広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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今日はお店が休みでしたので、ひさびさ菅原道真公のお墓参りに行きました。つまり太宰府天満宮に行ったということです。本殿の下が菅原道真公のお墓だからです。太宰府天満宮に行ったらお決まりの梅が枝餅を食べますが、なぜ梅が枝餅が調べてみました。
無実の罪で大宰府に送られた道真公ですが、大宰府での生活は食事も ろくに与えられない無残な生活だったそうです。その後、道真公は病気にかかり屋敷で過されていたとき、道真公の前に一人の老婆が現れます。老婆は ついた餅に1本の梅の枝を添えて道真公に捧げます。道真公は人の暖かさを受け慰められたそうで、これが梅が枝餅の起源となりました。




昨日まで桜の季節にふさわしく桜町の話でしたが、このほか長崎に桜の付く地名は桜馬場桜木町でしょうか。桜馬場は長崎甚左衛門がこの付近に城を構えていた頃、自分の屋敷の下に馬寄せがあった場所で、そこから馬場という地名ができ、そこに桜が植えられていたところから桜馬場になったともいわれています。桜木町は旧茂木街道の田上の手前に桜が多く植えられ、桜並木があったところから桜木町になりました。




桜町の牢屋敷のこと。桜町の牢屋敷は江戸時代初期からこの場所に置かれ、明治14年(1881)まで使われていました。この桜町の牢屋敷には明治10年(1877)に起こる有名な事件があります。この年は鹿児島で西南戦争が起こるのですが、当時の鹿児島県令(知事)の大山綱吉が幕府軍の西郷隆盛を援助した罪で捕われ、長崎の上等裁判所で判決を受けます。そして複数の同罪の者と共に斬首されたそうです。そんな歴史を持つ牢屋敷が今、市役所別館になっているとは職員の方も知らないことでしょう。供養塔でも建てた方がいいかも・・・。




昨日のつづき。この東町には別名があって喜蔵(きぞう)町とも呼ばれていました。歴史書によれば江戸時代初期、この東町にオランダ大通詞の加藤喜蔵の所有地があり加藤喜蔵は多くの建物を建て一般市民に賃貸していたそうです。そしてそこに住む人たちが大家の名を付け喜蔵町になったのでしょう。それから時代は下り明治時代、今度はこの付近には川崎氏の屋敷が建ち並びます。同じように人々は川崎氏にちなみこの通りを昭和の初め頃まで川崎町と呼んでいたそうです。喜蔵町川崎町、小さな通りに大きな歴史が隠されています。




昨日のつづき。寛永年間(1625頃)には桜町が誕生するのですが、当時の地図には桜町の隣りに東町と記された通りが存在します。東町は現在のバス通り東側の裏通りのことで水道局の横から商工会館の裏手に続く小さな通りになります。桜町のメイン通りに対し東側にあるところから東町とついたといわれています。つづく・・・




24日のつづき。クルス町も長崎の発展とともに市街地に組み込まれていきます。元和から寛永に変わる頃(1625頃)には桜町が誕生していました。その後、桜町に町年寄(市会議長クラス)の高島家の屋敷や、鐘の辻といって時を知らせる鐘楼、それに牢屋敷など重要な拠点が建ち並ぶようになります。現在、高島家の屋敷市役所本館鐘の辻は市役所南側の道路をはさんだ、そして牢屋敷市役所別館(水道局)となって当時の面影は全く無くなりました。




毎月25日は天神さまの縁日です。今日は私からお知らせがあります。来月4月27日に以前からお知らせしていました天神さまウォーク(平成二十五社巡り)を行ないます。これは昨年復活した行事で松の森天満宮と梅園天満宮とでお世話するものです。
平成15年4月27日(日)午前7時半に下西山町の「松の森天満宮」に集合。お払いのあと8時に出発。お弁当とお賽銭を準備して下さい。参加費100円程度の予定。
コースは、松の森天満宮(出発)-諏訪神社-樺島町-賑町-眼鏡橋-公会堂前-伊勢宮-桜馬場-蛍茶屋-風頭公園-八坂神社(昼食)-愛宕-小島-丸山-大徳寺-十人町-大浦石橋-出雲町(解散:予定時刻15時)
多くの皆様のご参加をお待ちしております。




昨日のつづき。桜尾の小町の墓地はその後立山に移され、代わりにサン・フランシスコ教会(修道院)が建てられます(慶長13年:1608)。しかし6年後の禁教令(慶長19年:1614)によって取り壊しとなり、その後は長崎奉行所の牢屋敷となり明治に至ります。禁教令後の長崎はキリシタンの取締りが厳しくなっていくのですが、やはり急に人の心は変わらないもの。サン・フランシスコ教会が無くなっても心のどこかに教会の事を考えていたと思います。慶長19年の翌年は元和元年です。元和年間(1615〜23)人々はこの場所をクルス町と呼んでいたそうです。“クルス”つまり「CROSS」十字架の意味からきています。




内中町の上手は桜町です。現在、長崎市の中枢である長崎市役所の建つ桜町は、開港当時は寂しい町はずれの場所でした。この付近から県庁のある所までは細長い岬で、長崎の語源となった“長い崎”があった場所です。また、この桜町から勝山町にかけての丘陵を桜尾の小町と呼んでいたそうですが、これは当時の市街地が現在の万才町付近の頃、もちろん桜町町はずれということで墓地が立ち並んでいたそうです。墓地には桜が植えられ、この丘陵に桜が並んでいる所から桜尾の小町になったと推測できます。(尾は小高いの意。小町は美しい桜の意)つづく。




町界町名変更と都市計画で消失した町があります。それは内中(うちなか)町です。丘(県庁-市役所)と入江(NBC付近)の中間で中町となったのか、町の中心という意味で中町になったのは判りませんが内中町といいます。内中町の“”には東中町や西中町に対する意味と、江戸時代の市内区分である内町(うちまち:地租のなし)、外町(そとまち:地租あり)の内町の区域にあるため内中町となっています。内中町の通りは現在の八百屋町のところから桜町公園と長崎市議会の建物の真ん中を貫いていた通りで、戦前までは住宅地が建ち並ぶ静かな町でした。しかし、原爆投下後の火災ですべて消失、戦後復旧の計画で道路と公園そして長崎市の建物に変えられてしましました。




19日に戻って。江戸時代、西中町には肥前大村藩屋敷があり、東中町には肥前唐津藩屋敷がありました。西中町大村藩屋敷は現在の中町教会のところで、当時のものではありませんが瓦屋根の塀が当時を偲ばせてくれます。また、東中町唐津藩屋敷は現在のNBCのちょうど裏通りに位置し今では住宅地になっていますが、こうやってこの付近には隠れた史跡が多く存在します。
 実はこの地域、NBC横の通りを境に木造建築物の分布が分かれます。それは原爆投下後の火災に原因があって、通りの西側はすべて焼失したため戦後の建築物ばかりで、反対に東側は焼け残った関係で比較的明治以降の建物が残っています。特に玉園町を歩くと明治時代にタイムスリップした雰囲気で、私の好きな通りの一つです。




昨日のつづき。上筑後町、下筑後町、東中町、西中町、東上町、西上町と300年以上続いた町名でしたが、昭和38年の町界町名変更で壊されてしまいます。今までは通りを一つの町として考えられていた町建て(背割り)を、通りを境界とする区画に変更され再編されます。中町と上町は通りに関係なく東側を上町、西側を中町、上筑後町は諏訪神社(玉園山)に近いという事で玉園町に変更、下筑後町は“下”が取れて筑後町に変わります。これらの町名は意味があって中町であり上町でした。しかし、お役所の都合で分けられてしまいます。やはり地名は文化です。大切にしたいものです。




昨日のつづき。当初開かれた中町上町筑後町の3町は、ともに現在の立山(旧美術館前)から地形に沿って西坂付近までの長い通りでした。かなり広い町域であるため寛文12年(1672)に整理されます。立山と西坂の中間地点、現在のNBC横の通りを境に東西(上下)に分けられます。まず、筑後町上筑後(かみ-ちくご)町下筑後(しも-ちくご)町中町東中(ひがし-なか)町西中(にし-なか)町上町東上(ひがし-うわ)町西上(にし-うわ)町です。上下と東西の使い分けで、東上町を「上上(かみ-うわ)町」とせず、東を付けている点はよく考えられているところです。




昨日のつづき。中町上町と来て最後は、この地域の人々が筑後地方出身者で占められていたところから筑後町と命名されます(現在の聖福寺前-福済寺前の通り)。この外下町から中町上町筑後町と海岸沿いから順に開かれたこの地域は、中島川流域の町より早く開かれています。つまり長崎開港直後はこの付近が長崎の中心的役割を持っていて、貿易港として賑わいを見せた最初の場所といえます。




14日にもどり、江戸時代初め、NBC前(桜町電停付近)が入江だった頃、開港間もない長崎に多くの商人たちが続々と長崎に入って来ます。商人の多くは福岡筑後地方の人々で海路長崎入りします。海沿いの外下町には筑後地方の人があふれるようになり外下町が手狭になりました。そこで外下町の上段に3つの通りが開かれることになります。上中下という意味で、下町の上が中町(なか-まち)(現 NBC裏-中町教会の通り)、次に中町の上で上町(うわ-まち)(現 市長公舎前-本蓮寺前の通り)となります。つづく・・・




昨日のつづき。長崎中央郵便局前交差点から旭大橋の方へ抜ける裏通りがありますが、この郵便局側(旧 肥前佐賀藩屋敷)が江戸時代の海岸線です。日本が開国した明治維新の頃、長崎港警備のためこの海岸沿いに大砲10数門(もん)を準備します。これを台場(だいば)といいます。ここの台場は実践に使用することなく祝砲(しゅくほう)のみの使用で幕を閉じます。その後、明治37年(1904)に埋立てが行なわれ現在の電車通りまで広がるのです。この埋立てられて出来た町が台場町(だいば-ちょう)になります。この台場町は現在、大黒町に組み込まれてしまいました。




昨日のつづき。外下町と築出町それに浦築出町は町域が狭いこともあり寛永末期(1640頃)に合併することになります。ちょうどその頃この付近に恵美酒神社があったところから恵比酒(えびす)町になるのですが、恵美酒神社は対岸の稲佐に行ってしまいます(H14.5/10参照)。恵美酒町はさらに寛文12年(1672)の改革で二つに分割、恵美酒町の内陸側(現 長崎中央郵便局-NBC間の東行き車線側)を恵美。反対側(現 西行き車線側)を縁起をかついで大黒町に改められるのです。その後、この恵美須町大黒町付近はお屋敷が多く建ち並び、肥前佐賀藩屋敷(現 中央郵便局)や肥後細川藩屋敷(現 郵便局前道路付近)、平戸松浦藩屋敷(現JT)、それに島原松平藩屋敷(現 JT隣り)などがありました。




長崎開港後、NBCの前が入江だった頃、桜町電車通りが岸壁で多くの船が入っていました。もちろん海沿いに町が開かれるのですが、この海沿いに開かれた町が外下(ほかした)町です。その後さらに埋立てられ、次に出来た町が築出(つきだし)町で、築出して埋立てられたので築出町という訳です。さらに埋立てが進み築出町の奥、つまり海に面した町ということで浦築出(うら-つきだし)町が出来あがるのです。この三町は現在の桜町電停から中央郵便局までの地域を指します。築町ではなく築出町ですのでお間違いのないように。つづく。




長崎駅前の方から市役所経由のバスに乗ると、桜町電停の先(NBC横)を左折し桜町公園横から市役所の方へ坂を登ります。実は戦前まではこの坂を電車が登り古町に下っていました(H14.2/21参照)。この桜町電停から左折した通りを小川町と呼んでいました。当時はもちろん桜町電停ではなく小川町電停でした。この小川町は立山からの流れる岩原川の小さな流れが通っているため小川町となるのですが、もともとはこがわ町で、それが電車の駅名をおがわ町と呼ぶようになりいつしかおがわ町となりました。しかし、町名変更で消失。桜町公園バス停横の小さな流れだけが当時を物語っています。




おとといのつづき。八百屋町の炉粕町側を一時期、御座(ござ)町といっていました。八百屋町で食料品が、御座町で日用品のゴザが売られていたのです。御座町は取り扱っていた品物から花御座町とも呼ばれ、その後、需要が増し八百屋町の隣り(旧美術館前)に新たに町を開きます。新御座町です(当初の御座町本御座町へ)。しかし、町域が複雑なことなどから正保時代(1645頃)に八百屋町と東中町に組み込まれてしまいます。




国道34号線沿いの桜町小学校(旧 勝山小学校)前から馬町にかけての通りを勝山(かつやま)町といいます。勝山町の由来については多くの説が存在しますが、もともとはこの丘陵のことを桜尾の小町と呼んでいたそうです。その後@長崎甚左衛門の家臣 勝山左近の屋敷があったとか、A長崎氏と深堀氏が戦った時(天正6年頃1578:合戦場にて)、長崎氏が勝利したのを期に勝山に改称したともいわれています。いずれにせよ勝山町はいわゆる長崎といわれる県庁までの細長い崎の付け根にあたり当時から長崎の重要な町だったのです。




日本銀行長崎支店前から諏訪神社までの通りは炉粕町ですが、その反対側、日銀付近から桜町公園までの筋違いに延びる通りを八百屋(やおや)町といいます。八百屋町は開港後まもなく開かれた町で、立山や西山などで採れた野菜などを販売する露天が始まりといわれています。さらに昔、開港以前、現在の立山の美術館(工事中)のところに山のサンタマリア教会がありました。現在のNBCのところが入江で、そこから八百屋町を通って教会へ行くのです。当時、この通りは湧き水が多く大変歩きにくい道だったため石が敷かれます。これが長崎で一番最初の石畳の完成でした。




昨日のつづき。炉粕町は諏訪神社の参道を交差する通りですが、諏訪神社の門前という事で別名宮前(みやまえ)町と呼ばれていました。また、江戸時代、諏訪神社の有力者の宮崎さんが住んでいたところから宮崎町とも呼んでいたそうです。今ではいろいろな宗教の建物が建ち並ぶ通りで日本を象徴する多神教の通りになってます。




馬町の上手、日本銀行長崎支店前から諏訪神社に至る通りを炉粕(ろかす)町といいます。江戸時代は諏訪神社以外に3つの寺院が建ち並ぶ通りでしたが、現在では面影もなく三菱の社宅に変わっています。開港直後、この付近にセント・ルカス教会があったと伝えられ、そのルカスが「ろかす」に変わったといわれていますがその教会の存在は定かではなく、灰吹銀(はいふき-ぎん)つまり銀の精錬する業者が数多く住んでいて、その炉の粕(かす:不純物の意)という意味で炉粕町となったようです。




昨日のつづき。馬町で使ってる馬は、大切な荷物を運ぶのできちんと農家が管理している馬が使われていました。その馬を飼っていたところは長崎村伊良林郷、現在の光源寺門前付近でした。馬を飼っている農家が多かったためこの付近を馬喰(ばくろ:馬を養う意)町とも呼んでいたそうです。




2/27のつづき。諏訪神社の門前町といえば馬町(うま-まち)です。馬町は国道34号線沿いの町で日銀入口交差点から新大工町入口の大手橋までの細長い町です。馬町は奉行所などから長崎街道につながる重要な町で交通の要所でした。そのため馬町には荷物を運ぶ馬がいつも待機していました。今で言うところの輸送基地といったところでしょうか。荷物を載せた馬は次の宿である日見宿などへ向かい、荷物を下ろすと独りでに馬町に戻って来ていたそうです。馬町は広範囲なため寛文12年(1672)に馬町の通りの諏訪神社側を北馬町、中島川寄りを南馬町に分けられますが、明治になり現在のように再び馬町に戻ります。この馬町ですが、旧市街地で唯一動物の名前の町名です。




昨日のつづき。饅頭の“(まん)”にはきめ細かく細長いという意味があります。食へんがあるので食べ物に関係がある事になります。次に“”ですがこれが意味が深い!時代は中国三国時代(西暦2〜3世紀:弥生時代末期)、南蛮平定に出発した諸葛孔明(しょかつ-こうめい)に由来します。孔明は武力による制圧ではなく様々な奇策をもって服従させていきます。そしてある時、氾濫した川に出くわした時の話。南蛮人たちは「ここには荒神がいて49人の首を供えないと治まらない」というのです。しかし、孔明は気象の知識を持っていたため、川の氾濫は暴風雨が原因と知っていました。そこで孔明は人名を無駄にすることがないよう秘策を考えます。その秘策とは、料理人に牛肉を丸め小麦粉で包ませ人間のの形を作らせます。これが饅頭という訳です。そしてそれを川に供えると、翌日、氾濫はなくなりました。以降、南蛮人たちは氾濫が起こる度に饅頭を供えるようになります。この生けにえを原点にして“”の字が使われるのです。ちなみにこの頃の饅頭は今でいうところの肉まんみたいな物でした。※読み方:饅頭(まんじゅう)=中国読み(マントウ)、韓国読み(マンドゥ)です。




3月はの季節ですが、長崎でといえばやはり桃饅頭(もも-まんじゅう)ではないでしょうか。は中国では不老長寿の薬とされ縁起物とされています。長崎は江戸時代から中国との交流が深く桃饅頭を食べる習慣は中国の影響です。今でも長崎ではお祝ごととなると桃饅頭が登場します。特にくんちの庭見せの桃饅頭は印象的です。私の家でも毎月朔日(ついたち)とお稲荷さまの日は桃饅頭を神棚に供えています・・・それを買いに行くのは私の役目です。




以前までは桃の節句の翌日、3月4日を裏節句といっていたそうです。行事内容は3日とあまり変わりませんが、特に女の子は潮干狩りに出かけていました。今の時期に潮干狩り?と考えがちですが、当時の暦はすべて旧暦、今で言うところの4月にあたります(今年H15は4/5)。潮干狩りはたいてい茂木浦や北浦(茂木の北側)で行なわれ、もちろん徒歩で行っていました。現在、茂木浦や北浦は埋立てられ潮干狩りをすることが難しくなりましたが、以前までは長崎でも有数の景勝地で大変美しいところでした。長崎のお金持ちなどは別荘地として使っていた時代もありました。
※2/28:3月弥生を如月と書いてしまいました。お詫びして訂正します。ご指摘ありがとうございます。




昨日のつづき。桃の節句には大人達は親類知人宅を廻っていましたが、子供たちにとっては紙鳶(はた)揚げの日でした。桃の節句ですが女の子より男の子が主役で、男風頭山(おとこ-かざがしら-やま:現 風頭山)や女風頭山(おなご-かざがしら-やま:現 立山)などで盛んに行なわれていました。このほか、山の上だけではなく市内の各家々の屋根の上でも紙鳶揚げをしていたそうです。




3月3日は桃の節句ですが、もとは上巳の節供(じょうしのせっく)といわれていました。上巳は旧暦3月の巳(み)の日を意味し、古代中国ではこの日に禊ぎ(みそ-ぎ)を行なっていたそうですが、後に3月3日に固定されてからは三月三日と三が重なることから重三(ちょうさん)の節供と変わります。そして3月を代表する花がの花で、の花が女性らしいということで女の節句になったとか。
 日本では江戸時代、節句の一つに数えられ祝日のようなものでした。長崎では親戚知人の家を廻る習慣があって、特に節句の家などへは女の子や段飾りを見て廻っていたそうです。




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