の業者さん達はこの恵美須さまに参詣に来られています。




袋町のお隣りは酒屋(さか)町でした。今ではこの付近を栄(さか)町といいますが、長崎女子商業高校から眼鏡橋までの通りを以前までは酒屋町といっていました。酒屋町は文字通り酒屋さんが建ち並ぶ町と理解していいのですが、長崎はお米が採れないため醸造所ではなく、各地から仕入れた酒を販売する問屋さんの町でした。また、当時、酒屋さんはお金持ちが多く金貸し業も行なっていたといわれています。ちなみに明治時代、今の十八銀行の創立者:松田源五郎はこの酒屋町に住んでいました。




銀屋町から袋(町)橋を渡ると以前までは橋の名前にあるように袋(ふくろ)町と呼ばれていました。現在の長崎市医師会館(旧市立高校)のある通りです。(ちなみに中央公園側の通りは本紺屋町です:H14.6/6参照)この町は名前の通り袋に関係した町だったといわれていますが、具体的には小間物屋が建ち並んだ町と考えるのが自然でしょう。今でいうところの女性の小物などを扱う雑貨屋といったところでしょうか。中島川に架かる橋の名が銀屋町ではなく袋町(袋町橋)から取っているところを見ると、江戸時代はこちらの方が賑っていたのかもしれません。




銀屋町について。銀屋(ぎんや)町は別名を白銀(しろがね)町といい、現在は古川町と鍛冶屋町に分かれていますが、袋(町)橋から皓臺寺までの通りをいいます。銀屋町は江戸時代初期、中国やオランダ貿易で扱う銀を取り仕切る銀座が置かれていたので銀座町といわれていました。その後、銀細工の職人が集まるようになり銀屋町となります。当初は銀屋町(中島川寄り)、新銀屋町(新白銀町)(寺町側)に分かれていましたが、寛文12年(1672)に銀屋町に統一されました。この銀屋町は長崎学の祖、古賀十二郎先生が一時、住まわれた町です。




磨屋町について。磨屋(とぎや)町は現在、諏訪町と古川町に分かれてしまいましたが、眼鏡橋から寺町通りまでの通りをいいます。その昔、刃物や鏡、刀などを磨ぐ職人さんが多く住む町だったため磨屋町になりました。以前までは磨屋小学校があったのでその所在を知ることが出来ましたが、今では諏訪小学校となり磨屋の文字を見つけることが難しくなりました。磨屋小学校があった頃、磨屋小学校の表門は諏訪町側で、裏門が磨屋町側という形でしたが、諏訪小学校になった今、表門は諏訪町側です。気付きました?




諏訪町と言えばくんちの出し物の蛇踊が有名ですが、ここで再確認です。“じゃおどり”を漢字ではどの様に書きますか?最近では「龍踊」と書きますが、本当は「蛇踊」が正解です。なぜなら「蛇」は「じゃ」と読めますが、「」は「じゃ」と読むことが出来ません。中国では「ロン」になります。実は戦後「蛇」は「へび」ということでイメージが悪いという事で変えたといわれています。これを踏まえて・・・
諏訪町の蛇(じゃ)は白蛇(しろじゃ)を使います。これは諏訪神社のお使いが白蛇(しろへび)ということにちなみます。この白蛇(しろじゃ)にはその昔、困ったうわさがありました。明治時代に長崎でコレラが流行した時の話です。その年のくんちの出し物に諏訪町の蛇踊が出場していました。当時諏訪町の蛇(じゃ)は縁起が悪いと敬遠されたそうです。「白蛇(しろ-じゃ)」を「白蛇(はく-じゃ)」と読んだからです。「はく-じゃ」つまり「吐くじゃ」:コレラ患者は大変でした。




諏訪町について。魚市橋と長照寺門前までが旧諏訪町です。長崎人はあえて諏訪町を「すわ-まち」と言わず「すわのまち」と呼んでいます。諏訪(諏方)町は江戸時代初め、この付近に諏訪(諏方)神社をお祭していたことに由来します。当時の諏訪神社は現在の長照寺の右側にお祭してあったそうですが、今とは違い市街地の外れで寂しい場所でした。これはその頃がキリシタン全盛期の時代だったため妨害を避けてこの場所に建てたものと思われます。諏訪神社はその後(寛永2年:1625)、現在の松の森天満宮の地に移転となりますが、このような訳で諏訪町と呼ばれるようになりました(他説あり)。つづく。




2002.11/23より。鹿解川について。鹿解(ししとき)川の「鹿」とは鹿(しか)ではなく猪(いのしし)のことで、この川の流域で毛皮の加工が行なわれていたことを表わしています。江戸時代の初期、中国人の陳建という毛皮商がここに住むようになり、いつしかその職人町が形成されていきます。(当時、毛皮は武士には必需品で大変重宝がられていました)後にこの町のことを毛皮屋町と呼ぶようになります。その後、寛文13年(1673)市内に2つの石橋が架けられます。2つとも当時一番新しい橋という事で新橋という名前になるのですが、一方の新橋(現桜町電停付近)に対し、東側の中島川に架かる橋を特に東新橋というようになります。この橋が架けられて以降(延宝5:1677頃)、毛皮屋町新橋町に変わるのです。当時の新橋町ですが、すでに市街地の拡大に伴い毛皮屋はなくなり一般の商家が建ち並んでいました。現在、新橋町の傘鉾のだし飾りに鹿(しか)が使われてますが、それは新橋町の起源に由来します。




2月最初の午の日を初午(はつうま)といって昔からお稲荷さまの縁日といわれています。長崎では以前まで市内各地のお稲荷さまで盛大にお祭がされていましたが、今ではごく一部のお祭になってしまいました。主なお稲荷さまを紹介します。若宮稲荷神社(伊良林)、玉園稲荷神社(諏訪神社内)、松嶋稲荷神社(本河内)、住江(すみのえ)稲荷神社(十人町)、稲荷嶽神社(西小島)など。今年の初午は2月2日で終わりましたが、ニの午は2月14日です。この機会にお稲荷さまの参詣はどうですか。




本日の梅園天満宮の節分祭は滞りなく終了致しました。多くの皆さんに参詣してもらい、本当に感謝しております。今後ともよろしくお願いします。




青柳における豆まきについて。これは私が小学校の頃、昭和50年代まで行なわれていた青柳の行事を紹介します。まず節分の昼間に神前に煎った大豆を1升ますに入れお供えします。そして夕方になると決まって浦上の方の天台宗系のお寺のお坊さまが訪ねて豆まきをします。神棚から1升ますを下げ、左手にます、右手に鈴(りん)を持ち各部屋を廻るのです。お坊さまが♪当年の〜厄払い〜やっくばらい〜♪といい、後につく私たちなどはしゃもじを叩いて“もっとも〜もっとも”と言ってついて廻ります。お客さまがいても部屋の電気を消し窓を開け豆まきをします。時代が過ぎ今ではお坊さまの姿がなくなりましたが、豆まきだけは賑やかに続けています。




2月3日は節分ですが、節分といえば豆まき。長崎の商家で最近まで行なわれていた豆まきを紹介します。長崎での豆まきは家の主人(またはその代理)が家の者をひきいて行ないます。夕方6時ごろから始め、屋敷内の各部屋を廻ります。主人が「福は内」と小さな声で三回、「鬼は外」と大きな声で三回唱え、豆を打ちます。すると家の者が「鬼は外」と三回唱え、合わせて「もっとも、もっとも」としゃもじを叩いて答えます。これは家の中にいる鬼(災い)を追い出す意味になるのですが、その時、家の中の窓はすべて閉めて行なわれます。しかし1ヶ所だけ開けておきます。これが鬼の逃げ口という訳です。




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